ウィトゲンシュタイン 論理哲学論考 シリーズ世界の思想 (角川選書 1003 シリーズ世界の思想)

著者 :
  • KADOKAWA
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  • Amazon.co.jp ・本 (360ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784047036314

作品紹介・あらすじ

ウィトゲンシュタインは、哲学の問題すべてを一挙に解決するという、哲学史上でも最高度に野心的な試みを遂行した。著者生前唯一の哲学書を、これ以上ないほど明解に、初学者にやさしく解説した画期的入門書!

感想・レビュー・書評

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  • 読むのが楽しくて様々な本を手にするのだが、読んだ直後は
    わかった気がしていても、しばらくすると身になって残って
    いるものがわずかなことに気が付く。ウィトゲンシュタイン
    や現象学関連の本はいつもそんな感じだ。楽しいのだから
    いいのではあるが、やはりいつかはきちんとやっつけたい
    対象である。

    この本は現代哲学の記念碑的作品、ウィトゲンシュタインの
    論理哲学論考を、初心者にもわかりやすく噛み砕いて解説
    した本である。あくまでも著者が正しいと思う解釈である
    ことは忘れてはいけないが、やっつけるのにはもってこいと
    いうことだな。

    さすがに「ウィトゲンシュタインって誰?」というような
    哲学に全く素養の無い人間には難しいだろうが、わたしは
    大変楽しく、そして理解が進む本であった。論理哲学論考は
    一冊手元に置いておくかな。

    ふと思ったのだが、この、言語の限界にぶつかって突破
    しようともがくところにレトリックが生まれるのだろう。

  • 語りえない(生きる意味)と知りつつも、語ろうとしてしまう。その狭間で格闘し抜くことこそ、哲学なのだと改めて思った。

  • 原著を読んでいたけどちんぷんかんぷんで、この本の解説を見てなんとか理解できる部分があった。
    全部は読めていないし理解しきれていないけれど、
    最初の部分に書かれている、物はそのものとして存在せず、事態のなかから切り出されているということは理解できた。
    人が言葉を定義して輪郭を決めて認識しているが、それも含めて事態の部分にすぎず、その物だけを切り取ってとあんまり意味のないことなのだと思った。
    そういう意味では世界は繋がっていて、その中の一部分として自分が存在している感覚を持てたような気がした。

