- Amazon.co.jp ・本 (255ページ)
- / ISBN・EAN: 9784046532770
作品紹介・あらすじ
山の中で高笑いする女、赤い顔の河童、ふと見上げた天井にぴたりと張り付く人……遠野の郷にいにしえより伝えられし怪異の数々。柳田國男の『遠野物語』を京極夏彦が深く読み解き、新たに結ぶ。新釈“遠野物語”。
感想・レビュー・書評
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京極さんの紡ぐ言葉で鮮やかに妖しく色を成し、
新しく生まれ変わる遠野の物語。
どこから遠いのか、どれだけ遠いのか。
眼前に在りながら辿り着けない。
御伽噺でも見ているかのように、
怪異も恐怖も静かで美しく蠱惑的な
幻想へと様変わりしていく。
紫の雲がたなびき桐の花咲き満つ朧な故郷、遠野。
しかしひとたび氏神様を尊び、実りに感謝し、
自然への畏敬の念を忘れると
容赦なく異形のものへと姿を変え、
牙を剥き命もろとも取り去ってしまう。
願はくはこれを語りて 平地の人を戦慄せしめよ。
自然とは底知れず恐ろしい。
でも、いつの時代も一番恐ろしいのは人間の業。詳細をみるコメント0件をすべて表示 -
柳田國男の「遠野物語」を京極夏彦が編纂したもの。
京極夏彦の前書きで「百年を通してをりをりに読み継がれし名著なり」「今の世に在りてこそ、より多くのものに読まれんことを切望す。願はくはこれを語り手平地の人を戦慄しめせよ」と言っているんだが、なかなか本家の名著までに行きつけず、漫画版(http://booklog.jp/users/junsuido/archives/1/4091828795)や編纂版から遠回りしている。
取り上げられている物語は、山の怪、山に住む異形のもの、生者の前に現れる死者の姿、村の人々の栄枯盛衰、山男に攫われた女の悲哀、働けなくなった老人たちが村を離れて住む集落、山に咲く花や鳥の話、など。
異形のものに会ったり体験したといっても、それが自然の中の出来事であり、「幽霊を見たけれど特に何の前兆というわけでもなく何も起こらなかった」というのもかえって奇妙。
山怪にあうたびに猟師を辞めようと思いつつ結局鉄砲撃ちを辞められなかった男の話は因果だなと思う。
馬に恋するオシラサマの話は現代の生活では、昔話の定番の一つの異種結婚物かくらいにしか思っていなかったのですが、
テレビで人と馬の生活が一体となった住居を見て納得した。
松尾芭蕉が出羽でそのような住居で泊まった時の俳句が
蚤虱 馬の尿(バリ)する 枕もと
まさに人が寝ているすぐ続きが馬舎になり、馬の尿の音が枕元に聞こえるような生活。こんな生活だったら幼いころから過ごした馬に恋する娘さんの話も出てくるだろう。 -
<起承転・・・で終わる物語が残す余韻>
ふと考えると、原典の遠野物語を通読したことがないのだが、本書が読みやすいといくつかの書評で拝読し、読んでみた。
原典は、柳田國男が、遠野の人、佐々木鏡石から聞き取った、百あまりの物語からなる。民俗学の古典的名著であり、柳田の初期の代表作でもある。
京極夏彦がこれらの物語を現代語に訳し、関連のあるものが続くよう順序を入れ替え、編み直したのが本書となる。
一読、不思議な余韻のある物語群である。
物語が始まり、広がり、ふっと様相を変える。そこでそのまま終わる物語が多い。
「これはこういうことなのである」と語り手による明白な結論や解釈が付かない。それが山道で迷子になった心細さのような、覚束ない感覚を呼ぶ。
山人、ヤマハハ、マヨイガ、河童、経立(ふったち:年を経た獣が成る変化)。
出てくるものたちも確かに妖しいのだが、この簡素な語りに潜む妖しさは、その語り自身からも生じている。
人知を超えた、という。それは、ある意味、ヒトの能力に限りがある、ということの裏返しである。
五感、つまり視覚にしろ、嗅覚にしろ、聴覚にしろ、突き詰めればもっと優れた形になりうるはずである。ヒトの能力では、見えないものはあるし、嗅げないものはあるし、聞こえないものはある。
五感以外のヒトが持たない感覚、というものもまたあるはずである。
そして、ヒトの理性もまた、完璧とは言えない。
超常的な話に持って行きたいわけではない。
ただ、完璧ではないヒトの理屈では、測りきれないものもあるのだ、と思う。
理路整然としたわかりやすい話には、往々にして、どこか、抜け落ちているものがある。わかる部分だけを拾い上げて話を組み立てるからだ。だから、わかりやすいけれども、いや、それだけではないはずだ、ともやもやした思いを抱えることがある。
この物語群には胡散臭いわかりやすさがない。わからない部分はそのままに、理由はわからないがこのようなことがあった、という。
