日本という方法 おもかげの国・うつろいの国 (1) (角川ソフィア文庫)

  • KADOKAWA (2020年9月24日発売)
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Amazon.co.jp ・本 (384ページ) / ISBN・EAN: 9784044006136

作品紹介・あらすじ

日本は「主題の国」ではなく「方法の国」である。多神で多仏、天皇と将軍、無常と伊達、仮名と漢字。外来の文化を吸収し自らのものとしてきた日本は、互いに矛盾するものを保持したまま多様で多義的な社会・文化を築き上げてきた。史書の編纂、日記、短歌、さらには政治体制や哲学までを編集行為ととらえると領域を超えて「おもかげ」「うつろい」という特質が見えてくる。歴史に蓄積された様々な層を「方法」によって辿る大胆な日本論。

感想・レビュー・書評

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  • 日本とはどういうふうに立ち上がってきたのか。
    歴史、文化、建築、文字、文学、政治、宗教、ありとあらゆる知識を総動員して松岡正剛さんがナビゲートする圧倒的な知の渦の本。

    日本が、倭国から日本になったのはいつなのか、江戸とは明治とは、大正とは、

    日本のおもかげを探り、日本のうつろい方を探り、そこから現れる日本という方法。
    それは、一人の人間が親の影響から脱し、自己のアイデンティティーを再形成していく過程のようにも感じた。

    アワセ・キソイ・ソロエ・カサネ

    ウツリ ウツシ ウツロイ
    ウツとウツツのウツロイ
    一見何も見えないところに何かが見えてくること。
    つじつまの合わなさを感じること
    てりむくり

    「はか」が、ないことを「はかなし」と、無常さ、美しさまで感じられる感性。

    「日本という方法」

    その人の言葉を大事にすることで、
    その人の、おもかげがゆらっと動き、その人の心のうつろいが伝わってくる。そういうのを感じられる人でありたい。

    そんなこともぐだぐだ考えさせられる、とても面白い本でした。

  • 松岡正剛さんの本は、とにかくお酒飲みながら楽しく味わう本です。珠玉のアテです。お酒も時間も美味しくなります。

  • エディットタウンからの帰り道に電車で読もうと購入。


    以前、コロナに突入したGWに

    連塾 方法日本 3部作

    を読破し、併せて該当する千夜千冊40冊程度を併読した時の記憶がよみがえる一冊でした。



    気になったキーワードからメモ書き

    舶来概念には日本に合う変化のフィルターが作用
    株仲間に対する経済政策の長期化から幕末の混乱へ
    朱子学から陽明学へ 中国離れを成し遂げんとする
    明治は髭・虚勢の時代、大正は病の時代
    悲しい存在を見つめる童謡という方法

    いささかグローバル資本主義の影響もあり
    単一化したように思われる日本には
    コロナをきっかけとして少し揺さぶる
    新たな方法の試みが進捗することに期待。

  • 久しぶりの松岡正剛の著作。おそらく前に読んだ「神仏たち
    の秘密」と繋がっている内容だとは思うのだが、さすがに
    忘れてしまっているな(苦笑)。

    実はこのあたりが私の守備範囲として最も弱いところであり
    読んで感心することくらいしか出来ないというのが正直な
    ところ。日本人の核のようなものがあるとしたら、有るよう
    で無い、無いようで有る、それこそウツのようなものでは
    ないかとほんのりと思ってみる、それくらいである。

  • 日本や日本文化のよさ、おもしろさはどこにあるのか? 日本文化の固有性や伝統については頻繁に語られるが、筆者はむしろ日本はそのような「主題の国」というよりも「方法の国」ではないかと考えている。

    和歌や俳句、能や文人画、禅庭や数寄屋造りなどの「静かな日本」と、日光東照宮や歌舞伎、祭りといった「賑やかな日本」はどちらも日本文化に長く根付いている。また、外来の文化を日本文化のなかに取り込みそれを消化することで新たな日本文化を生む過程が、長い歴史の中で何度も繰り返されてきた。

    このような日本文化の特徴を考える際には、様々な文化的要素を(主語的にではなく)述語的につなげていった日本文化の方法自体に注目する方が良いのではないかというのが筆者の考えである。これは、筆者が長らく探求している編集工学ともつながる考え方である。


