死なないでいる理由 (角川文庫)

著者 :
  • 角川学芸出版
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本棚登録 : 392
レビュー : 33
  • Amazon.co.jp ・本 (222ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784044075026

作品紹介・あらすじ

たとえば、生涯だれにも一度も呼びかけられなかったひとなどはいない。"わたし"は「他者の他者」として、他者の思いの宛先としてここにいる。"わたし"が他者の意識の宛先でなくなったとき、ひとは"わたし"を喪う。存在しなくなる。ひとの生も死も、まぎれもなく他者との関係の社会的な出来事としてある、そんな現代の"いのち"のあり方を、家族のかたちや老い、教育など、身近な視角からやさしく解き明かす哲学エッセイ。

感想・レビュー・書評

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  • 死なないでいる理由を確認しないと生きていくのがしんどいことがある。幸福とはなにか、なぜに幸福論なのか。読んで良かった。

  • 鷲田清一さんの文章にふれるたびに
    暮らしの中でご飯を食べているように
    暮らしの中で音楽を聴いているように
    暮らしの中に哲学があるような
    そんな感覚がする

    だから どこから読んでも
    ひょいと 寄り添ってくれる
    そんな感覚がとても心地よい

  • 鷲田清一のエッセイは感情的に好きなので時々読む。そして泣く。彼の言っていることが一般に確からしく感じるということではなく、何か出口が見えてくるものでもない。でも「思いの宛先」の無い私は「さみしいね」「そうだね」という宛はないけど、何となく通じる他者とやりとりをしているような気になる。まあとにかく腹が立たない綺麗な文章を求めると鉄板定番って感じ。

  • 「死ぬ」ではなく、「死なれる」事が、<死>の経験のコア
    今は、何かをする中で、ではなく、何かをする前に、自分にどんな個性があるのかを自問する時代。
    ケア:一方が他方の世話をしながら見返りは求めない。一方的な搾取の関係。
    家族の形は多様化している。婚姻の形にとらわれないペアや共同家族の存在。核家族を社会のユニットとは思わなくなっているが、住居の方は相変わらず核家族を前提に作っている。核家族に代わる社会的なユニットの可能性が見えておらず、定形を失った家族の多様なあり方をゆるやかに受け入れられる空間構成のモデルがない。
    生老病死への対応、ほとんどすべてを外部サービス機関に委託するようになった近代家族は、生活過程を公共の機関に寄生させるホームレスとおなじ形態をとるようになっている。
    死は、本人や関係者のイニシアティブの及ばないところで処理される出来事になってきている。
    教育とは、人として生きる上で編み出したやむにやまれぬ知恵を世代から世代へと伝えること。
    学級崩壊は、子供たちがみえなくなったわけでもなく、子供たちが荒れ出したのでもなく、教師の質が落ちたのでもなく、ここまで放置し続けてきたシステムn不具合がついに臨界点まできてしまった結果。同調性の高いクラスを解体して、不確かだが、生きる喜びと確実に結びついたパーソナルな営みとしての学びの方式を探る事が必要。
    生きる上で最も基本的な出来事が最も見えにくい仕組み(汚物処理、精肉)
    高齢化社会:仕事や子育てを終えてからの人生が長い、というのは人類が初めて経験する人生の段階
    わたしのいのち、は、わたし、のものか、否。しかし、わたし、は、わたしのいのち、なしには存在しない。
    いのちがつながりの中にあることをきちんと覚え込ませる日常生活の中の先人たちの工夫。いただきます、ごちそうさま。
    かつては人は立ち止まって考えたが、現在はそれが難しい。走りながらでしか、時代に距離を置けない。孤独になれるのも、そういう時だけかもしれない。ぶらぶら歩きも難しくなって、今はぶらぶら乗り、が宝の時間。

  • 期待して開いただけに、最後まで読んでも「死なないでいる理由」の大した理由を得られなかったのが残念。新聞の掲載分を継ぎ接ぎしてある文章が多く、タイトルの壮大なテーマに対し、その回答である内容は小題が矢継ぎ早に変わり、とりとめなくようやく核心に迫ったかと思うと今度はまた別の話題へと移っていってしまう。もう少しテーマを絞り、深化させて欲しかった。

    孤独について、h.アレントさんのprivacyとは「他人によって見られ聴かれることから生じるリアリティを奪われる事」という言葉を引用しているのがおもしろい。その後、社会を織物に喩え、織物の組成の一要素であった筈の個々が途絶し浮遊した時孤立してどうしようもなく孤独になると説いていて、ああ、やっぱり、他方位、かつ多層に織り成すコミュニティに所属し、存在を認識される事が孤立感孤絶感から解放される道なのだとまたしても思う。

