春風夏雨 (角川ソフィア文庫)

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  • KADOKAWA/角川学芸出版
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  • Amazon.co.jp ・本 (224ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784044094652

作品紹介・あらすじ

「生命というのは、ひっきょうメロディーにほかならない。日本ふうにいえば“しらべ”なのである」科学から芸術や学問まで、岡の縦横無尽な思考の豊かさを堪能できる幻の名著。待望の復刊!解説:茂木健一郎

感想・レビュー・書評

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  • 立ち還る時には、岡潔に限る。

    ●以下引用

    人の情緒は固有のメロディーで、その中に流れと彩りと輝きとはある。そのメロディーがいきいきしていると、生命の緑の芽も青々としている。そんな人には、何を見ても深い彩りや輝きの中に見えるだろう。


    【キリスト教・讃美歌】
    天つ真清水受けずして
    罪に枯れたるひとくさの
    栄えの花はいかで咲くべき
    そそげいのちの真清水を

    メロディーの彩りをとってくるのは、そんな三次元的な世界からではない。「過去心不可得、現在心不可得、未来心不可得」の世界、無差別智の大海の中からとってくるのだ。


    このメロディーが生命なのだから、生命は肉体が滅びたりまたそれができたりといった時空のわく内の出来事とは全く無関係に存在し続けるものなのである。

    メロディーだから、中心が把握できればどこにでも応用できるのだといえよう。諸葛孔明の「時務を知るを駿傑となる」ということばも、ここのところがわかったら時と場所とに応じて、活用できることを物語っているといってよい。

    土井晩翠/
    閑雲野鶴空闊く
    風に嘯く身はひとり
    月を湖上に砕きては
    ゆくへ浪間の舟ひと葉
    ゆふべ暮鐘に誘はれて
    訪ふは山寺の松の風

    自分の心の琴線を思うままにかき鳴らしてそれにじっと聞き入っている、そんなふうな勉強ぶりを、いかにもほうふつとさせる。

    「わかる」という言葉をここで説明しておきたい。言葉でわかっても仕方がないので、西郷と勝海舟が黙って向かい合って坐っただけでわかったというのが、本当の分かり方なのだ。

    細かくわかるのにもいろいろあって、張良は身体全体でわかるのという行き方、つまり「体得」である。孔明はむしろてのひらに乗せてみせるやり方、いわば「覚」というのに近い。

    わかるというのは大宇宙がそれだけ広くなることである。いったんわかったら何を見てもわかるものなので、たとえば俳句を見てわかるといえば、だれの句はわかるがだれの句はわからないということはなくて、みなわかる。しかも、いつの日からかわかるようになったのである。まことに不思議だが、それをだれも不思議とは思わないようである。

    漱石が「午前中の創作の喜びが午後の肉体の愉悦になる」といっているのも、このつながりを指したものといえる。修行が肉体や心の各部分の喜びになるとして、これを「諸根悦予」と表現している。そのほか、すぐれた本を読んで感激するなど、感激のとり方はさまざまであるが、こうして生きがいを感じて生きている人の顔色は生命に耀いて見える。それは健康の彩りとは別種類のものなのである。

    人のは見えても、自分のは決して見えない。このこと自体が無明の働きなのであって、無明の本当の恐ろしさはここにあるといえる

    あれではピカソの絵におさえられてしまうだろう。私の好きなセザンヌの「水浴」だってピカソの横に置くには力が足りない。美というものは位の高さなのであって、働きの強さではないからである。

    ピカソの絵は美を描いたものとはいえない。ここには芥川龍之介のいう「悠久なものの影」は見当たらない。しかしすぐれた人の文化的な作品には違いない。

    菩薩になれるかどうかは、何を念願としているかで決まる。はじめから『願』がちがうのだ。この「願」のために、あれをやって失敗し、これをやって失敗し…という生き方でなければ菩薩にはなれない。

    無明をしりぞけながら進むのが「生きる」ということなのだ。生命力は無明から来ているのではなく、むしろ無明によって邪魔されているのである。

    私はこれまで、ものの欠点を探すという意味での「批判」はきらいだといって来たが、欠点を探してはいけないなどといわずに、文化の現状を正視して、いけないところを指摘し、消え去るのは、非常に大切なことではないか

