遣唐使の光芒 東アジアの歴史の使者

  • 角川学芸出版 (2010年4月20日発売)
3.25
  • (0)
  • (2)
  • (1)
  • (1)
  • (0)
本棚登録 : 31
感想 : 2
サイトに貼り付ける

本ページはアフィリエイトプログラムによる収益を得ています

Amazon.co.jp ・本 (264ページ) / ISBN・EAN: 9784047034686

作品紹介・あらすじ

古代国家形成に大きな影響をもたらした遣唐使。対等外交だったか、朝貢関係か、その対外認識や政策の実態など、遣唐使事業のすべてを検証し、将来された文物と思想、日本独自の文化受容のあり方を描く。

感想・レビュー・書評

並び替え
表示形式
表示件数
絞り込み
  •  森克己の遣唐使船がお粗末だった説に対する反論が掲載されている。
     沈没船の発見によって、船の構造が判明するなどして、遣唐使船のイメージは一新されているという。
     遣唐使船の大きさは三〇メートル。幅九メートル。排水量二七〇トン。積載量一五〇トン。二本のマストの帆船で、船底は尖り、波を切り裂いて進み、網代帆と藤の纜、布の帆もある。横波に弱い構造だった。
     また出港時期であるが、唐の正月儀礼に遣唐使は参加していたので、どうしても6,7月にタイミング的に出港しなければならず、季節風に対する知識がないわけではない。台風の恐れのないのは10.11月くらいになるので、出港時期はそんなおかしいものではない。また、遣唐使は20年に一度の出発なので、船を操作する人も、一世一代の挑戦で、技術の共有や継承が難しいことも想像できる。

    遣唐使は到着しても、何も歓迎もなく、自力で役所に出向いて日本から来た遣唐使であることを役所に申請して、食料を貰わないといけない。大宝のときもそうだ。1年に2回もくらい派遣してくる渤海や新羅と異なり、20年に1回くらいしかこない日本は、このような扱いになるのもやむを得ない話だ。即官憲がきて審査する体制でもなかった。
    遣唐使船は、住吉社で推進式を行い、難波津に移動して出発する。
    到着して、役所に向かう。つぎに、都へと向かう。全員が唐の都に行ったわけではなく、一部だけである。人数分の馬が用意された。五品舎人や宦官が来て、長安城から東に三キロの長楽駅にて酒や肴を準備して、エネルギー補給。そのあと、外宅とされるところに案内される。監使と呼ばれるものが管理者として、接待したりしてくれる。その後、皇帝と謁見する。国書を携帯して渡す。礼見の場所は大明宮紫宸門南側にある宣政殿で行われる。複数の国が同時に出席する。
    日本の遣唐使は、唐側の理解の便宜のため、唐風の官職名を有していた。粟田真人は「民部卿」だったら、唐風に「民部尚書」を称した。
    大宝のときに定まったのは、日本国号だけではない。二十年一貢の制度が決まったのも大宝のときだという。
    弁正と玄宗の関わりは皇帝に即位後も続き、皇帝との人脈作りに弁正は尽力した。また、同時に行った坂合部大分も、長大少髪というイメージを中国に残していて、唐の人士と交流していた。道慈は百座仁王会に屈請された100人の高僧にも選ばれていて日本の仏教界に鑑真を呼ぶきっかけの人物となる。とくに玄宗在位中は安定した日唐関係を維持することになった。
    結局、遣唐使が日本に持ち帰ったものを整理すると
    仏教関連……教学の伝授、経典、仏像・図像、寺院の図、僧侶招聘
    儒教関連……教学の教授、孔子廟の見学、唐礼、公羊・穀梁伝、その他書籍
    その他の学芸……律令、陰陽、医学関係、香道、舞楽、囲碁、琵琶、暦など
    その他将来品……水はかり、測影など技術品、仏足石図、呂律の道具、弓、工芸品
    唐の服装の制度、儀礼、長安の実見
    となる。

  • 『栗里先生雑著』「石上宅嗣補伝」が引く「大沢清臣本壬生家文書」について言及がある。
    宅嗣の学識によって、日本は危機を乗り越えた。

全2件中 1 - 2件を表示

著者プロフィール

森公章(もり・きみゆき):一九五八年生まれ。東洋大学文学部教授。東京大学大学院人文科学研究科博士課程単位修得退学。博士(文学)。専門は日本古代史。著書『遣唐使と古代対外関係の行方』(吉川弘文館)、『天神様の正体――菅原道真の生涯』(吉川弘文館)、『武者から武士へ』(吉川弘文館)、『平安時代の国司の赴任』(臨川書店)など。

「2023年 『地方豪族の世界』 で使われていた紹介文から引用しています。」

森公章の作品

  • 話題の本に出会えて、蔵書管理を手軽にできる!ブクログのアプリ AppStoreからダウンロード GooglePlayで手に入れよう
ツイートする
×