どの教科書にも書かれていない 日本人のための世界史

著者 :
  • KADOKAWA
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  • Amazon.co.jp ・本 (288ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784046018991

作品紹介・あらすじ

「世界史」が今、学び直しの対象としてブームになっています。不透明化する世の中で歴史にヒントを見出したい、という思いが動機になっているようにも思いますが、そもそもそこで、日本人が学んでいる「世界史」とは何でしょうか?

現在の「世界史」は、戦前の西洋史と東洋史を無理やりにつなげ、そこにその他の国の歴史を無理やりに挟み込んだ代物であり、こんなものをいくら学んでも、これからの時代を生き抜く智恵を見出すことはできない、と宮脇氏は言い切ります。

それでは今、日本人が自らの血肉とすべき、ほんとうに学ぶべき世界史とはどのようなものでしょう? それこそが、ヨーロッパと中国とを一つにつなぐ、中央ユーラシア草原からみた「一つの世界史」なのです。

その主役である「モンゴル帝国」は、中国のかたちを根本から変節させ、ヨーロッパを滅亡寸前にまで追い込み、ロシア帝国の生みの親となりました。こんなことは教科書のどこを読み込んでも、絶対に書かれていません。

さらにそうした「一つの世界史」を追っていったとき、私たち日本人は、そのなかに「大日本帝国」が登場してくることに気づくでしょう。そう、そこで大日本帝国は日本史のなかではなく、世界史の主要な登場人物として、その姿を現わすのです。

そうした視点で日本人が現在のいびつな「世界史」を書き直したとき、いったい何がみえてくるのか……。誰も挑もうとしなかったその難問を、注目の歴史家が本書で鮮やかに解き明かします。


〈内容例〉
世界史という教科は戦後につくられた/「歴史」という熟語をつくったのは日本人/チンギス・ハーンは「蒼き狼の子孫」ではない/空前の繁栄を極めた「パクス・モンゴリカ」の真実/「支那」と「チャイナ」の語源はともに「秦」/「中国五千年」は、二十世紀に登場した概念/魏・呉・蜀の「三国時代」に漢族は絶滅した/モンゴル軍の先鋒となったのはイギリス人/モスクワのツァーリは「白いハーン」と呼ばれた/シベリアの語源「シビル」は「鮮卑」と同義/「満洲」を「満州」と書くのはもうやめよう/満洲人からすれば、モンゴル人はもとの主君筋/ダライ・ラマという称号を贈ったアルタン・ハーン/ウラジヴォストークの意味は「東方を支配せよ」/日露の密約が、モンゴルを南北に分裂させた/「シベリア抑留」は言葉の使い方が間違っている/朝鮮戦争で日本統治時代の遺産が焼け野原に/日本中心史観を超えて――新しい歴史の扉を開け……ほか

感想・レビュー・書評

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  • チコちゃんのナレーション風に言えば「モンゴル帝国が国家の始まりである国の、なんと多いことかーー」という史観が得られる本。

    まぁ、国家の成り立ちが古い、あるいは国家の歴史が長いから偉い、というものでもなんでも無いけどね。少なくとも人々はそこを見ながら住む場所を選んでるわけではない。中国人と日本人は歴史の長さを誇る人、多いけどね。

  • 中央ユーラシア草原の遊牧民を軸とした客観的な視点からこれまでと違った中国、ヨーロッパ、ロシアの姿が見え、歴史とはストーリーであり、視点や見方によって全く変わるものということに気づかされた。

    周辺国の政治的な主張を鵜呑みにしたものではなく、史実に基づいた日本の立場での歴史観を1人の日本人として養っていく必要があると思った。

  • 歴史は好きだと思っていたが、今までとは違った視点で見ることができ、面白かった。「歴史とは自分達が納得できるように過去を説明するストーリー」という一文が印象深い。
    他の著書も読んでみたくなった。

  • 教科書で習った世界史とは違う視点で予想以上に興味深く読めました。
    海外 特にヨーロッパに行くと イスラムやアジア の面影?などが感じられる理由が少し分かったように思います。

  • 世界史は今から遥か昔になりますが高校2年生の時に勉強しました、と言っても年に5回あった定期試験の直前に教科書を丸暗記して臨んでいたので、試験終了後にすべて忘れてしまっています。

    そんな私ですが、歳と重ねるにつれて日本史だけでなく、世界史、それも近代にいたるまでの欧州以外の歴史にも興味を持つようになりました。アンテナを張っていると目に飛び込む様になるのでしょうか、この本をネットで見つけました。

    今までとは異なった視点で世界史を見直すことができる本です。そのポイントは、歴史から意図的に消された「2つの帝国:モンゴル帝国と大日本帝国」というのがこの本の著者の宮脇女史は述べています。大日本帝国が活躍できたのは、モンゴル帝国に比べれば短期間なのは残念ですが、この2つの帝国がアジア・欧州に与えた影響は大きいようです。

    特に、何もなかったかのように思われる中世におけるモンゴル帝国の位置づけは、見直されても良い様に思いました。今後、深堀していきたい分野がこの本によって明確になった記念すべき本となりました。

    以下は気になったポイントです。

    ・西洋史の根幹をなす哲学の一つは、世界は変化するものであり、その変化の歴史を語るものが歴史、一方で東洋史の場合は、天は不変であり、現実の世界の変化は重要視しない、天命によって天子が交代する、まったく真逆の考え方(p4)

    ・歴史が書かれるための条件、1)時間がまっすぐに過去から現在に流れてきているという観念、2)年月日が計測される、3)書き留める文字、4)過去の出来事の因果関係を物語る思想(p5)

    ・日本の場合、紀元前660年の神武天皇の即位は神話だが、1350年前の7世紀には、日本という国号と天皇という君主号を持っていたのが事実(p6)

    ・歪な成り立ちの上にある世界史を超克し、本当に現在の世界の真実がわかるための世界史を手に入れるには、中央ユーラシアから見た草原史観である(p8)

    ・ヒストリアイ、に書かれているのは、ギリシア人の話ではなく、大半は現在のイランを中心に成立していたペルシア帝国。当時の地中海世界を取り巻く地域の共通言語はギリシア語であったが、ペルシアの存在が大きい。ギリシアままだ都市国家レベル(p24)

    ・今の日本の世界史は、明治時代に始まった西洋史の枠組みを根本的に見直すことができていない(p38)

    ・モンゴル帝国が建国されたのは、1206年、モンゴル部族の長であったテムジンが、大集会・クリスティで最高指導者に選出されて、チンギス・ハーンと名乗ったときから(p48)

    ・モンゴル軍が世界最強であった理由として、1)勝つと分かっている戦争に参加するのは権利、2)軍隊規律に厳格、一人の十人長が百人長を兼任、他の部隊に属する兵士を自分の部隊へ収容不可能、部隊から離れたものは死刑、3)掠奪品の分配は公平、4)包囲戦、5)全員が騎馬兵で何頭もの替え馬を持ち機動力に優れていた、6)複合弓等、最先端の戦争道具を採用、7)最後の輜重軍は兵士の家族が家畜を連れて本軍を追いかける(p57)

    ・始皇帝は、それまで「国」と呼ばれていた各地の都市を皇帝直轄の「県=首都に直轄するという意味」、遠方の県を統括する「郡」を36か所置いた、郡は軍と同音で、駐屯軍を意味する(p82)

    ・焚書とは、紀元前221年に秦が統一する前の7国がすべて文字が違っていたため、秦の文字だけを残してあとの書物を焼かせた、これなくして統一は不可能であった(p83)

    ・魏呉蜀の三国時代が決着がつかず百年近くも続いたのは、生き残った漢人たたいが定まった土地に囲い込まれ、その外側には人家が絶えた土地が広がって、敵を叩きのめすほどの総力戦をする力がなかったから(p87)

    ・司馬炎が、魏から禅譲を受けて晋(西晋)を建て、黄巾の乱からおよそ百年後の280年に三国を統一するが、その20年後には八王の乱と呼ばれる内戦が起きる。これに乗じて5つの民族(鮮卑、匈奴、けつ、てい、きょう:五胡)が16国を建てた。最後には鮮卑族の建てた北魏が華北を統一、534年に北魏は東魏と西魏に分裂(p89、90)