    悪いものをみつけて指摘するだんになると「大将師直いずくにか。彼のこうべを取らずんば、再び生きて還るまじ」と勇気りんりんとしてくる。「徹底的につきつめてやるぞ」という気持ちである


    これではない、これでもないと、しりぞけてしりぞけて本当のものを追い求めてゆくのだ。

    実に細かいところまで目が見えるから答えられなかったのである。

    芥川が最も恐れたのも、このマンネリズムであった。ある人は、数学を上達するには、習うより慣れよだといっているが、もってのほかだと思う。習熟させるという学習方法は私の最もきらいなやり方である。本当のものはそんなところにはない。生命がぴちぴちしている間でなくては、決してつかめないものなのだ。

    本当に求める人なら宗教をすら突き抜けてしまう。一元的な絶対を求め続けて、永久にそれに合致することがない。

    このように、自分を意識しなくても相撲はとれる。自分というものは、抑止して消すことができるものだといえる。してみると自分というものが本来あるのではなく、自分というものがあると思っていることがあるだけだというものが正しいように思われる。

    数学の研究に没入している時となると、もっと奥へはいる。こんな時に声をかけられても、もじゃもじゃいっているとしか聞こえないだろう。判断が働かないから、響きと聞こえるだけで、意味はわからない。

    外界と私との交渉は、判断の前で断ち切られている

    私は大学を出てから四十年近く数学の研究をつづけているのだが、どのようにして数学をして来たかをひとくちにいうと、自我を抑止することによって大自然の無差別智の働くにまかせたのだといえる。

    いまの日本の教育のやり方は、判断は快・不快によってせよといっている。ところが、この不快感であるが、たとえば便所の臭気、街を走る車の騒音、チクリ、チクリ、チクリと少し間を置いて軽い痛みが長く続くたっめに起こる歯痛、胃痛などの堪え難さ、不作法な客と長く対坐している時に起こる堪え難さ、これらはいずれも自我が感じる嫌悪感であって、自我本能を抑止して自我さえ消し去れば、ごく簡単に消えてしまう

    快、不快ではなく、心の悦びの有る、無しが基準になる。そして心の悦びは自我を消し去る程度によって違う。

    まさしく修羅道的情景である。身体にたとえると、温い血が全く通わないのだから、ひどい心臓病といえる。心の悦びが感じられないのは、なるほど当然である。

    近ごろの中学生は先生に親しみを持たない。生徒相互も少しも親しみを持ち合わない。各人が孤立して競争し合っている

    人の持つ最高のものである愛と誠実を以て、長期間にわたって接し続けるほかないのではなかろうか

    よい家庭がつくりたければ、それこそ「ファイトと忍耐とによって」自我本能を抑止し合わなければならない。これを続けていると、二人を隔てている自他の別がだんだんとれていく。これは、あると思いこんでいるために仮りにあるにすぎない隔てなのだから、二人共そうし続けておれば、だんだんとれていくに決まっている。

    海岸には高いヤシの木が、一本二本ななめに海に突き出ていて、ずっと向うの方に床の高い土人の家が二散見あるだけの景色だった。私は寄せては返してうまない波の音に、聞き入るともなく聞き入っていたのだが、不意に何とも名状しようのない強い懐かしさの気持ちにひたってしまった。これが本当の懐かしさの情なのだといまでも思う。

    数学の本質は禅と同じであって、主体である法(自分)が客体である法(まだ見えない研究対象)に関心を集め続けてやめないのである。そうすると客体の法が次第に姿を現してくるのである。姿をあらわしてしまえばもはや法界の法ではない。

    法が法に関心を集め続けてやめないの情緒の中心の働きだと思う。そうすれば終いには客体の法が主体の衆生の「心窓の中に入る」のであるが、これは大脳前頭葉の「創造」の働きである

    大体二年間くらい関心を集め続けるのであって、そうすると一つの論文が書けるのである。長期にわかって関心を集め続けると、情緒の中心は、生理的に大変疲れるらしい。世にいう「しんが疲れる」というのはこれであろうと思う。こいうことをした後は少なくとも二月くらいは休まなければいけない。

