- KADOKAWA (2018年2月22日発売)
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感想 : 17件
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Amazon.co.jp ・本 (296ページ) / ISBN・EAN: 9784044003456
作品紹介・あらすじ
230年の長きにわたり、信仰を守った潜伏キリシタン。2018年6月には世界遺産登録も予定されている。しかし本当に彼らはキリシタンを唯一の宗教としていたのだろうか。潜伏キリシタンの驚きの姿を明らかにする
みんなの感想まとめ
潜伏キリシタンの信仰の実態に迫るこの作品は、彼らのステレオタイプなイメージを覆す内容が魅力です。長い間、命がけで信仰を守り続けた彼らの姿は、世界遺産登録によってさらに注目を集めていますが、その信仰の本...
感想・レビュー・書評
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潜伏キリシタンのステレオタイプなイメージや印象を根本から覆してくれた。
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潜伏キリシタンは命がけで信仰を守り通したという「物語」は世界遺産登録で一層浸透している。しかし潜伏キリシタンが信仰したものは、キリスト教というよりむしろ伝統的な神仏信仰、もしくは土着の先祖崇拝に近いものだった。教えを伝える「専門家」がおらず、聖書のような「聖典」もない状況では、教えも儀礼も変容してしまうという指摘。丸や(マリア)や出臼(デウス)、オラショなどの「入れ物」は残ったが、信仰の本質は失われていた。
現代日本のキリスト教徒に比べ、戦国時代のキリシタンの数がとても多いのが不思議だったが、お殿様に命じられてよくわからないままキリシタンになった農民たちがほとんどだったというのに納得。大名や武士などのインテリ層が力と幸運に惹かれてキリシタンとなったが、その多くは望んだ幸運が得られなければすぐに方向転換した。むしろ農民のなかに形としてのキリシタンが残っていった点が興味深い。これを著者は先祖崇拝と位置付ける。 -
「先祖崇拝」と「義理と人情」
よくわからなかった隠れキリシタンについてこの言葉でスッキリした。
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禁教の時代に仏教を隠れ蓑にして命がけで信仰を守り通したとされる潜伏キリシタン。
しかし導く者もなく、日本人には馴染みのない用語も多い教えを、識字率も高くない平民が正しく伝え信仰していたのだろうか。
信仰を否定するものではない。彼らがどういった経緯でキリシタンとなり、何を守ってきたのかを紐解いていく本だ。
禁教が解かれ宣教師と邂逅し、正しいカトリックの教えに帰った者たちもいる。が、先祖からの教えをそのまま受け継ぐ者もいる。
潜伏キリシタンとカクレキリシタンの違い、オラショの解読、信仰の対象となったものなど、実に興味深い内容だった。
ただ、最終章の「日本ではなぜキリスト教徒が増えないのか」というのは少し疑問。
新興宗教団体の人数の増加を挙げてこれだけ世間に受け入れられているというが、そうではないように思う。
それこそ家族が引きずり込まれるからだろうし子供は否応なしに入れられるからなのでは。
敬虔で教義がそのままでなければならないという厳しいイメージがあるキリスト教が受け入れられるためには、日本人の先祖崇拝を受け入れて土着化が必要とあったが、それこそキリスト教とは異なるものと著者が提示したカクレキリシタンの姿なのではないのかと思う。 -
いわゆる隠れキリシタンと呼ばれた人たちについて、考察を深める一冊。著者が述べるように、「禁教期においてもひたすら純粋なカトリック信仰を守り抜いた」、と世間で流布されがちな、多分に浪漫的なイメージに一石を投じる。というより、この著作を読めば、いかにそれが誤った見方なのか(この著者の説も一つの説であるという前提はあるとしても)、ひしひしと伝わってきます。じゃあどんな存在なのかって、それはもうこれを読むしかないでしょう。終章では、例えばちまたには膨大な数のキリスト教系の学校があるにも関わらず、なぜにキリスト教人口は増えないのか(実に日本の全人口の1%にも満たないという)?という疑問に直截に切り込む。読み応えのある一冊だ。
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読了。「カクレキリシタン 現代に生きる民俗信仰」の流れで、そもそもの信仰の内容が気になったため。
大多数のキリシタンは当時のキリシタン大名の命令で選択の余地なく改宗しており、キリスト教の教義もそもそもよく理解していなかったのではないかという内容だった。しかもキリシタン大名のおおむねの目的はカトリック諸国との貿易だったりするし、ロマンのなさが逆にイイ…と感じた。
それでは殉教者達は何に殉じたのかといえば、「先祖が大切にしていた何か」であり、そこに見えるのはどちらかというと祖先崇拝ですよねーという話。
拝む対象に対する魂入れの儀式があったことからものの見事に偶像崇拝していたことも分かるし、教義の伝わっていなさが興味深い。
以前ネットで見かけた「日本人の信仰のOSは神道」というのを何となく思い出した。(実際には神道ほどにも体系化されていない何かだろう。)
前回読んだ本と同じ著者の本を選んでしまったので、別の著者の視点からもカクレキリシタンについて学びたい気もするのだけれど、まあ急がなくて良いのです。
あと本書は参考文献や引用元の表記が充実していてお得感がありました。
(読んだあとスーパーに行って七夕みたいに願いごとまみれにされているクリスマスツリーを見て、「信仰とは」という気分にはなった。) -
「隠れキリシタン」とは、幕府の厳しい弾圧に耐え、仏教を隠れ蓑として命がけで信仰を守り通した、敬虔なキリスト教徒のことである、というのが、一般的にイメージされるもの。
しかし当時、外来語も日本語の文字の読み書きもできなかった民衆は、本当にキリスト教の教えを完全に理解していたのか?