    ・皇帝が派遣する県知事が納める行政区分は細か過ぎたので、元朝の行省は11に分けた、これが現在の中国の省の起源となる(p95)

    ・1368年に、紅巾軍の朱元璋が大都を攻めて、元朝皇帝はモンゴル高原に退却した、シナ史では元朝が滅びたことになるが、モンゴル人にとっては植民地の漢地を失っただけ(北元)、明はモンゴル高原に遠征したが、ついに支配できなかった、つまり明代は、元朝の領土の半分を継承した明朝と、元朝の後裔の遊牧民政権の南北朝であった(p98、99、156)

    ・イングランド王ジョンは、フランク王に負けて大陸の領土の大半を失ったのみならず、教皇インノケンティウス3世に破門、1215年には王の権限を制限する「マグナカルタ」を承認して翌年死去する(p104)

    ・1054年に、キリスト教世界は、教皇を首長とするローマ・カトリック教会と、ビザンツ皇帝(東ローマ皇帝)を首長とするギリシア正教の2つに完全に分裂した(p107)

    ・教会から破門された貴族にとって、破門を取り消してもらって社会に復帰する唯一の機会は、十字軍に加わること。(p118)

    ・当時の国際通貨は「銀」であったが、持ち歩くのは重いので、フビライ時代には、中統元宝交鈔・至元通行宝鈔という不換紙幣が発行された、さらなる高額紙幣である塩引も発行されている(p125)

    ・988年、ルーシのキエフ大公ウラジミール1世は東ローマ皇帝の妹と結婚してキリスト教に改宗、ギリシア正教を受け入れたが、教会の公用語はギリシア語ではなく、スラブ語を採用したので、多くの古典は翻訳されなかった。これが、ロシアと西欧文明の違いに大いに関係した(p132)

    ・清朝皇帝の直属旗は、正黄旗、鑲黄旗、正白旗の三旗で、これを上三旗と呼び、それ以外の5旗は旗王が分有していた(p169)

    ・大清帝国の公用語は、満州語・モンゴル語・漢語の3つで、1912年までの正式な記録は三種類の文字で書かれている(p174)

    ・清朝における「藩部」は、王朝の発祥の地である満州、清朝が直接統治するシナ本土以外の住民のこと、建国時は南モンゴルのみだが、北モンゴル、青海省・四川省西部を含めたチベット、新疆を含む(p178)

    ・1871年に、日本は清と平等条約である日清修好条規を締結、7世紀に国号と天皇という称号を持って以来、初めての正式な条約、1876年には日鮮修好条規(不平等条約)を結んだ(p215)

    ・遼東半島を三国干渉で返還したが、その報酬として、ロシアは旅順・大連、ドイツは膠州湾、フランスは広州湾、イギリスは、威海衛・九龍半島を99年の期限で租借した、99年の九九とは、久久と同じ音で永久にという意味があった(p217)

    ・1897年にロシア公使館から王宮に戻った朝鮮王高宗は、国号を韓と改め、皇帝を名のった、ここからが大韓帝国となる(p219)

    ・清国は1905年に、1300年間続いた科挙を廃止し、留学生を官吏に登用することに決めた、留学生が最も多かったのは日本であった(p223)

    ・満鉄の初代総裁になった後藤新平はロンドンで社債を発行して2億円を調達、合計4億円は1906年度の日本の国家予算と同額、日露戦争の臨時軍備費は17億円、関係費用あわせて20億円、英米での調達は10億円以上、これを全て完済したのは、1986年である(p225)

    ・満州国は日本の傀儡国家であったが、当時60あまりの世界の独立国のうち半数が満州国を国家承認していた、モンゴル人民共和国はソ連の第一衛星国であったが、それを承認していたのはソ連一国のみ(p233)

    ・1951年2月に大連港がソ連から中国へ返還、52年12月には中国長春鉄路も中国の単独管理となった(p251)

    ・1948年8月15日に大韓民国が建国されたが、韓国は日本から独立したのではなく、アメリカの軍事占領下から独立、国連も大韓民国を朝鮮半島唯一の合法政府として認める決議案をしている(p254)

    ・新しい世界史を作るときに注意すべきこと、1)善悪二元論を持ち込まない、2)自虐史観は歴史ではなく政治である、3)大日本帝国を日本史として扱わないという思想は日本書紀に起源がある、4)日本列島には独自の文化があったとする思想も政治的なもの(p269)

    ・大日本帝国が崩壊したとき、台湾・朝鮮半島・満州・中国・樺太・東南アジア・南洋諸島から内地に引き上げてきた日本人は、660万人であった(p275)

    2017年5月1日作成

  • どの教科書にも書かれていない 日本人のための世界史

    戦前の西洋史と東洋史がいつ登場したのかといえば、明治時代です。幕末に開国した日本は、西洋列強の植民地になることを逃れて生き残るため、国民国家化を推進し、富国強兵に乗り出しました。西洋の文化や技術を学ぶため、留学生を派遣するだけでなく、多くの外国人教師も雇いました。

    歴史学については、実証史学を提唱したドイツ人の歴史家、レオポルト・フォン・ランケの弟子で、ユダヤ系ドイツ人のルードヴィヒ・リースが、現在の東京大学の前身である帝国大学に招へいされ、史学科が開設されました。これが、日本の西洋史の始まりです。

    そもそも戦前の西洋史と東洋史は、 それが依って立つ歴史の哲学が、まったく異なるのです。ここでは簡単にエッセンスだけを述べておきますと、西洋史の歴史観の根本になっているのは、紀元前五世紀にヘーロドトスがギリシア語で書いた『ヒストリアイ』です。西洋の歴史の記述はここから始まりますが、その根幹をなす哲学の一つは、「世界は変化するものであり、その変化の歴史を語るものが、 歴史である」ということです。

    一方で、東洋史の歴史観の根幹になっているのは、漢王朝のときに武帝の家来であった司馬遷が書いた『史記』です。その哲学を簡単に言えば、天は不変であり、現実の世界の変化は重要視しない、天命によって天子が交替する、となるでしょう。

    歴史というのは、そもそも不公平なものなのです。吾く材料がたくさん残っている文明は、教科書のなかでたくさんの分量がもらえ、古く文字史料のない地域は、考古学の発掘成果などを使って埋めるほかはないのです。

    歪な成り立ちのうえにある世界史を超克し、ほんとうに現在の世界の真実がわかるための世界史を、私たちはどうやって手に入れればよいのでしょうか。そのたったーつの方法が、本書がこれから説明していく、中央ユーラシアから見た草原史観である、と私は確信しています

    現在の中国やロシアは、十三世紀にはモンゴル帝国の一部でした。ドイツやハンガリーもモンゴル軍の侵入を受け、モンゴル軍はもう少しで、ヨ—ロッパ全土を征服する寸前でした。インドはモンゴル帝国の継承者であるムガール帝国が長いあいだ支配しましたし、二十世紀まで存在したトルコのオスマン帝国も、モンゴル帝国のー員であったユーラシア草原の遊牧民が建てた国家です。つまり、現在の低界の歴史は、モンゴル帝国から始まっている、といっても過言ではないのです

    当の中国も、ロシアも、イランも、インドも、モンゴルに占領された、 あるいはモンゴルの影響を受けたということを自国の歴史から消し去っているからです。先ほど私は、世界中の国民国家史はすべて、自国に都合のよいようにつくられている、と言いましたが、それこそがモンゴル帝国が歴史から抹消された理由なのです。

    他国の都合のよいように書かれた歴史の集積である現在の世界史観を、中央ユーラシア草原史観によってリセッ卜し、そのうえで、大日本帝国の歴史を客観的に位置づけてこそ、現在の各国の利害や拠って立つ立場を客観的に把握でき、そこで日本はどうすべきか、このグローバルな世界をどう生き抜くべきか、という視点をもてるのではないか、と考えているのです。

    1章 教科書で教えられる世界史の大問題

    ギリシア語の「ヒストール」は「知っている」という意味の形容詞で、それを動詞にした「ヒストレオ—」は「調べて知る」という意味です。名詞「ヒストリア」は「調べてわかったこと・調査研究」、その複数形が「ヒストリアイ」です。

