無心ということ (角川ソフィア文庫)

著者 :
  • 角川学芸出版
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本棚登録 : 255
レビュー : 17
  • Amazon.co.jp ・本 (239ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784044076016

作品紹介・あらすじ

「無心」とはどのような意味か。無心を東洋精神文化の軸と捉える大拙が、仏教生活の体験を通して、禅、浄土教、日本や中国の思想へと考察の輪を広げながら、その宗教的意味を明らかにする。浄土教、親鸞の研究にも優れた業績をあげる大拙は、本書で禅と浄土教を結び付けた独創的な禅浄一致の思想を巧みに展開させながら、誰もが知っておきたい、宗教的考え方の本質を爽やかに解き明かしている。

感想・レビュー・書評

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  • 鈴木大拙先生の講演録。
    改めて彼の生きた時代といふものを見ると、それは決して最近のひとではないといふことに改めて気づかされる。養老孟司、吉本ばなな、Azuki七、松村栄子、宮崎駿、池田某、永井均、なだいなだ、福田恒存、小林秀雄、宮沢賢治、一休宗純、ブッダ、どこか綿々と続く精神の大きな働きの中にゐるやうな気がしてならない。かうして言葉は、普遍的な精神は誰かが死んでもどこかでまた息づいて生まれるのだと思ふ。生命の明滅を眺めてゐるそれは、本当に時間から垂直に立ち上がつてゐるやうだ。
    無心といふこと。考へないで本能の赴くままではない。何かを感じないことではない。ないといふことさへ言えない、ことばの尽きる場所に一度落ちてゆく。さうして在ることしかできないといふ端的な事実。自分といふ存在が最初になければ何も存在しないこと。けれど、その在るといふことが言えるのは裏返せば、ことばに決してなりえない存在しない何かがなければ言えないといふことに気づかされる。生と死は確かに正反対で混じりあうことのない、けれど、どちらもただのことばでしかない。そのことばがそのことばたりえる何かがやはりなければ、ことばは存在できない。すべては釈迦の大きな掌の上だつた。弥陀が望んだことなのだ。あるいは、自分で望んだから、この世に生まれてきてしまつたのだ。
    一周廻つてこの自分が点となる。存在しないのに、確かに存在する。流れているのに流れてゐない。
    存在するから信じるのではない。存在とは何か疑ひ尽くして、みると存在を信じるより他ないのだ。自分と他人は確かに異なる。けれど、やつぱり他人も自分と同じやうに何か思ひ考へてゐると思はざるを得ないのだ。とんでもない矛盾であるが、どうもさうなつてゐるとしか言えない。矛盾が笑えてきて仕方ない。

  • 鈴木大拙はやはり難しい。
    単語と言葉の定義が分からない。
    でも読む。

  • 「何といっても仏教の基礎は心理学にある。もとより世間でいう自然科学的心理学ではないが。
    ちょっと見ると、哲学のようにも、認識論のようにも、また、いわゆる「神学」のようにも見えるかもしれぬが、仏教の本領は心理学にある、超絶的または形而上学的心理学とでもいうべきところにある。
    これが本当にわかると、仏教は神秘主義でもなく、知性主義でもなく、また汎神論的でもないことが認識せられる。」

    エラノス会議にも出席していた鈴木大拙が、ユングとどのような会話を交わしていたのか。
    想像が膨らみます。

  • 再読熟読の必要あり。

  • 2014年12冊目

  • 鈴木大拙の文章は言っていることが難しく、なかなか読めなかったが、やっと読めた。大拙は「無心」を禅だけでなく、東洋の宗教観に独特のものだとしている。禅への言及も多いが、老子や「四時行われ百物生ず」(『論語』)などに言及し、日本の心学とくに石田梅巌のあとをうけた手塚堵庵などに精しい。また、浄禅一致の思想を展開している所も本書の特色であろう。禅僧が棒で打つのは叱るのもあるが、褒めるのもあるらしい。どうも棒はコミュニケーションの道具なのである。弟子が問い、師が答え、弟子が礼賛する。そして棒である。これを浄土教に翻訳すると棒にあたるのが「南無阿弥陀仏」であるそうだ。「無心」は木石のように無作為になることではあり、倫理や社会を否定する非常に危険なものではあるが、それだけではなく、風が家を倒すような物理的無心とも、虎が人を食っても平気な本能的無心とも異なる。人間が道徳を失わずに意識の集中によって意識が無意識に転ずるのが宗教的「無心」であるらしく、また、「無心」は静的なものではなく、動的で活動的なものだそうである。『碧巌録』の「独坐大推峰」、「三種病人」などの公案にもふれている。浄禅一致は明末思想でもテーマであるが、大拙の論を読み、少し分かるような気がする。

  • 禅の世界において、国内外を問わず著名な鈴木大拙さんの一冊ですが、その内容を理解するのは容易ではありません。1回読んだだけでは10%ですら理解出来なかったというのが、個人的な感覚。けれど、決して面白くない訳ではなく、禅の世界を体得するにつれ、本書の面白みも分かるようになるんだろうと思う。

  • 先日、金沢の鈴木大拙館に行ってその佇まいに感銘を受けて、早速売店でこの本を買ってきた。「禅」とか、名前のついた型みたいなのにはあまり興味がないので、いちばん無形っぽい、汎用性ありそうなタイトルを選んできたのですが…。
    たぶん一生「いま読んでる」ステータスのままになる予感。なぜって、書かれてる内容が理解ができないから! 言葉面で「読める」部分はあるんだけど、体感覚に落ちないというか、うーん、「理解」できているとはまったく思えないっす。なので、★二つ評価は、本への評価というよりも、私の理解度がそれだけ低いという証明です。
    無心というのは、いろんなことから自分の心を遮断するのではなく、全部受け容れてしまうことだ…というのはわかった。でも、「で、なぜそうなりたいの?」と思っちゃうところがダメなんだろうな私は。

  • 挫折・・・

  • 2011.05.14 読了。
    全然解らなかったよ…(涙)

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著者プロフィール

1870年、石川県金沢市に生まれる。本名、貞太郎。1891年に上京後、鎌倉円覚寺の今北洪川、釈宗演に参禅。1996年の蝋八接心で見性。1997年より米国でオープンコート社編集員となり、1909年に帰国。学習院教授、東京帝国大学講師を歴任。1921年大谷大学教授となり、The Eastern Buddhist Societyを設立。禅や浄土系思想を発信する拠点とする。その後、米英の諸大学で禅と日本文化についての講義を続ける。1949年、学士院会員となり、文化勲章を受賞。1966年、没。

「2021年 『真宗とは何か』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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