    答えがわかるというのは、当然自分にわかるという意味であるから、以前のように験算はやらせた方がよい。

    法に精神を統一するためには、当然自分も法になっていなければならない(主宰者の位置は客体の所にあるのだから。そうすると当然「自他の別」を超え、「時空のわく」を超えることになる)そうするといわば内外二重の窓がともに開け放たれることになって

    狭い社会という所に閉じこもっている人たちの中には、ずいぶん井戸の中の蛙が多いだろうと思う。こういう人たちは少し禅でもしたらどうであろう

    (良寛の書を観て)何だかこせこせした心の中のもやもやが吹き払われて、心が段々清々しくなり段々ひろびろして行くような気がする。

    壁の高い所に能面が一つ懸てあって、下にその能面を入れる箱が描いてある絵がある。壁の広い空間が、充実しているように感じるから不思議である。

    宮本武蔵の絵を見たことがある。実によく描けている。

    芦屋の光明主義聖堂へ行って、五日間の別時念仏をすると、誰でも三日目には庭の木々の彩りや輝きが平素とは全く違って来ていることに気付く

    情趣であるが、これは人によってわかる深さがまるで違うようである。そして深さに限りがないと思う

    新善美妙がわかるのは、一口にいえばもののよさがわかるのである。もののよさがわかるかを調べようと思えば、非物質間による外ないのである

    深い悲しみは、もしすなおにこれを受け入れるならば、非常にその人を深めるものである。わたしは高村光太郎の彫刻を見たが皆非常によい。分けても「裸婦座像」や「白文鳥」は自然のわくを超えていて、深い大自然の愛が全体ににじみ出ている。深い悲しみの体験を持つことは、芸術家にとって非常に恵まれたことである。

    坂本さんの絵は、聞くとおりならばハッキリ自然のわくの外に出ている。この人の体験したのは長い苦しみにである。長い苦しみも、深い悲しみのように、その人を深めて、時空のわくから解放する力を持っているのであろう

    一人の洋画家がある。何を描いても赤を基調に描いてしまうし、自分の服装もそうなのだが、近ごろその変わった絵が不思議によくなって来た。その人は以前は女性に対して全く放埓で、奥さんは全く捨てて顧みなかったのだが、近ごろその奥さんが重病にかかったので、その人は初めて驚いて、家におとなしくしている。絵が急によくなったのはそのためだろう。

    いま日本で洋画家の大部分は厭悪を催すような色を平気で使っている、他人は厭だから使わないのに、自分しか使えないのだと思っている。またそんなものがもてはやされ高く売れるのである。

    「あなたはこれを写生していたとき、自分は今この景色の所にいる、と思いましたか」

    そこには能面入れの箱と軸物の箱と布切れが一枚とだけ描いてある。その全体が緊密な内部的調和を保っていて、見る人に少しも壁面の空白を感じさせない。全く不思議である。

    ものみなが凛然として生きている

    マチスの画風の変遷がよくわかった。私は大変感激してこの展覧会へ三度通った。そして数学もこんなふうにやっていけばよいのだと思った。

    芭門の俳句や連句と明治以後のものとを比較すると、非常に目につく次のような違いがある。明治以後のものには例外なく、視覚的観点がある。しかし芭門のものにはそれのないのが一般である。


    (芭蕉)蛸壺や はかなき夢を 夏の月


    ミロのビーナスであるが、この像によって表象せられいえるものが「ギリシャ的情緒」というものである。この像にはどう見ても、冷たく人を威圧するようなところがある。

    この悟りには限りがないのである。小我を自分と思えばすでに迷いである。しかしこの迷いにも限りがないのである。

    あめつちに われひとりいて たつごとき このさびしさを きみはほほゑむ(会津八一)

    沙羅の瑞枝に花さけば 悲しき人の目ぞ見ゆる(芥川龍之介)

