新版 枕草子 上巻 現代語訳付き (角川ソフィア文庫)

  • 角川グループパブリッシング (1979年8月22日発売)
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Amazon.co.jp ・本 (448ページ) / ISBN・EAN: 9784044026011

作品紹介・あらすじ

源氏物語が王朝の夢幻であるとすれば、枕草子はその現実の活写である。洗練された感覚と視線を持って書かれた文章の数々は、清少納言が女房として身を委ねた教養人中宮定子をいただく一つの世界から生み出された。本書は三巻本を底本に、詳密な語釈と補注を加え、独立して鑑賞しうる流麗な現代語訳を付けた。全2冊。上巻は、(1)「春は、曙」から(127)「七日の日の若菜を」までの章段と付図・関係人物の系図・解説を収載。

みんなの感想まとめ

人間の本質や宮廷の生活を巧みに描いた作品で、古典文学の魅力を再発見させてくれます。特に、清少納言の鋭い観察力やユーモアが光るエピソードが印象的で、現代の私たちにも共感できる部分が多いです。例えば、他人...

感想・レビュー・書評

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  • 大河ドラマで紫式部が主人公、清少納言も注目されているというところで、『枕草子』を読んでみた。

    何となく知っているような気になっているが、そういえば、「春はあけぼの」とか「香炉峰の雪」とかごく限られた章段しか読んだことがないのである。はて、全体としてはどのような感じなのだろうか。

    すべてを原文で読めればよいのだろうが、あいにくそこまで古典の教養はない。しかし、せっかくだから抄訳や“超訳”的なものでないものにトライしたい。
    というわけで、角川学芸出版の角川ソフィア文庫にしてみた。
    上下巻2冊構成、各巻とも、前半に脚注付きの原文、補注を挟んで、後半が現代語訳である。上巻末尾には資料と解説、後半末尾には年表と索引が付く。
    基本は現代語訳で読み進める。引っかかったら原文に戻り、適宜、脚注や補注を確認する。
    ・・・ん、これなら読めるかな・・・?

    その前に、ちょっと予備知識を入れる。
    全体としては約300の短い章段からなる。
    池田亀鑑によれば、大まかに、「虫は」「うつくしきもの」といった「ものづくし」の“類聚(るいじゅう)章段”、日常生活や四季の自然を観察した“随想章段”、作者が出仕した中宮定子周辺の宮廷社会を振り返った日記風の“回想章段”の3つに分けられる。が、「春はあけぼの」のように類聚と随想が混ざったようなものもあり、いずれにも分類しにくいものもある。
    執筆動機も諸説あり、また、「枕草子」と題された理由についてもいくつか説がある。
    執筆時期も正確には不明だが、長保3(1001)年ころには大半が書かれていたとみられている。このころにはもう清少納言は宮仕えを退いている。清少納言が仕えた中宮定子が3人目の御子を産んだのちに早逝したのはその前年、長保2年のことだったのだ。加筆修正は後々まで続けられたようである。
    原本は残っておらず、4系統の伝本があり、内容や章段の順序に相違がある。
    角川ソフィア文庫版は、三巻本と呼ばれる伝本を底本としている。
    ・・・いやはや、なかなか大変ですね・・・。

    実際に読んでみる。
    冒頭は「春はあけぼの」である。
    うん、この辺は原文でもいける?と思うくらい読める。というか、中学か高校の古文で習ったよな、これ。「山ぎは」と「山の端」の違いとか。あー、それじゃ自力で読めているんじゃなくて、習ったから読めるのか・・・。古文の先生、ありがとう(今更)。
    このあたりを読んでいると、清少納言は「感性」の人なんだな、という感じがする。誰もが見たことがあるであろう風景を、誰もが語れるわけではない視点で、鮮やかにすっきりと切り取って見せる。
    聡明で小気味よい。

