人身御供論 通過儀礼としての殺人 (角川文庫)

著者 :
制作 : FISCO 
  • KADOKAWA
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レビュー : 10
  • Amazon.co.jp ・本 (272ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784044191115

感想・レビュー・書評

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  • 「かたち」においては正しく構造化された「物語」の流通に、
    そのありうべき姿の一つを見ていく。

    ここでは「成熟の不可能性」という命題が提出され、
    様々な物語から通過儀礼的枠組みを抽出し、考察がなされる。[more]

    たとえば『ホットロード』『めぞん一刻』『タッチ』から、
    「最初の求婚者の死」を抽出し、
    それが通過儀礼における<分離>と<移行>の中間項として位置づける。

    また、『トーマの心臓』における人身御供から、
    あのトーマがなぜ、なんのために死んだのかを解いていく。

    そうした考察を重ねて、
    「猿婿入」の説話において善意の猿神が殺される根拠となる、
    無垢なる供犠の、人身御供の条件と機能にたどり着いた。


    <blockquote>供犠としての運命にすすんで未を投げ出してしまう主人公のみが
    通過儀礼を手にすることができる p161</blockquote>

    ただし通過儀礼をあくまでも内面のドラマとして機能させようとする点には留意したい。
    具体的な儀礼が喪失したから近代において成熟が困難なのではなく、
    個人が内面において成熟していかねばならないからである。

    <blockquote>「成熟」の手続きとしての通過儀礼が困難な時代において、
    いかなるビルドゥングス・ロマンが可能か。 p229</blockquote>

    最終的に、物語のかたちは、
    「成熟」の困難さを乗り越える技術として示唆される。


    【読書メモ】

     <王>が共同体にとって供犠であることは、しばしば指摘される<乞食>に、祭りの期間中王として自由にふるまわせ、しかるのちその外部の荒野に追放し、彼ののたれ死にを願う<偽王>の儀礼などは、<王>の供犠性をよく示しているが、この偽王の儀式は、共同体の外部に追放されることが、九分九厘現実的な死を意味するような条件下においてはじめて成立するものであり、その追放された<偽王>が、何らかの形で<真王>になってしまうことが可能な仕掛けが大衆的に存在するのが、近代社会の皮肉なのである。 p175
    それ自体がムラの外部であった都市においては、もはやさらなる外へと出奔するイニシエーションは不可能である、というのが、たぶん正確だろう。見せかけの外部に出奔する<子供>は、差し出される神のいない場所に差し出された供犠にほかならない。 p198

    共同体の維持あるいは再生のための仕掛けとしての通過儀礼は、仮構の外部を設定し、共同体の新たな構成員をそこから内側に回収するという物語枠に準拠する。つまり、通過儀礼を行うにはこの仮構の外部が常に必要になってくる。言い方を帰れば、外部があって初めて通過儀礼は可能なのである。 p203

    「移行対象」をめぐる幻想と幻滅の物語は「移行対象」としてのモノ・情報を消費する社会にあって機能する物語である。「移行対象」という幻想への依存と「幻滅」(移行対象殺害)の二要素をフォルムのなかに含む「猿婿入」の物語は、唯一の「世界」との関係での「成熟」が困難なこの時代に、かろうじて可能性として残るビルドゥングス・ロマンなのだといってよいだろう。 p229



    【目次】

     序 通過儀礼という主題
     1 異類殺害と通過儀礼 ―――「猿婿入」を読む
     2 最初の求婚者の死 ―――『ホットロード』『タッチ』『めぞん一刻』を読む
     3 誰がトーマを殺したか ―――『トーマの心臓』を読む
     4 供犠と<子殺し> ―――「瓜子姫」を読む
     5 消費社会の<赤ずきんちゃん> ―――グリム版「赤ずきんちゃん」を読む
     6 神隠し考 ―――『ピクニックatハンギングロック』と『遠野物語』を読む
     7 「鉄腕アトム」の首 ―――『アトム大使』と『わたしは真悟』を読む
     8 供犠志願者の動機 ―――『フィツカラルド』を読む
     9 自己犠牲という禁忌 ―――「身がわり山羊の反撃」を読む
    10 <外部>はどこにあるのか
    11 通過儀礼の不可能性をめぐって
     終 ビルドゥングス・ロマンと「移行対象」殺害 ―――本書の要約として
     補 <癒し>としてのクマ 移行対象論
     