  • ウィトゲンシュタイン『論理哲学論考』の初学者向け解説。丁寧な説明と例えで、切り詰めたウィトゲンシュタインの言葉が理解できる。論理学と数学などを思い切って省き、また節を先取りで大局的に読み進める点も、読解の導入には非常に優しい。『論考』で述べられていることは、論理学を利用して、言語の限界を探り、哲学(特に形而上学)の諸問題が、その限界を超えた命題もどきで無意味である点を指摘する、言語批判という点に尽きる。発想としては、世界を事実の総体として見ることで、それを写し取る言語命題と写像関係に落とし込む。そして、無時間的な全ての事態の可能性を含んだ論理空間を想定し、命題の最小単位、対象に対応する「名」からできる「要素命題」なるものを設定することで、論理学の命題に変換し、全ての命題が要素命題に同じ操作を繰り返した反復適用であることを示す。それが言語の限界であり、思考の限界であり、世界の限界である。私、神、倫理、美、魂、意志などの形而上学的な絶対的価値の説明が、命題として事態を表していないトートロジーにしかなりえず、意味を欠き、かつ論理的に無意味な命題であることを示す。その意味で、「語りえないことについては沈黙しなければならない」のである。
    参照は示さないと序文でいいながら、フレーゲラッセル概念記法を批判的に乗り越え、スピノザ『エチカ』永遠の相と論理空間を重ね合わせる。さらに言えば、カント『純粋理性批判』における、理性の限界と超越論的仮象という思想は引き継いでいると思われる。形式を重視する点、アプリオリ、対象・物自体に対する名・ヌーメノン悟性体、超越論的、吟味的批判、点としての主体・統覚、定言命法と重なる部分はかなり多いように見受けられる。同時代のハイデガーは別の方法から存在、世界、現存在すなわちここでいう「語りえないこと」を語ろうとしたが、同じ面を別の側面から、語源解釈で最小単位・限界を見出したように思える(本書にあるとおり、実際ウィトゲンシュタインは存在と不安に同じことを考えることができると述べている)。
    文献案内や『論考』以外の著作から理解を支えるなど、『哲学探究』へつながる前提知識が得られる優れた入門書。
    ・人と作品
    1889.4.26オーストリア=ハンガリー帝国ウィーンで生まれ、父カールが鉄鋼王、母レオポルディーネがカトリック、両者キリスト教ユダヤ人だった。8人兄弟の末っ子で芸術家が出入りする大豪邸。14歳まで家庭教育、ヒトラーも通うリンツの高等実科学校、ベルリンの工業大学、イギリスのマンチェスター大学工学部で高層気流とプロペラ設計、数学、数学基礎論、論理学、言語哲学へ。1911夏、論理学数学基礎論言語哲学のゴットロープフレーゲを訪ね、ケンブリッジ大学論理学者バートランドラッセルに学ぶよう勧められた。2年足らずでラッセルに影響を与えるまでになる。
    遺産は芸術家に与え全てを手放した。第一世界大戦で義勇兵として最前線に立ち勲章を授与された。その中で『論理哲学論考』は書かれた。1918年捕虜収容所からラッセルに送り出版された。1919年釈放後、ケンブリッジ大学には戻らず、小学校教師を6年行い体罰事件で辞職する。修道院庭師、姉邸宅設計で暮らすが、ウィーン学団論理実証主義シュリックやカルナップが訪れ、再度哲学を志し、1929年ケンブリッジ大学に戻る。『論考』で博士号取得、1939年教授就任。1941年第二次世界大戦イギリス連合に貢献できないか模索し、ロンドンで病院で奉仕活動。1947年教授辞職、アイルランド、ノルウェー、オクスフォード、ケンブリッジ、ウィーンを転々として執筆活動。1949年前立腺癌、1949.4.29死去。
    出版されたのは、『論理哲学論考』のみ、出発を意図していたのは『哲学探究』第一部。『青色本』は学生に口述筆記させたノート。『数学の基礎』『心理学の哲学』『確実性の問題』『色彩について』は未完のノート。『反哲学的断章』宗教、天才、音楽、文学、建築、演劇、祭り、夢、科学、進化論、ヨーロッパ文明、ショーペンハウアー、カールクラウスなど他で扱われてないテーマ。『ウィトゲンシュタインの講義ケンブリッジ1932-1935』『ウィトゲンシュタインの講義数学の基礎篇ケンブリッジ1939』学生のノート。
    ・0
    『論考』の目的は哲学のほとんどが、言語使用の混乱に基づく擬似問題であることを証し立てること。形而上学的問いは、言語の限界を超えている。言語によって言語の限界を明らかにする。〇〇については語りえないというとき、〇〇が有意味でかつ無意味という、言語と思考の分離不可能性、言語の外に出られない。しかし、『論考』はその判断を可能にする。
    大きな7つの文章に対して、関連の重さに合わせ補足注釈のコメントが付番され、記述されている。
    ゴールは語りうることと語りえぬことの境界線を引くこと。命題を現実を写しとる像ないし模型と捉え、総体を言語、言語と世界を写像とする。世界、命題と言語、言語の限界。
    ・1
    1節〜
    世界は、成立している事柄の総体である。
    物があっただけでは関係、あるという状態が事実として成立していること(事柄、出来事)が言えなくなる。世界は我々が出会う前から事実としてなければならない。物自体は命題になりえない、真偽がない。
    論理空間とは、想定しうる可能性が目一杯寄せ集められた、最も広い空間。蓋然性(起こる確実性、可能性の程度)が低くとも論理的に誤りと言えないものであれば含まれる。可能性の総体。
    ・2
    2節〜
    成立している事柄、すなわち事実とは、事態の成立のことをいう。
    論理的に可能な事柄を事態(あるいは状況)
    成立している事柄を事実
    事態の構成要素が物(対象)
    事実の総体が世界
    事態の総体が論理空間
    世界は事実の総体としてあり、あらゆる可能性を含んだ事態の総体、論理空間が広がっている。
    事態は物(対象)の結合によって構成されている。物は事態ありきで特定の仕方で切り分けられるので、事態の構成要素としてあることが本質的である。ものが存在することはそれだけで事態。世界のうちで事実に出会い、事態を想像し、はじめて共通要素として物を見出す。赤い何かが存在する、とは赤いことなしに赤い何かは存在せず、赤い何かなしに赤いことはない。何ものも赤いことなく、赤いということはできない。つまり、存在する、赤いという意味をなすのは、事態の中に限られる。はじめに事態ありき。
    論理空間におけるあらゆる可能性を、物(もの)対象の形式という。物の可能性全体はあらかじめ確定している。
    →事態として現れるために、可能性に含まれていなければならない。
    偶然ほかの物と結合し、新たな可能性が生まれることはない、すなわち後から新たな可能性が発見されることはない。全ての対象が与えられたなら全ての可能な事態も与えられる。全ての対象形式は論理空間と一致する。
    事態の中で他の物と結合する可能性の総体を、対象の形式
    あらゆる可能な事態の総体、全対象の形式の総体を、論理空間
    ・3
    想像の世界も形式が必要。世界は対象の配列により構成される。空間、時間、色が対象の形式。対象は不変のもの、存在し続けるもので、対象の配列が変化するもの、移ろうもの。配列によって事態が構成される。対象の結合の仕方が事態の構造、構造の可能性が形式。
    対象が、論理空間でどのように事態の中に事実として現れるか、という事態の構造の可能性の形式は、あらかじめ成立しないことが確実な蓋然性0のものを除いて、確定している。世界の配列の仕方は確定していない。時間空間色は事態の構成と独立ではないので、対象は無色である。
    対象は事態ありきということを、論理空間における事態からではなく、対象から示している。
    ・4
    成立している事態の総体が世界で、成立不成立が現実、現実の総体が世界。