    つまり、 ヘーロドトスかーヒストリアイ』を書いたとき、 彼には歴史を書いている、 という意識はありませんでした。ヘーロドトスは、「私が調べてわかったことを書きました」という意味で、その書の題名を「調査研究」にしたのです。

    なぜ、ヘーロドトスが『ヒストリアイ』を書こうと思い立ったのか。それはご存じのように、紀元前四八〇年、ギリシアの都市国家同盟が、ギリシアのサラミス島近海で行なわれた「サラミスの海戦」で、大ペルシア帝国に勝利したからです。

    弱小ギリシアの都市国家同盟が、なぜ大国ペルシアに勝てたか? ヘーロドトスはその理由を知りたいと思い、エジプトなど行けるかぎりのところを旅行して、人の話を聞き、読めるものはすべて読み込んで、『ヒストリアイ』を書きました。つまり、それは真の「調査研究」であったのです。

    ヘーロドトスの世界観は、いまだにわれわれの世界に大きな影響を与えています。その世界観とは、大きく分ければ次の三つです。
    第一には、世界は変化するものであり、その変化を語るのが歴史である、ということです。
    第二には、世界の変化は、政治勢力の対立・抗争によって起こる、ということです。
    第三には、ヨーロッパとアジアは、永遠に対立する二つの勢力だということです。これは、二十一世紀のアジアに生きる私たちにとって、きわめて重大です。

    大航海時代が始まったばかりのころには、アジアとは、いわゆる現在の中近東、トルコ、シリア、イラク、イランくらいを指していたのですが、やがて、インドもアジアと呼ばれるようになりました。そしてインドからもずっと陸がつながっているので、最終的には、今の中国から日本までをもアジアと呼ぶことになりました。

    ヨーロッパ人が「ヨーロッパでない地域」をまとめてアジアと呼んだことで、日本は幕末になって「へえ一、自分たちはアジアと呼ばれているのか」と知ることになるのです。

    現在の中国人が「歴史」だと考える司馬遷の『史記』の世界観は、今説明した西洋の歴史観とはまったく異なっています。漢の武帝の家来であった司馬遷が『史記』を善いた理由は、自らが仕えている君主がいかに正統の天子であるかを証明するため、ということでした。

    政治勢力の対立が変化を起こすと考える西洋史。一方で、現実の低界に変化はない、と考えるシナ史と、それをもとにした日本の東洋史。この二つは、基本となる歴史観が水と油のようにまったく異なっているのです。この二つを合体させたところで、筋書がまとまるはずはありません。

    じつは今、「中国史」と言われているものは、明治時代以降の日本人が「支那通史」として、ヨーロッパ史に対抗してつくったものです。
    当時の西洋史は、シナをもともと相手になどしていませんでした。けれども東洋史のほうは西洋史をモデルにしたわけだから、なんとか支那史を西洋史と対等にして関連づけたいわけです。いわゆる西洋史の本流から見れば、何の関係もない、とるにたらない話なのです。

    シナ史における「封建」は、武装移民が新しい土地を占領して都市を建設することを意味しますが、ヨーロッパ史の「フユーダリズム」は、騎士が一人または複数の君主と契約を結び、所領(フユード) の一部を手数料(フィー)として献上して、その見返りに保護を受けることを指します。

    レボリューションは、もともと「回転」や「周期」という意味で、横に版がってもとに戻ることを指し、その主体は人間です。ところがシナの革命は「天が命を革める」のであって、主語は天です。

    帝国大学でリースの弟子になった日本人たちは、もともと漢学の素養があったため、アウグストウスを「皇帝」、レボリューションを「革命」と訳したように、『史記』以来のシナ史の正統の観念を当てはめて、ヨーロッパ史を理解しようとしました。
    その結果、日本の西洋史の概説は、ギリシアから始まり、イギリス、フランス、 ドイツという明治維新当時の世界の三大強国に終わる歴史の流れを主軸にして叙述することになりました。

    西洋史がなぜメソポタミアから始まるのかといえば、『旧約聖書』のエデンの園やノアの洪水、バベルの塔の印象が強く、ヨーロッパのキリスト教徒が文明の発祥の地をメソポタミアに求めたからでしょう。けれども、実際には地中海文明(ギリシア・ローマ) の源流は、これはへ—ロドトス自身もそう言っているとおり、エジプトにあります。それにもかかわらず、エジプ卜のことはエピソードとしてしか扱われていません。

    日本の西洋史学科では、東ローマ帝国(ビザンツ帝国、 ローマ皇帝制度を継承し、 ギリシア人を主体としたキリスト教国家)の歴史をあまり研究していません。教科書では、ローマ帝国は四〜六世紀にゲルマン人がヨーロッパ全域に拡大した「ゲルマン民族の大移動」で四七六年に滅びたとされますが、これは西口ーマ帝国が滅びたのであって、分裂したもう一つの帝国である東ローマ帝国は、オスマン帝国に滅ぼされるー四五三年まで、大きな領域を支配しつづけています。

    日本の西洋史が、イギリス、フランス、 ドイツばかりを重視するのは、 日本が富国強兵で世界に打って出たときの強国だったからです。なぜ、これらの西欧列強が強くなったのか? それは ギリシア、 ローマ文明を直接継承したからだ、というストーリーは、日本人にとってわかりやすいものでした。
    残念ながら今の日本の世界史は、明治時代に始まった西洋史の枠組みを根本的に見直すことができていないのです。

    日本という国号と日本天皇という君主号は、663年の白村江の敗戦( 倭国・百済連合軍と唐, 新羅連合軍の戦い) によって朝鮮半島から追い出された倭人たちが、大陸からの渡来人と一緒になつて、唐帝国に対抗するために生み出したものです。だからこそ日本最初の正史「日本非紀」は、司馬遷の『史記』の枠組みに従っていながらも、日本文明は最初からシナとは無関係に自立的に発展してきた、と主張しているのです。

    そして現代でも日本史は、『日本書記』が創作した日本の「独自性」「自立性」を強調する枠組みを脱しきれていないので、シナが日本史に及ぼした影響は本質的でない、とします。

    日本は外国とどこが違っていて、いったいどういう国で、外側の世界とどのような関係にあったのかという視点が、日本史という教科には欠落しているのです。

    十三世紀のモンゴル帝国は、東は日本海から西はロシア草原までを版図に入れました。このとき歴史のある二つの文明、シナ世界と地中海世界が直接結ばれ、東西交渉と遠隔地貿易がさかんになりました。

    当時のユーラシア大陸の商業はイスラム教徒の手のなかにありましたが、アジアの豊富な物産に初めて触れたヨーロッパでは、イスラム教徒の手を経ずに直接、 アジアと商売をしようとして海に出るのです。大航海時代は、 モンゴル帝国時代の東西交流の刺激を受けて起こったのです。

    モンゴル帝国は、一世紀で消滅したわけではありません。現在のモンゴル国はもちろんのこと、中央アジアのカザフ人やキルギズ人やタタール人も、モンゴル帝国の後裔です。帝政ロシアのツァーリや清朝皇帝も、母方ではチンギス・ハーンの血統でした。インドはモンゴル帝国の継承者である厶ガール帝国が長いあいだ支配しましたし、二十世紀まで存在したトルコのオスマン帝国も、モンゴル帝国の一員だった中央ユーラシア草原の遊牧民が建てた国家です。

    それどころか、のちほど詳しく説明しますが、ヨーロッパに信用取引が伝わって最初の銀行ができたのもモンゴル帝国時代で、そこからルネサンスが始まります。オスマン帝国が東口一マ帝国を滅ぼした十五世紀に、ようやくヨーロッパの中世が終わって、近代が始まったのです。

    2章 モンゴル帝国から「一つの世界史」は始まった

    現在の中国やロシア連邦、トルコ共和国やイランは、一度はモンゴル帝国の版図に入った場所です。影響を受けていないはずがありません。けれども、支配者のモンゴル人が帝国時代の歴史を書かなかったので、支配されたほうの言い分だけが残りました。故郷のモンゴル国が現在では弱く貧しい国だから、世界史に果たした役割がいかに大きくても、その足跡は歴史から消されています。

