日本人とキリスト教の奇妙な関係 (角川新書)

著者 :
  • KADOKAWA/角川学芸出版
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レビュー : 2
  • Amazon.co.jp ・本 (220ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784046534330

作品紹介・あらすじ

信仰がなくても十字架のペンダント、聖書の売上は世界第3位。しかし信者は人口の1%――日本人とキリスト教の特異な関係はなぜ生まれたのか。キリシタン時代からの歴史を追いながら日本人固有の宗教観にせまる。

感想・レビュー・書評

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  • キリスト教の信仰を200年以上も守り続けた長崎の住民.凄いことだ.日本人が外来の文化に接する時の感覚は,今も昔も変化していないことに驚いた.確かに仏教もお釈迦さまが言っていたことと,今の日本の仏教は別のものと言っても過言ではない.キリスト教も日本の風土に合わせて来た.第7章の「教会に門松を立ててよいか」での議論はとても面白かった.

  •  この本の主役は白石と村人だ。日本人とキリスト教に纏わるエピソードが色々と取り上げられた一冊で、その歴史を時系列的に書いていっているわけではない。

     白石とシドティ(シドチだと思ってた)の対話はずっと気になっていて、ここには白石の結論と性格がわかりやすくまとめられている。白石の詮議は4回にわたる。

     白石の目的はただ一つ。日本より外の世界。西洋の知識がどれほどのものか知ることだ。最新の科学技術や世界情勢を知り白石は驚くが、どうしても納得できないことがある。キリスト教だ。シドティがわざわざ命がけで伝えようとしていることが、まるで白石にとっては「いかむぞ、嬰児の語に似たる」と話にならない。

     デウスについて、シドティは「天地万物はデウスが作った」という。白石は「ではデウスはどうして生まれたのか。デウスが勝手に生まれたのであれば、天地万物も勝手に生まれるものではないか」と。
     また、「罪」について。シドティは「デウスのさだめた戒めを人間は破った。その罪はあまりに重く、自分たちの力でそれをあがなうことはできない。デウスはそれをあわれんで、イエスとなってこの世に生まれ、その罪をあがなったのだ」。
     白石は「罪をあがなえないようにしておいて、それをあわれんで自分であがなうってなんのこっちゃ」。
     白石は、博覧強記のシドティから、こんなバカな話が出てくるとは信じられなかった。
    「二人の言を聞くに似たり」と感想を述べている。そして結論する。

    「西洋にならって学ぶべきは知識と技術のみ。その根本にある精神には学ぶべきものなし」

     しかし、そこからが面白いのは、白石はシドティの信仰心には感激するのである。父母を捨ててここまで来たその信仰は立派であると。キリシタン部屋に閉じ込めておくのはかわいそうだ。そして長崎に来航する中国船に乗せて早々に国外へ出すべきであると、幕府に上申までしたのだ。が、却下される。シドティは1714年に日本で亡くなる。

     日本はどういう風土であるか。芥川の神々の微笑にもあるが、人間をこえた存在を許容しない風土。それでいて、草も木も、人もみなひとしく成仏するという風土である。

     1805年、5000人ものキリスト教信者が発覚する「天草崩れ」事件が起こるが、その際、独特の信仰形態に変化していたため、これはキリスト教ではなく、異宗であるとして処刑が行われなかったことがある。そして時代は流れて、戦時中の1943年、またも宗教事件が天草で起こる。
     そのやりとりが面白い。
     要するに英米の宗教を信仰している一部村人に対して、特高や村の青年団長や学校校長らが糾弾するということだ。
    「日本のためではなく、お前らはカトリック教会のために戦っているし、もし英米が迎えに来たら、喜んでついていくのではないか」(実際は、米が迎えに来たら、日本人のほとんどは喜んでついていったし憲法も押し頂いた)
     信者である村人側は窮地にたたされるが、そこで予備役の陸軍大尉が鶴の一声を述べる。
    「これは謀略である。カトリックの精神では、日本の神社を粗末にするわけがない。みんな仲良くできるはずなのに、それができてないのは英米の陰謀である。一致協力すれば日本は勝てるのに、いま思う壺になっているぞ」
     これで糾弾会の流れが変わった。信者側の反論のチャンスが来る。
    「私たちはいつもキリスト教であることだけで、いじめられたりしてきた。神社には必ず詣でるけれども、神社にいるあなたたちがぜんぜん受け入れてくれない」
     結局、出席していた、糾弾する側の学校長が頭を下げることになる。
     さて、ではキリスト教信者が神社参拝するのはどういう理屈によるものであるか。
     その根本はここにある。

    <マタイによる福音書>
    【そのときパリサイ人たちがきて、どうかしてイエスを言葉のわなにかけようと、相談した。
    そして、彼らの弟子を、ヘロデ党の者たちと共に、イエスのもとにつかわして言わせた、「先生、わたしたちはあなたが真実なかたであって、真理に基いて神の道を教え、また、人に分け隔てをしないで、だれをもはばかられないことを知っています。
    それで、あなたはどう思われますか、答えてください。カイザルに税金を納めてよいでしょうか、いけないでしょうか」。
    イエスは彼らの悪意を知って言われた、「偽善者たちよ、なぜわたしをためそうとするのか。税に納める貨幣を見せなさい」。彼らはデナリ一つを持ってきた。
    そこでイエスは言われた、「これは、だれの肖像、だれの記号か」。
    彼らは「カイザルのです」と答えた。するとイエスは言われた、「それでは、カイザルのものはカイザルに、神のものは神に返しなさい」。
    彼らはこれを聞いて驚嘆し、イエスを残して立ち去った。】

     もしヨーロッパが戦争を仕掛けてきたらキリスト教徒はどうするのか。
    「キリスト教の教義は、魂は神のもの、体は天皇と軍隊のものだと教えています」という。
     キリスト教徒は神社を訪れてよいか。
     レヴェレンティア(尊敬)である限り許容される。アドラティオ(礼拝)と区別されることである。天皇陛下をレヴェレンティアしてよい。しかしアドラティオではない、ということだ。
     そうしてキリスト教を信じながら、教会に門松立てたりしつつ、日本人は生きているわけであるが、まあ、ざっくりとしているけれども、大枠はわかった気がする。

     白石も、村人も、「どうも納得できないし、突っ込めるけれども、なんか頑張って信じているし、懸命なので立派だ」という、温情主義から上から目線を抜いたもの、「なんか頑張ってるからええやん」という感情でキリスト教を見ている気がしたし、信仰者自身もそうな気がする。ある時、「キリストがこんな私のために犠牲になってくれた」と、私の友人は涙を流しながら言ったが、私にとって、それはシドチに涙する白石と変わらないと思った。

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著者プロフィール

東洋大学教授

「2018年 『古代中国の社 土地神信仰成立史』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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