    深林人不知 名月来相照

    私の職業はやはり数学の研究である。ところがこの職業は、支出のみあって、といってもわずかではあるが、収入がない。それで私は家族を扶養するために広島の大学、、、

    どこでもよいから教員の口を世話してくれ。パンのためだから気ままはいわない

    上ほどよいのであるが、Cは数学を記号だと思っているもの、Bは数学を言葉だと思っているものである。寺田寅彦先生は、先生御自身のいうところによると、正にこのクラスである。それからAは数学は姿の見えないxであって、だから口ではいえないが、このxが言葉をあやつっているのであると、無自覚理にでもよいから知っているものである。

    実際調べて見て私が一番驚いたのは何だとあなたがたはお思いになりますか。それは児童、生徒、学生の顔です。これらの顔を肉眼と心眼(知性の眼)とで見て下さい。

    私たちのことは「教育法」なるものはなかったのであって、私たちは自分で自分を教育したのである。先生はそのための適当な材料を提供するのに砕心されたのである。

    「放射線」をあてると意外に変種ができる。Dはそれに似ている。だからそれまでの教育は「放射線」をあてるような危険きわまりない教育ではあるまいか

    私は数学研究を大学を出てから四十年やっているが、数学とはどういうものかをはっきりいえるようになったのは、漸く今年の五月のことである。

    私が数学の研究を志した一番本当の理由は、想像であるが、住みなれない物質観の水中から出ることだったかもしれない。数学の研究をしようと思えば厭でも水中から出る外ないから、自然うまく梶を取ることになるからあである。

    私は、習い憶えた徳目の実践は、善行の練習にはなるであろうが、善行そのものではないと思う。これも日本的に情緒の人はみなそう思うであろう。このくにでいう善行は格調が非常に高いのある。

    道元:「一法僅かに寂静ならば、万法ともに静寂なり」
    禅師はこれが「善行」だというのである。禅師はまたこういう例をあげている。昔一人の禅師とその高弟と二人が一緒にいた。そのとき風鈴が非常によい音で鳴った。その禅師は、なぜか、とたずねた。するとその弟子はこう答えた。「二心寂静なるが故に」。禅師はこの言葉に大変感心して、釈尊以来代々、一人から一人に伝えて、、

    二心とはつまり主体の法(その弟子)と客体の法(風鈴の妙音)のことであって、私が「絵画」で説明したような意味の法界の出来事である

    芭蕉:何の木の花とは知らず匂ひかな

    (寺田先生は)ガラスの破れ目を調べている。ところで、毎日毎日見ていると、しまいにはガラスの破れ目が大きな渓谷のように見えてくる。そのころになって、自然はポツリ、ポツリとその秘密を洩らし始める

    テーブルの白シーツの上に白い卵をのせておいて、毎日毎日見なさい。そしてその卵が虹の七色に見えるようになるまでは、絵筆をとってはいけない。

    ★功利主義(有所得)だから、厳密にいえば学問ではない。学問の本質は求真だからである。

    私たちの国というのは、この、人という水滴を集めた水槽のようなもので、水は絶えず流れ入り流れ出ている。

    各人はそれを自分の子と思っているが、正しくは大自然の子である。それを育てるのも大自然であって、人をしてそれを手伝わしめているのが教育なのである

    いまは「何々しなさい」という教育ばかりで「何々してはいけない」という教育はほとんど行われていない

    うまくいっている夫婦というのは、たとえば共同事業で二人の男性の仲がうまくいっているときのように簡単なものではない。仲のよい夫婦の典型は実に多種多様で、描写することがすでにむずかしい。

    生れてから約三十二か月が童心の時期であって、その人の中核はこの間にすべて決まってしまう

    人として一番大切なことは、他人の情、とりわけ、その悲しみがわかることです。

  • 最近生まれた初孫と同じ誕生日の著名人を調べていたら岡潔の名前が出てきた。十数年前に「春宵十話」を読んだがあまりピンとこなくて古本屋に手放してしまったが、今回改めて本書と春宵十話を購入した。

    岡潔は大数学者として有名だが、数学に没頭している状態と禅の世界の本質は同じという。自我を抑止して大自然の無差別知の働くに任せること。小我(無明)を離れて大我に生きること。無差別知の情的内容は心の悦び、知的内容は純数直観、真我の心は慈悲心だという。