    モンゴル帝国が建国されたのは、1206年、モンゴル部族の長であったテムジンが、モンゴル高原のさまざまな遊牧部族長たちの大集会で最高指導者に選ばれ、チンギス・ハーンと名乗ったときです。こ

    1218年から中央アジア遠征が始まりました。その遠征には、チンギス・ハーンの息子たち全員が従軍しました。モンゴル軍はまず無条件降伏を要求していっさいの取引を認めず、これに応じて開城した都市の住民は、掠奪は受けましたが生命は助かりました。しかし、抵抗した都市の住民は、落城のあと工芸家と職人を除き、すべて虐殺されました。

    ヨーロッパ遠征は1236年に始まり、オゴディ・ハーンが前年末に酒の飲みすぎで急死した知らせが前線に届いた1242年春、全軍に引き揚げ命令が出ました。大集会で決定されたモンゴルの遠征は、 時の君主が総司令官になるので、その君主がいなくなれば、新しい君主を決めることが優先されるのです。オゴディがもう少し生きていたら、 モンゴルトよフランスを蹂跚し、ドーバー海峡にまで至っただろうと言われています。

    なぜ、モンゴル軍はそれほどまでに強かったのでしょう。
    第一に、遊牧民の戦争は、馬も、兵器も、食糧も支給されません。手弁当で出かける代わりに掠奪品の分配に与るのです。勝つとわかっている戦争に参加するのは、儲け仕事に出ることで、それは義務ではなく権利でした。

    第二に、チンギス・ハーンは軍隊の規律に関して、非常に厳格だったということが伝えられています。
    第三に、規律は厳格でしたが、掠奪品の分配は公平でした。また、チンギス・ハーンは、他人よりも体力に優れ、飢えや渇きを感じない者は、部下の兵卒の困苦を理解できず、戦闘力を浪費することになるから指揮官には適さない、と言っています。戦闘力の管理に長けていたのです。

    第四に、遊牧民の戦争は、基本的には包囲作戦です。冬の狩猟の時期には、ハーンの御前での軍事演習として、大巻狩が開催されました。

    そのほかにモンゴル帝国の軍隊が強かった理由としては、兵士は全員が騎馬兵で、しかも何頭もの替え馬を連れていたため、機動力に優れていたこと、複合弓(狼り合わせ弓) を使用し、矢の速力が大きく射程が長かったこと、大石などを投げる経砲や、火薬や地雷といった当時では最先端の戦争道具を採用していたこと、などがあげられます。

    そして、モンゴルの征服戦争がつねに勝利を収めた最大の要因は、彼らが前もって情報をよく収集し、地理を調査して、綿密な作戦予定表をつくってそれに從って行動したことがあげられます。戦争が始まると、まず斥候(敵を観察しつつ警戒する任務の兵) を派遣し、先鋒軍のあとに本軍が続きました。攻撃時の戦闘隊形は基本的には巻狩のときと同じです。最後の輜重軍は、兵士の家族が家畜を連れて放牧しながら本軍のあとを追って進みました。

    兵士たちは休暇がもらえると、遠い故郷まで戻らなくても家族と一緒にすごせました。このようにして征服した地に移住した遊牧民も多かったので、モンゴル帝国の領土はあのような広い地域に一気に広がっていったのです。

    モンゴル帝国時代は「パクス・モンゴリカ(ラテン語で「モンゴルの平和」) 」とも呼ばれています。広いユーラシア大陸が一つの政権のもとに統合され、東西貿易がさかんになったからです。
    「駅伝制」を、モンゴル語でジャムチ(道路の人) と呼びます。あとで見るように、ローマ教皇の使節やイタリア商人が、ヨーロッパからはるばるモンゴル高原に来られたのは、この制度のおかげです。

    3章 中国に巨大な影響を与えた元の支配

    漢という国はニニ〇年に滅びて、魏・呉・蜀の三国時代になりましたし、唐も907年には滅んでいます。それでも日本人は、古い時代にそこから伝えられた文字を「漢字」と呼び、平安時代には遣唐使を送ったので、お隣をずっと、漢や唐と呼んでいたのです。

    しかし、すでに隣の大陸では、唐が滅んだあと、宋が興って滅び、モンゴル人の建てた元も滅び、明になって、さらに江戸時代には清という国になっていました。日本人もそのこと自体は知っていましたが、土地を通して呼ぶ名前がなかったのです。
    各王朝を超えた土地の名前として当時の日本が支那という名称を採用したのは、世界の見方に合わせた、ということであり、その考え方は、今風に言えばグローバリゼーションでした。

    中国という漢字は古くからありましたが、初めは首都の.意味で、そのうち中心の地域という意味になり、清朝時代には漢人の住む地域を指すようになります。しかし、それは自分たちのいるところが中心である、と言っているだけで、国家のことではありません。

    シナ文明では古くから、漢字を使わない人間を野线人と卑しんできました。どうせ漢字の意味なんかわからないだろう、と固有名詞を漢字で書くときに、同じ発音でもわざと悪い意味の漢字を使ったのです。

    自分たちがそういうことをしたものだから、日本にも同じようなことをされたと思い、第二次世界大戦後、中華民国総統の蔣介石が、敗戦国の日本に対して「支那」は他称だから使わないようにと言ったので、GHQ命令を受けた日本人は、それまでの「支那」をすべて「中国」と書き換え、英語の「チャイナ」もすべて「中国」と翻訳してしまいました。

    「中国五千年」という言い方は噓で、「シナ二千二百年」が正しいのです。

    現在の中国の始まりは、1911年十月十日に起こった辛亥革命です。このとき湖北省の武昌(現在の武漢市) で、 日本の陸軍士官学校で学んで帰った新式の軍隊の漢人将校たちが指押してクーデタ—を起こし、軍政府を樹立して、北京の清朝に対して独立を宣言しました。

    現在の中華人民共和国の領土の六割は少数民族自治区ですが、その土地はつまり、20世紀までは中国ではなかった土地でした。チベット人も、モンゴル人も、 ウィグル人も、 20世紀までは漢字を使わない文化をもっていて、漢人ではなく支那人でもなかった人たちだったのです。

    ところが、中華人民共和国が人民解放軍を使って彼らの土地を侵略したあと、チベツト人も、モンゴル人も、ウィグル人も、みな黄帝の子孫の中菓民族であり、歴史の途中で、たまたま違う宗教や違う文字を取り入れたのが、ようやく祖国に復帰した、などと宣伝したのです。これは史実無視の強弁です

    漢字は南の長江(揚子江) 流域で発明されましたが、もともと意味を形に置き換えた表意文字だったので、違う言語を話していた人々の、交易のための共通語として発展したのです。

    シナ史の大きな特徴は、人口の凄まじい変動です。
    戦乱が続くと兵士が死ぬだけではなく、穀物を植える般民がいなくなります。何年も戦乱が続くと作物が実らないので食べるものがなくなり、多くの人が餓死するのです。

    世祖フビライに始まる元朝の歴代皇帝にとって、本拠地はあくまでモンゴル草原であり、現在の北京の地に新たに建設した大都は、冬の避寒キャンプ地にすぎませんでした。元朝皇帝は、冬の三カ月間だけ大都で暮らし、夏の三カ月間はモンゴル草原の上都の近郊にテントを張り、春と秋は、家来を引き連れ、宮殿ごと移動して暮らしました。大都は物資の補給基地であり、漢人を統治する行政センタ—だったのです。

    時はくだって1368年、宗教秘密結社の白蓮教徒が組織する紅巾軍の朱元璋(明の太祖光武帝) が大都を攻め、元朝皇帝はモンゴル草原に退却しました。シナ史では、元朝はここで滅びたことになりますが、モンゴル人にとっては植民地の漢地を失っただけです。その後、15世紀にモンゴルが再び連合したときの君主は、ダヤン(大元) ・ハーンと言います。

    明の制度は、遊牧民が支配者だった元朝の制度をさまざまに引き継いでいます。明は最初、南京を首都としましたが、今の北京を本拠地とする燕王、のちの永楽帝が1399年、甥の建文帝に対して反乱を起こし、1402年に南京を攻め落として.皇帝に即位したあと、1421年に北京を正式に首都としました。北京(北の郡) という名前はこのときに始まりますし、南方方言でペキンと発音するのも、そのためです。

