歌集 憂春 角川短歌叢書 (角川短歌叢書 コスモス叢書 第 792篇)
- 角川学芸出版 (2005年11月22日発売)
- Amazon.co.jp ・本 (223ページ)
- / ISBN・EAN: 9784046217011
感想・レビュー・書評
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本集は『エトピリカ』に続く、「小島ゆかり」さんの第七歌集であり、2001年9月から2005年1月までの中から、541首(長歌一首、旋頭歌一首含む)を収めてあります。
また、本集には三つのテーマ制作もありますが、私には全く知らないものばかりであった為、ここでは割愛させていただきます。
さて、私にとって、初めての小島ゆかりさんですが、彼女を知ったきっかけは、穂村弘さんの『短歌の友人』であり、そこでの彼の彼女の歌に対する解釈が、とても印象的だったからです。
『この世に身体をもって在る「われ」の不安定さ、わからなさ、不思議の底を潜り続けることで、独自の作品世界を生み出した』
例えば、本集の中ですと、
『火に炙る魚うらがへしじぷじぷと西日があたる背中が暑し』
『南天を照らすまひるの陽の寒さまたたきてわれは黒眼こぼせり』
のような感じで、ちょうど暑さと寒さで対照的になっているのも面白いですし、前者は、炙られている魚の辛さに自分を投影させたような感覚が、まるで魚を食べようとしている事に対して、罪の意識まで覚えているかのような後ろめたさであり、後者は、照らされていても南天は、さぞ寒い思いをしているんだろうなと、やはり自分事のように感じていて、その黒眼こぼせりといった表現は、彼女の眼には、南天の実が零れ落ちたような錯覚を覚えたのではないかと捉えると、小島さんにとって、日常の身の回りの中にふと存在する、生きるものたちは彼女自身なのかもしれず、それはもしかしたら、彼女が生きていく上での大きな励みとなっていたり、同じ世界に存在するものたちへの憧憬の眼差しなのかもしれません。
そう考えると、上記した『「われ」の不安定さ』というのは、実は彼女自身の不安定さというよりも、彼女自身の中に持つ、生きとし生けるものたちに自分自身を重ね合わせた、この世界への愛おしさと、それらと共に生きていく喜びが現出したものなのかもしれず、最初、歌集を読む前の小島さんの印象として、どこか不安定な危うさに共感を抱けそうな思いを持っていたのが、実は、優しさ故の不安定さなのかもしれないと思うと、小島さん自身の印象も大きく変わりそうで、更に彼女の歌と生き方に興味を持つことが出来ました。
そして、そうした気持ちで改めて読んでいくと、実に多様な作風を、ひとつの歌集から感じさせられて、それがまるで、小島ゆかりさんという、一人の人生を表しているようでもある点には、短歌もひとつのアート作品であることを実感させられます。
『帽子ぬぎ渓に降りゆく一人あり陽はあやまたずその人を射る』
一人で暑さを実感している、山奥にハイキングに来たときの孤独感を如実に表しているような、それとも、太陽がいるだけでも心強いのか、微妙な印象が面白い。
『山陰の茶房にすわるひとときを対き合へば人はこんなに近し』
前の歌に対する答えのような、人の存在って、こんなに鮮明で濃いものなんだということを、思い切り感じさせてくれる臨場感が、歌から漂ってくるようで好き。
『君に棲む樹木のこころビール瓶かたむけて今日のたそがれを注ぐ』
こんなオシャレな歌も詠むんだと驚いたのもあったが、ここでも樹木と人間を同一視したような、小島さんの思いが印象的。
『遠空に春のあらしの聞こえつつ朝の窓を蜘蛛の子走る』
『爆撃のテレビニュースに驚かず蜘蛛におどろく朝の家族は』
もっと差し迫った重大事があるはずなのに、どこか対岸の火事のような認識を、無自覚に抱いていることへのメッセージは自虐的でもあり、私も実際そう思いそうだから、うーんと唸ってしまう。
ここからの、思春期にさしかかる娘たちを巡る、母の顔も見せた三首には、却って生々しく、一人の女性の素朴な思いが覗えそうで、ああ、こんなこと思ってたのかと知れたようで、身に染みました。
『子を叱りすぎたるのちの夜長し口すぼめみかんいくつも食べぬ』
『返事のみよくて話しを聴かぬ子の弁当に大き梅干入れぬ』
『担架にて運ばるる子を追はんとすわれは裸足に運動靴はき』
また、友に抱く深い友情には、そのかけがえのない思いが溢れすぎていて、とても胸に響く。
『あなたなぜ癌になつたのですか友よ 道玄坂上雨つよく降る』
『病む友のうしろに迫る全円の夕日まふゆの夕日を憎む』
