日本国憲法を生んだ密室の九日間 (角川ソフィア文庫)

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  • KADOKAWA/角川学芸出版
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  • Amazon.co.jp ・本 (445ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784044058067

感想・レビュー・書評

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  • 図書館の新着棚でしばらく前に見かけて、予約本のスキマに借りてきて読む。テレビドキュメンタリー「日本国憲法を生んだ密室の九日間」(朝日放送、1993年2月5日放映)※の取材をもとに書かれた本で、親本は1995年のもの。19年後に文庫化。

    「密室の九日間」とは、GHQの民政局で極秘裏に日本国憲法の草案が作成された九日間(1946年2月4日~12日)を指す。この短期間で草案作成が急がれた背景には、「天皇を戦犯にしろと主張する国々に代表を含め他極東委員会が、二月末に発足するというタイム・スケジュールがあった」(p.5)からで、さらにいえば日本政府が出してきた憲法草案があまりにも保守的に過ぎたからである。

    この番組のための事前調査の段階で、日本国憲法を執筆したメンバー25人のうち、7人が健在。うち6人と、その周辺の人びとにインタビューしている。ドキュメンタリーの取材と監修は五十旗頭真(当時、神戸大学教授)で、番組の締めの言葉として、こう語っているという。

    ▼「明治憲法は、伊藤博文はじめ、当時としてはそうそうたるメンバーを揃え、しかも長時間をかけて作られた。にもかかわらず、さまざまな問題を残した。松本案の内容から考えてみても、九日間で書かれたこの憲法が、その作成期間の短さをもって批判されることがあってはならない」(p.6)

    憲法草案作成の九日間に至るまでの背景として、この本では1942年にさかのぼる米国務省の対日占領政策の歴史にかなりの字数が割かれている(第3章)。この詳細については五十旗頭の『米国の日本占領政策』を参照するようにと示されている(『日本国憲法の誕生』の参考文献リストの中でも、この五十旗頭本は気になっていた)。

    GHQの民政局は、コートニー・ホイットニー(あの「atomic sunshine」云々を語ったという人物)を局長とし、局長代理のケーディスをはじめとして、日本研究の専門家が多数属していたという組織である。

    米国務省内で対日占領政策を立案していた知日派グループの中心人物だったというボートン博士は、どのような対日政策がよいと考えたかについて、このように語っている(これは1984年に日本分割占領案の番組取材でインタビューされたものだという)。

    ▼「憲法の文章を書き換えるだけでは、日本の政治体制を改めることはできない。それは、日本には法による統治よりも人による統治の歴史があるからで、日本人の考えを変える最も効果的な方法は、力によるやり方よりも道義的説得だと主張した」
     「それに日本人は、優れた外来文化を素直に学ぶ謙虚な一面も持っているので、民主主義の良さに触れるときっと砂漠が水を吸うように吸収するに違いないと考えた」
     その一例として、「薩英戦争の時、イギリスの軍艦にさんざんやられた薩摩の武士たちが、その翌日には、威力抜群の大砲を勉強するために軍艦に押しかけてきた」という話を愉快そうにされた。(p.95)

    ボートン博士は、日本の分割占領に反対したほか、天皇制を存続させつつ民主化すべきだと主張した人である。そもそも、アメリカの国務省内では1942年8月(パール・ハーバーから1年も経たないとき!)に、日本の戦後処理方針を研究するための極東班が設けられ、専門家が集められたというのだから、最後は神風の特攻まで突き進んだ日本政府とはえらい違いやと思う。

    「九日間」の2日目、2月5日には、憲法草案作成の重要な下敷きとなった文書SWNCC-228「日本の統治体制の改革」(=国務・陸・海軍三省調整委員会が承認した日本の憲法改正に関する米国政府の指針を示す文書)※に照らして、重要条項が議論されたという。

    SWNCC-228の文書は、最初に「結論」という見出しで占領政策の指針を示し、次に問題点を12の条項に分けて論じ、最後にポツダム宣言の一部と8月11日の日本降伏に対する回答文、さらにアメリカ合衆国の占領目的を掲げて結んでいる。
     「結論」には戦後日本のラフ・デザインが網羅されており、その「結論」の最後に書かれた文章が非常に面白いと、著者が引いている。