    明は、漢字で書いた史料では元朝の正統の後継者であることを誇っていますが、その領土はまったく元朝には及びません。首都である北京のすぐ北方に万里の長城を築いたということは、その北側は遊牧民の住地だと認めたということです。

    4章 欧州全土を征服寸前だったモンゴル軍

    チンギス・ハーンがモンゴル帝国を建国したころのヨーロッパは、教科書で言うなら中世の真っ只中です
    地中海のシチリア島からイタリア半島の内部にかけては、北方系ゲルマン人であるノルマン人のシチリア王国がありました。その北のイタリア中部と、ヴェネチアを除く北部から、今のスイス、オ— ストリア、ドイツ、オランダ、ベルギー、フランス東部にかけての広大な地城には、ドイツ人のホーエンシュタウフェン家の利聖ロ ーマ帝国が君席していました
    皇帝派と教皇派の対立が起こり、それが長いあいだ、ドイツ人とイタリア人の政治に影響するようになります

    イギリスとフランスとドイツの教科書を見ましたが、十六世紀のルネサンスからの歴史しか教えていませんでした。それ以前はまだ国家がないので、教えようがないからでしょう。だから、ヨーロッパがじつはアジアの影客をどんなに受けたのか、ほとんどの人は知らないし、今の生活に関係がないことを子供に教える必要はない、と考えているのではないかと思います。

    古代都市ローマから発達したローマ帝国は、三九五年、テオドシウスー世が死に際して帝国を東西に分けたことで分裂しました。西のほうは、四七六年にゲルマン人の佛兵隊長オドアケルによって滅びましたが、もう一方の東ローマ帝国は、一四五三年に中央アジアの遊牧民出身のオスマン帝国に滅ぼされるまで存在しました。

    日本の教科書では、この東ローマ帝国を、 その首都であるコンスタンティノープル(現在のトルコ共和国イスタンプル) の旧名ビザンティウムから取った名前であるビザンツ帝国と呼んでいます。こちらをなぜローマ帝国と呼ばないかといえば、日本の西洋史が西ヨーロッパ中心史観だからです。

    ローマ教会はもともとローマ皇帝の支配下にありましたが、西ローマ帝国が減亡したあとはゲルマン人への布教を熱心に行なうようになり、東ロ ーマ皇帝が支配するコンスタンティノープル教会から分離する傾向を見せます。東西の救会の断絶を深めたのは、聖像をめぐる対立でした

    七二六年、東ローマ皇帝レオン三世が聖像禁止令を発布すると、ゲルマン人への布教に聖像を必要としたローマ教会はこれに反発し、ローマ皇帝に対抗できる強力な保護者として、 イスラムのウマイヤ朝の西ヨーロッパ への進撃を食い止めたカール・マルテルの子であるピピンのフランク王位継承を承認したのです。ピピンの子が、かの有名なカール大帝です。

    八〇〇年のクリスマスの日、ローマ教皇レオ三世はカールにローマ皇帝の帝冠を与え、西口—マ帝国の復活を宣言しました。カールの戴冠がなぜ必ず教科怦に出てくるかといえば、西ヨーロッパとカトリック教会にとって大きな意味があるからです。

    1054年になって、キリスト教世界は、教皇を首長とするローマ・カトリック教会と、彼らの言うビザンツ皇帝、つまり東ローマ皇帝を首長とするギリシア正教会の二つに完全に分裂しました。

    しかし、イスラム教徒に対するキリスト教徒の聖戦である卜字軍の始まりは、当時のイスラム王朝であるセルジューク朝が聖地イエルサレムまでをも支配ドに置いたので、 東ローマ帝国から救援を要請されたローマ教皇が、1095年のクレルモン宗教会議で提唱したものでした。

    ローマ教皇が十字軍を提唱したわけは、これを機会に朿西両教会を統一しようと考えたからですが、それに参加した神聖ローマ皇帝、フランス国王、イギリス国王などは領地や戦利品を望み、イタリア諸都市は商業的利益を拡大しようとしたのです。
    けれども、相次ぐ遠征の失敗で教皇の権威は揺らぎ、逆に遠征を指揮した国王の権威は高まりました。モンゴル軍が侵入したころのヨーロッパは、このような状況だったのです。

    ヨー ロッパ遠征は、ー二三六年、ヴォルガ河中流のブルガル人の国( 現住のロシア連邦のタタルスタン共和国) の征服から始まりました。
    1240年、モンゴル軍は再びルーシの地に入り、それまで3百年のあいだルーシの首都だったキエフは 、十一月に陥落します。

    当時のヨーロッパは、ローマ教皇グレゴリウス九世と神聖ローマ皇帝フリードリヒ二世がイタリアの覇権をめぐって交戦しているところでした。
    イングランド王ヘンリー三世とフランス王ルイ九世も争っている址中で、ハンガリー国王ベーラ四世が援助を懇願しても団結することができず、モンゴル軍の攻擊に対してまったく無力だったのです

    オゴディ・ハーンの突然の死去のおかげで助かったその後も、ローマ教皇が考えたのは、モンゴル人のもとに宣教師を派遣して、彼らに人道を説き、キリスト敬に改宗させようということだけでした。東方のどこかにプレスタ—・ジョンの国があって、ネストリウス派キリスト教が信仰されているはずだ、という期待もありました。

    駅伝の制の恩恵を被ったのは、使節だけではなく、商人たちもでした。イタリア商人は、すでに十字軍の進軍とともに地中海東部に進出し、イスラム圏との貿易で利を得ていましたが、モンゴル帝国が東は日本海から西はロシア草原までを一元的に支配したおかげで、黒海北岸から駅伝を使った草原の道を通って元朝まで来ることができました。

    近代資本主義の萌芽は、じつはモンゴル帝国時代にあります。資本主義にとってもっとも大事なものは信用ですが、げんの世祖フビライ・ハーンが、世界最初の不換紙幣を発行しています。

    遊牧民であるモンゴル人が何もかも発明したわけではありませんが、モンゴル帝国の支配層は情報に通じており、バランス感覚に優れ、出自にこだわらない能力主義者でしたので、よいと思われるものは何でも採用したのです。遊牧民は広域商業がどんなに儲かるかよく知っていたので、一族が争っていても商人は保護しました。

    「パクス・モンゴリカ」はよいことばかりをもたらしたわけではありませんでした。十四世紀に当時のヨーロツパ人口の三分のーから三分の二にあたる、二千万人から三千万人が死んだとされる黒死病(ペスト)は、1347年、 黒海北岸のクリミア半島にあったジェノヴァ人の交易所カッファからシチリア島に運ばれたと言われています。

    5章 ロシア帝国は「黄金のオルド」を受け継いだ

    ロシア史は、十八世紀末以来、ニコライ・カラムジンのような愛国主義的なロシア国民学派の歴史家によって、すっかり書き換えられてしまいました。今語られているロシア史では、 モンゴルをはじめとする遊牧民がロシアに与えた影響を、極カ、過小評価します。しかし実際は、モンゴル帝国の継承国家である「黄金のオルド( ゾロタヤ・オルダ) 」の支配下で、ロシアは国家に発展したのです。

    モンゴル軍が侵入したとき、ロシアはまだルーシと呼ばれ、スカンディナビアからやってきたルーシ最初の首長であるリュ—リクの子孫たちが都市に住み、 周りの東スラヴ人を支配していました。ルーシはもともとゲルマン系のノルマン人のことで、ルーシが征服した国上がロシア、ルーシに征服された人々がロシア人になったのです。

    ルーシが受け入れたキリスト教はギリシア正教でしたが、教会の公用語はギリシア語ではなく、スラヴ語を採用しました。そのために、 ロシア正教の修道院でスラヴ語に翻訳されたギリシア語の文献は、キリスト教神学の著作だけで、ギリシア哲学・文学・科学の古典はいっさい翻訳されませんでした。これがロシアと西ヨーロッパ文明の違いにおおいに関係したと思われます。

    そのルーシの各公と各都市とキリスト正教会は、モンゴルの支配を完全に受け入れていました。これ以後の数百年間のモンゴルによる支配を「タタールのくびき」と呼んで、「アジアの野蛮人による圧制のもとで、人々が苦しんだ」と喧伝したのは、ロマノフ朝ロシア時代の十九世紀になってからです。

