東洋的な見方 (角川ソフィア文庫)

著者 :
  • KADOKAWA
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感想 : 10
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  • Amazon.co.jp ・本 (224ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784044002886

作品紹介・あらすじ

「来るべき『世界文化』なるものに対して、われら東洋民族の一員として、それは大いに貢献すべきものをもっておる」--。
アメリカ、イギリスの諸大学で教鞭を執り、直に西洋思想にふれた大拙だからこそ看破できた東洋思想の優れた特性。曰く「世界の至宝」が、二分性の上に成り立つ西洋思想の不備を補い、互いに補完し合うことで、真の世界思想を可能にする。
帰国後に執筆され、大拙自ら「近来自分が到着した思想を代表するもの」という論文、十四編すべてを掲載。大拙思想を最もよく表す最晩年の論文集。
解説・中村元/安藤礼二

【もくじ】

東洋思想の不二性   
東洋「哲学」について
現代世界と禅の精神
東洋学者の使命
自由・空・只今
このままということ
東洋雑感
「妙」について
人間本来の自由と創造性をのばそう
荘子の一節--機械化と創造性との対立への一つの示唆--
東洋的なるもの--幽玄な民族の心理--
東洋文化の根底にあるもの
近ごろの考え一項
日本人の心

 アメリカにおける鈴木大拙博士
  --『東洋的な見方』の解説にかえて 中村元
 最後の大拙
  --『東洋的な見方』文庫版解説 安藤礼二

感想・レビュー・書評

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  • 難しい文章であるが、西洋と東洋という括りで区分した場合の考え方の違いや東洋的なものの良さをうまく表しているのは感じられた。

  • いかに自分が西洋的なものの見方で生きているかが分かる。西洋的なものの見方とは、ものを2つに分けて考える方法のことである。主・客はその最たるものだと言える。一方で東洋的な見方は、ものが2つに分かれる前のところから考え始める。私たちは日々、「分かりやすいこと」「はっきりしていること」を求める。そうでないと、物事が全く前に進まないからだ。西洋の哲学者というのは、ものごとの外側に立って考える。つまり、客観的態度を取る。だが、それでは表面的なところしか理解できない。「未知の境域へ驀進または侵入する覚悟で、全存在を投げ出」さざるをえない時というのが来ると筆者は言う。

  • コトバがほとんど心に入ってこなかった。ーー目の前に広がる大自然に無感情に佇む自分。大自然に囲まれて空気美味しいはず、、、心癒されるはず、、、という思い込みが頭にあるものの、身体がほとんど反応しない状態のようだ。彼の著作に直接触れる前に、彼の教えについての初級者向けコンテンツから入ろうと思った。

  • 前に『仏教の大意』を読んで、すごくよかったので続けて読んだ。
    『東洋的な見方』の方は、コラムを集めたもので、大筋テーマが似ているが、それぞれ書かれている目的が微妙に違うので、読み進めていてこのままもっと!と思ったら、テーマがちょっとずれてしまって若干消化不良。
    前半の「東洋思想の不二性」は、東洋がまだ物が二分しないところから考えていくのに対して、西洋は、物が二つに分かれてから物事を考えるという風にわかりやすく違いを提示している。なるほど。だから西洋の方には、東洋の曖昧さが許せないのだろうな。そしてその曖昧さ=妙という概念を語る段もある。それってなんかわかるな。日本人的。
    すごく真宗的だと思う点は、東洋人は「考えれないところから出立する」というところ。西洋は「考えられない」ところをそのまま放置する。
    この東洋的見方から、往還二相の回向は、一円相であると。循環端なき円環とする。二分性からはわからないとしている。往還二相の回向は、同時性があるということかな。分けられない。
    もう一つ面白いテーマは「自由・空・只今」。禅的な解釈だけれども、現れるけれども、見えるときにもうそれは底に見れないというような話は面白い。
    肯定して否定し、否定して肯定する矛盾の同一性である。これがわからぬと、上来の所述は全くわからなくなる。矛盾の連続でしかないと考えられよう。
    わからないことが多いが、その中で「わからないということをわかっている」ということだな。
    鈴木師の本は2冊しか読んでいないが、自分としては初心者には『仏教の大意』の方をお薦めする。こちらは鈴木師の哲学を少しずつエッセンスをしりたいという場合向き。意外なことに、その後この東洋と西洋の違いということで物事を見ていくとすごく現象把握がしやすくなったので、かなりおすすめ。

  • p35
    非合理が合理になるとき、「Aが非Aの故にAだ」ということが、わかってくるのである。
    水は水だ→水は水ではなかった、という気付きを経なければ→やはり水は水だった、という真理の悟りには至らない、と。
    そういえば、この本は仏教に基づく本だが、真理とか悟りという言葉はあまり出てこなかった気がする。