  • 【5】

  • 「トーマの心臓」の存在を知ったのはおそらく大塚英志の評論の中での出典からだと思う。そのときはBLモノのハシリみたいな紹介だったか、非常にうろ覚えだがタイトルにインパクトがあったのか、なんとなく記憶に留めていた。

    萩尾望都の作品といえば、「マージナル」がぼくの中では一番印象に残っている。原作漫画を読んだわけではないが、NHK-FMのラジオドラマのサントラを細野晴臣が担当していたことが記憶のマーキングとなったのだ。音楽素材としての「マージナル」を通して萩尾望都に辿り着いた逆引きパターンである。その他では、菅野美穂の初主演ドラマでもある「イグアナの娘」ぐらいだろう。昭和24年頃生まれの竹宮惠子や大島弓子などとともに「花の24年組」と呼ばれ少女漫画ブームを巻き起こしたが、ぼくが読んだ少女漫画と言えば、いがらしゆみこの「キャンディ・キャンディ」と庄司陽子の「生徒諸君」と限定的であったため、花の24年組は引っかからなかったようだ。そしてその後のアニメブームによって再認識することになる。「地球へ・・・」とか「綿の国星」とかね。

    そんな萩尾望都の「トーマの心臓」をミステリー作家の森博嗣がノベライズしたものをブックオフで不意に見つけてしまったものだから、原作漫画未読のまま興味津々で読んでしまったわけだ。

    ぼくはずっとこの「トーマの心臓」というタイトルの心臓の意味が気になっていた。ミステリー作家の森博嗣だけにぼくは以下のようなことを読みふけりながら想像していた。

    事故か自殺で死んだことになっているトーマは、実はトーマそっくりのエーリクと双子の兄弟で、お互いその事実を知らないまま、エーリクが心臓疾患で心臓移植が必要な状態になり、トーマはなんらかの事情でエーリクに自身の心臓を捧げ命を絶ったのだろう、と。

    まあこれがまったくの妄想であったことは、森博嗣のノベライズを読むだけでも容易に理解できるが、では「トーマの心臓」の心臓とはなんだったのか、という疑問は森博嗣のノベライズだけでは理解することはできなかった。それよりも、舞台をなぜあえて日本にしたのか、ということの方が気になったが、それはここでは深く追求するまい。

    そうして、原作漫画の「トーマの心臓」をブックオフで探す間、とりあえず大塚英志の評論を再度読んでみようと思ったので探してみた。すると、「人身御供論」という評論に「トーマの心臓」をテーマにした章があったので再読することにした。



    ここで、大塚英志は心臓の意味を冒頭で言い当てている。

    萩尾望都『トーマの心臓』は例外的なケースに属するという点で注目すべき作品だ。この作者が〈供犠〉という主題に自覚的であることを確認するには、題名に含まれた「心臓」というキーワードの存在を指摘するだけでこと足りよう(人身御供はその心臓をえぐられ神に捧げられることで供犠たりうるのだから)。この作品のタイトルはこの物語の主題あるいは読みほどかれる方向を作者自身が暗示しているといえる。

    大塚英志によれば「トーマの心臓」における心臓とは供犠として差し出されるものであり、それはユーリの成熟の代償であったとしている。つまり、ユーリが成熟する物語のために御供死としてのトーマが必要だったわけである。トーマの死によってユーリの成熟の物語は発動し、その象徴としてタイトルに心臓が冠されたと考えるのが妥当なようだ。



    そうして、ようやくブックオフで文庫版の漫画「トーマの心臓」を108円で購入し、小さなコマをチマチマ読んだわけだ。しかしながら、少女漫画に慣れないぼくは非常に時間がかかった。さらには文庫版の小さなコマ割りにあまり得意ではないぼくはさらなる遅読を強いられることになったのだ。