    そして、その日本的方法を解くためのキーワードとして、筆者は「おもかげ」と「うつろい」という2つの言葉に注目する。

    「おもかげ」は「面影」もしくは「俤」と綴られるが、これは何かが明確にそこにあるという状態ではなく、むしろ「ない」という状態の中にこそ、その対象の何かが「ある」という状態をみる感性をあらわしている。そしてこの「おもかげ」が「ある」という状態を現出させるためには、対象が存在しているか否かより、そこに自らの「思い」が込められているかということが重要である。対象そのものではなくその対象に喚起された自らの思いを重視するということが、日本的方法の第一の特徴である。

    一方の「うつろい」は変化に対する日本文化の態度である。この言葉は「無常」という見方とつながるもので、万事万象は移ろっているという認識や、そこに独自の感興を覚えるということである。この言葉は「うつ(空)」や「うつり(写)、(映)、(移)」ともつながっており、何もないところから何かが生じること、そしてそれが変化していくことに、心情や芸術の重心を置く方法的態度である。


    本書は、天皇や万葉仮名の誕生から、和漢を並列させた平安の王朝文化、神仏習合や中世の茶の湯、さらには江戸時代の国学の発展、明治の日本が向きあった二つのJ、そして西田幾多郎の哲学まで、時代を下りながらこの日本という方法がどのような文化を生んできたのかを紹介している。

    この流れを辿っていくと、日本の中で日本という方法を探求する営みが、営々と続けられてきたということが分かる。

    「日本という方法」と筆者が名付けた編集的な文化のあり方が最初に花開いたのは平安時代である。『古今和歌集』において真名と仮名を並列させることで「和漢並べたて」という編集方法を編み出した紀貫之や『和漢朗詠集』においてその手法を踏襲した藤原公任らによって、この時代に和漢の比較という視点が生まれ、そこからさらに和様の実験的な取り組みが生まれた。

    そしてさらに、この和漢を対比させたりそれを融合させたりする手法は、日本の寺院建築の屋根における「てりむくり」や、神仏習合によって神と仏が重ね合わされるといった現象を生み出し、日本人の自然観や社会観、そして宗教観が形成されていく。

    真名と仮名を対比させるという視点は1000年以上営々と続き、日本という方法を生み出してきた。この方法をさらに次のステップへと押し上げようとしたのが、本居宣長である。江戸時代に「国学」を提唱した宣長は、「仮」だけでなく「真」も日本の中に見出しそうとした。

    この「国学」は日本におけるオリジナリティを持った文化の根源を探求した学問と捉えられることも多いが、筆者はそのような主題に囚われた見方では、宣長の考えたことの本質を見誤るという。宣長が言っていることは、日本の文化における「もののあはれ」や「やまとだましひ」は、どこか一点に求められるのではなく、たえず「本来から将来に向かう途次」にしか現れないものであるという考えである。宣長が捉えようとした日本という方法は、むしろ物事の核心の部分には触れることなく、移り変わる過程を見つめ続けることにその本質があるという考え方であるという筆者の指摘は重要であると感じた。


    このような宣長の議論を理解するために重要な日本人が大切にしてきた感覚に、「うつろい」というものがある。「うつろい」も平安時代から日本という方法の中に営々と息づいてきた感性である。

    筆者が考える「うつろい」の特徴は、「うつ(空)」の中から「うつつ(現)」が生まれ、そしてまた「うつ」へと去っていくというプロセスを、重視するという点である。そして「うつろい」とは、この「うつ」から「うつつ」へ、そしてまた「うつ」へと行き交う様であり、その変化を想像することが日本という方法であると筆者は述べている。

    宣長は、「うつろい」というプロセスの中に日本という方法の特徴を見出し、その中にさまざまな対立する概念を自在に去来させてきたということを、万葉集から源氏物語、その他多くの日本の文化の中から指摘している。

    しかし明治以降の日本においては、西洋文明や近代思想という新しい外来の主題に向き合うなかで、また大きく揺さぶられることになる。そのような葛藤の経緯として、本書では日本(Japan)とイエス(Jesus)を並び立たせるために西洋による開花ではなく日本の開花を目指すことの大切さを訴えた内村鑑三や、日本という方法が取り込んできた矛盾と葛藤を「絶対矛盾的自己同一」という言葉で表した西田幾多郎の哲学を取り上げながら、日本という方法を次の時代につなげるための可能性を考察している。