    事実は事柄が成立した事態のみだが、現実は事態の不成立も含む。しかし、事実は成立していない事態を暗に示す。したがって、世界は事実の総体であり、現実の総体でもある。ただし、論理空間は世界は未確定なので、論理空間に確定した成立不成立の境界を書き込まれた現実とは異なる。
    ・5
    事実の像、論理空間における事態の成立不成立を表現するもの、現実に対する模型。像の要素が対象。像は要素の関係、結合の構造としてのの事実。構造の可能性を写像形式といい、同時に物の関係の可能性も表す。ただし、写像形式自身を写すことはできない。像は、現実と現実の形式である論理形式を共有していなければならない。写像形式が論理形式であれば論理像であり、それはすべての像。ただし、空間的像を写しとるとは限らない。
    現実の模型=像のうち最も強力なのが命題で、真偽を表現する記号の配列の仕方。単なる模型は事態を示さないが、命題は必然的に事態を表現する。像は論理空間の事態を表す。物の関係を表すのが像、写し出すメディアフォーマットが写像形式。写像形式は現実と像が共有するもの。
    「写像形式」(⇔の関係)
    事態(⇔像)を構成する対象(⇔要素)の形式
    =諸対象(⇔要素)の結合の可能性
    =事態(⇔像)の構造の可能性
    写像形式のうち、譜面のように、音の現実は写しとるが、場所や演奏家の空間的像は写しとらない像もある。写像形式の総体が論理形式。像の総体が論理像。写像形式はすべて論理形式なので、像もすべて論理像。
    →事態を表す形式が論理形式で、像はその内容、写像形式は具体的な形式。形式の重視はかなりカント的。
    写像形式、像などの「一般の本質は何か」が『論考』の関心。
    →本質、何かのハイデガー存在論的。
    写像形式は現実と像の間にありそれを示すには別の形式が必要になる。新幹線とジオラマを線で繋ぐなど。対応関係を語る説明、メタ言語が必要だが、写像形式内部では不可能。
    →柄谷行人の自己言及性
    何が現実と像に共有されているかは、「語りえないが示されている」という図式は重要。
    ・6
    像は現実を写しとるが、真偽とは独立に写像形式によって意味を描出する。真偽は現実との比較を必要とし、像だけではわからないことから、アプリオリに真である像は存在しない。
    →カント的アプリオリの形式。
    ラテン語アプリオリ、経験的認識に先立って、経験的認識とは独立に。必然的。
    像の真偽は、現実と比較しなければ確かめられないという意味で、アポステリオリ経験的な事柄である。ウィトゲンシュタインは経験的というのとを、偶然的という意味も重ねている。各性質が当てはまる事態の外延が一致している。
    像の意味はアプリオリ。必然的。
    アプリオリ、アポステリオリは認識論。
    必然的、偶然的は存在論(形而上学)。
    ・7
    3節〜
    事実の論理像が思考であり、事態の像が可能であるとき思考は可能。真なる思考の総体が世界の像。非論理的なこと思考することはできないこで、非論理的な世界を語ることはできない。
    「の次マグネットはである織田信長」のようなランダムな文字列は、事態を描き出しておらず、像ではない。意味をなさない像、論理的に破綻した像、非論理的な命題を語ることができない。成立していない事態は命題によって描き出されるので、それなしに論理空間、思考の可能性はない。言語の外で考えることはできない。ただし、すべては言語の産物という観念論、反実在論ではない。言語以前に論理空間がある実在論でもない。
    世界は命題で語りうるのと同じ形であり、その可能性も一致する。
    ・8
    思考は命題において知覚可能な形で表現される。記号のうち命題記号が世界と射影関係にあるものを命題という。命題は可能性、意味の形式を含むが、事実、内容は含まれない。命題記号はその要素(語)の関係であり、一つの事実。命題が語へと分節化される。
    射影は幾何学概念で、ガラス板に描いた図形を卓上ライトに当てたときのように、様々に変化する形においてもみられる共通の不変の性質。写像形式をこの射影的性質に喩えている。したがって、命題は形式。命題は語の関係であり、像、事態と同じように、単体で語(要素、対象)があるわけではないので、命題から語へと分節化される。フレーゲ文脈原理。
    ・9
    思考対象に対応する命題記号要素を単純記号(名)といい、そのとき命題は完全に分析された命題(要素命題)となる。対象が名の指示対象。命題の完全な分析は一つだけ存在する。確定した明確な内容を表現しており、命題は分節化されている。名はそれ以上分解できない原記号。
    →世界、像、言語、思考、カントの感性悟性理性のカテゴリー論的
    →世界=現実の総体(物・対象の事実+成立していない事態)
    →論理空間=論理像(要素の形式=結合可能性)
    →言語=命題記号(単純記号=名の形式)
    →思考(名の形式)
    「名」は難問で、「である」「は」「が」などが名が不明。日常的な意味で命題における語は分解可能。新幹線はJR運営の時速200km以上の旅客用列車など。
    『論考』における言語は最大限詳細で広い語りうるもの。子どものぶーぶーわんわんは、v型12気筒エンジンのフェラーリF50の四速やトイプードルとマルチーズのマルプーの雄がマーキングを繰り返すことは語りえない。
    名や要素命題が述べられる理由。経験次第で語りうることは変わる。何が最もきめ細かい語や命題かは経験に依存したアポステリオリな問題。したがって、名と要素命題は具体的に例示できない。逆に、名と要素命題がありうると前提にすることで、語りうることを最大限保証した言語について論じることができる。名の要請は命題の意味が確定すること、分析がただ一つで、確定した明確な内容を表現することを表す、究極の言語を想定している。それでもなお「語りえないこと」を、アプリオリに定めることを『論考』は目指している。したがって、名も対象も単純であり、原理的に例示できない抽象的なものである。
    →カント物自体、悟性体ヌーメノン
    複合命題←結合←要素命題←結合←名
    複合事態←結合←単純な事態←結合←対象
    ・10
    記号が表現できないことを使用が露わにする。原記号の指示対象は、原記号が使用される命題によって解明される。
    論理空間における事態の現れ方、対象の結合の可能性はすでに決まっていて、その総体を対象の形式という。
    命題においては記号の形式とも言えるが、使用と述べられている。記号の本質は使用。新幹線」という記号を「新幹線は早い」と使用することによって、記号の表現されていない、呑み込んでいる部分を露わにする。語が命題に含まれているので、定義と区別して、解明という。
    しかし、使用の解明で指示対象が明らかにされる一方で、「指示対象が知られているときのみ解明は理解されうる」という。プラトン『メノン』、「探究のパラドックス(アポリア)」、探究するためには知っている必要があるが、知っているのであれば探究する必要がない。しかし朧げにわかっているが、言語化できないことは多々あるので、問いを立て探究ができる。通常の記号であればこのようにパラドックスを回避できるが、名=原記号=単純記号であれば、完全分析されているので、パラドックスは回避できない。論理空間の静的無時間的次元においては、名は対象と同様に可能性を含んでいるので、特定することと全ての使用法は同時に成立する。つまり、「命題における使用によって名の表すものを明らかにすること」と、「名の表すものを知っていることが命題の理解の条件」ということは同じ事柄を別の側面から述べていることになる。
    →構造主義的スタティックさ
    ・11
    命題の意味を特徴づける各部分をシンボル(表現)。名、命題自身≒要素命題が一つの表現。表現を含みうるすべての集合の共通の定項となり、一般形式となる。その他の表現は変項となる。記号は、シンボルの感性的に知覚可能な側面。