    西洋は二元論。善か悪か、敵か味方か。
    頬をぶたれたらもう片方も差し出せ、というのも、二元論ならではの考え方。
    天秤を思い浮かべた。
    東洋は八方に開いている。
    空間の広がりがある。
    自然にも情を見出だしたという記述に、日本の神道神様が八百万の神というのを思い出した。
    仏教伝来前からの神様だと思っているが、しかし人類の発祥がアフリカで、そこから東進してきたと考えれば、考え方や捉え方の根底が共通しているのもうなずける。
    p175 中央アジアの砂漠の真中で、テントを張って、その間から星斗闌干たる大空を眺めて悟りを開いたという一イギリス人の話を、親しく、その人から聞いたことがある。
    まさにこれが東洋的な見方なのだと思う。

    なお、西方と東方で共通した見解もある(とは書いていないが)。
    p154 母はいつも若い美しい女性である。(聖母マリア、観音様)
    男は年寄りのほうが欲も得も離れて好いようだ。
    どうもしわだらけのマリア、または観音様では、愛敬がない。女性は永遠に若くなくてはならぬ。その若い美しい女性に母性愛が顕現するので、渇仰せられるのだ。
    この後、また東と西の視点の違いが記されるのだが、言い得て妙だと思ったと共に、マリアも観音様も男性視点でできているということに気がつかされた。

    妙というものを、英語に訳そうとしたときにうまい言葉が見つからないという。
    たしかに、あげられているどの単語もぴんとこない。
    西洋の二元論のきっぱり分ける考え方とは相容れない「感じ」だからなのだろう。

    農夫に機械化を勧めたときの農夫の言葉もまた感慨深い。
    機械に使われる、とは今もなお、パソコン中心となっているために余計に感じることがある。
    功利主義とか出ていたが、現代はタイムイズマネーという標語まで飛び交っている。
    大拙先生が今を見たらどんな感慨を持たれるのか、興味深い。

    この大拙先生、若い頃をアメリカ、イギリスと英語圏で暮らしてらっしゃる。
    だからこそ、東洋というものがよく俯瞰して見えたのかもしれない。
    水は水だ。いや、水は水ではない。いや、やっぱり水は水だ。
    そんな感じだったのではないだろうかと思いを馳せる。

  • 東洋思想の「不二」について書かれた一冊です。本の紹介文から気になった方はぜひ読んでください。(じん)

    「「来るべき『世界文化』なるものに対して、われら東洋民族の一員として、それは大いに貢献すべきものをもっておる」--。アメリカ、イギリスの諸大学で教鞭を執り、直に西洋思想にふれた大拙だからこそ看破できた東洋思想の優れた特性。曰く「世界の至宝」が、二分性の上に成り立つ西洋思想の不備を補い、互いに補完し合うことで、真の世界思想を可能にする。」

  • 西洋思想は二分すなわち分けられるからモノゴトを考えられると考えるのとは違い、東洋思想では不二性つまり分けられない、考えられないことを考えている(と感じている)と説く。前者では抽象的な思索が発達するが、後者は生活から離れずに考えるという特徴がある。また東洋思想は「論理的に絶対矛盾の形式で表現」、「何事も『そのまま』に肯定」という特徴がある。さらに「胸に万巻の書を収めておかぬと本当の絵はかけぬ」と言う。そして「美」は霊的要素から飛び出したものであり、情意の世界は詩であり人間の動きそのものの画、文字を美しいとする。

  • 二分する前の無。言葉になる前の無意識。妙。母性。生命的。ぼやーっとしたイメージを感覚で捉えられた気はするけど、ちょっとした興味から手に取ったので、ちゃんと理解するのはむずかしい。この本で 絶対矛盾の自己同一 ということばを知りました。

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著者プロフィール

1870(明治3)年、金沢市本多町生まれ。本名貞太郎。1891年、鎌倉円覚寺の今北洪川について参禅。洪川遷化後、釈宗演に参禅。1892年、東京帝国大学哲学科選科入学。1897年、渡米。1909年に帰国、学習院大学・東京帝国大学の講師に就任。1921(大正10)年、真宗大谷大学教授に就任。大谷大学内に東方仏教徒教会を設立、英文雑誌『イースタン・ブディスト』を創刊。1946(昭和21)年財団法人松ヶ岡文庫を創立。1949(昭和24)年文化勲章受章。同年より1958年まで米国に滞在し、コロンビア大学他で仏教哲学を講義。1956(昭和31)年宮谷法含宗務総長から『教行信証』の翻訳を依頼される。1960(昭和35)年大谷大学名誉教授となる。1961年英訳『教行信証』の草稿完成。1966(昭和41)年7月12日逝去。

「1979年 『The Essence of Buddhism 英文・仏教の大意』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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