    原作漫画は、ヨーロッパの全寮制男子校を舞台にトーマという少年の死から始まる愛の物語だった。少年の恋愛を取り上げているのでBLと言われても仕方がないが、描かれているテーマはもっと深く、キリスト教的な教義を元にして生と死、愛と憎悪などを問題提起していて非常に真面目な物語であった。

    誰からも愛される美少年トーマと誠実な学級院長ユリスモール(ユーリ)の関係、その関係の末のトーマの死、そしてトーマと瓜二つだが性格はまったく真逆のエーリクの登場で、ユリスモールの人生が大きくねじ曲げられることになる。しかし、その背後にオスカーという謎ある同級生が関係していく。彼らの1年間を通して、少年が大人になっていくための葛藤や軋轢が実に見事に描かれていると思う。

    「死を持って愛を尊ぶ 」と誰かが言ってたのか定かではないが、少年たちには過酷な問題提起がなされっていると思うけれど、彼らはそれぞれに困難な生い立ちも含め、そしてそれぞれの愛を内包させてひとつ成長できたのだろう。

    これは、少女漫画におけるビルドゥングスロマンの傑作だと感じた。

  • 日本の各地に分布している「猿聟入」と「姥皮」と呼ばれる民話を通過儀礼の物語として読み解き、いくつかのコミック、小説、映画に同様のモティーフが現われることを確認しています。

    「猿聟入」は、娘が猿のもとに差し出されるものの、猿が殺され、娘は猿の嫁にならないですむ、という構造を持ちます。これについて著者は、猿が殺される場面が悲劇的だと感じると言い、これを通過儀礼の物語として理解できるのではないかと主張します。こうした解釈では、猿の死は娘が成熟するため供犠と解されることになります。娘が最初に暮らしていた共同体を離れて「外部」へと出ていく際に、供犠が供されることで、娘は成熟を迎えて共同体との再統合を果たすことになります。

    ところで、かつてムラに暮らす人びとにとって、村落共同体の「外部」は異界でした。ところが近代に入って、ムラは近代的な行政単位に再編成されます。その一方で、もはや異界としての「外部」を持たない都市空間が出現します。著者は、「都市」から通過儀礼の物語が消えてしまったことで、成熟を拒否しいつまでも「子ども」のままでいようとする人びとが生まれたと論じています。

    さらに著者は、通過儀礼に当たる装置が国家による「物語」として作られようとしている近年の動向への懸念を表明しています。その上で、近代における成熟は、国家によって作られた「大きな物語」が提供する役割に市民が帰入することによってではなく、あくまで個人の内面においておこなわれなければならないと主張します。著者は、メディアで大量に複製されている物語が通過儀礼の構造を持っていることに注目して、それらの「小さな物語」が個々人の私的な成熟を助ける可能性に賭けようとします。

  • 「通過儀礼」を切り口に、昔話から漫画、映画までを独自の視点で解読。
    若干強引なところもところどころあるものの、純粋に面白く読めた。

  • 近代社会において、大人になるための儀式を失った子どもは、「移行対象」を得ることで、社会の一員として機能していけるのではないか。

  • わーかーりーやーすいー。
    長年なぞだった「カスパーハウザー」や「ピクニックatハンギング・ロック」「瓜子姫」が解ける(気がする)快感。

    「トーマの心臓(1974)」から「めぞん一刻(1980)」「タッチ(1981)」「ホットロード(1986)」、の流れの端緒に、「キャンディ・キャンディ(1975)」と「生徒諸君!(1977)」があるのね。それが「ハイカラさんが通る(1975)」だと、価値観を共有する共同体の中でのイニシエーションではなくて、伝統文化か新興文化かの選択を迫られている。オイルショック後の経済成長のタイミングと重なるわね・・・。

    供犠の共同体への回帰のための試練で言えば、「獣王星」は類型どおりだ。「地球へ・・・」とか、「ブレーメン5」「ぼくの地球を守って」はみな「迫害される異形」型。「闇のパープルアイ」は夫も母親も死んで2番目の夫に育てられた娘が戦いを継承する。