    命題の各部分(語、名)は、記号(音声、文字)の偶然的な非本質的側面と、意味という本質的側面に分けられる。
    →ソシュール記号論、シニフィエシニフィアン
    事態を表現する命題の本質的側面を指すためにシンボル(表現)を導入する。y=2xのように新幹線xも関数として扱える。定数ではないから定項、xを変項と呼ぶ。
    我々は普段、新幹線という語を用いる際、全ての命題など前提にしていない。つまり、全ての命題形式を前提し対象を名指す名と、名が構成する要素命題、二つの本質的側面がシンボル(表現)。
    ・12
    異なるシンボルが記号(文字音声など)を共有することがあるが、異なる仕方で指示することになる。日常言語は、同一の語が異なる仕方、シンボルに属する、あるいは見かけ上同じだが異なる仕方で用いられる。ist繋辞・等号・存在、etwas何か・何事か=対象・出来事、緑は緑である人名・形容詞。異なるシンボル。哲学全体がこのような根本的混同に満ちている。論理的文法、論理的構文論が必要となる。フレーゲラッセル概念記法は不十分。記号からシンボルを読み取るには、有意味な使用に注目する。論理的構文論に従った使用によってはじめて記号の論理形式が定まる。使用されない記号は指示対象をもたない(オッカムの格言の意味)。
    混同が哲学の問題となるのは、「美はものの性質のひとつを表すものである」というとき、見たり触ったりできるものと、美というものを混同し、美が対象だと捉えてしまうことなどで、「美はそれ自体世界に存在するのか」という問いが発生する。それは疑似問題だ。解消法は二つある。
    一つは記号の使われ方を見通す。中世イギリスの哲学者神学者オッカム、説明に余計な原理や存在を立ててはいけない。使用されない記号は余計なもの。しかし、この見通す方法は膨大で不可能。
    二つ目は一つのシンボルに一つの記号が割り振られる新言語をつくる。ただし、シンボルは名と要素命題の性質であるため、日常言語や自然言語には不可能。記号の文法ないし構文論(文を構成する各部分同士の配列の規則)を反映した人工言語。あらゆる日常言語の文法が共有しつつ、特定の日常言語に帰せられない文法を、論理的文法ないし論理的構文論。どんなに荒唐無稽でも、経験可能な事態を指す有意味な命題であれば、論理的という。論理的な文法でない日常言語はない。記号論理学、フレーゲは概念記法ともいう。命題はp,q、語はa,b。『論考』はよりよい概念記法の基本設計にあてられている。本書では論理学上のテクニカルな要素は省略せざるをえない。
    日常言語に非論理的な部分があるわけではない。混乱を除去するための補助道具として概念記法はある。このウィトゲンシュタインとは異なり、フレーゲラッセルは理想言語とした。
    ・コラム1
    1848生まれフレーゲ、数学者から論理学、哲学へ。記号論理学創始者。アリストテレス名辞論理(主語+述語を名辞という命題の基本型として扱う)に比肩する。フレーゲは、名辞を関数として扱い、ストア派命題論理と統合し、推論も扱える公理体系を構築した。概念記法。幾何学と大別される算術の基礎づけに役立てるために開発された。算術が論理学の一部であることを証明する論理主義だった。算術概念を論理学で定義し、算術的命題が論理学の公理体系から導出することで、基礎づけようとしたが、ラッセルのパラドックスの発見で挫折する。記号論理学から言語哲学へ発展し、フレーゲは祖であるが、『論考』も最も実り豊かな収穫物のひとつ。
    ・13
    命題は、意味の本質的、命題記号が生み出される仕方の偶然的側面がある。表記は恣意的だが、他の事柄はそれに応じて非恣意的に決まる。
    →ソシュール恣意性
    個別の特定の表現方法がとるに足りないとしても、それらひとつひとつが可能であるということがわれわれに世界の本質を開示している。
    →ハイデガー世界開示
    正しい記号言語は、他の言語に翻訳される規則をもち、それを定義という。
    日常言語における個別性は、各文化の歴史に由来するので、経験的=偶然的=恣意的である。特定の表現に重要性はないが、何らかの日常言語によって世界の無数の可能性が具体的に輪郭づけられる。語りうることの可能性=思考しうる世界の可能性。
    ・14
    命題は、論理空間(論理的に可能な事態すべての集合)にひとつの場を指定するが、それは構成要素=有意味な命題によって保証されており、論理空間全体がすでに与えられていることを示す。
    ひとつの記号が機能するためには、無数の命題という文脈が必要であり、それは、日本語、英語などひとつの言語全体が必要だということ。これを全体論という。
    ・15
    4節〜
    思考は有意味な命題のことであり、命題の総体が言語。人間は個々の語の指示に無頓着でも、意味を表現する言語能力をもっている。日常言語は、人間の複雑な有機体の一部であり、思考に仮装を施すので、論理を直接読み取ることは不可能。
    →カント的仮象
    哲学の問いは、誤っているのではなく、言語の論理を理解していないことに基づく無意味。答えられず、無意味さを確認するだけ。深遠な問題は、問題ではなかった。哲学は、言語批判。
    →カント的批判=吟味
    ラッセルは、命題の見かけ上の論理形式が、本当の論理形式とは限らないことを示した。
    『論考』分量の1/5にも達していないが、難所は越えており、以降重複も増えるので、感覚的には70%に達している。
    挨拶、命令、祈りなどは命題ではないが、言語である。しかし、『論考』は語りうること、事態の描出の限界に焦点があるので、有意味性の探究に特化する意味で、言語を命題の総体を指す語として定義している。
    日常言語は複雑であり混乱が生じるので、無意味な命題もどきを炙り出すために、論理を読み取れる人工言語が必要。そうした試みを言語批判という。言語批判は、日常言語の欠陥を指摘することではなく、構造を吟味し、論理形式を見えるようにすること。哲学者作家フリッツマウトナーの言語批判は、日常言語の不完全性からの解放。ウィトゲンシュタインは日常言語を貶めない。
    哲学の問題を一挙解消する目的と、哲学の言語批判の積極的役割を述べることは矛盾するが、前者の思考の病を暴く、治療の営みとして後者の哲学がある。
    ・16
    命題は現実の像。象形文字は記述事実の写像、アルファベットでも命題の本質を失っていない。
    →記号論
    命題はイエスかノーの確認を残すのみまで、確定させる必要があり、真でなくとも命題は理解できるが、真は事実を知ることを要する。命題の本質は、新しい意味を既存表現で伝えること。命題における状況は実験的に構成され、意味をもつことは、状況を描き出すこと。
    命題は直ちに像として現れる。重要な点一つ目は、命題として理解したとき、それは真偽に関係なく、明確な意味をもっている。二つ目は、はじめて見聞きしても既存表現であれば、意味を把握できる。実験的な新しい組み合わせで、新しい意味を作り出している。ただし、論理的文法、論理的構文論に基づく。そして、完全に分析された『論考』の論理空間では、新しく命題が生み出されることはない。目的はその先の限界にある。
    ・17
    物の名と物の名の結合が事態を表現する。記号が対象に代わってそれを表すが、論理定項自体は対象となるものではないし、論理を記号が表すことはない。
    命題がどのような事態を表現するかは、分解された名という記号が、どのような対象を指示によって決まる。論理定項とは、〜ではない、.かつ、vまたは、⊃ならばなど(現在では¬、∧、∨、⇒)。これらは何も指示していない。概念記法も論理的と呼ぶ性質に従っているので、その外から非論理的に表現できるわけではない。
    『論考』執筆前のノート、全てのことを語り表現しうる言語があるとすれば、その性質については、この言語でもいかなる言語でも語りえない。これは、命題と現実が共有する論理形式そのものを写し取るのが不可能なのと同様に、人工言語をもってしても論理そのものを語ることはできない。