    それから、他者の死が何故これほどまでに堪えるのか、という問いには、何故なら私たちは他者にとっての他者である私、である時はじめて社会的に生きている、という事になるからだ、と説いており、更にそこから、そのいろんな他者にとっての他者である私、その集合として私がある。その為、他者の死とは、その亡くなった他者にとっての他者であった私の死でもあるから、これほどまでに堪えるのだ、と大体こんな感じのような事を説明しており、ああ、なるほど。やっぱり交友関係が狭い人はあっという間に孤絶するな、と思い怖くなった。

    仮に日頃10人の人と関わって生きて居る人が、そのうちの一人に死なれてしまう場合、その死は勿論堪えるが、残りの9人には依然私が生きて居る事は認められている。が、仮に人生で関係する人が1人しか居らない人の場合、この1人が亡くなると、もうこの人の存在、これまでの経験を認める他者は皆無となり、その人は忽ちそのまま社会的死を迎える。人生なかなか課題は多い。

    匂い立つような生々しい独特の表現や言葉遣いに、これが、鷲田清一が支持される所以で、この一見私小説かのようにも思える文章がこの人の魅力なんだろうナとも思った。

  • 過去の哲学者の引用を用いながら展開される幸福論と、身近なストーリーで語られる「生きること」や「わたし」。
    自分の今までの人生と重ね合わせて、そうかもなあ。と思うようなこともあり、この本で学ぶ。というより、この本で自分を振り返る。ことができる気がする。
    タイトルを見たときに想像していた内容とは違ったが、よしなんとか生きようかとかも思わなかったが、自分に閉じこもらないようにしようとは思えた。人としての成熟とは何か、幸福とは?、自分のいのちをどう考えるか?。理論武装でこうあるべし、と語らず、ある意味作者の頭の中で「これはこういうことかあ」と語られる文章に、ほっこりさせられた。てかこれが「エッセイ」なんだろうな。

  • タイトルがすごいし、結構好きな哲学者なので買ってみた。
    どうして、生きている理由ではなく、死なないでいる理由なんだろう?

  • 倫理学の話などは良かったのだが、読了後全然死なないでいようとは思えなかった。

  • 鷲田清一の本のなかでは最も好き。タイトルからしていい。
    いくぶん説教的で(そもそも彼のはそれほど嫌らしいものではないが)、ペシミスティックな態度がなくなっているわけではない。当然だ、思想や構えがそれほど簡単に変わってはたまらない。
    しかしながら、文体は丁寧だし、分析自体に奇矯なところはない。処方箋には同意しなかったり、対策のなさにため息をついたりすることもあろうが、認識を提供すること、言語化すること自体、重要な業績だろうし。

    読書メモ的になりましたが、こんな感じで。

  • 鷲田さんの、ずっと前から読みたかった本。
    むずかしい。追いつきたい。
    やはり鷲田さんの臨床哲学は、ひととひととの関係があるからこそ存在する学問で、鷲田さんの文章のやさしさはそこから来るんやろうなあと思う。
    ひととひととが支え合う、ケアについての部分が印象的でした。

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著者プロフィール

1949年京都生まれ。お寺と花街の近くに生まれ、丸刈りの修行僧たちと、艶やかな身なりをした舞妓さんたちとに身近に接し、華麗と質素が反転する様を感じながら育つ。大学に入り、哲学の《二重性》や《両義性》に引き込まれ、哲学の道へ。医療や介護、教育の現場に哲学の思考をつなぐ「臨床哲学」を提唱・探求する、二枚腰で考える哲学者。2007~2011年大阪大学総長。2015~2019年京都市立芸術大学理事長・学長を歴任。せんだいメディアテーク館長、サントリー文化財団副理事長。朝日新聞「折々のことば」執筆者。
おもな著書に、『モードの迷宮』(ちくま学芸文庫、サントリー学芸賞)、『「聴く」ことの力』(ちくま学芸文庫、桑原武夫学芸賞)、『「ぐずぐず」の理由』(角川選書、読売文学賞)、『くじけそうな時の臨床哲学クリニック』
(ちくま学芸文庫)、『岐路の前にいる君たちに』(朝日出版社)。

「2020年 『二枚腰のすすめ 鷲田清一の人生案内』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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