    ▼〈最高司令官が、さきに列挙した諸改革の実施を日本政府に命令するのは、最後の手段としての場合に限られなければならない。というのは、前期諸改革が連合軍によって強要されたものであることを日本国民が知れば、日本国民が将来ともそれを受け容れ、支持する可能性は著しく薄れるであろうからである。
     日本における軍部支配の復活を防止するために行なう政治的改革の効果は、この計画の全体を日本国民が受け容れるか否かによって、大きく左右されるのである。日本政府の改革に関する連合国の政策を実施する場合、連合国最高司令官は、前期の諸改革による日本における代表民主制の強化が永続することを確保するために、日本国民がこの変革を受け容れ易いような方法を考慮するとともに、変革の順序と時間の問題をも考慮されなければならない。〉(pp.118-119)

    「結論」の末尾には、「本文書は、公表されてはならない(This paper should not be released for publication. )」と書かれていて、こうした文書があったことを日本側が知ったのは、ずいぶん後なのだという。

    「九日間」のあいだに各条文が議論され、何度も書き直されたものも多い。『日本国憲法の誕生』でも私の印象に残った財政について、この本では著者がこう書いている。

    ▼この財政に関する草案で…(略)明治憲法の条項からカットされたもので目につくのは、
     〈憲法上ノ大権ニ基ツケル既定ノ歳出及法律ノ結果ニ由リ、又ハ法律上政府ノ義務ニ属スル歳出ハ政府ノ同意ナクシテ帝国議会之ヲ廃除シ又ハ削減スルコトヲ得ス〉
     という、戦前の日本人が、あの膨大な陸海軍の軍事費に悩まされ続けるもととなった第67条だけであった。(pp.252-253)

    「国家の内部が混乱した時には、絶対に強力な行政府が必要なことは、歴史が事実として証明しています」(p.266)という考えの持ち主だったエスマン中尉の話は、今のいま、内閣総理大臣の解散権の運用実態を考えると、はたしてどうなるのがよかったのか…と思う。

    ▼「…私が、内閣総理大臣に強い権力を持たせることを主張したのは、1930年代のヨーロッパの政治について、他の人たちよりよく知っていたからです。…(略)…
     (私が心配したような点は)第一次世界大戦後のフランスで、実際起こったことですし、困った事態になったのです。これは歴史が教えていることです。
     しかし、私の同僚たちは、ここにも書いてある通り、納得してくれませんでした。彼らは、強い立法府とそれに依存した行政府がいいと考えていました。私は彼らを説得できませんでした…」(p.267、エスマン中尉)

    人権条項の話のところは「絶え間ない警戒」の文言に強い印象を受ける。
    ▼エラマン女史の記録は、第三条は次のように修正されたとメモしている。
     〈この憲法が宣明した自由、権利および機会は、国民の絶え間ない警戒によって、保持されるものである。〉(p.287)

    ホイットニーが語ったというatmic sunshine云々、「原子の光を満喫した…」の箇所は、アメリカ側の表現ではこうなる。
    ▼〈10時10分にホイットニー将軍とわれわれ随員は、ポーチを出て、陽光の降り注ぐ庭に出た。ちょうどその時、一機のアメリカの軍用機が官邸の上を飛び去った。15分後に白洲氏がわれわれと合流したが、ホイットニー将軍は物静かな口調で、「私たちは戸外で、アトミック・エナジーの暖かさ(太陽の熱を指す)を楽しんでいるのです」と話しかけた。
     10時40分、白洲氏は二人の大臣との会議に参加するよう呼び戻された。そして数分後、準備ができたと告げにきて、われわれは再びポーチへ戻った。〉(2月13日付けのアメリカ側記録)(pp.324-325)

    ここは、著者がカッコに補っているように、太陽のあたたかさを楽しんだという意味なのか? マーク・ゲインの『ニッポン日記』や、その他いくつか読んでみたが、いまだに私にはよく分からない。

    2月22日には、松本国務大臣とホイットニーの会談がおこなわれ、日本側が出した条件のうち、二院制だけが認められた。同じ日の午前、幣原首相が皇居に参内、天皇にことの次第を言上する。裕仁は、<たとえ天皇ご自身から、政治的機能の全てを剥奪するようなものであっても、全面的に支持すると勧告された>(『日本政治の再編成』)という。このことを著者は次のように書く。