    ・18
    現実の像である命題のみが真偽でありうる。命題はすでに意味をもっているので、命題の肯定は意味の肯定にすぎない。否定は、その命題と別の論理的場にかかわる。再び否定できるということが、否定されるものがすでに命題であることを示す。
    二重否定は肯定に等しい。~~p=p
    ・19
    真なる命題の総体が、自然科学の全体である。哲学の目的は、自然科学的な学説ではなく、思考の論理的な明晰化の活動であり、解明すなわち命題が明晰になること、限界を示すことを本質とする。自然科学の議論領域を限界づける。思考可能なことを限界づけ、思考不可能なこととの境界線を内側から引かなければならない。考えうること、言い表しうることは明晰にしうる。論理形式を描き出すには、命題とともに論理の外、世界の外に立たねばならない。論理形式は命題に反映されており、論理形式、すなわち言語に反映されているものを描き出せない。言語に自ずと表れているものを我々が言語によって表現することはできない。命題は、現実の論理形式を示し、論理形式を提示する。
    →現実を指し示し、思考との間を架橋する。
    形式的性質、構造の性質、それらの関係を論じることはできるが、命題で主張されるのではなく、その事態を描き出し、その対象を扱う命題で示すにすぎない。内的性質を相貌(顔つき、顔かたち)と呼ぶ。
    哲学は科学ではなく、概念記法で論理的構造を明晰にし、語りうることの限界を見極める言語批判である。命題を真と主張する営みではない。哲学の役割は、命題を明晰にすること、無意味な命題もどきをはっきりさせることであって、命題を立てることではない。
    哲学が、自然科学の議論の領域を限界づけるのは、諸科学が学説として描き出せる真である命題、すなわち「有意味に語りうること」の限界を引くから。
    限界づけるには、言語の外に思考は立てないので、思考可能なこと=命題が可能なこと=語りうることの内側から境界線を引かなければならない。その方法とは、最大限明晰に語ることで、それでもなお語りえないことが示される。
    論理形式とは、命題と現実が共有する写像形式の全体。写像形式は、命題と現実の構造の可能性全て、すなわち命題と事態の論理空間全体における、全体論(ひとつの記号が機能するために命題・言語全体を必要とする)的構造。したがって論理形式は、言語と世界全体の論理的性質=形式的性質=内的性質。語りえない。日本語の命題構造を概念記法で表したとして、概念記法の論理的性質はその言語では語りえない。
    →ゲーデル不完全性定理
    顔の形をきめ細かく記述しても、言葉による説明だけでは特徴を描ききれないし、似顔絵だとしてもそれは別の顔でありその特徴は言葉で説明できない。特徴は顔に表れているが、特徴それ自体をひとつの対象として表現できない。
    論理形式などは、事態の対象を扱う命題で示される。言語学や論理学で日常言語の構造を示されることから、構造を対象化できると錯覚する。究極の言語を想定することで、語りえないことがあるということを認識できる。
    ・20
    名のみの連関からなる要素命題は、一つの事態の成立を主張し、他の要素命題と両立可能である。世界、事実、対象が無限に複合的だとしても、対象と事態が存在しなければならない。
    要素命題の想定は、究極の言語を想定し語りうることの限界を示すため。分析の終端を定めなければならないので、複合命題→要素命題、語→名が必要になる。
    4-211他の命題の意味を含むことのない要素命題は、矛盾する意味をもたないので、相互独立的=両立可能でなければならない。ただし、一点が赤いと語ることは、黒でも青でもないので、両立不可能である。6-3751節で述べている。ウィトゲンシュタインは要素命題の両立可能性を撤回し、後期の哲学を始めるに至る。
    ・21
    諸々の要素命題(p,qなど)の真理可能性が、命題の真偽の条件となる。真理可能性の図表に真を添えることで(p真,q真,真など)作られる記号が命題記号。
    pかつqという命題は、p真,q真のときのみ真となる。=pかつqの真理条件を表現する。
    pまたはqは、いずれかまたは両方が真なら真。
    pならばqは、pが真でなければ条件が成立しないので、p真q真、p偽q真または偽、が真。
    命題の真偽が、要素命題の真偽に依存している。真理表は、『論考』以後、記号論理学の初学者用の代表的な表記法となった。
    真理表それ自体が命題記号。真理条件の組みが命題を表現すること。命題の意味とはその真理条件のこと。pまたはqという命題を理解しているとは、真ならば3種類の状況いずれかが成り立つと知っているということ。「命題の意味とはそれが描き出す事態のことである」という定義で判然としないことが、真理表で明瞭になる。新幹線が東京駅に停まっているというときの、無数の真理条件を表す。
    ・22
    トートロジーは真理条件が同じで、真理可能性が全て真になるので、無条件に真。矛盾は偽。トートロジーと矛盾は意味を欠く。シンボルとしては非本質的。しかし、無意味なのではなく、算術記号体系の0と同様に体型に属す。状況を描き出さないので、現実の像ではない。真であることは、トートロジーは確実、命題は可能、矛盾は不可能。トートロジーは対象の特定の結合を指示しないので、記号の結合ではない。トートロジーと矛盾は、記号結合の限界事例、解体地点である。
    トートロジー「今は雨が降っているまたは降っていない」(pv~q)、矛盾「今は雨が降っているかつ降っていない」(p.~q)。事実を確認しなくとも、命題の真偽がアプリオリに確定している。
    トートロジーと矛盾は、論理空間の全ての論理的場を指定するあるいは許容しない。ただし、無意味な文字列や命題もどきではなく、命題ではあるが記号の結合、現実の像ではないので意味を示さない。しかし、言語の形式的(論理的)性質を示す。論理学の役割はトートロジーや矛盾を作成し、形式的性質を示すこと。数学は命題ではなく、トートロジーを等式で示す。数詞は集合ではなく、操作の反復適用。
    ・23
    命題の一般形式「事実はしかじかである」。要素命題が全て与えられた場合、どのように命題を構成するかが問題となるが、それが命題の全てとして限界づけられている。あらゆる命題は要素命題の一般化である。
    命題が現実の像と定義された時点で、事態を描き出し成立を肯定するもの、事実だと主張するものといえる。
    ・24
    5節〜
    命題は、真偽項として入力される要素命題の真理関数。諸命題が真であることから一つの命題が帰結するとき、その形式相互の関係を改めて一つの命題で表す必要はない。ある要素命題から他の要素命題は導出されないので、成立している状況から異なる状況を因果連鎖により推論することは不可能。因果連鎖は迷信。
    意志の自由は未来の行為をいま知ることができないという点にある。因果性が、論理的推論のような内的必然性である場合のみ、未来の行為を知りうる。
    pがqから帰結するならpはqに含まれている。p太郎は結婚している、q太郎と花子は結婚している。後者は前者より多くを語る、全て肯定する。命題の構造から見てとっている。帰結や導出は、経験や世界とは無関係に、命題の構造を見ることによって、ある事態から他の事態の成立不成立が言える、すなわち導出はアプリオリに行われる。推論的関係。これと因果連鎖、因果連関とは異なる。経験から導き出せれた推理は必然的帰結とはいえない。例えば「全てのカラスは黒い」は、「今まで見たカラスはみな黒い」から引き出せない。前者が多く語りすぎている。因果的関係。現在から未来を推論することは不可能なので、因果連鎖を必然的とみなすことは迷信。因果連鎖が必然的なら未来の行為を今知ることになり、自由意志はない。必然的なのは論理的必然性のみであり、因果連鎖は偶然的。
