- Amazon.co.jp ・本 (224ページ)
- / ISBN・EAN: 9784044075026
感想・レビュー・書評
-
鷲田清一氏の哲学エッセイ。
1章で寂しくなりつつある現代を表現し、2章で「いのち」・「幸福」をもとに死なないでいる理由を考察している。
プロローグで死について記載しているが、
『「死ぬ」ではなくて「死なれる」ことが〈死〉の経験のコアにある』、これにははっとさせられた。
現代の生命のあり方を身近な視点から分かりやすく問題提起し、解き明かしており、読みやすい。普段分かってるのに自分が全く意識していないことも多かった。 -
鷲田清一さんの文章にふれるたびに
暮らしの中でご飯を食べているように
暮らしの中で音楽を聴いているように
暮らしの中に哲学があるような
そんな感覚がする
だから どこから読んでも
ひょいと 寄り添ってくれる
そんな感覚がとても心地よい -
鷲田さんの本を通しで読むのは初めてかも。「死」やその周辺のテーマ(と鷲田さんが感じているもの)についての思索的なエッセイ集。ひとつの問いを深く掘り下げていく形ではなく書名についてバシッと鷲田さんの答えが出ている訳でもないので肩透かしをくらう人もいるかも。
鷲田さんの思索の方向性は今の自分にはむしろ傷を抉る感じもあったけど、それでもやっぱりこの人の言葉は優しいというか柔らかな感じがするしところどころでハッとさせられる。「死」という人生の究極の場面、事態について考え、自分をメタ認知することでやっと息ができる。そんなときもある。 -
鷲田清一氏による哲学エッセイ。自己の存在、社会の在り方、幸福論などを軸に『死なないでいる理由』を語る。しかし『死なないでいる理由』が明確に解答として書かれている訳ではない。そのあるか無き輪郭をそっとなぞっているに過ぎない。人によっては肩透かしを食らったような気分になるかもしれないが、答えなのい問いを問い続けている事に本書には大きな意味があると思う。読んでいると、私がこれまで生きてきた事に不思議な感慨を持った。良く言われる事ではあるけれど、人は決して独りでは生きられない。それを本書は様々な切り口で語っているのだが、中でも『死ぬとわかっていて、なぜ人間は生けてゆけるのか』との問いにはっとさせられた。明確な答えは本書には書かれていない。自分でじっくりと考えたい問いである。
-
生活のさまざまな場面において「老い」を意識するようになり、自分の人生の残り時間をカウントダウンし始めた時、この本に出会いました。図書館から借りて読んだのですが、改めて購入したいと思います。
-
鷲田清一のエッセイは感情的に好きなので時々読む。そして泣く。彼の言っていることが一般に確からしく感じるということではなく、何か出口が見えてくるものでもない。でも「思いの宛先」の無い私は「さみしいね」「そうだね」という宛はないけど、何となく通じる他者とやりとりをしているような気になる。まあとにかく腹が立たない綺麗な文章を求めると鉄板定番って感じ。
-
タイトルがすごいし、結構好きな哲学者なので買ってみた。
どうして、生きている理由ではなく、死なないでいる理由なんだろう? -
鷲田さんの、ずっと前から読みたかった本。
むずかしい。追いつきたい。
やはり鷲田さんの臨床哲学は、ひととひととの関係があるからこそ存在する学問で、鷲田さんの文章のやさしさはそこから来るんやろうなあと思う。
ひととひととが支え合う、ケアについての部分が印象的でした。 -
ひさしぶりのわっしぃ本。
ふつうおもわれているのとは反対の地点からものごとを考えてみること。
このことが本書では貫かれている。
タイトルからして、「生きている理由」ではない。
プライドについて語る件でも、「自助努力とそこから帰結する立派な達成によって自分に自信を持て」という陳腐な啓発本のような語り方はもちろんしない。
実は知らず知らずのうちに盲目になってしまっているわたしたちの、目隠しを外す手助けをそっとしてくれる。
いつもそんな語り口のわっしぃがわたしはとても好きなのだ。 -
単行本で同じ本を読みましたが、文庫版は内容がさらに練られ、テーマへの絞り込みも効いています。他者との関係で自分の存在を知るアプローチは受け入れやすく、広く薦められる内容です。ただ、猛毒を以て救済するようなものでもなく、そのような語り口でもないですから、人により多少、物足りないかもしれません。
たしかに自分が認知できる死って自分以外の誰かの死だけなんやなあ
たしかに自分が認知できる死って自分以外の誰かの死だけなんやなあ