    ▼…つまり、GHQ憲法の受け入れについても、「ご聖断」があったのである。
     これを受けて、松本国務大臣は、いわゆる3月2日案といわれる、GHQ案をベースにした日本政府案の執筆にかかる。佐藤達夫法制局第一部長、入江俊郎法制局次長らをスタッフに3月11日を目処に極秘で作業を進める。
     ところが、総司令部から矢のような催促があったため、3月2日に一応完成した政府案を、日本語のまま3月4日に民政局に提出する羽目になる。(p.334)

    そこからは、日本案をすぐに翻訳させ、検討会議となった。
    ▼「…日本側とお互いに字引を見せあって、これでは、どうだろう。この単語はどうだ。といった調子で、いつ果てるとも知れない議論が続きました。そういえば〈people(人民)〉なんて単語も問題になりましたね。〈nation(国民)〉との関係はどうなるかということでね…」(ケーディス氏)(pp.334-335)

    憲法草案は4月17日に要綱から法文化する作業が終わり、草案と英訳が発表される。草案は、ひらかな口語体という画期的な文体となった。その日本語文のなかの用語をめぐっては、まだ民政局と揉めた。苦労して民主化の指針を出した以上、民政局側は日本の監視の手をゆるめなかった。

    著者は本文のさいごのほうで、憲法の改正を10年間禁ずるという条項を書いたプール氏の話 「日本がその後、チャンスがあったにもかかわらず、憲法を改正しなかったのは、当時からすれば思いもよらないことです。ですから、議会の推移はとても気になりました。日本の保守勢力をどれだけ消し去ることができるかが、日本占領に対する、世界からの評価になるわけですから」(p.352)を引いたあとで、憲法のなりたちや憲法改正についてあとがきでこう書いている。

    ▼…たとえばイギリス憲法が、被圧迫階級が、国王の専横をルールによって制限しようとしたところからスタートしたことを思えば、憲法は庶民の声を反映しなければならないことは、自明の理である。一方、アメリカ憲法すら、アメリカ・インディアンを除くアメリカ大陸に住む自由人(奴隷のこと)という表現があったし、黒人差別の修正条項も、制定百年後にしか生まれてこなかった。それらのことを考えれば、庶民は、たとえ民主主義という形式を持っていても、常に為政者に対し厳しい目を注ぎ、変更を要求しなければならないだろう。(p.369)

    そして、かつては軍国少年であって、憲法改正案要綱で「戦争抛棄」を見て驚いた世代であるという著者(1929年生まれ)は文庫版出版にあたって、その戦争抛棄という思想のルーツをこう書きとめる。

    ▼「フランス国民は、征服を行うことを目的とする、いかなる戦争を企てることも放棄し、かついかなる人民の自由に対しても、その武力を決して行使しない。」
     これはフランス革命直後の1791年のフランス憲法第六編の条文である。フランス国立公文書館の奥深く保存されていた原本は羊皮紙であった。…(略)
     戦争抛棄の憲法には200年を越える歴史がある。1791年の第一共和政の不戦憲法は2年で消え、57年後の1841年の第二共和政の前文に登場する。そして1875年の第三共和政で姿を消す。1916年第一次大戦がはじまり、毒ガスなど新しい殺戮兵器が生まれ、あの70万人の死傷者を出したヴエルダン要塞の攻防戦が展開される。誰が見ても、戦争は止めるべきと決意させる惨状であった。ドイツの悲劇的敗北によって、民主主義と人権を尊重したワイマール憲法が生まれる。その10年後、フランス外務大臣ブリアンが米国務長官ケロッグに提案、パリ不戦条約が生まれる。この提案に日本も賛同、最終的に85カ国が加盟する。有名な第1条。
     「条約国は、国際紛争解決のための戦争に訴えることを非とし、かつその相互関係に於いて、国家の破壊手段としての戦争を放棄することを、人民の名に於いて厳粛に提案する。」
     これを受けて1931年にスペイン、1935年にフィリピンに「侵略戦争の放棄」の憲法が誕生している。この潮流はファシズムによって破綻、第二次大戦の悲劇が起る。原子爆弾はその極限的兵器であった。その使用前の戦争中、国連憲章は6月26日の総会で発表されていた。
     「3、全ての加盟国は、その国際紛争を平和的手段によって、その国際平和及び安全並びに正義を危うくしないように解決しなければならない。
     4、全ての加盟国は、その国際関係に於いて武力の威嚇又は武力の行使を、如何なる領土保線又は政治的独立にたいするものも、国際連合の目的と両立しない他の如何なる方法によるものも、慎まなければならない。」