    赤ずきんちゃんが消費社会版では「カワイサを上塗り」して「大人にならない」ように変化したことが指摘されていた。
    同様に、過去に「異類婚」で婚姻の後追放(殺されて)いた異形の女房(夫)が居ついてしまうのが、都市社会版・・・と類推できそう。潮目は「魔法使いサリー」までか?「魔女っ子メグ」ではモラトリアム続行だし、「うる星やつら」も同様。
    ミンキーモモは「供犠」として共同体に生まれなおしたが、キキにいたっては職業として人間社会に適応するという都会派だ。
    そして、消費社会の完成形がセーラームーン等の職業婦人たち。もはやイニシエーションは存在しない。
    皆例外なく「小さな話すけもの」=最初の夫=クマ=ライナスの毛布=移行対象を連れている。


    「ジャンプ」の言葉の意図も(書かれていないけど)明らかになった。
    少年が異界にジャンプして入り、また戻ってくることでプチイニシエーションを行なうというそのものずばりだ(違。

    そこで繰り広げられる表象世界では、「遊々白書」にはまだ父性(共同体の責任主体)との一体化という共同体性の片鱗があったが、ドラゴンボールから(作者の意に反してまでも)どこにも帰れなくなった。「ブリーチ」では試練が続くことが常態で、登場人物は共同体への回帰を思い出しもせず、希求するのはひたすら個人だ。これらは都市型消費社会での試練のかたちなんだろうな。あ、映画マトリックスもそうでしたね。
    男の子で「移行対象」を連れているのは、時系列でもう追いかける気力ないけど、「ブリーチ」とか「リボーン(ちょっと父性より)」「タルルート」と、最近の傾向か?それ以前は友人と助け合っていたような・・・(孫悟空とクリリンみたいに)


    では結局現代都市社会に生まれた少年少女がイニシエーションをする=大人になるにはどうしたらいいのか?
    もう個人がよってたつ背景によってそれぞれ違うとしか言えないのか?
    著者は、時々に応じた「移行対象」の消費といった「対処療法」をゆるいかんじで挙げる。

    多様な個人が多様に成熟するなかで、類似の傾向をもつものが見つけあい、家族をつくるのが恋愛結婚だとするならば、欧米都市型夫婦単位社会の最小単位である説明がつく。しかし夫婦は子どもを育て終えてしまえば成員は増えないため「共同体」とは言えない。会社がムラ社会の代わりを果たす終身雇用制の幻想が生きているうちはイニシエーションの表象装置を変えなくてもよかっただろうが、そうではなくなった時は?

    答えは恋愛にあるのではなく、ミニ共同体(ファミリー)にある、と言い切る「ONE PIECE」の世界が訪れる。個人が個人を「NAKAMA」と選定して、ベストミックスのチームをつくって運命を共同する。そこで重要なのは「夢」の創造、とこの前「エンゼル・バンク」で言っていた・・・。

    思想の世界では、共産主義とか、社会主義とか生協運動とか社会運動として展開されたこともあったけど、多様な個人の背景に応じて多様に展開するのが「ミニ」共同体。ヨコの連携はユルい。

    漫画ばっかり読んできたから、アタシの思考は漫画でしか表現できない(キリッ)。

  • この人は矢張り「民俗学者」と括弧で括られるべき人。すごく刺激的で面白いんだけど、逆に面白すぎて胡散臭い。個人的には好き。

  • 「ライナスの毛布」を手放す事が出来ない僕達がいつか、誰かにとっての<熊>になる日が果たして来るのだろうか。

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著者プロフィール

大塚 英志(おおつか えいじ)
1958年生まれ。まんが原作者、批評家。国際日本文化研究センター研究部教授。まんが原作者としての著書に『多重人格探偵サイコ』(田島昭宇画)『黒鷺死体宅配便』(山崎峰水画)、民俗三部作『北神伝奇』『木島日記』『八雲百怪』(森美夏画)、『恋する民俗学者』(中島千晴画)など。
評論では『「捨て子」たちの民俗学――小泉八雲と柳田國男』(角川選書/第5回角川財団学芸賞)、『公民の民俗学』(作品社)、『怪談前夜 柳田民俗学と自然主義』『殺生と戦争の民俗学』(ともに角川選書)などがある。

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