    いわゆる類聚系のものは、章段自体短く、ぽんぽんぽんと列挙されるので、まぁそんなものかとわかりやすい。文化や習慣の違いで、よくわからないものもあるが、千年も前のものだから、そんなものだろう。鳥や虫の話などは、実際にどうだったというよりも、伝承や和歌の中の話が多い。蓑虫は鬼が生んだものだとか、山鳥は仲間を恋しがり鏡を見せると仲間がいると安心するとか、そういうお話があったのか、という意味ではおもしろい。
    難しいのは特に日記系のものである。
    宮廷のあれやらこれやらがとにかくわからない。
    第78段。頭中将(藤原斉信)は清少納言との交流があったことで知られ、枕草子にも何度か登場する人物だが、何かしら清少納言の悪い噂を聞いて、清少納言の悪口を言ったり、無視したりするようになる。清少納言は誤解ならそのうち晴れるだろうと特に何もせず、放っておいている。ところがある夜、急に斉信から文が来て、それに白氏文集にある漢詩の一節が書いてある。使いの者は、清少納言に早く返事を書けと急かしてくる。清少納言はこの漢詩の続きを知ってはいるのだが、したり顔で、またうまくもない(謙遜?)漢字を書くのもためらわれ、藤原公任による「公任集」から連歌の一句を借用し、斉信が寄越した手紙に書き足して返す。この返事が気が利いていたため、斉信はすっかり機嫌を直し、宮中でも評判になり、中宮定子も喜んだ、というもの。
    ・・・そもそもの白氏文集の漢詩もわからなければ、公任の句もどう解釈するのかよくわからない。それで皆がほめそやすというのもよくわからない。
    現代文の方に「評」が付いていて、これは単なる清少納言の自慢話ではなく、仕える女房のこうした素質が、定子後宮の評価に直結しているのであるから、清少納言は中宮の面目を保ったのであり、中宮が喜ぶのも当然なのだという。
    ・・・気の利いたやりとりをするってことがつまり、政治的に意味があった、ってことですかね・・・?

    訳注の石田譲二による解説が含蓄深い。
    枕草子は「親しみやす」く、それは「作者のほとんど無垢といっていいほどの人の好さ、単純さによる」という。一方で、「事柄の一つ一つが、裸のまま、つまり世界解釈の隈取りや陰影を帯びることなく、我々の前に投げ出されている」というのである。著者は書いている対象について、「自明」のものとして扱っている。さまざまな事柄について、特段の説明がない。そのため、著者に接近していくためには、1つ1つの事柄を「綿密に仔細に点検する」「注釈」が必要だというのである。

    やさしく見えて容易くはない。
    どうやら『枕草子』を真に味わうということは、宮廷生活を生きた1人の女性の内面にまで分け入っていくということであるようだ。

    *間違えて角川ソフィアの新版の方(https://booklog.jp/users/ponkichi22/archives/1/4044000662#comment)に一度登録してしまいました。内容同じです。

  • 言うまでもなく三大随筆の一つ。宮廷内の話が多いので、予備知識がないと何言ってるのか分からないところが多い。それを差し引いても、例えば正確な書き方は忘れたが、「自分のことは棚に上げて他人の悪口を言うことほど楽しいことはないのに、悪口は良くないとか言うやつらムカつく」みたいなこと書いたりしてて、やっぱ人間だよねーって面白かったりする。じっくり読もうとせず、よくわからん部分は流し読みして残りの半分を楽しむのが吉。

  • 初めこそ原文と訳文を比べながら読みましたが、ほぼ現代語訳で読んだのでした。読んでみてとくに心に残ったのは、犬が打たれる話、雪山の話など。こうして、ちびちびとゆっくり『枕草子』を読んでみると、僕自身の回復と充電がすすむような感じがしてきました。おまけに自分にくっついていた雑多なあれこれが、いつのまにか落ちていて身軽になっているような感じがしてくるし、違う地平が見えてきた気さえしてくる。……ということは、これはつまり、現代の空気がいかに毒気を帯びているかを物語っているのではないのか。

  • めっちゃすき
    そんなん言うたらあかんて
    ってな事がよく書かれてるけど
    あー平安時代も普通に生活してたんよねーってなんか身近に感じれた
    古文で読んで現代語訳で答え合わせしながら読むのでめちゃくちゃ時間かかるが楽しい

  • 時間はかかるけど、じっくり読んでます。
    まず原文を読み、わからない言葉もあるので何となくこんな感じ? 程度の把握をしてから、本の後半の現代語訳を読みます。そして再び原文に戻って、時には原文の最後に付いてる傍注も引きつつ、先に進んでいきます。
    学生時代に教科書で習った箇所が時々出てきて、案外と細かい内容を覚えているのに驚きます。これが古典の底力ということでしょうか。
    高校生ぐらいまで全く魅力を感じなかったのですが、大人になって読むと思いもしなかった味わいがあります。

