ためらいの倫理学―戦争・性・物語 (角川文庫)

著者 :
  • KADOKAWA/角川書店
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レビュー : 89
  • Amazon.co.jp ・本 (372ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784043707010

作品紹介・あらすじ

アメリカという病、戦後責任、愛国心、有事法制をどう考えるか。性の問題、フェミニズムや「男らしさ」という呪縛をどのように克服するか。激動の時代、私たちは何に賭け金をおくことができるのだろうか-。ためらい、逡巡するという叡智-原理主義や二元論と決別する「正しい」日本のおじさんの道を提案する。内田樹の原点が大幅加筆でついに文庫化。

感想・レビュー・書評

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  • 今までの内田さんの著作の中で1番時間をかけて読んだ。「戦争論」についてに共感というか、ああだから私はこういうことに言及するのが嫌いだし言及してる人間をテレビやTwitterやらで見るのが大嫌いだったのかとすっきりした。まぁデビュー作から首尾一貫してるから最早感想書くのが難しいんだけど、嫌いな人の好みが合う人の著作は楽しいなあってのと、カミュについての考察に紙幅をかなり割いてくれていたのが嬉しかった。

  • 平岡諦氏のプロフェッショナル・オートノミーについての議論を読む。なんだかなあ、と思う。

    http://medg.jp/mt/2010/08/vol-266-15.html

    僕には日本医師会の真意は分からない(会員なのに、変ですよね)。そこに陰謀史観(患者の人権をないがしろにしておけ)があったかどうかも不明である。でも、平岡氏が主張するような

    日本医師会の国内向け情報操作
      ↓
    日本語という壁による「世界の常識」からの鎖国状態
      ↓
    日本の医療界の「ガラパゴス化」
      ↓
    日本の医療界の閉塞状況(医療不信、医療崩壊)

    は、明らかに「言いすぎ」である。ほとんどの医師は医師会が訳した倫理マニュアルなんて読んでないし(僕も読んでなかった)、医師会が百歩譲ってそのような陰謀史観をもっていたとしても、日本の医療界が「それがゆえ」に閉塞状況になったりはしないからである。それに、平岡氏は指摘していないが、WMAは各国の事情に合わせた価値の多様性を尊重している。世界の医療倫理がみな画一的に同じであるべきとは主張していない。スローガンはあくまでスローガンである。平岡氏の主張によれば、日本の医療がことさらに他国の医療に比べて非倫理的ということになるが、そうである根拠を僕は知らない(倫理的な問題が皆無とは言わない。他国に比べてとりわけ、、という意味である)。

    WMAはautonomyを以下のように説明している(マニュアルより)。そこでは医師の自律が尊重されているが、「患者の人権を擁護する」ために、とは書かれていない。また、患者のautonomyも大切にすることがうたわれているが、それは医師のautonomyの「目的」ではない。

    Autonomy, or self-determination, is the core value of medicine that
    has changed the most over the years. Individual physicians have
    traditionally enjoyed a high degree of clinical autonomy in deciding
    how to treat their patients. Physicians collectively (the medical
    profession) have been free to determine the standards of medical
    education and medical practice. As will be evident throughout this
    Manual, both of these ways of exercising physician autonomy
    have been moderated in many countries by governments and
    other authorities imposing controls on physicians. Despite these
    challenges, physicians still value their clinical and professional
    autonomy and try to preserve it as much as possible. At the same
    time, there has been a widespread acceptance by physicians
    worldwide of patient autonomy, which means that patients should
    be the ultimate decision-makers in matters that affect themselves.
    This Manual will deal with examples of potential conflicts between
    physician autonomy and respect for patient autonomy.

     平岡氏は患者の人権擁護が全てに優先する医療倫理の重要事項であるとする。そしてそのために医師のプロフェッショナル・オートノミーが存在するのだと。平岡氏がそのような倫理観を持つことに僕は反対する気はない。しかし、そのような見解が世界の基準なのだから、それを追随しない(と平岡氏には見える)医師会はけしからん、というのはおかしい。

    倫理は、どこどこにこう書いてあるから正しい、とか間違っているというものではない。他者に規定される倫理は、それこそ平岡氏の引用されるカントによれば、正しい倫理(あるいは道徳)とは呼べないのではないか。ジュネーブ宣言、ヘルシンキ宣言もそのような文脈で参照されるべきで、一意的に「ジュネーブにこう書いてある」と丸のみすることが世界標準というのではない。倫理もクリティカルに吟味しなければならないのだ。平岡氏の強硬な人権擁護絶対主義、医師会陰謀史観には「ためらい」がない。断言口調である。僕は倫理に関して、断言口調はそぐわないと思っている。倫理については首をかしげて、どうしよう、、、と悩み続けるのが現場のリアルな医療倫理である。

    というわけでやっと本に入る。

    「ためらいの倫理学」は内田さんの事実上のデビュー作である。久しぶりに読み直してみたが、ものすごく新しい。文体は今よりシャープでより攻撃的だが、本質的には当時も今も言わんとするところは変わっていない。

