噛みきれない想い

著者 :
  • 角川学芸出版
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  • Amazon.co.jp ・本 (255ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784046214690

感想・レビュー・書評

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  • ふと、立ち帰るような内容のごく短い随筆が連なっているので、忙しいとき、疲れているとき、合間に頁を繰るのに向いている本。ケアというものについての思索が通奏低音として流れている。

    <blockquote>P13 納得は、もがき苦しんだ後にしか訪れない。(中略)相手が自分と同様、土俵から下りずに同じ果てしない時間を共有してくれたことそのことにふと想いが及んだ後にしか、納得は生まれない。そこではともにもがき苦しんだその時間の確認が大きな意味を持つ。聴くというのも、話を聴くと言うより、話そうとして話しきれないその疼きの時間を聴くということで、相手のそうした聞く姿勢を察知して初めて人は口を開く。その時はもう、聴いてもらえるだけでいいのであって、理解は起こらなくていい。

    P25 要するに、世界を受け止めるキャッチャー・ミットをとにかく大きくしておくということだ。

    P43 リベラりティとは、気前の良さ、鷹揚さ、さらには施しや贈り物を意味している。(中略)「リベラリティ」、それは、自分にはなじめないものにも自分を開いておく自由である。

    P60 わたし(あるいは多くの関西人)のように、どこに行ってもイントネーションを変えない人間は、言葉という次元では確かに死を一度も経験していないのかもしれない。けれどもほんとうは、そのことじたいが一つの死なのかもしれない。なぜなら、異文化に接して自らの文化が根底から揺らぐという経験を受けつけてこなかったのだから。

    P77 聴くというのは、ただじっと耳を開いていればできることではない。「ほう」「へえーっ」とうなずきながら、相手が語りきるまでじっと待つということが大事だけれど、時に話をそらしたり、はぐらかしたり、聞かなかったことにしたりと、柔軟な「受け」をかえすことも必要だ。受け身でいるというのは、かなりの才覚とエネルギーを要することなのだ。
    聴くことのコアにあるのは、待つという、さらに受け身の姿勢だ。逆説的なことだが、何かを期待して待つというのは、待つことを不可能にする。期待していることがなかなか訪れないとイライラ、じりじりしてくるし、それが待たれている相手に余計な負担を強いることにもなる。

    P97 聴き役というのはいわば定点みたいなものである。自分が迷った時、ふさいでいるときに、ふと振り返るといつも後ろから見ている人がいる。責任部署とか警察のような機関ではなく、あくまで具体的なひとである。(中略)誰かに見られている、あるいは関心を持たれていることで初めて、ひとは独り立ちできる。

    P100 インタビューの難しさは、そして怖さは、相手との接点がこれまでにないにもかかわらず、相手にまだ信用されていないにもかかわらず、会うなりストレートに突っ込んだ話に入るという点にある。(中略)級有するコンテクストがほとんどない中で、まず他界になじむことにエネルギーを費やすのではなく、ストレートに問題の本質に入ってゆく。そういう会話がそこでは必要となる。インタビューはそういうコミュニケーションのスタイルを身につけるためのレッスンとなりうる。

    P104 ただ、ここで注意しておきたいのは、「世直し」を志向する人たちも、イメージとその共有を強く好むということだ。(中略)集団を開くというより、時にイメージが妄想にまで膨らみ、固まって、それを軸に集団が内向してゆくからだ。(中略)集団を形成する時に重要なのもそういうことだろう。互いに差異を深く内蔵したまま、緩やかな、しかし確かな紐帯をかたちづくる。そのときけっして共有しかけているイメージを硬直させないこと。

    P128 筋の通った人生というのは、虚構や思いなしを養土としているということ。

    P138 じっさい、みながこぞって心配しているという図は、みながこぞって忌避しているという図と、図としては同じである。(中略)ケアの場はやるせないものだ。一度限りの解決というものもなくて、果てしない疲労に襲われる。そこには、本人の無念、家族との長年の確執もまた流れ込んでいる。だからケアについては繰り返し「美しい」物語が紡ぎだされるのだが、私たちは同時に、そのケアの場がとてつもなく「危うい」場であることから眼を逸らせてはならない。見たくないものを見ることも、希望を抱くことと同じくらいたいせつだ。

    P148 患者が受動的になるというのは、他者への関心を失い、意識が自分の家へと閉じて行くということだ。これは、治るというのとは正反対なことである。治るというのは、じぶんの身体のことではなく、じぶん以外のものを慮り、それにきちんと関心を持てるということだ。それがふつうの生活に戻るということなのである。

    P178 「だれか一人のひとの面倒を別の一人のひとがそっくり見るようには、人間はできていない」。それが最大の「無理」だとわたしはおもう。

    P204 何もしないことになれていると言おうか、手もちぶさたなときのスタイルが決まっている。(中略)がんばりの後の休息でも退役したがゆえの気楽さでもなくて、しなければならないと思われてきたことをしないことがこの社会を変えることにつながるようなひとつの超絶として、老いを味わいたい。
    イタリア野郎の、あの佇まいに匹敵するようなかっこよさが、わたしたちの老いには必要なのではないか。

    P235 からだをほぐすというのはほんとうは身体にまとわりつく身体についての時代の観念をゆるめるということであるのに、「正しい身体の使い方」は観念によってがちがちにされたその身体を、さらに別の観念で金縛りにするということにしかならないからである。</blockquote>

  • 読みやすい哲学書だと感じた。
    ずばっと著者の考えが載っているのもサッパリしてて面白かった。
    なるほどな〜と思う部分も多く、生きる上で参考にしていきたい考えが多かった。
    2013.7

  • 哲学者である著者が、普段の生活の中で感じた何だか「噛みきれない」ものをエッセイとしてつづった本。

    気になったものだけ以下メモで。

    ・価値の遠近法がおかしい
    ・他者のまなざし
    ・受身(聴き手)でいることの意義 語る=対象化
    ・現代アート コミュニケーション
    ・理解においては、一致よりも不一致を思い知ることが重要?
    ・恋愛 交換不可能性 反復不可能性 「アイデンティティ」を見つけやすい
    ・パッシングケア 認知症老人介護の一方法 つきあいが方法になってはいけない
    ・学校「教える/応える」⇔「験す/当てる」不信を前提とした関係
    ・一人のひとが別の一人のいのちをそっくり面倒みるというふうには人間はできていない
    ・教育≠教える 教育=見せる
    ・哲学者のことを古代ギリシャ人は梟にたとえた
    ・ゆとりは息抜きではない。精進のたまもの。
    ・柳宗悦『茶道論集』 「貪の心のない所にこそ貧がある」「足ざるに足るを感じる」

  • 鷲田先生は他の本もお薦めです。

著者プロフィール

鷲田清一(わしだ・きよかず) 1949年生まれ。哲学者。

「2020年 『ポストコロナ期を生きるきみたちへ』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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