    現代のロシア史家は、「ロシアの四分の三の都市がバトゥ軍によって破壊され、数多くの手工業者が生命を落とし、捕處として連れ去られたため、ロシア手工業の発達は、西欧の先進諸国に比べて百五十〜二百年遅れた」と言いますが、 モンゴル支配の時代になって、ロシア手工業は、当時最先端の文明圏であったイスラム諸国と直接のつながりをもったのです。

    ロシア語では、十三世紀のモンゴルと、今のロシアに住んでいるその子孫たちをタタ—ルと呼びます。ロシアにおけるタタ— ル人は、チンギス・ハーンの長男ジョチ家とその領民の後裔であり、現在では全員がムスリム、つまりイスラム教徒になり、トルコ系民族に分類されています。

    十三世紀のヨーロッパにおいてラテン語で書かれた本では、モンゴルのことをタルタルと呼んでいます。これは、たまたまラテン語で、地獄のことをタルタロスと言ったので、モンゴル軍の侵略に震え上がったヨーロッパでは、「地獄から来た者」という意味を込めて、モンゴル人をタルタルと呼んだのです。

    ロシアの各都市は、ビザンツ商人やイスラム商人と毛皮やどれいを交易する拠点として、発展したのです。そして人口ではロシアの大部分を占める東スラヴ人は、森林を切り開いて農耕を行なう民でした。

    ー九九一年にソ連が崩壊したとき、ソ連から独立したウクライナ人たちが、「モスクワはー皮剝けばタタ— ルだ」と言ったのは、嘘ではありません。しかしながら、ウクライナ人が「キエフを中心としたわれわれこそが本来のルーシの後裔だ」と言うのも怪しいのです。なぜなら、ウクライナの草原こそジョチ家の遊牧地でしたし、今のウクライナ人が先祖として誇りをもつコサツクは、もともと草原の遊牧民だったからです。

    6章 清を建国した満洲人とは誰なのか

    マンジュという固有名詞を漢字で書いたのが「満洲」です。満洲は、最初は種族名のことで、土地の名前ではありませんでした。それがいつ土地の名前になったのかというと、じつはそのきっかけは江戸時代の日本で、そこから満洲という名前が世界に広まったのです。

    一八〇九年に江戸時代の天文学者である高橋景保が作成した「日本辺界略図」です。高橋のつくったこの「日本辺界略図」が、ドイツの医師・博物学者であるシーボルトによってヨー ロッパに持ち帰られ、『ニッポン』全七巻という彼の著書のなかで翻訳されて、ー八三二年にオランダで刊行されたのです。

    一六四四年、清朝は都を瀋陽から北京に移し、順治帝が北京の紫禁城に移ると、満洲人も続々と山海関を越えてシナに進出しました。これを入関と言います。満洲人は、それまで北京に住んでいた漢人を外城に追い出し、紫禁城を取り卷く北京の内城を八つの区画に仕切って、それぞれの「き」(あとで説明しますが、満洲人は全員、 色で分けられたハつの旗を目印とする、 八旗と呼ばれる八つの集団のいずれかに所福していました)ごとに家族と一緒に住みました。これを「胡同」と言います。

    この言葉の起源は、フビライが建てた大都の「グドゥ厶(巷) 」で、モンゴル語で路地のことでした。北京の古い市街地「胡同」は、すべてが清朝の支配層である満洲人の居住区で、1911年十月の辛亥革命で翌12年に清朝がなくなったあとも家主は満洲人だったのですが、ー九四九年に中華人民共和国になってから、毛沢東が家主たちからむりやり取り上げたり安い値段で借り上げたりして、多くの漢人家族を入居させました。
    それでスラム街のようになってしまったので、北京オリンピックでずいぶん壊されましたが、 もともと清朝の支配種族である満洲人が国家から供与された住宅だったので、中庭も塀も同じ規格なのです。

    チャイナドレスのことを、現代中国語で「チーパイ(旗人の服) 」と言います。これは、支配階級の満洲人の衣服であったものを、ー九二ー年に清朝が滅びたあと、一般の中国人が真似をして取り入れたデザインだからなのです。

    モンゴル人は、 草原で羊・山羊・馬・牛・ラクダの五畜と呼ばれる家畜を飼い、その肉や乳製品を食料とし、フェルトでつくった移動式の住居で暮らす遊牧民です。これに対して、モンコル草原よりも東方は雨虽が多く、灌木が茂り、草原のように馬を走らせられません。

    代わりに、その地域では古い時代から粗放農業(自然の力に任せて営む農業) が可能でした。森林には野獣も多く住むので、歩いて森のなかに入って毛皮獣を捕り、それを交易して収入にします。また女直人は昔から、豚を飼って食べることが知られていました。彼らは狩猟民に分類
    されます。

    遊牧民であるモンゴル人の文化は、西方のイランや黒海沿岸にまでつながっていますが、満洲人を含むトウングース系の狩猟民は、日本海沿岸から朝鮮半島との関係が深いと言えるでしょう。

    清朝は、モンゴル高原や青海高原やチベットや新疆には漢人農民の移住を禁止し、商人も、一年を超えて滞在してはいけない、 現地に家をもってはいけない、現地で結婚してはいけない、などの政策をとりました。
    このような同君連合国家だったからこそ、清朝はあれだけの広大な領域を、二百六十年間も統治することができたのです。

    8章 大日本帝国の登場、そして満洲国誕生へ

    ー八五四年、イギリスとロシアが日本に開国を迫るなかで、日本は最初にアメリカと、不平等条約ではありますが、日米和親条約を結びました。このあと同年、同じ条件で、イギリスと、翌年、ロシアと和親条約を結びます。このときアメリカは英露に比べてまだ小国だったから、日本は最初の交渉相手に選んだのです。

    ーハ六八年の明治維新後、早々の一八七一年に、日本は清と平等条約である日淸修好条規を調印しました。じつは七世紀末に日本という国号と天皇という称号が誕生したあと、これは大陸の政権と日本が交わした初めての正式な条約です。

    日本は、ー九〇四年二月六日、駐露公使の栗野慎一郎がロシア政府に日本政府の決意を通告して肯都ペテルブルグを退去し、 同日、 駐日ロシア公使ローゼンも東京を去り、 二月八日、東郷平八郎率いる連合艦隊が旅順港外のロシア艦隊を奇襲して、日露戦争が始まりました。

    日本は、日露戦争では、計11万8千余人の戦死者と多くの負傷者を出し、弾薬は底を尽き、第一線部隊を指揮する幹部将校の多くが斃れたのです。
    戦争を継続しながら日本は和平交涉の道を探りはじめましたが、ロシアには講和に応じる気配はまったくありませんでした。太平洋に向かっているバルチック艦隊が、日本艦隊を撃破して制海権を奪えば、満洲の日本軍への補給が遮断でき、勝利の女神はロシアに微笑むと期待していたのです。
    しかし、海戦史上例を見ない完全勝利と言われる、東郷平八郎大将率いる日本海海戦で、一九〇五年五月にバルチック艦隊は壊滅し、日本の勝利が決まったのでした。

    同年九月のアメリカ東部のポーツマスにおける日露講和条約で、日本は韓国の保護権、 南樺太太、遼東半島、東清鉄道南満洲支線(南満洲鉄道) の経営権、沿海州の漁業権などを獲得し、十二月には、ロシアから日本が譲渡された権利を清が確認する日清条約を調印しました。

    中国人のナショナリズムが始まったのは、ー九一九年三月にコミンテルン( 世界同時革命をめざす共産主義者の国際組織) が形成された直後の五・四運動からです。それまで南方の漢人にとって、万里の長城の北の満洲は異国でした。ところがロシア革命と、アメリカ大統領ウィルソンの民族自決の思想により、淸朝の領域はすべて中国なのだから、 外国人を迫い出せ、という国権回復運動が始まりました。

    ー九〇五年以来、すでに四半世紀ものあいだ、日本が現地に営々と続けてきた投資に対する補償などという考えは、張学良にはありません。外国との条約を反故にするのが当たり前というのは、国家を継承した意識がないということです。