『友よいま夕日を見るな瞳より壊れてしまひさうだからあなた』
タイトルの『憂春』は、小島さんにとって、この四年間が、なにか言いがたい憂いに包まれた日々だと感じていたが、そうした憂いの中にこそ、生きることの尊い謎があるような気がして思いついた、言葉だそうで、そこには上記の娘さんたちのこと、ますますわからなくなる歌のこと、そして小島さん自身もそうであったことを知り、確かに上記の数々の歌には、そうした憂いを投影しながらも、冷静にそれと見つめ合おうとする小島さんの姿が垣間見えそうです。
『家族らはみなここを過ぎ往復すわたしは最寄り駅のやうだな』
『みぞれ雨、糠雨そして花の雨 濡れ雑巾のわたくしである』
『憂春の身はしばしばも貝類の砂吐くごときつぶやきをせり』
そして、その中にこそある『生きることの尊い謎』は、最初に書いた私の、小島さんの歌に見た、生きとし生けるものたちへ、彼女自身を投影した姿からも感じさせられた、そこには自己愛もあるけれど、それを優先していない感じというか、彼女の歌には、自分自身を投影しながらも、まずは、彼女では無いものへの優しさが優先されていることに、私はとても尊いものを感じさせられて、それこそが、生きることの尊さのひとつでもあるのではと思えたことが、私にとって、新たな気付きを促してくれたようで嬉しく感じられ、それは、いちばん最後の彼女の歌にも、よく表れているようでした。
『紅茶の香まゆげに沁みて晩秋はさびしいばかりでもなし 人よ』
私にとって、久しぶりの歌集は、ひとつひとつに、どんな思いが潜んでいるのかをじっくり考えるのが、とても楽しかったのですが、いざ感想を書くとなると、私で上手いこと伝えられるだろうかと、不安で躊躇ってしまい、すぐに書けずに、仰向けに寝そべって窓を見上げたら・・・といった時の歌です(結局、それか^^;)。ごめんなさい<(_ _)>
みかづきはすぐに書かずと仰臥位しじくじたる我ただ見つめたり -
2001年から2005年までの歌五四一首(長歌一首、旋頭歌一首)を収めた第七歌集。超空賞受賞。「午後のかぜ瀞(とろ)にしづみて夏ふかしあなひそかわれに魚の影ある」「わが髪より生(あ)れしならずやなまぬるき風を起こして黒揚羽とぶ」「空蝉は油のいろに透きとほり蝉かもしれぬゴータマ・ブッダ」「<四人乗りゴンドラ>に四人家族乗り宙に浮かべり一塊として」「風呂敷に夕日をつつみ見せに来し祖父よ春のある世の夢に」「死ののちもこの家族なり春彼岸ぱんぱかぱーんと弁当ひらく」「風に飛ぶ帽子よここで待つことを伝へてよ杳(とほ)き少女のわれに」「あるときはさみしい顔の犬が行くわたしのなかの夏草の径」
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好きで好きで読んでいると身めぐりの時間が凪ぎます。そのときそのときを生きる息づかいが手でなぞれそう。巧みにやわらかく。
素敵なコメントをありがとうございます(^^)
そう言って下さり、嬉しいです。私も、おそらく穂村弘さんの...
素敵なコメントをありがとうございます(^^)
そう言って下さり、嬉しいです。私も、おそらく穂村弘さんの『短歌の友人』を読んでいなければ、知ることは無かったと思うので、穂村さんには、とても感謝しておりまして、他の小島さんの歌集も読んでみたくなりました♪
私の歌について、恐縮ですが、ありがとうございます。
ベルガモットさんの視点が、とても新鮮で、歌に新たな命が吹き込まれるかのようです。
ちなみに『ただ』は、単なる偶然です(^_^;) ずっと仰臥位していても、みかづきは、ただ私を見ているだけで、別にアドバイスとかしてくれないよ、みたいな思いを、『ただ』に込めまして、そのおかげで少し冷静になることが出来て、吹っ切れました(^^)
『短歌の友人』読んだはずなのですが、記憶の彼方...
『短歌の友人』読んだはずなのですが、記憶の彼方へ…
「いざ感想を書くとなると、私で上手いこと伝えられるだろうかと、不安で躊躇ってしまい」というたださんの言葉に、私も心の中で強く頷いておりました。私も感動しすぎてレビューできない歌集がいくつかあります。(穂村さんの歌集とか)
『短歌の友人』は、あれだけの濃い内容なので、なかなか覚...
『短歌の友人』は、あれだけの濃い内容なので、なかなか覚えられないと思います。私の場合、気になる歌人さんと、歌をいくつかメモをしていたのが良かったみたいです(^_^;)
穂村さんの歌集は、言葉に出来ない感じがあるので、分かるような気がいたします。
私の中では、やはり『シンジケート』が衝撃的でしたね。