    ……年取ったんでしょうかね、やっぱり……。

  • 時間をかけて読んでいます。

  • 新漢字で書かれていますが、それで良い方はどうぞ。

  • 心ときめきするもの
    待つ人などのある夜、雨の音、風の吹きゆるがすも、ふと驚かる。

  • 『光る君へ』から『枕草子』を読み始めました。
    角川ソフィア文庫からは今年、河添房江、津島知明訳注『新訂版』が出てますが、こちらは昭和54年(1979年)初版、石田穣二訳注『新版』です。
    原文、補注、現代語訳という順番に並んでいるんですが、細かい注釈まで確認しながら読んでいると時間がかかるので途中から現代語訳だけ読んで気になる箇所の注釈をチェックするという感じで読み進めました。

    個人的には『源氏物語』より『枕草子』派であり、中高生の頃は古文も大好きだったので受験勉強もかねて『枕草子』は何度か現代語訳も原文も部分的に読んでいます。
    しかし、『光る君へ』を見るまでは『枕草子』は清少納言が「私って知性も教養もあってセンスもいいでしょ!」と自画自賛するエッセイだと思っておりました。
    (橋本治の桃尻語訳『枕草子』の「春ってあけぼのよね!」のイメージは今思えばわりと正しい気がする。)

    中宮定子に仕えたのが清少納言、中宮彰子に仕えたのが紫式部との知識はありましたが、同時期のライバルで、『枕草子』と『源氏物語』も後宮の自慢合戦かと思っていました。
    なので中宮定子の背景を知ってから読むと、だいぶ印象が変わります。

    たとえば〔五〕の「大進生昌が家に、宮の出でさせたまふに」の章。
    生昌の家の門が小さくて車が通れないとか、生昌の訛りを女房たちが上から目線で笑ったりしているんですが、これは時期的に中宮定子が二人目の子供の出産のために生昌の家に移動してるんですよね。すでに父道隆はなく、実家も焼失しているのでしかたなくの生昌邸なわけです。そんな状態で迎えいれてくれた生昌のことをよく馬鹿にできるなあと思うのですが、同時にそういう境遇だからこそ、この状況を笑い話として語っているとも見えるわけです。

    そして道隆在位の頃の中宮定子サロンの雅なこと。
    〔二十〕
    高欄のもとに、青き瓶の大きなるを据ゑて、桜のいみじうおもしろき枝の五尺ばかりなるを、いと多くさしたれば、高欄の外まで咲きこぼれたる昼つ方、大納言殿、桜の直衣のすこしなよらかなるに、濃き紫の固紋の指貫、白き御衣ども、上には濃き綾のいとあざやなるを出してまゐりたまへるに、
    御簾の内に、女房、桜の唐衣どもくつろかに脱ぎ垂れて、藤、山吹など、色々このましうて、

    この二十章(本によって章の分類は多少異なります)に出てくる道隆の歌、
    「ただ今の関白殿、三位の中将と聞えける時、
    潮の満ついつもの浦のいつもいつも君をば深く思ふはやわが
    という歌の末を、『頼むはやわが』と書きたまへりけるをなむ、いみじうめでさせためひける」
    これが『光る君へ』で最後に定子と清少納言が「いつもいつも」と笑いあっていた歌ですね~。

    古今和歌集を『なんの月、なになにの時に、誰それの詠んだ歌は、なんという歌か』と当てさせた村上天皇の話とか、宇津保物語の登場人物について涼と仲忠のどっちがいいか女房たちが語っていたり、定子サロンの文学レベル高い。

    藤原公任との和歌の交換や、藤原斉信や藤原行成との恋愛ゲーム的なエピソードなどもあったり。
    貴公子たちとの雅な戯れは書いても前夫の則光や恋人の実方についてはサラッとしか書いてないんですね。

    石田穣二訳注『新版』は昔の版なので現代語訳や補注の部分はちょっと読みにくかったりするんですが、解説が勉強になりました。
    「~もの」形式は清少納言がひとりで書き上げたものではなく、女房たちの知的遊戯がベースとしてあって、複数の参加によってできたものではないかという指摘は納得でした。
    また、中宮定子の悲運については書かず、「負の世界はきれいに切り捨てられている」という部分は『光る君へ』ともつながる話でおもしろかったです。

    442
    「それは、作者にとって、政治の世界で敗れ、亡んで行ったものなのである。この価値の世界を、作者はきらめくような美しさで描くが、それがきらめくように美しければ美しいほど、異様な険しさと危うさを同時に秘めていると言わなくてはならぬであろう。」

    https://chiakih.blogspot.com/2024/08/blog-post_23.html

    以下、引用。

    〔二十〕
    高欄のもとに、青き瓶の大きなるを据ゑて、桜のいみじうおもしろき枝の五尺ばかりなるを、いと多くさしたれば、高欄の外まで咲きこぼれたる昼つ方、大納言殿、桜の直衣のすこしなよらかなるに、濃き紫の固紋の指貫、白き御衣ども、上には濃き綾のいとあざやなるを出してまゐりたまへるに、

