- KADOKAWA (2024年1月23日発売)
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Amazon.co.jp ・本 (304ページ) / ISBN・EAN: 9784044008093
作品紹介・あらすじ
日本曹洞宗の開祖・道元が記した『正法眼蔵』は、難解さでも知られる仏教書である。約百巻に及ぶその内容は、坐禅や生活の作法、世界や時間や夢、心といったものの捉え方など多岐にわたる。なぜ道元はこれほど難しい著作を世に残したのか? 執筆の謎にせまり、「夢中説夢=人生は夢のようなもの」「礼拝得髄=まことの師を尊ぶ」のように、記された概念を、わかりやすく、現在のことばで解説。禅の思想をかみ砕く、入門書の決定版。
みんなの感想まとめ
仏教の深い教えを現代の言葉でわかりやすく解説する本であり、道元の思想に触れることで、人生や時間、心の捉え方について新たな視点を得ることができます。著者は曹洞宗の僧侶であり、アカデミックな背景を持ちなが...
感想・レビュー・書評
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『正法眼蔵』は難解な書物であり、多様な人が多様な解釈をしているので、本書もその一つということになる。著者の言葉遣いは平易であり、その説明そのものが難解で理解を拒むということはないだろう。著者が『比較的わかりやすい部分を取り上げて、道元禅師の特徴的な、そして魅力的な教えに触れていただきたい』と前置きするように、統一的な『正法眼蔵』解釈を提供するというより、章ごとに特定の巻を取り上げ、解説するといった構成であり、さながら連続講義のようである。
本書は美点と欠点(と私には思われたもの)がはっきりしているように思う。第一の美点は、『正法眼蔵』の原文に添えられている現代語訳そのものである。当然であるが、鎌倉時代に著された『正法眼蔵』の原文は、現代人が一読して理解できるものではない。したがって、多くの人は現代語訳でそれを読むことになる。類書でも、原文と現代語訳の並置は通例であるが、この訳という行為自体に特有の困難がある。というのも、どうしても訳者の解釈が入ってしまい、原文と突き合わせると「?」となることも少なくない。本書の訳文も一定の理解に基づいているのは間違いないが、原文の意味やニュアンスを極力残したまま現代語に移し替えようという誠実さを感じさせる仕上がりであると思う。だから読者は、『正法眼蔵』の現代語訳と、それに続く著者の解説を読み比べて、賛同したり反発したりすることが可能となる。だから後述する私の批判的見解も、著者の訳文に依るものに違いない。第二の美点は、著者の経歴がもたらしているであろう、身体的なリアリティであり、それは『正法眼蔵』を思想として論じようとする学術的な著作からは感じられないものである。欠点(と私には思われたもの)は、思想(つまり論理)としての不明瞭さに尽きる。著者は随所に多様性や平等のような現代的な道徳を前景に出しており、それが鎌倉時代の求道者である道元との隔たりを感じさせることは否定できない。あるいはそれは、現代に有意義なものを提供したいという情熱か、読者への教育的配慮なのかもしれない。さらに考えれば、道元の峻厳さに現代の読者を馴染ませるための、それこそ大乗仏教的な『方便』なのではないかとも思われる。
著者が率直に『四十年以上読んできた私自身も、まだよくわからない部分があります』と語っていることについて、私は深い敬意を覚えるし、『私は一生『正法眼蔵』参究です』、『それが私の修行であり、一生続くと思います』という言葉にいたっては、少し羨ましいとすら感じる。