    本書における氏の言葉は、直観に導かれ体験に裏付けられているので、自由で確信に満ちながら教条的でなく詩的である。

  • 数学者であり、教育者であり、思想家であった岡潔。戦後の日本の世相にふれるなかで感じた憂いとは、これからの日本の進む道とは。

    岡潔の遺した言葉は、力強くかつ自由である。その文章を読むたびに、頭で理解することより、心で感じることを求められているような気がする。

  • 昨今の日本は自己本位的な生活をしすぎている。仏教では自我本能を抑えた真我というものがあり、真我は無差別智のようなもので、無意識の状態で働いている。無差別智は、自他の区別がなく、物事について体得する。

  • 偉大なる研究者は偉大なる教育者であり,偉大なる日本人である.我々はいつ日本人であることを忘れてしまったのだろうか.日本文化と欧米文化の違いは,馥郁さなのだ,と気付かされる.本エッセィ集を復刊して頂いたことに感謝せずにはいられない.

  • この度、角川ソフィア文庫から『春宵十話』と『春風夏雨』が同時に出版されたと聞いて、すぐに手に取った。

    岡潔の著作と出会ってまだ日が浅いなりに、この人の文章は本当に味読しなくてはならない気持ちになる。

    偉大なる数学者が、「ひと」というものを語る時、なんとその愛情豊かなことか。

    小我=無明に囚われてはいけない、と繰り返し岡潔は説く。
    心が在って、自然が有る。

    けれど、ともすれば我々は無明に感けてしまう。それほどに、人間の持つ欲の力は強大で魅惑的なのである。

    岡潔が数学と向き合う、その様を、恐らく私は一生経験することがないのではないか、と感じている。

    けれど、持つべき心構えを知るということは、日々の中でなにか大切なことでもある。
    上手く言葉にできないことを、岡潔は丁寧に言葉にしてくれる。その思いの熱さに触れるひとが、増えるといいと思う。

    「すべて文化と呼ばれるものには、ある程度無明が働いている。それは人類の進化の現状ではある程度肯定しなければならないものらしい。仏教の人たちがすすめているような、生死に無関係な所に文化を開くというほどには人は進歩していない。」

    寺田寅彦や中谷宇吉郎も登場するのだが、決して別世界を見つめる人たちではないのだ。
    同じ場所にいながら、そして一見情緒とは縁遠いように感じられる学問が、実はこころに繋がっている時、なんだかいつも感動させられる。

  • 1901年生まれの数学者、岡潔のエッセイ集。
    発売当時はなかなかの切り口舌鋒と捉えられたのではなかろうか。
    昔の人らしく、教養にあふれた文章。
    でも私には、寝ながらきいて寝落ちするくらいがちょうどよい。
    ファンの人、ごめんなさい。

  • 岡潔の言う「情緒」に自分も触れてみたい。岡潔の言う情操教育に明らかに失敗した例であるが、可能だろうか。

  • タイトルは「しゅんぷうかう」と読む。はしがきの末尾には「このまま推移すれば、60年後の日本はどうなるだろうと思うと慄然とならざるを得ません」との有名な一言がある。我々は7年後にその60年後を迎える。多分新しい戦争が起こり、その戦争は終わっていることだろう。
    https://sessendo.blogspot.com/2018/10/blog-post_3.html

  • 岡潔は1901年生まれ。
    国を優先して個人を後にする文化が戦前はあったものの、戦後時が経つにつれ、日本は個人主義の色を強めるようになる。
    そんな日本に対して、警鐘を鳴らした1冊。彼に今の日本はどう見えているだろう。

    情緒、しらべ。

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著者プロフィール

1901年生まれ。三高をへて、京都帝国大学理学部卒業。多変数解析函数の世界的権威者。理学博士。奈良女子大名誉教授。学士院賞・朝日文化賞・文化勲章。仏教・文学にも造詣が深く、『春宵十話』『風蘭』『紫の火花』『月影』『日本民族の危機』などの随想も執筆。晩年は教育に力を注いだ。

「2023年 『岡潔の教育論』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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