西田幾多郎 言語、貨幣、時計の成立の謎へ (角川ソフィア文庫)
- KADOKAWA (2018年11月22日発売)
- Amazon.co.jp ・本 (176ページ)
- / ISBN・EAN: 9784044001841
作品紹介・あらすじ
私の底に汝があり、汝の底に私がある――。「私」と「汝」がともに「彼」に変容することが、言語の成立ということなのだ。西田哲学を他の哲学論と丁寧に比較、論じながら独自の永井哲学を展開。さらに文庫版付論・時計の成立「死ぬことによって生まれる今と生まれることによって死ぬ今」で、マクタガートの「時間の非実在性」の概念を介在させ、考察を深めた。無と有、生と死の本質にせまる圧倒的な哲学書。NHK出版『シリーズ・哲学のエッセンス 西田幾多郎<絶対無>とは何か に新しく付論を加えて文庫化。
感想・レビュー・書評
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『西田幾多郎』と題された本書の冒頭「はじめに」で、永井は「本書の内容は実は西田幾多郎とは関係ない」という衝撃的な宣言をする。本書で永井は西田哲学を援用して、実は自分の哲学を展開しているだけだ、というのである。もっともその一方で永井は「西田が言わんとしたことを私は西田よりもうまく言い当てている」可能性を認める。然り本書は、西田哲学と永井哲学の双方を楽しめる優れた哲学書となっている。
永井は川端康成『雪国』の冒頭の一文「国境の長いトンネルを抜けると雪国であった」をたたき台にして議論を開始する。この文章には主語がない。英訳では列車が主語になっている。あるいは主人公を主語にすることも可能だろう。しかし日本語ではこのように主語がない言い回しはそれほど不自然ではない。そもそも知覚の場面において「私」は登場してこない。「われ思う、ゆえに、われあり」ではなく、「思う、ゆえに、思いあり」と言った方が正確だろう。それでも強いて私を登場させるならば「私に於いて、思いあり」ということになるだろう。<私>は場所なのである。あるいは背景、地平と言ってもいいかも知れない。つまり<私>は主語にはなりえない。端的に言って<私>は「無」なのである。<私>は存在しないことによって存在している。
しかしそれならその<私>はいつこの「私」になったのか? それは無の場所に、言葉を語る「汝」が登場することによってである。<私>と<汝>は直接出会うことはできない。<私>も<汝>も無の場所でしかないからである。無の場所で出会うことができるのは「彼」(三人称)だけである。しかし言葉を通じて<私>は「汝」となり、<汝>は「私」となる。反転可能な一人称と二人称が言語において出会うことによって、<私>は(「汝」を介して)「私」となる。そのとき「私」は「有」となるが、その代わり「無」としての<私>は死ぬ。「無」としての<私>は「汝」によって殺され、そのことによって「有」としての「私」が誕生する。私は汝に殺されることによって生まれるのだ。そしてそれはほとんど奇跡的な事態である、と永井は言っている。
永井は言及していないが、「私」を「無」とみなす自我論はサルトルに通じるものがあると思う。私が汝によって殺されるという議論も、他者によって自己が石化するというサルトルの対他存在論と一致する。もっともサルトルは他者を二人称と三人称に分けてはいない。一人称と二人称、我と汝の関係を重視したのはマルティン・ブーバーであろう。こう書くと永井には的外れだと怒られるかも知れないが、西田哲学はサルトル哲学とブーバー哲学を融合した側面を持っているような気がする。
本書は2006年にNHK出版から刊行された「哲学のエッセンス」シリーズの文庫化である。こうして文庫になってみると意外と薄いことに驚かされるが、極めて濃密な内容を持つ哲学書であり、決して薄っぺらい解説書ではない。日本にも西田のようなオリジナルな哲学者がいたのかと思うとうれしくなってくる。なお文庫版付論である「時計の成立」は10ページの小論で、「私」を「今」に置き換えても同様の議論が成立するという、永井の読者にとってはお馴染みの内容となっている。詳細をみるコメント0件をすべて表示 -
筆者によれば、西田哲学はあまりにも卑近なことを大真面目に考えて、言葉として表現することによって、むしろ難解になっているそうだ。無の場所、絶対無、、、、読んでいると、わかったつもりになれるのは、肌感覚として、なんとなく、その事実に触れているからかもしれない。まあ、結局、わからないままなのだが。
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永井均は尊敬している哲学者の一人なのだが、いかんせん、他人の哲学をあまりにも自分の哲学の問題意識に閉じ込めて語ってしまっている節がある。「自分の世界観は極力封じ込めて、客観的に他人の思想を語れ」などと腑抜けたことを言いたいのではなく、「他人の問題意識のその最深のエッセンスさえ包括してしまうような、己の極限の思想を開陳してほしい」というのが私の要請なのだ。本人はおそらく、「これがニーチェ」だ」などの作品を含めて、自分はそのようなスタンスで物を書いているつもりなのだろうが、時々それが成功しているとは思えない箇所がある。