深い森の中で、しんとした山の中で、真の闇の中で、ヒトの五感は研ぎ澄まされる。研ぎ澄まされた感覚は、自身の感覚が有限であることもまた知るのだろうと思う。
柳田は序に「願わくはこれを語りて。平地人を戦慄せしめよ。」と記す。
平地人が戦慄すべきなのは、自身の知が有限であること、そしてそれを忘れがちであることに対してなのかもしれない。
茫漠とした震撼を呼ぶのが、この物語の持つ「わかりにくさ」であるのなら、いずれ、「読みにくい」と称されることもある原典を繙いてみたいものである。
*この世界はそのまま、『いるの いないの』の闇にもつながっている。 -
三津田信三の民俗学的な要素が多い
ホラー・ミステリーなんかを愛読していると、
なんとなーく遠野物語はマスト!みたいな雰囲気があって
読みたいなあ読みたいなあと思っていた私には
本書はとても助かりました。
あくまでも原典のもつ雰囲気を損なわないよう
京極さんも編集さんもすごく気を使われたようで
現代語訳されながらもフォントが昔っぽい感じなので
さながら原典を読んでいるかのような錯覚を起こします。
Remixとしてる意図としては、現代語訳化されているのに加えて
お話の順序が組み直され、ABCの3パートに別れている点。
おそらくAパートは遠野周辺の自然環境(周りの山)に
まつわる怪異の話が中心で
Bパートは遠野に根付く風習や土着信仰といった
民俗学的な要素を含む怪異の話という形で
並べ直してるんだろうと思う。
Cパートは短めで遠野に伝わるお伽噺に関するもの。
さらに、Remixでは
ABCパートに分けた上で、原典では順序なく散らばっていた
Aという山の話に関する話を1箇所にまとめた上で
前後の話のつながりを整理して並べてくれているので
頭の中に入りやすい形になっていた。
自分としては、風習や土着信仰絡みの話が多くて
三津田信三のルーツを感じるBパートが面白いと思った。 -
人の住まぬ荒地には、夜どこからともなく現れた女のけたたましい笑い声が響き渡るという。川岸の砂地では、河童の足跡を見ることは決して珍しいことではない。遠野の河童の面は真っ赤である。ある家では、天井に見知らぬ男がぴたりと張り付いていたそうだ。家人に触れんばかりに近づいてきたという。
遠野の郷に、いにしえより伝えられし怪異の数々。民俗学の父・柳田國男が著した『遠野物語』を京極夏彦が新釈。 -
柳田國男さんの遠野物語を京極夏彦さんが翻訳したもの。現代語なのでとても読みやすく、物語の不思議さ、不気味さがダイレクトに伝わってくる。
話の順番も同系統の話が続くようにまとめられている。
こうして読むと、この物語の語り部・佐々木鏡石はもうとんでもない量の話を知っていることがわかるし、その話を聞いた柳田がまだ35,6歳だったという事にも驚く。
話を読みながら、巻頭の地図を何度も眺め、遠野地方に思いを馳せた。
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「遠野物語拾遺retold」の後から読んだが、こちらの方は怪異譚の方が多く、習俗の話は少ない。習俗も興味があるが、怪異譚のおもしろさは抜群だと思う。
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夢中で読みました。夢中で読みすぎたために、乗っていた電車が折り返していたこと気づかずにかなり遠くへ行ってしまいました。
ずっと興味のあった遠野物語。京極堂がよく話題に出すのでとても気になっていたので、読むことができてほんとによかったです。
この後、出張で東北に行くことがあったので、お休みを利用して遠野にも行ってみました。妖怪ゆかりのスポットがたくさんあって楽しかったのです。 -
NHKの「100分de名著」で取り上げられていて興味を惹かれたので読んでみた。
オリジナルの文体だと読めないと思ったので、この京極さんの現代訳の方にしてみた。
岩手県遠野盆地に伝わる民話を、佐々木喜善より聞いた柳田國男がまとめた説話集。
河童・山人・座敷童などの妖怪話や、狐にばかされた・幽霊を見た・臨死体験をしたなどの怪談など奇怪な話が多い。
明治43年に書かれたものだけど、大昔の民話というわけではなく、数年前・数十年前に聞いた・起きたという話がたくさんあって、不思議な話なのに妙な臨場感もある。
現代ではすっかり消えてしまったのか、もしくは、人々が鈍感になって気づかなくなってしまったのか、こういう奇怪な現象やもののけが明治の初めの頃までは人間のすぐそばにあったのかもしれない。
それは、「自然」や「動物」と似たような存在で、昔はそれらと共生していたのかもしれない。
テレビで「もののけ姫」を見たばかりなので余計にそんなことを思った。