    御簾の内に、女房、桜の唐衣どもくつろかに脱ぎ垂れて、藤、山吹など、色々このましうて、

    ただ今の関白殿、三位の中将と聞えける時、
    潮の満ついつもの浦のいつもいつも君をば深く思ふはやわが
    という歌の末を、『頼むはやわが』と書きたまへりけるをなむ、いみじうめでさせためひける

    238
    その姫君のまだ入内前、父大臣のお教え申し上げたことには、『まず第一には、お習字をなさい。第二には、琴(きん)の琴(こと)を、人より格別上手に弾けるようにと心掛けなさい。それから第三には、古今集の歌を二十巻全部暗記なさることを、あなたの女としての学問になさるように』と、常々申し上げておられたということを、

    239
    帝はやおら前に古今の草子をおひろげになって、『なんの月、なになにの時に、誰それの詠んだ歌は、なんという歌か』と、詞書をお読み上げになって、その歌を御質問になる

    帝は、歌の方に心得のある女房を二、三人ほどお呼び寄せになって、碁石で、お二人の勝ち負けを数えさせようということで、

    〔二一〕
     前途に望みもなく、ただ一途に夫を愛し家庭を守って、ささやかな家庭の幸福といったものを夢見ているような人は、私にはとても我慢のならない軽蔑すべきもののように思われることであって、やはりなんと言っても、しかるべき身分の人の娘などは、宮中に女房として出仕させて、広くこの世の中というものを見せて、場馴れさせたいと思うし、できることなら、内侍といった地位にしばらくの間でもつかせてみたいと、そう思われることだ。
     宮仕えする人を、非難すべき、世間体の悪いもののように言ったり思ったりする男性は、ほんとににくらしいものだ。

    〔二五〕にくきもの
    ねむたくてたまらなくて横になったのに、蚊が細くやるせなげにプーンとうなって顔のあたりを飛びまわる。小さいその身体相応に羽風までごていねいに送ってよこすのが、ひどくにくらしい。

    新参の女房が、古参の人をさしおいて、いかにも事情に通じたような顔つきで、新しく来た女房に教えるようなことを言い、なにかと世話を焼くのも、ひどくにくらしい。

    あけて出はいりする所を、しめない人、ひどくにくらしい。

    〔二六〕心ときめきするもの
    髪を洗い、お化粧をして、かおり高く香のしみた着物など着た時の気持。そういう時は、別段見る人も居ない所でも、自分の心の中だけはやはりはずんだ気持になる。
    約束の男を待っているような夜は、雨の音や風の建物を吹きゆるがす音にも、はっと胸の騒ぐものである。

    〔二七〕過ぎにしかた恋しきもの
    去年使った夏扇。

    〔三〇〕
    説教の講師は、美男子なのがよい。夢中になって、ひたと講師の顔を見守っておればこそ、その説き聞かせる仏法のありがたさも感得できるというものだ。

    〔三六〕
    紫の紙に楝(おうち)の花を包んだり、青い紙に菖蒲の葉を細く巻きつけて結んだり、また白い紙を菖蒲の白い根で引き結んだりしたのも、風流なものだ。

    〔三九〕あてなるもの(上品なもの)
    薄紫色の衵(あこめ)に白がさねの汗袗(かざみ)。
    削り氷にあまずらを入れて、新しい金まりに入れたの。

    〔六〇〕
    明け方、女の許から帰って行く男は、服装などひどくきちんと、烏帽子の緒を元結にしっかり結んだりしなくてもいいじゃないかと思われることだ。たいそうだらしなく、まるで馬鹿みたいに、直衣や狩衣などの着方が乱れていようと、誰がそれを見付けて、「あの男が」などと笑ったり非難したりしようか。
    男というものはやはり、明け方の女の許からの帰りっぷりが、一番風情もあるもののように思われる。

    〔一〇〇〕
    中宮は紅梅の固紋、浮紋の御表着を、紅の打衣三重の上にただ引き重ねてお召しになっていらっしゃる、そのお召物について、「紅梅の表着には濃い紅の打衣がよく映えるのだけれど。私にはもう似合わないのが残念だわ。大体、もうこの年では紅梅なんか着ない方がよいのだけれども。だけど、萌黄などは好かないからね、紅の打衣に合わないから」など、おっしゃるけれども、

