- 本 ・本 (224ページ)
- / ISBN・EAN: 9784044075026
作品紹介・あらすじ
たとえば、生涯だれにも一度も呼びかけられなかったひとなどはいない。〈わたし〉は「他者の他者」として、他者の思いの宛先としてここにいる。〈わたし〉が他者の意識の宛先でなくなったとき、ひとは〈わたし〉を喪う。存在しなくなる。ひとの生も死も、まぎれもなく他者との関係の社会的な出来事としてある、そんな現代の〈いのち〉のあり方を、家族のかたちや老い、教育など、身近な視角からやさしく解き明かす哲学エッセイ。
感想・レビュー・書評
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死について考える哲学エッセイ。
死について考えても、客観的な答えは出ないので、自ら言い聞かせるような観念や言葉の選択という類の話であるという気がしている。つまり、その事を空想や伝承に頼るか、宗教に頼るかという違いはあるが、自分自身で信じ込めるような答えを見つけるしかないのだ。本書が、その答え探しのヒントを幾つか提供してくれる。
なぜ、他人を殺してはいけないか。なぜ、今まで、殺してこなかったのか。本書の問いの一つとして掲げられる。だが間違っている。人は、他人を殺してきたのだから。本書もこの問いには答えられないというが、同感だ。あらゆる生きものは他の生きものを殺さずには生きていけない以上、殺すことを否定することは、生、すなわちみずからの存在を否定することにつながるのだから、と。他人を殺さずには生きていけるかもしれないが、結局、他の生命を捕食して生きているのだ。それが生きるという事の必然である以上、自らの生にも、そのような覚悟をもつことは必然なのかもしれない。
つまり、我々は「循環」の一部である。
「労働」そのものがすでに緩慢な死であるという思索も本書で述べられる。これは、パスカルによる「死への気晴らし」の換言という気もする。始終、死と向き合って生きることには耐えられない。だから気晴らしに「労働」をするのだが、その行為は、既に緩慢な死のレールに乗り出しているようなものだ。だが、そう思うなら、気晴らしが出来ていないとも言える。しかしそれが正常であり、私たちは、完全な気晴らしなどできず、時々、死を思い出す。時々、死を思い出しては、落ち着かせるための言葉や観念を当てはめるか、また気を逸らして生きていくのだろう。
最近、知人が亡くなった。この人とは、深い付き合いではなかったが私とは信頼関係のある人で、少なくとも私は好意を感じていた。後日、その人が属していた会社を別件で訪れたが、その人がいなくなったことを忘れて、日常が過ぎている。そこには笑いもあったし、その人以降の世界も変わらずに続いていく。そうやって、一人、また一人と抜けていっては入れ替わり、集団の生活は続いていく。死とは何か。自分一人の人生で捉えても、ただの虚無感に苛まれるだけかもしれない。詳細をみるコメント0件をすべて表示 -
鷲田さんの本を通しで読むのは初めてかも。「死」やその周辺のテーマ(と鷲田さんが感じているもの)についての思索的なエッセイ集。ひとつの問いを深く掘り下げていく形ではなく書名についてバシッと鷲田さんの答えが出ている訳でもないので肩透かしをくらう人もいるかも。
鷲田さんの思索の方向性は今の自分にはむしろ傷を抉る感じもあったけど、それでもやっぱりこの人の言葉は優しいというか柔らかな感じがするしところどころでハッとさせられる。「死」という人生の究極の場面、事態について考え、自分をメタ認知することでやっと息ができる。そんなときもある。 -
鷲田清一氏の哲学エッセイ。
1章で寂しくなりつつある現代を表現し、2章で「いのち」・「幸福」をもとに死なないでいる理由を考察している。
プロローグで死について記載しているが、
『「死ぬ」ではなくて「死なれる」ことが〈死〉の経験のコアにある』、これにははっとさせられた。
現代の生命のあり方を身近な視点から分かりやすく問題提起し、解き明かしており、読みやすい。普段分かってるのに自分が全く意識していないことも多かった。-
2021/02/21
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鷲田清一さんの文章にふれるたびに
暮らしの中でご飯を食べているように
暮らしの中で音楽を聴いているように
暮らしの中に哲学があるような
そんな感覚がする
だから どこから読んでも
ひょいと 寄り添ってくれる
そんな感覚がとても心地よい -
[「生まれる」ということ]
自画像はなんでだいたい真顔なんだろうと薄っすら疑問に思っていたけど“わたしの表情は他者によって分節される”という一文に納得した。
表情は他者の鏡として存在して、あなたを含むふたり以上の単位になって初めてわたしという意識も生まれることになる。
「全ての悩みは対人関係である(アドラー)」も、対人関係においてしか意識が発生しないとすれば、悩むことが人間の特性だとも言えるかもしれない。
でも、このテーゼには胸が痛くなった。