    現在と未来は推論関係になく、相互的独立にある。相互独立な要素命題同士も推論関係にない。命題と要素命題に帰結導出の推論的関係が成り立ち、それは要素命題への意味と真偽の依存による。
    ・25
    諸命題の構造は互いに内的な関係。操作の基底と結果として構造間の結果を表せばよい。要素命題の真理関数は、諸要素命題を規定とする真理操作の結果。否定、論理和(選言)、論理積(連言)は操作。語るのは操作の基底に依存する結果であり、操作ではない。操作を続けて行うことを反復適用といい、「以下同様」に等しい。操作は相殺、消去しうる。
    命題は要素命題に真理操作を行った結果であり、真理操作は要素命題から真理関数が構成される方法であり、真理関数は要素命題に真理操作を有限回繰り返し適用した結果である。フレーゲラッセルの論理的対象、論理定項は存在しない。真理操作を真理関数に行っても、結果が要素命題の真理関数として同じなら結果は同一である。
    諸命題は必然的論理的推論的形式的な関係にある。操作は、否定「ではない」、選言「または」、連言「かつ」など。前者の命題に対して行われるので、系列を辿れば最初の地点、論理的な構成が始まる地点に至る。つまり、全ての命題には、要素命題が基底にある。否定選言連言などは論理定項と呼ばれ、フレーゲラッセルは論理的対象を指示すると考えたが、ウィトゲンシュタインは要素命題という基底に対する操作であり、対象化されえないとした。なぜなら、二重否定のように操作は相殺され消去されうるから。~~p=pとして等しいなら、~~は何ものでもなくなり、対象にはならない。
    (誤字p235の4行目「なるだから」→なるのだから)
    操作の結果の反復適用は、任意の個数の命題すべて否定するN(ξ-)、N(p,q)はp|qと表され、~p.~qと同じ。pvqはN(N(p,q))=(p|q)|(p|q)、p.qはN(N(p).N(q))=(p|p)|(q|q)、p⊃qはN(N(N(p).q))=((p|p)|q)|((p|p)|q)。否定選言連言条件すべて単一の操作の反復適用で表される。すなわち、あらゆる命題は、要素命題に操作N(ξ)を反復適用させた結果である。
    ・26
    すべての真理関数は、要素命題に(-----真)(ξ,……)を反復適用した結果である。これをN(ξ-)と書く。
    (-----真)(ξ,……)右辺は任意の個数の命題、左辺は真理表の右端列の最後の行のみ、すなわち全命題が偽であるとき真ということ。すべて否定という操作の結果。
    ・27
    対象・要素命題が与えられているとき、それとともにすべての対象・要素命題が与えられている。
    →ハイデガー世界
    要素命題は名からなるが、いくつあるかも構成を語ることも不可能。論理理解のための経験とは、何かがあるというものだが、それは経験ではない。論理はあり方の経験に先立つが、あること自体には先立たない。経験的実在は、対象の総体に限界づけられ、要素命題の総体において示される。要素命題が存在しなければならないということが論理的根拠なら、すべてのものに知られるのでなければならない。日常言語はあるがままで論理的に秩序づけられている。要素命題は論理の適用によって決まる。適用のうちにあることを論理が先取りできない。アプリオリに要素命題を挙げることはできないから、その試みは無意味である。
    要素命題は、具体的経験を、論理的に有意味な命題で様々に語り、論理を分析することではじめて取り出される。語り分析する、論理の適用で決まる。適用に論理が先立つことはない。ひとつの要素命題を指定することも、すべての要素命題を挙げることもできない。そもそも名、要素命題、対象、事態を具体的に語りえないからこそ、完全に分析された究極の言語の表現力を最大限に想定するものである。
    世界の具体的なあり方は、経験的にのみ知られる。すなわち、「事実はしかじかである」という真である命題をアプリオリに語ることは不可能。しかし、その前提となる、世界があるという経験は異なる。世界が存在しなければあり方もない。世界があることは、世界のあり方に先立つ。「なぜ世界は存在するのか」「なぜ何かがあるのか」と、世界があることに驚くことが哲学の問いとして繰り返された。
    世界が存在するということは、事実が世界の中に成立するのと異なり、世界の中の事態ではありえない。世界は成立している事柄の総体である。また、特定の事態も指しておらず、全ての事態から前提として帰結し、全ての事態を許容するので、トートロジーのように意味を欠く。しかし、アプリオリに真であることによって論理的性質を示すトートロジーと異なり、アプリオリに真であるとは言えないので、命題もどき。経験的な驚きはあるが意味のある問いではなく、問いも答えも不可能な一種の神秘。
    世界のあり方、経験的内容を有する可能性の条件であるがゆえに、語りえないもの。超越論的な条件。
    →カント超越論的
    論理的性質(論理形式)は超越論的条件。命題も経験的内容も常にすでに論理に従っている。
    →ハイデガー常に既に
    論理は、もののあり方の経験に先立つ。時間的に論理という対象が存在するということではなく、命題において反映されているのが論理。世界があることを前提に、論理がある。世界もまた、世界のあり方に反映されている。さらに世界は経験だけでなく、論理にも先立つ。世界があることは超越論的で、世界のあり方や論理に先立つ可能性の条件。何も語りえない神秘。世界があるというのは命題もどきの無意味な記号列。しかしたとえそうでも驚き、問う、言語の限界に向かって突進し跳ね返され、挫折と無力さにおいて、神秘としての世界の存在を直観する。ハイデガー『存在と時間』、存在への問いは、答えが欠け、問いも不透明。実証主義が嘲笑と批判を向けたが、ウィトゲンシュタインは理解と敬意を示した。全集5「ウィトゲンシュタインとウィーン学団」、ハイデガーが存在と不安について考えていることを十分に考えることができる、人間は言語の限界に対して突進する衝動を有している。
    ・コラム2
    1929.11.17「異教徒たち」唯一の一般向け講演で丁寧な解説。
    倫理学を広くとる、美学、価値、重要、人生の意味、生きるに値するもの、正しい生き方、これらは絶対的価値=内在的価値=究極的価値の探究。絶対的価値を内省すると、世界の存在に驚く。何が起ころうとも自分は安全だ、あるいは罪を感じるという経験も、絶対的価値を表現するときに浮かぶ考え。それぞれ、神の創造、御手、行い許されないと語られてきた。これらは意味をなしていない。しかし、やむにやまれず切実に表現されているなら真に重要なことが示されている。科学や知識ではないが、人間の精神に潜む傾向を記した文章であり、敬意を払い嘲るようなことはない。
    →カント純粋理性
    ・28
    私の言語の限界が、私の世界の限界。世界の限界は、世界に充満する論理の限界。世界に存在するしないは、世界を外側から眺めうる場合に限られるから、論理が世界の外にない以上、思考できないことは語ることはできない。独我論は、私というものが語ることができず、示されるという意味で、言わんとすることは正しい。私の世界は、私が理解する唯一の言語に限界づけられている。世界と生は一つである。私は、私の世界である(小宇宙)。
    →スピノザ
    思考し表象する形而上学的主体なるものは存在しない。
    →反デカルト
    主体は世界の限界であるので、世界に属さない。自分の眼を見ることはできないし、視野から眼によって見られていることは推論されない。徹底した独我論は、純粋な実在論に一致する。自我は、空間的広がりのない点として、実在が残される。
    →カント統覚
    哲学と心理学の異なる自我を論じる意味はある。哲学の自我、「世界は私の世界である」形而上学的主体、世界の限界。