    (淑景舎は、)紅梅の袿を沢山、濃いのから薄いのを重ねて、その上に濃い紅の綾のお召物、さらにすこし赤みがかった小袿──これは蘇枋の織物──を重ね、萌黄色の若々しい感じの固紋の表着をお召しになって、檜扇でぴったり顔を隠していらっしゃる御様子。

    〔一一五〕
    右衛門の佐宣孝という人は、「それはつまらないことだ。物がなんであろうと清浄な着物を着て参詣すれば、なんのいけないことがあろうか。よもや御嶽の蔵王権現は、きっと粗末な身なりで参詣せよとはおおせであるまい」と言って、三月の末に、紫のとても濃い指貫に白い狩衣、山吹色の大袈裟に派手な内衣など着て、息子の当時主殿寮の次官だったのには、青色の狩衣、紅の打衣、それに乱れ模様を摺った水干袴というものを着せて、そんな格好で連れ立っておまいりしたのを、

    425
    女房たちが宿直の退屈しのぎにくだらないおしゃべりをして夜居の僧の一喝を食うという話がある(一二九段)。これなど、「──もの」形式の類聚章段の発生の現場に立ち会うような思いのされる話であって、
    女房集団を母体とした遊戯的な形式であろうという思いが強くされる。
    一般に、一定の規準のもとに物を挙げてゆくというのは、『歌枕』などの場合は、知識的な整理という性格が強いが、もう一つ考えられるのは、知的な遊びの一つの形式としてであって、『枕草子』の類聚章段形式も、基本的には遊戯の一形式、従ってそれは、基本的には多人数の参加、協力という前提なくしては考えられない性格のものであろう。こういう形式の生まれた母胎は、具体的には、清少納言の属した、定子に仕える女房集団を描いてほかには考えられない。

    442
    『枕草子』の日記的諸章段の背景には、以上に述べたような過酷な政治的情勢があるのであるが、作者は、ごく稀に、ほっともらす吐息のように軽く一言触れるか、短い感慨をもらすだけで、一切、中宮の悲運の現実について語ろうとはしない。きらめくように豪奢な中宮の栄華、あるいは、逆境にあっても名門の子女らしく温雅を失わぬ中宮の美しい姿をしか書こうとしない。そこにあるのは正の世界だけで、負の世界はきれいに切り捨てられている。きびしい選択の目が働いていたと見るよりほかなく、定子が定子である所以のもの、中宮に体現されていた、作者にとって価値ある世界──それは女房にとって価値ある世界ということであるが──、それをしか作者は書こうとしないのである。
    そして、それは、作者にとって、政治の世界で敗れ、亡んで行ったものなのである。この価値の世界を、作者はきらめくような美しさで描くが、それがきらめくように美しければ美しいほど、異様な険しさと危うさを同時に秘めていると言わなくてはならぬであろう。

  • いつか読もう読もうと思いながら、何年も積んでいた本。
    いや、読みたいと思ったのは学生時代からだから、心の中では「何年も」ではきかない位積んでいたことになります。
    昔、国文学に詳しい友人が、実に面白そうにこの本を引用していたので、それがすごく羨ましかったのです。

    また、現代語訳や漫画化によって、枕草子を面白おかしく紹介している本というのはたくさんあるけれど、やはり原文に当たらないと「知っている」とは言えない。
    紹介されればされるほど、枕草子コンプレックスが高まっていきました。

    半分読んでみましたが、確かに中宮定子と筆者との絡みは面白い。
    清少納言の年齢は不明とはいえ、10歳は離れている主従の会話を楽しめるのは、筆者本人が屈託なく楽しんでいたからなのだろうと実感しました。

    ただし、それはいわゆる日記的章段に限った話です。
    類聚章段に物語はないし、宮廷文化や景物についての注釈は全編にわたって不可欠です。
    訳注の石田先生をして「つまらない作品」(p.431)と言わしめたのも驚きました。
    もちろんこれは額面通りの意味だけではありませんが。

    文体について言えば、主語の省略も多く、使用されている語彙も馴染みのないものが多いです。
    正直読みにくくて、私は上巻を読み通すのに半年かかりました。
    とはいえ、現代語訳と補註、それに解説が優れているので、ほぼ辞書を引かずに済んでいます。