彼らが本当に信じていたもの、守り続けていたものは何だったのか…
既存の説に異を唱える本作。
禁教時代の思想がテーマなので、参考となる資料が少なく、わずかな文献から著者が推測で補っている部分が多いのだが、今までとは違った視点で考察されており、面白かった。 -
江戸時代の禁教期、隠れキリシタンは命がけでカトリックの信仰を守った、著者はこんな美談に異を唱える。
キリスト教への理解が不十分なまま、先祖崇拝や民族宗教と融和し、キリストは八百万の神の一つになって信仰が続いていた、というのが著者の主張だ。言われてみれば確かにそうであろう。
しかし、情緒的かもしれないが、わずかな姿を留めながら大切に語り継ぎ、守り続けてきたことを美しいと思う。
全般的に推測と決めつけが多く、先に「消された信仰 最後のかくれキリシタン」を読んだ影響もあってか、好意的になれなかった。 -
2018/06/05
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中学校の授業で習うだろうか、隠れキリシタンというこの名前。本書の題名にある潜伏キリシタンである。どこなく何か事情ありなことを思わせるこの名前には、江戸時代における激しい迫害を思わせ、また何かしら悲しみとロマンに満ちた哀愁を感じさせるものがある。そして、誰もがなんとなくわかった気になってその名前を留めおく。
本書は、そうしたごくごくありふれた認識に対して、本当はどうなのかという問いを具体的な事実に基づいて掘り下げたものである。
日本人の信仰心、伝統的な神々に対する認識、そうした全面的な理解とともにこのキリシタンを相対的に位置づけたところに、読者に対して新たな発見を促していく。興味深いと思った。
折しも、長崎県下のキリスト教関連遺産が、「長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産」として、世界遺産に登録されたところであり、一読の価値はあろう。 -
長崎のキリシタンに関する遺産が世界遺産に登録されたが本当に世界遺産にふさわしいのか。隠れキリシタンが禁教期の厳しい迫害にもめげず信仰を守り通し、禁教が解かれた時に来日した神父に巡り合っただとか、観音様に偽装したマリアを大切に拝んでいたとか、そもそも異なる言語の宗教を当時の日本人が命がけで信仰を守るほどしっかり理解していたのか疑問だったが、本書でよく理解できた。外来仏教を取り込んで自分たちの宗教に変容させたように、キリスト教さえも「仏教の新しい神様」として受け入れていた。先祖伝来・先祖崇拝の対象であり、キリスト教の精神を深く理解していたわけでは無いという説明は腹落ち。いまだに「カクレキリシタン」はいらっしゃるが、カトリックでもプロテスタントでもなく当然ながらキリスト教の教会に行くわけでもない。「先祖からの伝承を捨てるわけにはいかない」という信心に依っている。
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キリシタン大名が領民を強制改宗させていたことは知らなかったし、宣教師や神父のいない状態で200年近く正しい内容が伝わるわけがないというのも言われてみればその通りだ。
ナイスタイミングで天草の教会群が世界遺産に登録されるとかされないとか。 -
日経新聞 書評 3.24.18
N区図書館 -
隠れキリシタンという一般に思われているような敬虔な殉教者のイメージは、禁教が一巡するとその後の世代には継続されず、一般の信者は教義を知ることなくただ先祖が敬ってきたという前例を踏襲してきただけである。それゆえ今でもカクレキリシタンというクリスチャンでも隠れキリシタンでもない宗教(?)が存在する。
ポルトガル人による鉄砲伝来とともにキリスト教が日本に上陸し、その貿易の魅力から多くの有力大名がキリシタンとなって、強制的に支配下の住民をキリスト教徒にした。その数は日本国民の3%にもなり、現在の0.8%よりも大きい。ただ、司祭の数も少なく、彼らの言語能力は限定的で日本人の助けを借りなければならず、末端まで教えが浸透しなかった。
秀吉の禁教令から、向かい風に変わり徳川幕府の徹底した禁教で1644年最後の日本人司祭が殉教する。その後は誰も教えることなく、地下にもぐるが、その実態はキリスト教とは言えるものではなく、神仏習合の上にキリスト教が乗っかった現世利益と先祖崇拝を重視する日本的宗教に変化したものだった(例:マリア観音)。
オラショはもともとポルトガル語混じりで意味不明であったと思われるが、さらに端折られて呪文化した。また葬式の時だけ祈るようなものとなり、葬式仏教と変わらないような状況にもなっている。
著者プロフィール
宮崎賢太郎の作品