    世界の他に超越論的なものとしての、私。他者がどう考えて、世界をどう見ているかはわからない。世界とは私が見ている世界、世界の可能性とは私が思考する可能性。何かが存在することは誰かによって知覚されることという観念論。その誰かは私という独我論。外の天気という世界の可能性も、私によって、語られることに依存する。世界は、私の知覚と語りうることによって、限界づけられている。しかし、私は世界そのものであり、世界の中に存在するのではないという意味で、独我論の「世界は私の世界である」と語ることは否定される。私の知覚による外側も感情などの内側も記述されうるが、しかし、外見や内面を見つめる「私」は記述できない。世界に原理的に現れない形而上学的な主体、哲学的な自我。荒唐無稽な考えうる世界の可能性についても同様、書き込む私は書き込まれない。
    →デリダ差延
    綿密に記述すればするほど書き込まれない私は浮き彫りになる。窮極の言語の論理形式と同じ。主体は存在しない。
    絵画において、絵を描く私は絵に現れえず、絵全体において示される。私とは、私が描く絵それ自体。私の限界とは、私が描ける絵の限界。私とは、世界の部分ではなく、限界。世界は私の眼によって見られている世界、と主張するとき、私の眼は視野に入らない。
    →柄谷行人、自己言及性
    独我論は、他者を含まない特別な私、を想定する自己中心主義。独我論を徹底するには、世界のあり方のありのままを記述するほかない。実在を純粋に記述すること。特別な私を想定して、それらを私によって見られている、とは語りえない。独我論は、純粋な実在論となる。
    →フッサール現象学
    世界のあり方や可能性は、論理的必然性ではなく、誰かによって生きられ経験され語られることと切り離せない。世界と生は一つ。世界のあり方を語ることで、語られないものとして自我が示される。これが形而上学的な主体、哲学的な自我。
    私、世界の存在がアプリオリに真というのは錯覚。経験的事実、存在するしないをアプリオリに語ることはできない。何らかの事態を表していないが論理的有意味なトートロジーと異なり、事実を確認できない。意味を欠く、無意味。私は私の世界であり、語りうる私の言語の限界が、私の世界の限界。
    ・29
    6節〜
    真理関数・命題の一般形式[p-,ξ-,N(ξ-)]。いかなる命題も要素命題にN(ξ-)を反復適用した結果。
    ・30
    論理学の命題はトートロジー、何事も語らない分析命題。論理命題の真はシンボルだけから知ることができる。論理命題以外は真偽は命題ではわからない。トートロジーは言語の形式的(論理的)性質、世界の形式的(論理的)性質を示している。構成要素がしかじかの仕方で結合されるとトートロジーになるということが構成要素の論理を特徴づけている。論理命題を他の論理命題から構成する際は、記号規則のみに依拠し、意味も指示対象も考慮に入れない。論理命題は操作の反復適用で、トートロジーからトートロジーを作成していく。論理学において過程と結果は同等。論理学の証明は、複雑な命題がトートロジーであることを認識するための補助。論理学は学説ではなく、世界の鏡像であり、超越論的である。
    論理学は経験的因果関係ではなく、必然的論理的推論関係を扱う。トートロジーは要素命題の結合の仕方で真であることがわかるので、論理学の命題はトートロジー、そして何事も語らない。それによって命題の集合たる言語と対応する世界の論理的性質ないし形式的性質を示す。ただし論理空間で要素命題の結合可能性は全て定まっているので、論理学にとって本質的ではない。証明という経験は本質的ではなく、何の驚きも生じないこと自体が論理学の本質。論理学における証明は、トートロジーから別の命題への必然的推論的関係の認識を容易にする補助手段にすぎない。論理学は、学説、すなわち経験的内容を真だと主張する諸命題のカタログではなく、世界の鏡像である。世界の反映である論理的性質(論理形式)あるいは論理を示すことが論理学の本質。
    ・31
    論理の探究とは、あらゆる法則性の探究であり、論理の外では全てが偶然である。ニュートン力学は、世界の記述に一つの統一的形式を与え、すべての真なる命題を、一個の計画に従って構成する試み。因果法則が存在するとすれば自然法則だが、語ることはできず、おのずと示される。太陽が明日登るか我々は知らない。ある出来事が他の出来事を必然的に引き起こす強制は存在せず、あるのは論理的必然性のみ。自然法則を自然現象の説明とみなす現代の世界観は錯覚である。古代は神の前に立ち尽くしたが、現代は自然法則の前に立ち尽くす。現代はそれで全てが説明されると思っているのに対し、古代は説明が尽きる地点を認めていた分明晰である。
    無時間的論理空間ではない、現実の時間空間においては、因果関係により事態の成立や関係を可能にする世界の記述を必要とする。自然法則を主張するニュートン力学は、そうした記述の一つであり、決定論的な神だけでなく、非決定論的な量子力学や自由意志も世界記述の形式。どれが真の形式として存在するかは語りえない。具体的に語られることによって暗に示されるのであって、その存在を経験的確認なしに語ることはできない。現代はその点を看過し科学主義に染まっている。ニュートン力学は作業仮説、計画にすぎない。古代の神や運命はそれ以上説明できない神秘であり、語りえないことをわきまえていた。説明の終焉。現代では自然法則で全て説明できるかのように錯覚している。
    ・32
    世界は私の意志から独立である。全ての命題は等価値。意味、価値は世界の外にある。世界のなかではあるようにあり、なるようになる、つまり生起、かくあることは偶然的。したがって倫理学の命題は存在しえない。倫理は超越論的、倫理と美はひとつ。
    →ドゥルーズ『基礎づけるとは何か』ルソー論新エロイーズ解釈のサンプルーとジュリ
    「しなければならない」という倫理法則は、通常の賞罰と無関係であるので問うことが重要であってはならず、行為の結果という出来事と賞罰の行為の帰結であってはならない。行為自身の中に倫理的賞罰がなければならないからだ。
    →カント定言命法
    意志については語りえない。心理学の関心。善悪の意志が変えるのは世界の限界であって、事実や言語で表現しうることを変えられはしない。
    「しなければならない」実践的必然性は存在しない。美的必然性も存在しない。主題の繰り返し、サビはこう歌う、この言葉でなければ、など。ねばならない、べき、よい、正しい。すべて偶然性への抵抗。特定の事態そのものに価値をおき真に意味があるとみなす。自首に価値をおき犯罪者にすすめる場合とは別に、減刑などの目的をあげ、自首が手段となる場合は、価値は目的が何かによって変化する手段的相対的となる。自首行為自体が自己目的的報賞として説かれる、無条件に絶対的価値としての倫理。他に報賞があるのは偽善となる。理由があることは、目的があることになるので、絶対的価値はトートロジーになり語りえない。目的に関してもなぜ減刑を得るのがよいのか、なぜ刑務所の外で暮らすのがよいのかなど根拠への問いは止まらず、価値は語ることはできない。美的価値も根拠を語ることはできない。世界の中で成立する事態が、必然的に何かの価値を担うことはない。ウィトゲンシュタインの倫理は、美のように絶対的価値として追求されるもの全てを含みうる。超越論的。パンが美味しいという価値は、甘い、柔らかいという事実、世界の特定のあり方によって、価値を示す。パンが栄養補給のためであれば、生存という目的の手段となり、生存が善き理想のための手段とする者もいる。目的と手段の連鎖のもとで、絶対的価値との関係で世界のあり方を捉えており、何らかの価値を前提することなく世界のあり方について語るのは困難。しかし、価値それ自体は命題で語ることはできない。
    世界の意味、意義、重要性は世界の外になければならない。形而上学的主体が世界に現れず語りえない以上、意味や価値を見出す働き、意志も事態を示す世界の外になければならない。論理空間の次元では、意志による事態も偶然とみなされる。しかし、世界と私の生はひとつであり、私の絶対的価値観からの認識で世界の明暗が変わる。世界認識作用を意志と呼ぶ。意志で変えられるのは、世界内の内容ではなく、世界の強弱である。