    訳注はできる限りのことをしてくれているだけに、あとはどれだけ楽しめるか、読者の力量が試されているようにも感じました。

  • 平安時代中期に中宮定子に仕えた女房、清少納言により執筆されたと伝わる随筆です。本作の成立は複雑で伝本間の相異が大きいですが、本書は三巻本(雑纂形態)を底本としています。物語と違って話の筋を追う必要もないですし、各段はそこまで長い文章ではないので、親しみやすい作品だと思います。清少納言の感じた「をかし」は現代にも通じると思います。四季や日常生活、宮廷の様子などを上手に切り取っています。今でも第一段の冒頭「春は、あけぼの。やうやう白くなりゆく…」は古典の授業で暗記させられたりするんですかね。

  • 本当に大好きです。千年の時を経てもまるで目の前にいる友達のような存在です。自分の中では清少納言はカリスマ。同じ時代に生きてたら多分ファンレター書いてサインせがんでたりしていたと思います。笑

  • 田辺聖子の「むかし あけぼの」を読み返したのを期に、原文にあたってみようと購入。めちゃくちゃ面白い。清少納言の人となりが率直に表れていて、きっと現代に生きていても付き合って気持ちの良い人物だろうと思える。
    解説、注も充実。解説にある、「枕草子は随筆にカテゴライズされるべき作品ではない」という内容が非常に興味深かった。これは、清少納言が中宮定子を主人公に描いた物語だと思ったほうがいいのかもしれない。
    (2015.9)

  • センス溢れる、清少納言のマイフェイバリットシングズ。

  • たまには「古典」も読んでみようと思ったが、読み終えるまでに思いのほか時間がかかってしまった。さて、肝腎の感想としては、たしかに面白く感じる部分も多く、なるほど読み継がれてきた理由もよくわかった。とくに、雪山について勝負する場面などは、今日的な小説の題材としてもなかなかおもしろいと思う。いっぽうで、元来が他人に見せる前提で書かれた作品ではないから、まとまっていないこと、とりとめがないこともかなり多く、読んでいても「ふ~ん」で終わってしまうことも少なくなかった。ただ、全体的にはやはりよくできた作品であるとの印象を持った。なお、訳注に不満があり、「読み物としての註釈=単語の説明など」と「校訂についての註釈=異本との相違点など」はわけてほしかった。和歌の訳がないのもマイナス・ポイントだ。

  • 日本の古典にも親しみたい、って、しょっちゅう思っては果たせずにいる気がする。

  • 蓑虫はなぜ鬼の子なんだろう…。

  • 三巻本系統を底本とする『校本枕冊子』(田中重太郎著・古典文庫)を典拠とし、これに現代語訳を付した『枕草子』。本の前半には「春はあけぼの」で有名な一段から百二十七段までの原文と丁寧な脚注、続いて解釈の手助けになる補注も設けている。さらに、後半部分に各段の現代語訳と付説をまとめて配置し、巻末には参考図表と丁寧に書かれた解説もある。

    つまり、純粋に原文のニュアンスを味わいたいという場合も、現代語訳の助けを借りて読んで楽しむという場合にも、これだけで足りるというのが角川ソフィア文庫の『枕草子』。一粒で二度美味しいということで、古典作品はビギナーズ・クラシックスを除いて原文と現代語訳を別掲載にしているのが角川ソフィア文庫の編集スタイル。これを不便という意見も見かけるけれど、古典の楽しみ方が選べるという点においてアリだと思う。

    さて、もう一つ良いと思うのが、この現代語訳。古典の現代語訳の見本というか雛型というか、余計な言葉が入っていない秀逸な文章。同文庫の『源氏物語』の玉上琢彌先生の訳も定評があるけれど、石田穣二先生の訳も最高。もし旧版の『枕草子』(松浦貞俊・石田穣二訳注:角川文庫)と比較できるなら、新版の現代語訳がいかに洗練されているかが確認できる。

    また、訳注者である石田穣二先生は、新潮日本古典集成『源氏物語』(全8巻)の校注も手掛けておられるのだが、こちらも秀逸。その造詣の深さと優しいまなざしが、この本の巻末に組まれた解説からうかがい知ることができる。極端な表現をすれば、この解説部分だけでも十分な価値がある作品だと言える。文庫本ながら、手放せない一冊。

  • 枕草子のお話が、1段から127段まで載っています。枕草子のお話を全部読みたいという方におすすめ。コンパクトサイズなので、どこでも気軽に読めます。

  • 清少納言好きー(*´▽`)

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