唯識とはなにか 唯識三十頌を読む (角川ソフィア文庫)

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  • KADOKAWA/角川学芸出版
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  • Amazon.co.jp ・本 (240ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784044089153

作品紹介・あらすじ

唯識仏教の大本山、奈良興福寺の貫首が、身近な例を用いつつ、心のしくみや働きに迫りながら『唯識三十頌』を易しく解説。日常の己をみつめ、よりよく生きるための最良の入門書。『唯識 こころの哲学』を改題。

感想・レビュー・書評

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  • 20200919
    逆のものさし思考から深掘り、阿頼耶識の静謐なる神秘に浸る唯識仏教世界に入門するの書。何かを掴めるかどうかよりも、問いを立て、身体と心を動かし、声を聴く。末那識の「無意識の自己中心性」に心の眼を向ける。第六意識の鍛錬により、煩悩を制し真如を憧憬する。ただひたすら、静かにひたむきに身体の声を聴き、我が家に還ろう。

    ー「実我実法」我: 常、一、主宰、法: 任持自性(にんじじしょう)、軌生物解(きしょうもつげ)、自性を任持し、(その)軌、物解を生ぜしむ。つまり、我とは、常に存在する一なるものであり、さまざまなはたらきを主宰するもの。また、法とは、他にはないそれ自身の特性をもっていて、その自性ゆえに、認識の対象となって一定の理解を生じさせるものです。しかも、これらは不変で実体として有る。

    ー仏教の空の思想は、こうした実我実法が導き出す不変で実体的なもののスガタ、あるいは、外界は実在するのだという根強い考え方を、真実のスガタを捉えていないと真っ向から否定します。すべては流転し生滅するものとして考える。あるいは、刹那に滅するものとして捉える。それが「空」の考え方です。まさに「一切皆空(一切は皆、空)」こそ、この世の真実のスガタです。

    ー空の虚無性を脇に押しやり、同時に、実有を否定するのが、「三十頌」冒頭の、第一頌1「仮に由って我・法ありと説く」です。自分も自分をとりまく状況も、さまざまな要素や条件(因・縁)が一時的に和合して有る。そういう仮有(けう)の存在です。すべては刹那滅なのですが、縁が欠けず一定の条件が保たれたならば、前滅後生して次刹那に相続されるわけです。こうして多刹那にわたって、ともかくも存続すれば、人情としては、そこに不変の実在を認めたくはなります。しかし、こうした存在も仮有の相続であって、もちろん変化の中のことがらです。(種種の相、転ずることあり)

    ー識の所変: 認識の主体(自体分)が、見るもの(見分)と見られるもの(相分)とに変化する。この認識の対象を境(きょう)という。主客二元論ではなく、どこまでも心の中の問題として捉える。

    ー「変とは謂わく、識体(自体分)転じて二分(相分と見分)に似(の)る。その二分に依って我・法を施設(せせつ)す。」(「成唯識論」)

    ー所変の境を能変するもの(識体): 異熟識、思量識、了別境識の三種。これに、本識と転識、表層心と深層心の多層構造が加わる。

    ー初能変・第八阿頼耶識、異熟識、一切種子識(いっさいしゅうじしき)、サンスクリット語でアーラヤ、蔵識。本識、深層心。あらゆる業を記憶しアーカイブし相続する蔵。

    ー身・口・意の三業: 身体的動作をともなうもの、ことばによるもの、心中の思いや心に広がるイメージ。

    ー種子生現行(しゅうじしょうげんぎょう)、現行熏(くん)種子、三法展転(さんぽうちんでん)、因果同時

    ー唯識の行為論・行動論には、こうした言い訳のきかない・ごまかしのきかない・すり替えのきかない厳しさがあります。一たび行ったことは、どのようなものであろうとも、他ならぬ自分が背負っていくしかない。

    ー「不可知の執受処(しゅうじゅしょ)」執持(しっじ): 種子を保持する・過去の行動情報、受領・覚受: 有根身(うこんじん、肉体)を支え、維持する、器界: 自然・自己を取り巻く環境

    ー遍行(あまねく行われるもの、およそ心が動くときは必ずはたらくもの)の五心所: 「触(そく)」心を認識対象に接触させる、「作意(さい)」心を起動させる、「受」認識対象を、苦または楽、あるいは、そのどちらでもない(無記)と受けとめる、「想」受けとめたものを自己の枠組みにあてはめる、「思」認識対象に具体的にはたらきかける。

    ー阿頼耶識は捨受する: 無覆無記、善性・悪性の何れもを否定しニュートラルな状態

    ー能蔵: 持種の義、所蔵: 受熏の義、執蔵: 我愛縁執(があいえんしゅう)の義、阿頼耶識は第七末那識に実我と誤認され愛執されるので、「執蔵」の意味がある

    ーごくおおまかにいえば、初能変は「他ならぬ自分の過去」、第二能変は「無意識の自己中心性」、第三能変は「能力などの個体的条件や関心の有無、問題意識の濃淡」によるものです。それらを通して描き出される世界は、まさに一人一人違います。

    ー煩悩の四心所: 我癡(がち、無明、愚癡、すべてのことがら、とりわけ自分の本来のスガタを知らない、ものごとの道理に暗く、迷うこと、愚かさ)、我見(自分を実体視する)、我慢(とにかく自負して他者をあなどる)、我愛(実体視した自我に愛着する)

    ー貪瞋痴の三毒煩悩: 貪欲(とんよく、むさぼり)、瞋恚(しんに、いかり)、愚癡(ぐち、無明・おろかさ)