本論の始まりを飾るのが『現成公案』の解説であるが、私はこの時点から、著者の解釈に違和感を覚えた。著者は『現成公案』について、まず言葉としては『目の前に現れているすべてのことが絶対の真理である』という意味であり、禅宗では『目の前に現れているすべてのことが「公案」、つまり参学者が悟りを開く手がかりにすべきもの』とされると前置きする。そしてさらに、それは端的に『現実を生きる』ことであり、そこに『自分が信じる仏の道を生きる』という意味を重ね、『多様性を認めながら、しかも自分の信じる道を生きていく』ことだという解釈を加えている。しかし、多様性という価値観はあまりに現代的であり、鎌倉時代の仏教者の峻厳さとの両立を考えることは難しい。著者は『万法ともにわれにあらざる時節、まどひなくさとりなく、諸仏なく衆生なく、生なく滅なし』の前半部分を、『私たちの世界を固定観念で見ない時』と解釈して、『世の中にはいろいろな見方がある、つまり、多様性がある』と説明するが、私はもっと文字に率直に「全てが無我である時」という『脱落』のことではないかと思う。同様に、著者は道元の『舟に乗って山(陸地)の見えない海原に出て四方を見ると、ただ丸くのみ見えるだけであり、ほかに違った相(景色)が見えることはない』という言葉を、『自分の認識の及ばない世界が限りなくある』、『そのようなことを自覚しながら、自分の見方、自分の考え方が、必ずしも正しいのではないことを自覚しながら謙虚に、多様性を認めながら、しかも自分の信じる道を生きていく、それが「現成公案」ということである』と説明するが、私には「修行の未完結性」を素朴に表現しているように感じられる。著者の『個人的なことですが、〝我こそが正しい〟と主張する人はあまり信じられません』という主張は理解できるが、それはそれである。著者は道元について、自分こそが正しいという思いはなかったと推測するが、『正伝の仏法』を自認する道元がそうであったとは、私にはどうしても思えない。仮に著者の解釈が正しいとしたら、そのような分かりやすい現代的な価値観を提示するために、道元は『正法眼蔵』で逆説的な言語表現と格闘したのかという疑問も生じるように思う。
道元には『時間と存在がひとつである』ことを表現する『いはゆる有時は、時すでにこれ有なり、有はみな時なり』という言葉がある。道元は『「時」がもし過ぎ去ってしまったりやって来たりする相を保っているとすれば、それは私に「有時」の「而今」(まさに今)があるのである』として、時間とは流れ去るものという通俗的なイメージを退ける。さらに『今の「時」から漏れてしまっているすべての存在や全世界があるのかどうかと、しっかり考えてみるべきである』と、存在論ともいえる主張へと踏み込んでいく。著者はそのような道元の時間論・存在論を『そのような「有時」という現実を、どう生きたらいいのか』という実践の問いへと引き寄せる。そして、道元の『いまといふ道は、行持よりさきにあるにはあらず、行持現成するをいまといふ』という言葉を論拠に、『仏道を生きてゆく』そのときに『時間と空間と私が一つになり、私が仏と一つになる』とし、さらに一般化して『人生は「今」「ここ」「このこと」を「生きてゆく」ということの連続であり、そこに懸命になるしかない』と結論する。しかし、認識の変容を示唆する道元の言葉から、道徳的教訓を導き出すことに、どうしても不明瞭さを感じざるを得ない。道元の言葉は、『行持』つまり修行は、『いま』という『時』の『現成』の条件である、という事態を端的に示しているように、私には読める。そこに道徳的な意味まで読み込むべきなのか、私には判断がつかない。
道元は、大乗仏教の『唯識』を継承して『この世に存在するあらゆるものは心』だと主張した。そして関連する『即心是仏』という言葉は『この心こそが仏にほかならない』という意味であるが、道元は『いわゆる「即心是仏」という話を聞いて、おろかな者たちは、衆生の慮知念覚の心、いまだ発菩提心していない心を、そのまま「仏」とするのだと思っている』と安易な現状肯定を批判し、『発心よりのち』にと強調する。この道元の峻厳さは、俗悪な道元の解説書、例えば「わからないことがわかるということが悟り」などと、大衆を安堵させるための人生訓を道元の名前のもとに語ろうとする言説を拒絶する根拠にもなる。著者は『仏の教え、すなわち戒律を守り、坐禅などの修行を行ずることが大切であり、その上で、全てを「心」として生きる生き方があってこそ仏道と言える』、『よりよい環境世界を生きるために、まず自分の〝こころ〟をよりよい状態に調える必要がある』と総括する。その総括自体は、著者の読者への配慮によってか、あたかも世俗の幸福論のような表現にはなっているが、それは『唯識』と『即心是仏』の枠組みから当然帰結することでもあるだろう。そして根本的な問題として、このあたりから私は、『よりよい』ものとして無条件に使用されている仏という語が、そもそもどういう意味なのか、どうにも掴めないまま読み進めることとなった。仏という言葉のそもそもの定義は「目覚めた人」であるが、もはやそんな意味ではないだろう。しかし、修行、とりわけ坐禅という身体的実践が必要とされるのは、思索だけでは仏というものが理解できないということであろう。