    それは、自分の「正しさ」に対する健全な不安である。それが「ためらい」である。

    したがって、自分は正しいに決まっており、相手は間違っているに決まっていると断言する上野千鶴子や宮台真司に内田さんは容赦がない。さらに興味深いのは、正しいに決まっている、と主張するような奴らは間違っているに決まっている、、、、あれ?俺も同じ話法使ってんじゃん、と自分に突っ込みを入れることも忘れない。

    予防接種は「効く」のか?、と「患者様」が医療を壊す、で僕はこれらの本の多くは内田樹さんのパクリである、、と書いている。でも、ためらいの倫理学を読み直して、その見解が誤りであることが分かった。ほとんど全部パクリでした。今書いている2冊の本も、たぶん延々とパクリを繰り返すと思います。

  • 自分の読解力と基礎知識がない故のこの評価なので(自分には難しかったと素直に認める)ところどころとても深く刺さる文書はあったものの、数年後にもう一度読み返したい。リベンジ的な。

  • 社会

  • 現代思想のセントバーナード犬

    「批評性の硬直」状況から何とか抜け出ること
    ”生活者の実感”のステレオタイプにも”専門的知見”のステレオタイプにも回収されない、ふつうの人のふつうの生活実感に基礎づけられた平明な批評

    そちらの言い分とこちらの言い分が出会う局面を設定
    「どうです、ここは一つ、中をとって・・・」

    私が黙っても誰も困らないが私が困る
    「なるほど、それもごもっともです。しかしそれでは私の立場というものがない、どうですここはひとつ・・・」
    無限に中をとり続ければ言葉に窮することはない。

    おのれが主体であることを一瞬も疑わない、その圧倒的で索莫とした自信から発する重苦しさ
    ”誰が“戦争を起こしたか・・・”誰が”なんてことはあり得ない

    自国の歴史の暗部について、恥辱の気持ちを持つことは、その栄光に対して誇りを持つことと同じくらい大事なことである。

    中学生の多数は、教師や親の知見からではなく、彼ら固有の狭隘な人間関係とその閉じられた空間を支配している稚拙なイデオロギーの圧倒的な大気圧化で世界観や人間観を形成している。
    知的動機に駆られて歴史の教科書を開く中学生が一体何人いるだろうか。

    日本は、右したり左したり、じたばたすることによって結果的に何もしないですませる、というふるまいをもって21世紀の国際社会を生き延びる戦略 大山鳴動鼠一匹的パフォーマンスの知恵

    さまざまな社会的不合理を改め、世の中を少しでも住みよくしてくれるのは、「自分は間違っているかもしれない」と考えることのできる知性であって、「私は正しい」ことを論証できる知性ではない。

    フェミニストは、家事は知的で楽しい作業であり、生産的、創造的な主体を要求するという考え方を危険なものとみなす。「二流市民へのドロップアウトのリスクなしに、家事労働は担当できない?」

    有用ではありうるがそれは決して支配的なイデオロギーになってはならない質のもの
    システムの硬直性や停滞性を批判する対抗イデオロギーである限り、それは社会の活性化にとって有用である。

    おじさんはあまりイデオロギー的に先鋭化することを私は好まない・・等身大の穏やかな営みを通じて、家族と地域社会と職域の集団を支えていくのが「おじさんの道」

    一義的に定義はできないが、効果的に利用することはできるようなもののことを「道具概念」とか「操作概念」と呼ぶ。→「気」

    いやだなと思っていたのは、要するに「セックスコンシャス」の高さと知的な開放性みたいなものがリンクしているという図式に対してだったようだ。

    私たちは、テクストのうちに必ず「読むつもりのなかったもの」を発見してしまう。そして無意識のうちにそれを読むまいと目をそらす。
    この抵抗こそ、抑圧されたもののありかを指し示す最も的確な指標
    ”読みとばせ、理解しようとするな”・・・
    真に反省的な読み手とは、自分が批判しているイデオロギーをテクストの中に発見する人ではなく、読みつつある自分の中でその当のイデオロギーが「抵抗」として活発に作動していることに気づく人のことである。

    複雑な問題に接するときの基本のマナーは、「できるだけ複雑さを温存し、単純化を自制する」
    単純な進歩史観だけでは説得されない。なぜそれがあるのか、人間というのはとても複雑で精妙で、主に幻想を主食とする生き物だ。

    最近は、「意味がわからない言葉があっても気にしない」「ノリのよい文章を読んで気分がよくなること」を求めている。

    私の交通能力を始めから過度に低く設定するのは、おのれの交通能力を過大評価するのと同じくらいに有害である。コミュニケーションの不可能な相手と身をよじるようにしてなおコミュニケーションを試みる私のシステムのきしみから、「愛」は起動するのではあるまいか。