    『論考』草稿、意志が存在しないなら幸福にしうるのは、まさに認識に生きることによって。幸福とは無縁な状況を想定し、アプリオリな条件を探る。認識の生。理(ことわり)や運命、神の計らいと捉え受けとめる。
    →結局は、(歴史的)偶然性を受けとめることになる。
    古代ギリシア以来の人生観幸福観、観想テオリア。論理空間、あるようにあり、なるようになる世界の実相を全体として直観する。アリストテレス『ニコマコス倫理学』、完全な幸福とは、他ならぬ観想の生。永遠の相の下に世界を捉える。
    ・33
    死によっても世界は変わらない、終わるのである。経験しないという意味で、死は人生の出来事ではない。永遠が無時間性なら、現在に生きるものは永遠に生きる。生は、視野に限界がないのと同様に、終わりがない。魂の不死は保証されないし、永遠に生き続けるとして何も解決しない。時間空間のうちにある生の解決は、時間空間の外にある。世界がいかにあるかはどうでもよく、神は世界の中には現れない。世界があるということが神秘。「永遠の相の下に」世界を直観するとは、世界を限界づけられた全体として捉えること。そのように感じることが神秘。問いがあれば答えもある、謎は存在しない。懐疑論は問えないところを疑うので無意味。答えが成り立つのは、語られうるところに限られる。科学の全ての問いが答えられたとひても生の問題は手つかずのまま残る、問いは残っていないということが答え。生の問題が消滅したとき解決を悟る。言い表しえないことは存在するが、それは自ずと示される神秘。
    魂として永遠に生き続けたとしても、生き続けることは死を経験しない。死の不安や恐れは、人生を不可解なものにしている。そこから逃れようとするとき、魂の不死や死後の世界を想定するが、生き続けたところで、問題は解決しない。科学で解決できないということは、答えは有意味な命題として語ることは不可能であり、生きることの謎そのものは存在せず、無意味な問い。問題自体の消滅でしか解決できない。「謎は元々存在しなかった」と有意味に語れないと悟ることで、はじめて解決されうる。
    →ローティ歴史的偶然性
    しかし、アクチュアルでリアルなものとして生の問題、生きることの謎はある。言い表しえないものは存在するが、自ずと示される。
    とにかく何かがある、ただ単に存在する、あるということを「世界がある」という命題で表現する。限界づけられた全体として世界を感じるとき、いかなる事態も描き出さない無意味だが、重要性意義の意味はある。
    限界づけられた全体として世界を感じるとは、永遠の相の下に世界を直観すること。スピノザ『エチカ』第五部定理30。『論考』草稿、論理空間として世界を眺めること。世界を無時間的に捉えるということ。事態の生起消滅、時間的推移、因果的関係ではなく、可能事態を一挙に捉える。
    パルメニデス「哲学詩断片8」、「ある」とは不生にして不滅、全体としてあり、不動で終わりがない。あったことも、あるだろうこともない、今一挙に全てつながり合うものとしてある。
    あるというのは現在形で、生起も消滅も推移も終わりもない。不生不滅。全体論的論理空間。死によって世界は終わるが、永遠の相の下で一挙に捉える認識の生としてであれば、限りも終わりもない。永遠の今という現在に生きる者は、永遠において生きる。したがって、死は存在せず、死に対する恐れだけでなく、先の時間に対するあらゆる恐れ、希望も無縁。
    →仏教、動物的
    克服や叶える必要がある者は幸福ではない。
    『論考』草稿、幸福な人、満足している人は現に存在することの目的を満たしている。恐れや希望なしに生きる。現在の中での生にとって死は存在しない。
    これからも生存するために生きるということではない。世界の認識を変える意志、永遠の相の下に世界を捉える意志、世界の存在を神秘と捉える意志、認識の生を送る意志。世界を神秘ないし奇跡と捉えることは、具体的にいかにあるかは関係なく、一切を驚きをもって受けとめる。論理空間では等しく驚くべきものだ。
    私の生や世界の存在を問うとき、答えを期待しているより、端的に驚いている。
    ・34
    形而上学的な事柄を語ろうとするたびに無意味を指摘すること、これが本来の正しい哲学。私の諸命題は、理解され無意味と悟られることによって、解明の役割を果たす、投げ棄てるべき梯子。そのとき読者は世界を正しく見るだろう。語りえないことについては、沈黙しなければならない。
    形而上学的な問い、哲学が無意味であることを指摘し、踏みとどまらなければならない。ここを越え出て、絶対的価値、形而上学的主体、哲学的自我を語ろうとすれば、そのものを見失ってしまう。根拠は相対的になり、示されなければ根拠はない。特別な私の世界は、自己中心主義、伝えられなければうわごと。だから語りうることだけを語らねばならない。語りえないことを語ろうとする営みを、形而上学としての哲学を批判しなければならない。
    『論考』序文に追加しようとしていた一文。私の仕事は二つの部分から成っていて、提示したことと、書かなかったこと全て。重要なのは第二の部分。
    語りえないことの意義は、語ろうとする試みを戒める中で自ずと示される。しかし、『論考』も独我論の5,6番台以降、限界の外側を越境して語っている。独我論が正しい、古代は明晰、より高い次元なども無意味なはず。そもそも「語りえない」という判断も限界を越え出ている。論理形式、独我論の言わんとすること、意志、言い表しえないことは存在するなど。
    投げ棄てなければならない梯子、の意味は、『論考』は語りうることの外に越境している点。独我論、驚き、倫理や美という語りえないことについて何を言わんとしているかを理解する。読者のあらかじめ抱いていた自己と世界への驚きの観念が呼応し、それについて語ろうとすれば無意味ということを理解する。重要な第二の部分、つまり自己のうちにある観念を見出した読者にとって『論考』が不要になる。
    梯子のもう一つの意味は、『論考』の言語批判の命題が、形而上学の無意味な命題もどきがなくなれば、批判対象がなくなるので無意味になるということ。
    ・35
    哲学が言語論理の誤解から生じている。本書の意義は語りうることは明晰に語り

  • 8/12

  • 古田さんの本は相変わらず読みやすく、わかりやすい。
    こちらの本を読むことで、自分が論理哲学論考に対してより理解を深められたように感じたし、何より論理哲学論考そのものを読んでみたいという気持ちになった。

  • 系・院推薦図書 総合教育院
    【配架場所】 図・3F開架 
    【請求記号】 134.97||FU
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  • 20200201 中央図書館

  • 5/18はことばの日
    語りえぬものは沈黙せねばならない―ウィトゲンシュタインの言葉の意図は?
    売れている入門書です。

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著者プロフィール

1979年、熊本県生まれ。東京大学大学院人文社会系研究科准教授。東京大学文学部卒業、同大学院人文社会系研究科博士課程修了。博士(文学)。新潟大学教育学部准教授、専修大学文学部准教授を経て、現職。専攻は、哲学・倫理学。著書『言葉の魂の哲学』(講談社)で第41回サントリー学芸賞受賞。

「2022年 『このゲームにはゴールがない』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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