道元の『夢中説夢は諸仏なり』、『諸仏は風雨水火なり』という言葉について、著者はそれを『この夢のような現実の世界が諸仏そのもの』、『迷いの中で生きれば、それは凡夫の世界、目覚めの中で生きれば、そこが仏の世界』として、形而上学的な二世界論の否定のように解釈する。相変わらず意味の不在にも思える仏という語は置いておくとしても、二世界論の否定それ自体は、道元の『諸仏の素晴らしい教えは、ただすべてが仏たちの世界での教えであるから、夢の世界での諸法も、覚(現実)の世界での諸法も、ともに実相(真実の世界)である』という言葉と合わせて、十分に理解可能である。しかし著者は、『その日常を仏の世界にしなければならない、理想の世界にしなければならない』として、さらに『多様性を認めながら、自分にとっての現実を生きていく、それでよいわけです』と続けるが、私としてはやはり、道元と著者の間に、認識から道徳への飛躍を感じる。本書の筆致の典型と感じられるのが、『人から見れば〝ただ坐っていて何になるのか〟と思われるような坐禅をひたすら黙々と行っていく、愚かなように見えるかも知れませんが、禅僧にとっては、そこに大きな意義があります』、『その行いが他人から見れば愚かなようなことであっても、そこに素晴らしい意味があるのです』という断言である。その断言は、道元によって『徹底的に迷っていく』という意味に解釈され、肯定的に『仏道修行のあり方』を示す言葉とされる『夢中説夢』、『迷中又迷』、『将錯就錯』などを示す文脈で登場するので、修行について語っているに違いない。しかし、そうであればこそ、その意義や意味について、具体的な説明を求めたいと思うのだ。
しかし本書で最も具体的に描写されているのは、修行の意義や意味ではなく、修行の様相である。著者の本領発揮というところだろう。著者は『坐禅儀』巻の全文を解説している。道元の原文からして『坐禅は静かな場所でするのが良い』、『風や煙が入ってくるような場所はいけない』、『雨や露が漏れてくるような場所はいけない』、『昼も夜も暗いところで坐るのはよくない』、『冬は暖かく夏は涼しく工夫して坐りなさい』、『飲食の量を調節しなさい』と極めて具体的である。そして座布団の使い方、足の組み方、手の置き方、姿勢、呼吸まで詳細である。意外な感もあったが、坐禅と苦行は全く異なるのだ。いや仏教の起源において苦行は否定されていたのだから、それは当然なのかもしれない。そして思想的な意味で最も重要だと思われるのは、次の指示である。
『日常の生活の営みを離れ、全てを休息しなさい。善悪是非を考えない。意識の思い計らいもやめる。仏になろうとも思わず、坐禅をしていることにもとらわれない。』
ここで道元は、(1)有用性の網の目、(2)価値判断、(3)目的論的思考、からの脱却を命じている。著者も『健康によさそう』、『精神が安定するから』といった効用もあると認めつつ、それを目的とした坐禅は『打算的な行為』であって、『人間の〝吾我〟〝エゴ〟というものと紙一重』であると指摘し、『坐禅とは、仏になるための修行ではなく、仏を行ずる修行である』と説く。それは私には核心的な部分だと思われる。考えてみれば、苦行というのは、苦痛と『悟り』の等価交換であり、有用性の次元に属する行為といえる。推測するに、道元の指示は、意識を一点に固定させないための、つまり執着を離れるための、生理的な条件を示しているのであって、宗門の道徳の源ではあっても、道徳そのものではない。想像されるのは、イヤホンのノイズキャンセリングのように、自我と身体感覚が打ち消され、心への刺激が極小化されている状態である。それが『脱落』や『非思量』という言葉にも、越前への移住にも、表現されているように思う。とはいえ、何も考えないというのは現実的に困難に思えるが、著者は『ふと何かの思いが浮かぶことがあってはならない、ということではない』、『決して思いが浮かばないように頑張るとしたら、それはまた強い意識のはたらき』であるのだから、と補足している。道元は『考えないことをどのように考えるかというと、それが「非思量」である』と述べ、著者は『仮に四十分ほど坐禅をするならば、〝四十分間、何も考えなかった〟ということはありませんし、それができるようになることが坐禅の目的ではありません』、『この「非思量」ということは、自ら会得するしかないように思います』と明快である。そのような身体的なリアリティは、世俗の知性には実感できない域であると、感心せざるを得ない。