    張学良の排日運動は、武装警官が日系の工場を襲って設備を破壊したり、鉱山採掘を禁じて坑道を壊すなどのほか、日本が認められていた土地商租権を、中国侵略の手段であり領主主権の侵害であるとして、土地・家屋の涌租禁止を宣言したのみならず、以前に貸借した土地・家屋の回収も図りました。もっとも被害を受けたのは、日本人として入植した朝鮮人でした。

    9章 満洲国の遺産が中国に近代をもたらした

    中華人民共和国では、一八四〇年のアヘン戦争によって「半植民地」の「近代」が始まり、それ以前は秦・漢帝国以来「封建社会」の「古代」だったと時代区分します。しかし、このような中国の近現代史観がっくり出されたのは、日本との戦争の最中である1940年代でした。

    中華人民共和国の初代国家主席になった毛沢東は『水滸伝』が好きだったらしいのですが、シナの伝統をよく知っており、戦記話が上手だったそうです。「中国共産党はペンと剣で権力を握った」と自分でも言っています。ペンとは情報、剣とは軍隊のことです。

    ー九三七年に支那事変(これを日中戦争と呼ぶようになるのも戦後です) が始まると、毛沢東は、
    蔣介石の国民党に日本軍との戦闘を任せて、自分たち共.産党の兵力は温存しました。日本が負けたあと、国民党に勝利するためです。そして、自分たちが勝利して国家をつくったときに、自分たちの建てた国が天命を受けた正統の国家であることを証明するための歴史を書いていたのです。

    実際には、アヘン戦争ではなく、一八九四年から始まる日清戦争で日本に負けたことに、清朝はほんとうの衝撃を受けたのです。シナはそれまで長いあいだ、日本をただの「東夷(束の野蛮人)」と考え、数にも入れずに見下していました。しかし、明治維新で西欧を真似て近代化に励んだ日本が、わずか三十年で自分たちよりも強くなったことを見て、 やっと「これではいけない」と思ったのです。

    このあと清朝は日本の明治維新に見ならって政治改革をし、多くの清国留学生を日本に派遣して、日本語を通して近代化を学びはじめます。でもそれを認めたのでは、日本に負い日ができます。それで、日本は悪いことしかしなかったことにして、 西欧の衝撃を受けて「近代」が始まった、という歴史をつくり出したのです。

    そもそも司馬遷の『史記』以来、シナにおける歴史は、なぜ前の王勅が天命を失って、次の王朝が天命を得たかを明らかにするものでした。だから今、申国大陸を統治している中華人民共和国は正義で、戦争に負けて大陸から追い出された日本のしたことはすべて悪かった、というのが中国人にとっての「正しい歴史認識」です。日本は天命を失ったのだから悪いことをしたに違いない、と説明されると、中国人は納得するわけです。

    1950年6月25日、北朝鮮軍が戦車を先頭に、怒濤のようにー— 八度線を越えて南に進軍しました。日本では長いあいだ、勅鮮戦争は南が仕掛けたと教科書にまで書かれていましたが、これは当時の日本では左派勢力が圧倒的に強く、社会主義は善で、資本主義は人民を搾取する悪の勢力という図式がまかりとおっていたからです。

    金日成がなぜ南を武力統一できると考えたかというと、北は般業の適地ではなかったけれども鉱物資源には恵まれていたので、日本が北に工業地帯を開発したからです。工場を動かす電力を供給するため、当時では世界最大級のダムを北に建設しています。今でも北朝鮮が稼働させている水豊ダムです。地上の楽園ではなかったにしろ、南よりも北のほうが、近代化が進んでいたのです。それが、金日成が南に侵攻した理由でした。

    1953年七月に朝鮮戦争は停戦協定がまとまりますが、これはアメリカが停戦協定に署名しただけで、韓国は承認していません。韓国の要人は
    署名していないのです。

    朝鮮戦争は、 ほんとうに悲惨な戦争でした。朝鮮戦争のたった三年間で、日本の十五年におよぶシナ大陸での戦争と同じ程度の犠牲者が出ているのです。軍事技術が飛躍的に進んでいたことを割り引いても、驚くべき数字です。
    戦争による破壊によって、南だけで工場、建物の四十四パーセント、機械施設は四十二パーセント、発電設備の八十パーセントが被害を受けました。せっかく日本の統治時代に近代化を実現していたのに、その遺産が灰塵に帰してしまったのです。

    終章 今こそ日本人のための世界史を書こう

    自分たちで過去を都合よく書き換え、自己正当化した歴史ではなく、別の立場から客観的に見ると、 世界史はこんなに違って見えるということが、読者のみなさまにも、かなりはっきりわかっていただけたのではないか、と思います。それは、譬えて言うなら、自分をこう見せたい、と思う相手の着飾った姿を正面から見るのではなく、一所懸命にその姿を演じているところを、後ろや横から見るということです。後ろ姿や横顔は無防備なので、ほんとうの姿が現れやすいのです。

    これまで日本で教えられてきた、ギリシア文明に起源をもつ西洋史と、シナ文明を軸に語る東洋史の枠組みを離れて、中央ユーラシア草原から世界を見てみると、世界史はずいぶん違って見えるということが、明らかになったのではないかと思います。

    モンゴル帝国と大日本帝国という、時代は異なりますが、この二つの帝国は、人類の歴史にほんとうに大きな役割を果たしたにもかかわらず、今の世界史では無視されています。あるいは出てくるとしても、世界の人民に悪いことをした、という否定的な言及しかされません。

    歷史とは、たんに過去に起こった事柄の記録ではありません。歴史とは、世界を説明する仕方なのです。その場合、 目の前にある現実の世界だけを対象にするのは、歴史とは言いません。今は感じ取ることができない、過去の世界をも同時に対象にするのが歴史なのです。

    ところが、ストーリー(物語) のない説明というのは、人間の頭には入りません。だから、過去と現在の世界を同時に説明するストーリーが必要になってきます。紀元前5世紀に、世界で初めて歴史書を書いたヘーロドトスの『ヒストリアイ』に起源をもつ、歴史を意味するヒストリーという言葉は、物語という意味のストーリーと語源が同じです。

    しかし、ここで大きな問題が生じます。少し考えればわかることですが、現実の世界にスト—リーはありません。ストーリーがあるのは、人間の頭のなかだけです。過去は無数の偶然、偶発事件の集積にすぎず、一定の筋書きがあるわけではないのです。一定のコースもありませんし、一定の方向もありませんし、一定の終点もありません。けれども、人間の頭でそれを説明するためには、どうしても筋書きが必要になります。

    その筋書きが、文化や立場によって異なるから、国によって世界観も歴史認識も、まったく違ってくるわけです。
    たとえば、現代の中国も、韓国も、北朝鮮も、今、現在、国家を率いている支配層の統治の正統性は、他人の領土を侵略した悪い日本に抵抗して、自分たちの民族国家を打ち立てた、という物語にあります。

    アメリカも、戦前の大日本帝国は、アジアを侵略した軍国主義の悪い国だった、国際連盟から統治を委任されていた太平洋地域でもろくなことはしなかったから、 原爆を落としたことは正義だった、と自分たちの過去を正当化してきました。

    歴史とは、自分たちが納得できるように過去を説明するストーリーだということです。だから、史実が明らかにさえなれば、紛争の当事者双方が得心して問題が解決するというようなものではないのです。残念ながら、世界中の人が納得するような世界史は存在しないし、これからもできないだろう、と言わざるをえません。

    われわれ日本人が、これからいよいよ自分たちの眼で世界を見直して、 自分たち自身で新しい世界史をつくるときに、気をつけなければならないこと、克服しなければいけないことを四つ、示したいと思います。

    第一は、歴史に善悪二元論を持ち込まないことです。歴史は法廷ではないのです。
    第二は、自虐史観は、敗戦国民である日本人が戦争貞任をすべて押しつけられたもので、歴史ではなく政治である、 ということを自覚しなければなりません。

    第三は、日本列島だけが日本で、外地は日本ではなかったのだから、大日本帝国を日本史として扱わない、という思想は、『日本書紀』に起源があるということです。
    第四は、日本の歴史は神武天皇の即位とともに始まりシナ文明の影響を受ける前から日本列島には独自の文化があった、という思想も、政治的背景のあるものだということを、私たちは認めなければなりません