それは、わたしという存在がいつまでも他者に振り回され続け、絶えず形を変えさせられることへの不安が原因している。
脆くて、儚くて、吹いたら消えてしまいそうな存在としての“わたし”が強く認識されるからだ。多分だけど、人はふたりぼっちにも耐えられない。ひとりとひとりでは、この薄っぺらな個人を、地に足つかせて、存在として規定できないからだ。
だから群れる。同調する。かぶれたり、何かしらに染まって、言動する。
個性云々の前に、そうやって同調し、群れる人間の醜さをわたしたちは、いやという程目にしてきている。
その結果、個性は幻想だとしても、自分を様々な情報でコラージュして、創作するようになった。これは、個人的な感想で根拠も私自身のわたし感になってしまう。
けれど、その段階では、他者をわたしの拠り所にしていると、いつも思わぬ形で危機を迎えることも知っている。
“〈わたし〉というものは、どのような他者のどのような他者でありえているかということになる”
他者によって限定されたわたしという存在もまた、他の他者を限定するけど、この他者と他者に挟まれたわたしというのが、なんでこんなにも苦しいのかの説明がこれではつかない。
だから、著者の定義する他者として、他者もわたしも機能していない。という仮説を立てて以降を読んでみたい。わたしが安心してわたしでいられるような心的安全性を与え、受け取るその、根本的な何かが損なわれてしまってはいないか?その何かとは何なのか?かつて、他者とわたしとして確立していた関係はあったのか?
もしかすると、わたしは生まれていないという可能性も視野に入れられるのかもしれない。(2023/12/13) -
生活のさまざまな場面において「老い」を意識するようになり、自分の人生の残り時間をカウントダウンし始めた時、この本に出会いました。図書館から借りて読んだのですが、改めて購入したいと思います。
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死なないでいる理由を確認しないと生きていくのがしんどいことがある。幸福とはなにか、なぜに幸福論なのか。読んで良かった。
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部分部分でとてもおもしろかったが
すごい難しかった‥ -
鷲田清一のエッセイは感情的に好きなので時々読む。そして泣く。彼の言っていることが一般に確からしく感じるということではなく、何か出口が見えてくるものでもない。でも「思いの宛先」の無い私は「さみしいね」「そうだね」という宛はないけど、何となく通じる他者とやりとりをしているような気になる。まあとにかく腹が立たない綺麗な文章を求めると鉄板定番って感じ。
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「死ぬ」ではなく、「死なれる」事が、<死>の経験のコア
今は、何かをする中で、ではなく、何かをする前に、自分にどんな個性があるのかを自問する時代。
ケア:一方が他方の世話をしながら見返りは求めない。一方的な搾取の関係。
家族の形は多様化している。婚姻の形にとらわれないペアや共同家族の存在。核家族を社会のユニットとは思わなくなっているが、住居の方は相変わらず核家族を前提に作っている。核家族に代わる社会的なユニットの可能性が見えておらず、定形を失った家族の多様なあり方をゆるやかに受け入れられる空間構成のモデルがない。
生老病死への対応、ほとんどすべてを外部サービス機関に委託するようになった近代家族は、生活過程を公共の機関に寄生させるホームレスとおなじ形態をとるようになっている。
死は、本人や関係者のイニシアティブの及ばないところで処理される出来事になってきている。
教育とは、人として生きる上で編み出したやむにやまれぬ知恵を世代から世代へと伝えること。
学級崩壊は、子供たちがみえなくなったわけでもなく、子供たちが荒れ出したのでもなく、教師の質が落ちたのでもなく、ここまで放置し続けてきたシステムn不具合がついに臨界点まできてしまった結果。同調性の高いクラスを解体して、不確かだが、生きる喜びと確実に結びついたパーソナルな営みとしての学びの方式を探る事が必要。
生きる上で最も基本的な出来事が最も見えにくい仕組み(汚物処理、精肉)
高齢化社会:仕事や子育てを終えてからの人生が長い、というのは人類が初めて経験する人生の段階
わたしのいのち、は、わたし、のものか、否。しかし、わたし、は、わたしのいのち、なしには存在しない。
いのちがつながりの中にあることをきちんと覚え込ませる日常生活の中の先人たちの工夫。いただきます、ごちそうさま。
かつては人は立ち止まって考えたが、現在はそれが難しい。走りながらでしか、時代に距離を置けない。孤独になれるのも、そういう時だけかもしれない。ぶらぶら歩きも難しくなって、今はぶらぶら乗り、が宝の時間。
著者プロフィール
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