道元は、『空』を説く『般若心経』を取り上げ、通常は『般若とは智慧である』と理解されるところを、『あらゆる存在が般若であり、般若とは虚空であり、般若とは仏そのものである』と解釈する。人間の主観についての教説が、存在論的概念に拡大されているようにも読めるが、やはり仏という概念が未規定なため、私の理解は十分ではない。著者は『空』について『すべての存在は一定不変ではなく、移り変わりゆくものである』、『〝無い〟というのではなく、現象(現に象あるもの)には実体がない』、『確実なものではない』と補足するが、大変分かりやすい補足である。そこから著者は『物事をありのままに観るためには吾我を離れなければなりません』と指摘する。この指摘には多分に道徳的な装いがあるものの、私の先の修行の意義についての理解とも整合するように思う。なぜなら、認識とは一種の解釈であらざるを得ないが、その解釈の作用を極小化することは、万象の生成変化をそのまま受容することになるからである。
道元は、『涅槃経』の『一切衆生、悉有仏性』を、通常のように『一切衆生には、悉く仏性有り』とは読まず、『一切衆生は悉く仏性が現れた存在そのものである』と解釈する。そこでは、『仏性』とは人間の内なる『霊魂』や『種子』である、というような理解は排除されている。また、経典の『時節若至』という言葉を、通常のように『時節もし至れば』とは読まず、『すでに時節は至っている』と解釈し、『仏性が目の前に現れている』と説く。排除されているのは『仏性が目の前に現れる時が将来にあるだろう』という考えである。著者は『道元が示す「仏性の道理」とは、「成仏」以前からもともともっている〝成仏の可能性〟ではなく、修行を行ずるところに現れるものであって、「成仏」の意味についても、〝修行のところに現れる仏としてのあり方〟という意味と捉えることができる』と総括する。そのような『仏性』解釈から推測するに、道元は、形而上学的な問いに執着せず、目の前の苦の解決に専念すべきだと説いたブッダその人に極めて接近しているように思う。つまり、人間の本性として超越的な中心核を想定し、その未来での全面開花がもたらす救済という物語は、形而上学的な宗教の基本構造だからである。道元が依拠したのは大乗仏教の枠組みであり、大乗仏教の語彙で思考していたことを考えると、その内奥の本質的な先祖返りは驚異的であると思う。当時の主流が、いかにも大きな物語である密教や浄土教だったことを考えると、なおさらであろう。またここにきて、これまで定義されてこなかった仏という語が、どうやら「今・ここ」の世界の現成のような事態を表現しているということが、曖昧ながら推測されるようになってきた。もっとも著者自身が仏という語そのものに触れていない以上、少なくとも議論の組み立て方としては欠陥があると言わざるを得ない。
道元は当時としては革新的であり、年齢や性別、さらには出家・在家による優劣を否定し、『仏法を会得した人』ということを唯一の価値基準とした。その革新性は、『七歳の童子に仏法を問うとき、老人は彼を礼拝するべき』、『得道・得法の比丘尼(女性僧侶)が寺院の住職になるとき、仏法を求め参学している比丘僧(男性僧侶)は、その法会に身を投じて礼拝し仏法を問うのは、参学する者のすぐれた行いである』、『仏法を明らかに会得したものがあれば、修行僧たちが集まって、礼拝して教えを請うことは、出家の師匠と同じであった』といった言葉に明瞭に示される。著者は『仏の道においては、仏の教え、仏の道を会得した者を尊重』するとして、『道元が、今から約八〇〇年も前に、男女平等を主張していたことは、驚くべきことである』と評する。