    一歩で本書では、明治以降の日本が近代化や拡大による進歩をめざして失敗していったプロセスも取り上げている。その過程には、日本という方法がいつの間にか近代化という主題のための方法に取り込まれていき、融通無碍なその方法が暴走していくという可能性があることが示されている。我々はこのような歴史にも学び、その危険性に自覚的にならなければならないと思う。


    日本は主題の国ではなく方法の国であるという独自の視点や、「うつろい」ゆく「おもかげ」を日本の文化がどのように捉えてきたのかということを辿る流れは、とても興味深かった。日本という方法が様々な文化や環境を取り込みながら新しい「おもかげ」を発見する可能性を感じるとともに、その柔らかさが誤ったかたちで利用されると、逆に主題を融通無碍に拡大し、“ぬゑ”のような存在を生み出してしまう危険性も感じさせられた。

    筆者も述べているように「日本という方法」を日本の歴史観の中に組み込み、そのことに自覚的になるということこそが、その暴走を避けながら日本の文化の可能性を引き出していくために必要なことなのではないかと思う。現代の様々な日本文化を、このような視点で改めて見直してみたいと感じさせてくれる本であった。

  • 面白い。特に最初のあたり。ひらがなカタカナ漢字と相対主義みたいなとこ

  • 松岡セイゴオさんの日本論。方法としての日本、てるむくり、など著者の本で読んだ用語がチラチラ見えたので、まあ想定内の本と思って手にしたんだけど、随分大きく予想を超えていた。

    「おもかげの国」「うつろいの国」とか、ウツとウツウという言葉は、セイゴオさん独特の言語感覚なんだと思う。

    「茶」については、村田珠光や武野紹鷗にいて詳しく解説。

    江戸の武家体制を作る基礎になったのが儒学だが、他に手が無かったという話。朱子学と陽明学は生まれた時期が300年隔たれているが、同時期に日本に流入してきている。本書は陽明学の話が大きい。正直、大塩平八郎が頭に浮かぶ程度だったが、後世にも大きな影響を与えている。中国では廃れているが、日本では昭和維新までその残滓が残っていた。セイゴオさんは、『陽明学は「日本という方法」を埋められなかったと考える方が当たっているのではないでしょうか。』と著す。
    古楽や国学が隙間を埋めたとあり、その古学、国学の説明に移る。
    日本儒学、国学について、中国離れがその意味にあるという。セイゴオさんの々博覧強記振りに只々驚く。伊藤仁斎、荻生徂徠、契沖、荷田春満、賀茂真淵、そして本居宣長の古事記との格闘。「もののあわれ」「やまとだましひ」は起源が特定できるものではなく、本来から将来に向かう徒次にしかあらわれないとのこと。

    明治以降についても、西田幾多郎、北一輝、九鬼周造について知らなかったので、圧倒されながら読む。西田といえば「善の研究」と思っていたが、この本ではあくまで経過途中とのこと。「述語(主観)が主語(客観)を包摂する」の主張が、晩年には客観が主観を包むと逆の主張をする。ふいに到来した「絶対矛盾的自己同一」(切らずに一息で読む)。矛盾するものを併せ持ち両立させる日本という方法の一端とセイゴウさんは考えているらしい。

    論理的に実証する内容ではないし、日本という方法を理解したのか、納得したのか云われれば、言葉に詰まるしかないんだが、もうちょっと考えてみようと思う。

  • 重い。日本、とはここまで重かったのかと初めて知る思いで茫然自失。1回読んだくらいではたぶん理解できていない。でもすごいことだけはわかる。

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著者プロフィール

1944年、京都生まれ。70年代に雑誌『遊』編集長として名を馳せ、80年代に「編集工学」を提唱し、編集工学研究所を創立。その後、日本文化、芸術、生命科学、システム工学など他方目におよぶ研究を情報文化技術に応用しメディアやイベントを多数プロデュース。2000年よりインターネット上で「千夜千冊」を連載。日本を代表する「読書の達人」としてブックウェア事業を拡大。編集的な選書と読書空間の企画演出はつねに話題を呼んだ。主な著書に『知の編集工学』『多読術』『日本という方法』『千夜千冊エディション』(全30巻)『日本文化の核心』『別日本で、いい』(共著)ほか。

「2025年 『百書繚乱』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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