    過去の出来事を説明するとき、どちらのしたことが正しかったか、悪いのはどちらか、と考えるのは、たいへんわかりやすいので、これまでも洋の東西を問わず、世界中の人々に受け入れられてきました。けれども、歴史は法廷ではありません。善悪二元論を歴史に持ち込むのは、紛争をつくり出し、禍根を残すだけです。

    西洋では、キリスト教に大きな影響を与えたペルシアのゾロアスタ—教が、善悪二元論の起源です。ゾロアスタ—教は、世界は光明(善) の原理と暗黒(悪) の原理の戦場で、坡後に光明が勝って暗黒が滅び、それとともに時間は停止して世界は消滅する、その前に救世主が降誕して、最後の審判がある、と説きました。イエス・キリストを生んだユダヤ人は、ペルシア帝国の支配下に長く暮らしたため、キリスト教もその影響を強く受けました。

    中世ヨーロッパのキリスト教徒による十字軍や、十五世紀に始まるヨーロッパの大航海時代にも、ヨーロッパのキリスト教徒は善の側であるから、キリスト教徒でないアジアを征服するのは神の意志だとされました。今のアメリカ人も、善悪二元論の影響を強く受けています。

    シナ文明は、結果がすべてです。現代中国人にとっての「正しい歴史認識」とは、「今、中国大陸を統治しているのだから、中華人民共和国が天から承・認された国家で、だから中国の言うことはすべて正義である。一方、日本は戦争に負けて大陸から追い出されたのだから、天に見放されたということで、日本のしたことがすべて悪かったのは、明々白々である」というものなのです。

    ストーリーのない説明は、人間の頭には入ってこないと言いましたが、誰も経験していない過去の歴史は、つくり話が上手ならば、まったくの噓でも信じ込まされてしまうという危険があります。その絶好の実例が、中国や韓国が自国民に教え込ませている反日的な歴史なのです。

    良心的な歴史教師は、ストーリーは言ってみればフィクションなので、噓をつかなくて済むように、歴史を語る場合にストーリ—を抜くという傾向が見られます。何年に何があったという歴史的事実を教えるだけなら、嘘にはなりません。

    ところが、日本の側ではストーリーが教えられないので記憶に残らず、中国と櫟国が自分に都合のよいストーリーを作成して日本人に押しつけるので、そちらのほうがわかりやすくて受け入れられる、ということが起こります。

    ー九四五年に敗戦国となって、アメリカの占領下で歴史の見直しをさせられた日本人は、自己保全のため、日本の歴史を、再び日本列島の内側だけに限定させることを選んだのではないか、と私は考えています。

    日本史はもともと、古代から日本列島の内側の出来事だけを論じるものでした。それで戦後になって、日清, 日露戦争から敗戦までの五十年間も、日本列島の内側だけを日本史と見なすことにしたのです。日本列島の外側はすべて、もともと外国だったのだから、そこに行った日本人は外国の領土を侵略した悪い人たちだ、と戦後の歴史教育は教えます。そう言われると普通の日本人が納得してしまうのは、日本史の枠組みのせいです。しかしながら、日常の営みを戦争と一緒にして論じるのは誤りだし、日本人が外地でしたことすべてが悪かったと断罪するのは、あまりに政治的な言い分ではないでしょうか。

    日本の歴史は紀元前660年の神武天臬即位以来、万世一系の天臬を戴いて今日まで続いており、漢字や仏教が大陸から伝わる前から日本人は独自の文化をもっていた、という考え方は、『日本書紀』と『古事記』の日本神話に基づいています。

    自虐事観に反発する日本人はだいたい、それに代わるものとして、この日本神話を持ち出すのですが、日本文明こそが世界一古く、君主は万世一系だ、というような日本中心史観では、何を論じても、結局、中国や韓国と大同小異で、同じ土俵上で争っていることになります。
    自国の立場を正当化するために書かれる国史をどんなに集めても、世界史にはなりません。国民国家がまだ存在しない時代の歴史を、国民国家史観という現代の枠組みで書くのは誤りであるということを、私たちは自覚しなければならないのです。

    ただし、日本人にはとても有利な点があります。それは、十九世紀末まで、日本は世界史に登場せず、ほとんど何の役割も果たさなかったという点です。たいへん皮肉で矛盾した言い方ですが、 だからこそ、事件や紛争の当事者ではなく、第三者として、公平に歴史を叙述することができるの ではないでしょうか。

    歴史には、宗教やイデオロギーに比べてだんぜん有利な点があります。それは、ストーリーの書き換えが可能だということです。ストーリーは嘘をつくときにも使えますが、 宗教のように原理主義に陥ることなく、世界の見方を変えることもできるのです。

    つまり、過去にある歴史が物語られていたとしても、そのあと何十年か経った時点で、今度はそのときの新しい世界を説明するために、過去を問い直すことができるという柔軟性が歴史にはあるのです。

    私の師であり夫でもある岡田英弘(朿京外国語大学名誉救授) が生涯をかけて明らかにしてきた「歴史とは文化である」という哲学と、「世界史はモンゴル帝国から始まった」という歴史観を、なるべく多くの日本人に知ってもらいたいという動機です。

    私の強みは、内陸部の草原から東アジアを見ることにある、と思っています。13世紀からの八百年間にわたるモンゴル史を通じて、拡大と縮小や、勝者と敗者の両方の立場などを考える癖がついています。それで、二十一世紀の日本人が戦前の大日本帝国の歴史を語るときに、あまりにも小さなことにばかりとらわれるのが歯がゆくてなりません。満洲についても、関東軍のことや、満洲で暮らした日本人にしか興味がないのは、視野が狭すぎるのではないかと思ってしまいます。

    歴史の真実を知って、日本人全貝が元気になるように願っています。

  • 宮脇先生の入門として読みました。

    モンゴル帝国は、歴史にぽっと出ですぐ消えたという印象しかありませんでしたが、こんなにも過小評価されていたということに驚きました。

    モンゴル帝国なしには中央アジアはもちろんロシアや中国も歴史が繋がらないほど。

    ロシアの歴史ってそういえばバイキングの時代を過ぎたらあとはニコライ2世、ピョートル大帝、エカテリーナ、イワン雷帝(順不同)くらいしか知らず、もしかしてその間をしらないなと思っていたけど、その印象は間違ってはいないらしい。ロシア?ソ連?は、モンゴル時代を葬った(葬りたい)ようだ、と。

    モンゴル帝国をもっと知りたくなりました。

    宮脇先生の本(一般向け)読破が目標。

  • 世界が変化するものであり、その変化の歴史を語るものが、歴史である そう、歴史というものは、そもそも不公平なものなのです。書く材料がたくさん残っている文明は、教科書の中でたくさんの分量がもらえ、古く文字資料のない地域は、考古学の発掘成果などを使って埋める外ないのです
    またレボルーションは、もともと回転や周期という意味で、横に転がって元に戻る事を指し、その主体は人間です。ところがシナの革命は天が命を革めるのであって、主語は天です

  • 著者の言うとおり、12世紀の中央アジアから俯瞰すると、世界史の見え方が変わる。

    すべてはモンゴル帝国から始まった。
    モンゴル帝国がなければ、今の世界はない。

    ロシアと中国の膨張主義は特筆すべき。
    中国政府は清代への復古を主張するが、漢族は清朝の末裔ではないし、漢族の王朝が支那を支配した時期は長くない。

  • そもそも「歴史」とは何ぞや、から語られています。

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著者プロフィール

1952年和歌山県生まれ。京都大学文学部卒、大阪大学大学院博士課程修了。博士(学術)。東京外国語大学・常磐大学・国士舘大学・東京大学などの非常勤講師を歴任。最近は、ケーブルテレビやインターネット動画で、モンゴル史、中国史、韓国史、日本近現代史等の講義をしている。
著書に『モンゴルの歴史』(刀水書房)、『最後の遊牧帝国』(講談社)、『世界史のなかの満洲帝国と日本』(以上、ワック)、『真実の中国史』(李白社)、『真実の満洲史』(ビジネス社)など多数。

「2016年 『教科書で教えたい 真実の中国近現代史』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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