それは全くそのとおりなのであるが、著者はそこからさらに広げて『基本的にすべての人が平等に尊重されるべきではないでしょうか』と主張する。しかし私としては、その主張にはどうしても著者による現代的価値観の混入を感じざるを得ない。道元は、既存の価値基準を否定し、『仏法を会得した人』というはるかに峻厳な唯一の価値基準を打ち立てたのであるから、それと現代的な『すべての人が平等に尊重されるべき』という理念とは、決定的に矛盾するはずである。とはいえ、道元は出家至上主義だと思い込んでいたので、本章の内容は非常に驚きであった。そうであれば、私のような世俗の人間が色々と考えてみる張り合いも出てくるというものである。
道元の言葉のなかで特に難解なのは、山は『常に安らかに止まっているし、常に歩いている』というような逆説的な表現だろう。道元は続けて『人間が歩くのと同じように見えないからといって、山が歩くのを疑ってはいけない』、『山の中に居る人はそれを覚知することがない』と述べる。また道元は『一水四見』の喩え、つまり同じ水について、天人は瓔珞、鬼は炎と濃血、魚は宮殿と見るとして、『もし傍観者がいて、「あなたの宮殿は水が流れているのですよ」と竜魚に言えば、私たちが〝山が流れる〟という言葉を聞くように、竜魚はにわかに驚き疑うに違いない』と説明する。著者は『山が歩くということは、山が山らしくあるということになるのでしょうか』と仮定し、そうだとすると『私も、私が歩くということはどういうことかに気づいて、歩くことをしなければならない』、それは『僧侶である私にとっては「修行する」ということである』と結論する。道元の言葉は、普通に考えれば意味不明である。そうであるから、私としてはもっと率直に、それは「普通」に考えるなというメッセージではないかと思う。それも『非思量』ということなのではないか。『一水四見』の喩えも、「普通」に考えなければ世界は別様に現れることを、つまり認識の根源的な変容の可能性を、示唆しているのではないか。著者は『山が歩く』という言葉に、地球の自転や公転を連想すると述べるが、私などは、地動説に触れた人々の驚愕を連想した。あれこそ、「普通」に考えるかぎりは得られなかった、山が歩くような衝撃的な真理であったはずである。道元にそのような天文学的な知識があったはずもないが、世界は別様に現れるということが、歴史上に起きた好例だろう。
『洗浄』巻で道元は、『身心を浄らかにしなさい、爪を切り、髪を剃りなさい』などを始め、手洗い、用便、歯磨き、食事などの作法を詳細に指示し、その主旨を『作法が重要であり、道(仏法)を得るとは正しく作法を行うことである』と説明する(著者の説明も、道元の説明と基本的に同じである)。思うにそれらの指示は、本当の意味での『方便』なのではないか。先に、坐禅という身体的実践の意義を、意識を一点に固定させないための、つまり執着を離れるための、生理的な条件を示しているのではないかと推測したが、衛生に関する指示も、それと同じではないか。容易に想像されるように、悪臭を撒き散らすような状態では、自他ともに、坐禅どころではないだろう。
最終章では、『修行者の四つの実践』として『布施』、『愛語』、『利行』、『同事』が挙げられる。道元の『菩提心をおこすといふは、おのれいまだわたらざるさきに、一切衆生をわたさんと発願し、いとなむなり』という言葉を、著者は『菩提心をおこすというのは、自分がいまだ彼岸(川の向こうの悟りの岸・理想の世界)へ渡る前に、一切の人々を彼岸に渡そうという願いをおこし、実践するのである』と訳す。…が、これは本当にそうなのだろうか?というのも、道元において『一切衆生』とは、人々だけではなく、動植物だけでもなく、無生物を含む全ての存在ではなかったか。そうであれば『菩提心をおこす』ということは、全ての存在と自己が相互に浸透するような境位なのではないかと想像される。そのように、主題が社会的実践であるだけに、著者の道徳的解釈による記述も多い。しかしそれらも、『洗浄』巻で示されていた作法と同じように、執着を離れるための『方便』なのではないかと思う。道元は『布施というのは「不貪」である』と端的に示す。著者はそれを『貧富を問わず誰にでもできる布施、これが道元が説く布施である』と解釈するが、道元の言葉には明瞭に執着からの脱却が示されているように読める。