    罪責感と自己免責のないまぜになった「腰の決まらなさ」こそ、私が「とほほ感覚」と呼ぶもの。

    おのれを「無垢にして無力なもの」として提示するのはよくない。

    暴力が不可避だが暴力の正当化には反対

  • ためらいの倫理学―戦争・性・物語―

    内田樹21冊目
    初期の本ということもあり、やや難しい感じがした。特にレヴィナスについては、難しいと思うことが多かった。印象に残ったところは“私は知性というものを「自分が誤りうること」(そのレンジとリスク)についての査定能力に基づいて判断することにしている。平たく言えば、「自分のバカさ加減」についてどれくらいリアルでクールな自己評価が出来るかを基準にして、私は知性を判定している―p145”という文章。本の後半で表れる「とほほ主義」というもののこれに近い。誰かを断罪したり、自説の正しさを懸命に主張するのではなく、自分が犯しうる失敗や他人にかけるうる迷惑についてクリアに予想し、それをしないように努めるということをしようじゃないかという風に解釈した。物語についてという節の「徹底的に知的な人は徹底的に具体的な生活者になる」という言葉も、自己認識を突き詰めたところ、それは哲学書などではなく日常にその成果が表れるということを言ってるんじゃないかと思う。自分の邪悪さを認識している人は、自分の邪悪さを認識していない人よりも邪悪なことをなしえないというパラドキシカルな言葉はまさに名言だ。つまるところ「汝自身を知れ」ということなのかな。最近の自分のお気に入りの「脚下照顧」という言葉も、なんだか近いものを感じる。特に戦争や性について声高に相手の責任や社会システムを批判するひとは、内田的に言えば知性的ではないのである。まずは自分の周りを出来るだけ幸せにしてから、その輪を広げていこうという内田の経験則的教訓が本書にもにじみ出ている。
    他者論は正直よくわからなかったが、自分なりの解釈では、他者というものはよくわからないということが全体にある。最大公約数もなければ最小公倍数もない、同じパラダイムで語ることが出来ないものである。どうにも解釈できないものは、同時にどうにも解釈できる。トランプでいうジョーカーのような、まったくもって異質のものである。貨幣論でいえば、徹底的に価値のない紙切れが徹底的に価値を持つ紙幣となるように(ビットコインとかに至ってはもはや記号でありデータ、使用価値は全くない)、他者はどうにもこうにも分からない存在である。だから、他者を「愛する」必要がある。畏怖し、歓待し、聞き従い、慰める必要性がある。愛するという感情程複雑で、両義的な感情はない。それは言語におけるジョーカーである。他者というジョーカーに充てられるものは、やはり言語におけるジョーカー「愛」なのだろう。わからないものに対してわからないものを充てるということは、あんまりないようでよくある。明治時代の日本が外来語が、漢語に訳されて輸入されたように、よくわかんねえからよくわかんねえままとりあえず使ってみるかという具合に。他者はよくわからない。でもそのわからなさ具合がより人を引き付ける。こんな感じかな。
    本書にもある通り、物語ろうとすることは、知ろうとすることである。なんだかレビュー書いてるうちに、わからなかった本のわからない箇所について読んでる時よりも知ることができた(気がする)。

  • 初めての書籍化文書らしいのですが、基本的な態度は後年のものと変わらず。
    相変わらずの「そう、そうなのよ!」感。
    学術的な文章はそれなりに分かりにくいけど。

  • 著者のデビュー作です。「なぜ私は戦争について語らないか」「なぜ私は性について語らないか」「なぜ私は審問の語法で語らないか」「それではいかに物語るのか―ためらいの倫理学」という4つのテーマのもとに、著者が雑誌などに発表した論考が収録されています。

    「あとがき」で述べられている、「自分自身の正しさを雄弁に主張することのできる知性よりも、自分の愚かさを吟味できる知性のほうが、私は好きだ」ということばに、本書の中心的な思想は集約されているように思います。著者はこのようなスタンスに立って、愛国心、戦争責任、女性の解放、そして「他者」といった主題について審問の文法で語ることのパフォーマティヴな水準における問題を、鋭くえぐり出しています。

    著者の基本的な思考の構えが、すでにこの本で明瞭に示されていますが、あえていえば近年の著者の文章に見られる、武術など「身体の知」への傾倒はまだはっきりとは語られていません。そのぶんクリアカットな批評になっているような印象を受けました。

  • ためらいの倫理学の項は巻末の方に配置されている。

  • ネット右翼や教条主義的左翼の氾濫する今日に、どこまでもフェアに、ニュートラルに日常性からずれることのない場所に自身の知性を置く街場主義は注目に値する。「とほほ」主義、つまり自身のいかがわしさを十分理解したものがとり得る現実への態度はよく判るが、が、が、しかし、そこでどうして高橋源一郎なのか。後期資本主義、戦後民主主義の達成としての自己満悦があの馬面をつくったのではなかったか。

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著者プロフィール

うちだ・たつる 1950年東京生まれ。武道家(合気道7段)。道場兼能舞台兼私塾「凱風館」館長。神戸女学院大学名誉教授。翻訳家。専門はフランス現代思想史。東京大学文学部卒業。東京都立大学大学院人文科学研究科修士課程修了。ブログ『内田樹の研究室』。



「2019年 『そのうちなんとかなるだろう』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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