    ー「余」の内容として計九心所。 随煩悩: 不信(真理に身心を委ねない)、懈怠(けだい、なまける)、放逸(欲望のままにふるまう)、失念(正法を忘れる)、散乱(集中を欠く)、不正知(ふしょうち、誤った理解)、掉挙(じょうこ、異様に浮き立った心理)、惛沈(こんじん、異様に沈んだ心理)、及び、別境の心所たる「慧」(択び分ける)

    ー三界: 欲界(欲望がうずまき、争いが絶えず、物に惑わされる世界)、色界(欲望を離脱して、清らかな物に恵まれた環境)、無色界(もはやそうした物さえも超越して、一段と昇華された清浄な心だけの世界)。また、欲界には、地獄・餓鬼・畜生・修羅・人・天という生存形態がある(六道、修羅を除いて五道、五趣とも)

    ー真善美 vs 偽悪醜

    ー六位五十一心所

    ー第六意識の作用はほとんど止むことがなく、対象の一切法を了別します。そのはたらきは、万境を広縁する、といわれるほどです。感覚である前五識の認知は現量、つまり、ただ現在をそのまま知るだけですが、意識は対象を比量し非量する。つまり、他との比較や推測を交えるなどして、その認識をより確かなものにする一方、誤認もする。意識は現在のみならず、過去の記憶と照合することも、未来を予測することもできるわけです。

    ー「仏法の大海は、信をもって能入となす」(龍樹菩薩)

    ーいかなるか信となす。実と徳と能とのうえに深く忍し楽し欲して、心を浄ならしむるをもって性となし、不信を対治し善を楽うをもって業となす(「成唯識論」)

    ー七慢: 慢・過慢・慢過慢・我慢・増上慢・卑慢・邪慢

    ー劣において己が勝を計し、あるいは等において己が等を計して、心、高挙(こうこ)なるを性となす(「大乗五蘊論」の慢の定義)

    ー「随眠」仏道の障害となる煩悩・随煩悩の心所は、これを意識下の第八阿頼耶の中で眠りに随わせておこうではないか。(中略)端的にいえば、私たちの当面の仕事は、この文字通りの意味での随眠の実行でしょう。そのためにも、善と別境の心所を意識下から表面心に浮かび上がらせ、これを躍動させる。そして、そのことによって不善心の現行を制すことに尽きます。(中略)このままではいけないと反省し、生活態度を改めようと試みるのも、そして、実を信忍し、徳を信楽し、能を信欲するのも、すべて第六意識の自覚にかかわることだからです。

    ー「諸法は皆、心の変作なりと説けども、あたかも影に向かって憤喜をなすがごとし」(鎌倉時代の唯識の巨匠・貞慶「愚迷発心集」)

    ー「多くの人は、見たいと欲する現実しか見ていない」(カエサル)

    ー依他起(えたき): 他(の衆縁、さまざまな縁)に依って生起するもの

    ー円成実(えんじょうじつ): 円満に完成された真実の世界、私たちが真に求めるべき世界

    ー「ゆく河の流れは絶えずして、しかも、もとの水にはあらず。よどみに浮ぶうたかたは、、かつ消え、かつ結びて、久しくとどまりたる例(ためし)なし」(「方丈記」)

    ー「春の朝(あした)に花をもてあそぶの人、夕には北芒の風に散り、秋の暮に月に伴いしの輩(ともがら)、暁には東岱の雲に隠る」(貞慶「愚迷発心集」)

    ー遍依円の三性: 遍計所執性・依他起性・円成実性、依他起はさまざまな縁の一時的な和合であり【仮有】。この「事実」に対し、手前勝手な思い計らいを加え、かつ執着の対象にして、実有と妄信する【妄有】。結果として円成実性という真実【真有・妙有】を見失う人間の在り方。

    ー三性を空の視点からみると、遍計所執性に対し「相無性」、依他起性に対し「生無性」、円成実性に対し「勝義無性」の三無性となる。有の視点にも空の視点にも偏らない中道を明示したのが、諸法の勝義であり、真如・常如、「唯識実性」という

    ー資糧(仏道の歩みを資ける糧): 代表的なものは、六波羅蜜(布施・持戒・忍辱・精進・禅定・智慧)や、四摂事(ししょうじ、布施・愛語・利行・同事)

    ーそうした世界(唯識実性、真如の世界)を憧憬し、たとえ一歩なりとも近づくのだと志せば、私たちもまた、唯識学修の菩薩に他なりません。そして、その立場に立ったならば、自他や主客という二元対立、あるいは、善悪や美醜、新旧や利便性の有無なぞという比較相対を乗り越え、日常とは明らかに異なる、まったく新たな世界を模索することになります。その要点をいえば、ものごとをこまごまと分別し、対象化して知ろうとする識のはたらきを依りどころにするのではなく、大きく包括的にものごとを捉え、その本質を洞察する智慧の輝きに期するということでしょうか。

  • 世親が遺した聖典『唯識三十頌』をテキストに、唯識思想を丁寧にわかりやすく解説している。テキスト自体がよくまとまっている上に、著者による解説も懇切丁寧。この本自体の編集・構成も、読者が理解しやすいようによく配慮されていると思う。

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著者プロフィール

1947年、奈良県生まれ。立命館大学文学部心理学専攻卒。2019年まで約30年間、奈良にある法相宗大本山興福寺の貫首を務めた。現在は寺務老院(責任役員)。帝塚山大学特別客員教授。世界遺産でもある興福寺の史跡整備を進め、江戸時代に焼失した中金堂の再建に尽力した。また法相宗の理論である「唯識」の研究に努め、著書に『唯識入門』『奈良 風のまにまに』(ともに春秋社)や『甦る天平の夢 興福寺中金堂再建まで。25年の夢』(集英社インターナショナル)、『仏像みる、みられる』(KADOKAWA)などがある。

「2021年 『愛蔵版 心に響く101の言葉』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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