続けて道元は『我物にあらざれども、布施をさへざる道理あり』と説き、著者はそれに対して二つの解釈を示す。一つは、『ほかの人が布施をしたことを見たり聞いたりしたときに、自分のこととして随喜することができれば、それも布施の実践である』という解釈であり、もう一つは『あらゆる物は本来私の所有物ではない』という解釈である。当然ながら、私は後者であると思う。なぜなら、喜びとは執着の一種であるように思われるからだ。『愛語』、『利行』も同じように、他者への貢献を勧めるものであり、著者は『徹底した、吾我を離れた利他行、それが道元の「四摂法」の根底にある』と評しつつ、それ自体が完結した目的、つまり端的に価値を有するものとして語る。繰り返しになるが、やはり私はそれらを『方便』なのだと思う。例えば、道元が弟子たちに説いた次の言葉など、道徳的装いのもとに、執着の除去と対人関係における静けさというノイズキャンセリングを勧める、一流の『方便』のように思う。
『衆生を思うことに、親しいとか親しくないとかを分け隔てせず、平等に済度の心を持ち、世間的にも出世間的にも決して自らの利益を求めずに、人知れず、悦ばれずとも、ただ善いことを心に思って、そのような心を持っていることも他人に知られないのがよいのである(『正法眼蔵随聞記』)』
確かに道徳的に善とされる行為が促されるのは間違いない。しかしそれは目的ではなく、一種の喜ばしい副産物であり、真の意図は『吾我を離れ』という部分にあるのではないか。なぜなら、『吾我』つまり執着とは、ノイズの一つに他ならないからである。もう一つの徳目である『同事』とは『不違(違わないこと)』であり、道元は『人間の如来は、人間と同じ姿をしているようなものである』、『同事を知るとき、自他一如である』と説く。著者はそれを『如来はやはり如来』であって普通の人間ではないのだから、『不違』には『まったく同じではない』というような意味合いが含まれていると説明するが、私はそれは無理があるように感じる。そうではなくて、『自他一如』という文字に率直に、自他境界の消去による世界との一体化、自己と世界の境界線が見えないような境位こそが示されているものなのではないか、と思われるのだ。著者は『道元は、まさに菩薩』と称えつつ、大切なのは『吾我(エゴ)を離れ、善知識(指導者)に従って、自分の身心を仏法に任せていく』と述べる。そうであるので、私の理解との違いは、道徳的行為を副産物と捉えるか、一つの目的と捉えるかの違いなのだろう。詳細をみるコメント0件をすべて表示 -
建長寺の宿泊坐禅会で聞いた「仏道を習うとは…」の文言の出典が正法眼蔵と知り、ひとまずとっつきやすそうな本だったので手にとった。曹洞宗の僧侶でアカデミックな背景もしっかりした著者で、しかも自分もまだよくわからないことがあるが、今の自分の解釈はこうというスタンスで、語り口も読みやすく嬉しい。
現成公案、有時、三界唯心、夢中説夢、空華、坐禅儀、魔訶般若波羅蜜、仏性、礼拝得髄、山水経、洗浄、菩提薩埵四摂法の各巻を取り上げている。
面白いのが坐禅のノウハウだけでなく、便所の仕方や歯磨きの仕方なども丁寧に説明しているところ。特に最近の中国は楊子が廃れてみな口臭いみたいな話とかは笑える。
道元の考えていることは現在の哲学や科学でも言われていることのように思う。ものの認識の仕方、今の私の中にすべての時があるとかは時間とは脳内で存在するものという考え方とか、山が歩くとか。
この世に存在するあらゆるものは心。人生に成功も失敗もなくそれぞれの日常があるだけ、その世界を仏の世界にする。坐禅をすると何になるのか、「何にもならん!」という澤木老師の回答。
スティーブジョブズのstay hungry, stay foolishの原典的な「潜航密用は愚のごとく魯のごとし、ただよく相続するを主中の主と名づく」が『宝鏡三昧』という禅籍にあることも知った。
ちょっと誤字も多かったので、直感に反する読み方のふりがながあっているのかどうかは不安。
道元の考えにめっちゃ興味が出たのでまた何か読みたい。今自分が好きでやっているお茶にも取り入れるべき考えがいっぱい、といか茶禅一味というのがわかってきた気もする。坐禅もできる範囲で再開する。
著者プロフィール
角田泰隆の作品