     戦後、日本国憲法誕生の少し前にフランスの第四共和政憲法をきっかけに、イタリア、韓国、ドイツと「戦争抛棄」或いは「侵略戦争の否定」の憲法が相次いで生まれる。
     日本国憲法第九条は、あの悲劇的戦争を二度と起こしたくないという世界的合意の中で世界の平和への潮流を生み出したとも言える。(pp.374-375)

    日本の憲法のこともさらに知りたいが、各国の不戦あるいは侵略戦争否定の憲法についても読み比べてみたい。この文庫、巻末の資料編に、日本国憲法、GHQ草案、SWNCC-228文書、ポツダム宣言、国連憲章の一部、大日本帝国憲法が収録され、憲法制定過程の年表も付いている。コンパクトな文庫だが、内容はつめつめ。

    (11/19了)

    誤字
    p.361 東条英樹、廣田弘毅らの… → 東條英【機】 [「條」は新字体で「条」と書くこともある]

    ※「日本国憲法を生んだ密室の9日間」DVD(テレビドキュメンタリーを再構成したビデオ)
    http://www.dkobo.co.jp/pb/constitution/v01ninedays.html

    ※SWNCC-228「日本の統治体制の改革」は、この文庫の巻末資料(pp.402-414)に、田中英夫訳『日本国憲法制定の過程』(有斐閣)よりとして、邦訳が収録されている。
    原文は、国立国会図書館の「日本国憲法の誕生」の資料サイトに掲載。
    http://www.ndl.go.jp/constitution/shiryo/03/059shoshi.html

    ※著者の鈴木昭典について、NHK放送文化研究所の「制作者研究<テレビ・ドキュメンタリーを創った人々>」
    【第5回】鈴木昭典(朝日放送)~同時代史を検証し記録する~(『放送研究と調査』2012年7月号)
    http://www.nhk.or.jp/bunken/summary/research/report/2012_07/20120705.pdf

  • 日本国憲法は占領軍の押しつけ憲法だと言われるが、まさにそのことを裏付ける本である。日本国憲法は、連合軍総司令部(GHQ)の民政局の中の朝鮮部を除いた行政部のメンバー25人がマッカーサーノートを元に九日間で書きあげた。そういうと、だからこの憲法は改正しなければならないという声が聞こえてきそうだが、占領後の日本をどうするかという案は連合国の間で早くから検討されていたし、マッカーサーがこのような性急な作業を命じたのにはわけがあった。その一つは、日本側の憲法草案が明治憲法観からいくらも抜け出ていなかったことである。日本側に任せてはおけなくなったのである。もう一つは、ぐずぐずしていると、天皇を戦犯にしようという連合国の極東委員会の成立が目の前に迫っていたからである。マッカーサーは最初天皇を戦犯にという考えをもっていたようだが、天皇と会見しそのことばと人柄に感銘したし、日本の統治には天皇が必要であることを認識し、憲法での天皇象徴化を目指していたのである。したがって、そういう条項を織り込んだ憲法を早急に書き上げる必要があった。一方、日本側の草案を見ると、当時の人々は天皇をまだ元首のように崇め奉っている。もちろん、中には先進的な草案を準備していたグループもあったが、その多くは明治憲法からいくらも出ていなかった。実際、豊下楢彦『昭和天皇・マッカーサー会見』を読むと、戦後長い間、天皇は吉田などの報告を受けるだけでなく、自ら元首に近い存在でマッカーサーと会見していたことがわかる。二重統治である。もし、日本政府の憲法案の方が通っていたらどうなったか。考えるだけで空恐ろしい。自民党の改正案はある意味、この改正案を継承しようとしているように思える。憲法の戦争放棄条項も急に出てきたものではなく、それまでのパリ不戦条約を踏まえたものであったし、多くの民主主義的な条項も民主主義とは何かを知らない日本人を教え導こうとするものであった。実際、日本人はこの憲法によって戦後の繁栄を勝ち得たし、人権意識も育ったのである。本書は、この民政局の人々の奮闘を、生き残った人々への取材を含め活写しようとしたものである。

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