サイバーナイト―漂流・銀河中心星域〈下〉 (角川文庫―スニーカー文庫)

制作 : 山本 弘  吉富 昭仁  夢野 れい 
  • 角川書店 (1991年12月発売)
3.80
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  • Amazon.co.jp ・本 (316ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784044601058

サイバーナイト―漂流・銀河中心星域〈下〉 (角川文庫―スニーカー文庫)の感想・レビュー・書評

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  •  いろいろグズグズ思うところがあったので、山本弘『サイバーナイト』感想追加。

     山本は、異質な知性とのコンタクトについて、ゲーム理論を援用した、四行原則の戦略を採用する。

     これは
    「10 これが最初の接触なら30へ 二回目以降の接触なら20へ
     20 前回相手が協調してきたなら30へ 攻撃してきたなら40へ
     30 協調せよ
     40 攻撃せよ」
    という単純なプログラム。


     四行原則はある限定されたルールの中で行われるゲーム上の戦略なので、現実に全面的に採用できるかはまた議論が必要になるだろうけれど、

    「君が真にエゴイストなら、他人と協調しなくてはならないんだ。モラルだの人類愛だのは、この際まったく関係ない。生き残るためには、自分からは決して他人を攻撃してはならないんだ。それが究極のエゴイズムなんだよ。」}(P.158)
    「ええ。でも、たとえ利己主義からであっても、みんなが協調し合って平和になるなら、それはそれで素晴らしい世界になると思いますよ。」(p.247)
    という登場人物たちの台詞が、この作品におけるSFとしての真のワンダーを保証している。

     ここでは理念抜きの平和・協調という路線が提示され、このような議論に必ずつきまとうと思われる倫理や人間的感情は「とりあえず」排除されている。



     そして山本が小説上で、世界における存在の複雑な様相を捨象し、著しく単純な戦略をもって、異文化コミュニケートの基礎としたことは、普通の小説としては欠点として取り上げられることになっても、SFとしては必然的な根拠があるといえる。


     何度か取り上げている『乱れ殺法SF控』で、水鏡子は、SFのあるべき姿として、次のように書く。

    「そのとき人がむかいあう世界とは、雑然とした経験的イメージの集合体として存在するものでなく、自分の経験的実在から乖離した、図式化されモデル化された超然とした実在である。あるいは、図式化という操作によって、人ははじめて世界とむかいあえるのだとする思想に支配された小説である。」

     つまり、方法論として雑多な要素を排除することはそもそも前提であるため、これに「複雑な現実の諸条件を無視している」と批判しても、あまり意味は無いのである。とりあえずこれは「理念型」と言ってしまっていいだろう。


     なるほど、端的に言ってある種のSF(作家)が実存主義と相性が悪い理由は、これでよく分かるような気もする。


     さて、しかしSFのあるべき姿というのは、これだけでは終わらないとも水鏡子は述べる。大所高所の認識にそっくり返って、つまらぬ些事にこだわる人間を鼻息荒く罵るための武器としてSFはあるはずでではない。(僕がハインラインを嫌いなのは、この水準で満足してしまって、語りかけが常に説教という形にしかならないところにある)

    「あくまでSFも小説である以上、人についての物語である。だからそれゆえSFはそうした世界と向かいあわざるをえなくなった《人間たちのドラマ》でなければならない。」


     ここで以前「分からない」と述べたブリッシュの『悪魔の星』に戻る。

     主人公の神父にして生物学者ルイスサンチェスは信仰を持たずに、ただ合理性に基づいて理想的な社会を建設し運営している異星人、リチア人について

    「これはすべて理性の声で──どこか彼の心臓の近くから不安が警告を与えていたが──リチア人の戒律や信仰から来ているものではない。リチア人は神を知らないのだ。彼らが正しい行動をし、正しい考え方をするのは、そういう行動と思考が彼らにとって合理的で、能率的で、自然だからなのだ。彼らは、それ以外に何も必要としていないようだった。
     彼らは暗い影の思考をもったことがないのだろうか?意味のない行動、盲目の知恵、生きることの空しさをうかがい知って、恐怖をおぼえ、急に疑惑にかられるような一瞬の無気力に襲われることのない、そんな理性的な生物がこの世に存在しうるとは、考えられるだろうか?」

    と自問する。

     リチア人なら(あるいは『サイバーナイト』の登場人物なら)「わたしが『影の思考』とやらををもっているかどうかは括弧にくくって、合理的な社会を平和裏に運営しているという実利的な現象をとりあえず評価するべきだ」というだろう。わたしも異論はない………


    ………だが、やはり『サイバーナイト』を読んで、やっとブリッシュがこだわった地平が部分的にであれ「理会」できたような気もする。そのような平和の中で人間は、あるいは神はどこにいるのだと。ブリッシュが四行原則以前のところに立ち止まっているのか、以後のところにいるのか結論は出しがたい。とはいえ、C・S・ルイスが神学の立場からSFの両極端の相とも言えるステープルドンとガーンズバックを同時に撃ったのは、このような背景があると考えられるだろう。


     山本とブリッシュ、あるいは『サイバーナイト』と『悪魔の星』のどちらかが優れている、劣っているというわけではなく、両者の幅の中で動くことがSFの可能性なのではあろうと、仮の結論。

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