カント 純粋理性批判 シリーズ世界の思想 (角川選書 1004 シリーズ世界の思想)

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  • KADOKAWA
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  • Amazon.co.jp ・本 (776ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784047036376

作品紹介・あらすじ

刊行から二百余年、今なお多くの人を惹きつけ、そして挫折させてきた『純粋理性批判』。その晦渋な文章に込められた意味を、一文一文抜粋し丁寧に解きほぐす、入門書の決定版。日本カント協会会長による渾身の一冊!

感想・レビュー・書評

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  • 4カ月かけてようやく読み終えた(1回目)。索引が欲しい。
    著者の語り口にすっかり馴染んできた。
    哲学用語はなかなか頭に入らない。

  • 日本カント協会会長による解説。カントの生涯から始まり、一・二版それぞれの解釈や長めの引用に番号を振って全て解説するなど、くどく感じる部分もあるが、精読というふさわしい決定版といえる。
    人間は、現象を内外感官の感性による直観で経験し、「私がいる」という統覚において悟性による概念で思考する。その条件となるのは、総合し表象する構成力の図式機能である。図式は、感性的直観と純粋悟性概念(カテゴリー)の間で、時間規定により判断する。そして、悟性の概念を理性が原理としてまとめるが、その推論は経験を超えるため、実在性から離れた誤謬を生み出す。純粋理性の思い込みを批判する。しかし理性が経験できない始まりを想定するから自発性があり、自発性があるから自由があり、自由があるから当為の原則を思い描くことができる。理性の主観性を指摘し、客観的証明力を限界づけることで、実践的な自己統制、すなわち道徳へと議論が向かう。そして、『実践理性批判』『判断力批判』道徳形而上学へと繋がっていく。
    カントは、神的なものの実在性は否定するものの、それらを設定することの価値を理性の統一作用として必然としたことは、やはり形而上学的でその範囲内にある。加えて、道徳による規律訓練、すなわち主体に内在化させる生権力的な統制が──独断や誤謬を避ける自由な論争・批判を前提しているとはいえ──危険性があるということも窺える。無論、何らかの概念を提示するということは、一定の方向を指し示すゆえ、危険性は立ち現れることは否めないが。
    本書にあるとおり、最大の難所は「10年の沈黙」といわれるカントが最も労力を割いた「純粋悟性概念の演繹」であり、そこを越えると他の場所も比較的すんなり理解できる。ヒューム経験論を乗り越えつつ、合理論との統合を企図する中での、ライプニッツ的な論理学との対決も印象深い。
    後のハイデガーの現存在、世界認識の時間規定などへの影響が窺える。さらに、ニーチェ道徳、フッサール現象学、フーコー認識・生権力的な規律訓練などの関連も見え、またヴィトゲンシュタイン論理哲学論考の限界づけとの近さもあり、関連書籍の読解欲が刺激される。
    ・1
    経験によらない(アプリオリな)純粋な認識能力としての理性の限界、すなわち形而上学の限界を分析する。超越論的感性論=直観(直に観ている)、超越論的分析論=概念が形而上学を基礎づける。
    ・2
    純粋理性は、アプリオリな思弁的理性=思考とアポステリオリな実践的理性=経験に分けられ、理性は経験の推論≒思い込みでその限界を越えて、経験の可能性まで侵食してしまうので、純粋実践的理性の使用=自由を奪うことになる。理性の限界を定めることで、経験の自由を制約する又は絶滅させることを阻止する。
    ・3
    アプリオリな認識とは、普遍性と必然性をもつ認識。経験的なものを除いた理性が純粋理性。アプリオリ=起源的、純粋=認識の内容的。純粋理性の課題が、神、自由、不死である。形而上学はこの課題に独断論的に着手した。
    悟性=何か理解する能力、理性=何故か理由を問う能力
    「AはBである」Bを含む同一性の判断を分析・解明的判断、異なった要素のBを結びつける判断を総合・拡張的判断と呼ぶ。後者は経験的である。アプリオリな総合的判断は、法則性から判断が拡張する意味で、数学である。
    感性=与えられるものを受容し直観する能力、悟性=概念を用いて客観的に認識する能力
    ・4
    感性論=美学aestheticエステーティク、すなわち美の判定規則は、経験的であるため学問にならない。対象から触発され表象されたもの(現象)を経験的直観として感性が受容し、感覚となる。悟性が表象を一般概念として受け取り、考えることができるようになる。内容である感覚と、形式である純粋直観に分けて考える。
    認識=悟性+感性(感覚+純粋直観+現象)
    捨象して、純粋直観(外的感官による空間+内的感官による時間)と現象の形式を取り出す。⇔経験的共通要素から抽出する帰納法。
    空間は、経験的実在性と超越論的観念性(物の想像など)がある。
    時間は、経験的実在性はあるが超越論的観念性はない。→内的感官の現象に必要な形式そのものだから?
    すべての現象は内的感官の時間のもとで、すなわちこころで直観される。時間は現象のアプリオリな条件。
    純粋直観(空間と時間)はアプリオリ、感覚はアポステリオリ。認識主観の条件があって初めて、客観的認識が可能になる。つまり、空間・時間なしに、物それ自体を認識することはできない。
    ・5
    超越論的認識=こころの表象についてのアプリオリな認識。一般論理学は論理的判断の形式のみを扱うが、超越論的論理学は悟性理性の対象との関係におけるアプリオリな認識を問題とする。論理学は、原理の分析論と仮象を見抜く弁証論に分かれる。悟性は、概念を各概念の下で関係づける論弁的認識であり、各概念を一般化し秩序づける機能がある。論弁的認識を行うことを、判断という。
    論理学の判断表からカントの判断表が導出される。量(全・特・単称的)、質(肯定・否定・無限的)、関係(定・仮・選言的)、様相(蓋・実・確然的)
    認識は表象の総合により概念化され、はじめて分析が行える。純粋悟性概念(カテゴリー)とは、純粋直観の多様を、構想力が総合し、悟性が統一して概念化すること。アプリオリな総合判断の原理。
    純粋悟性概念のカテゴリー表。量(単一・数多・全体性)、質(実在・否定・制限性)、関係(内属性と実体性・原因性と依存性・相互性)、様相(可能性不可能性・現存在非存在・必然性偶然性)
    量と質を数学的カテゴリー、関係と様相を力学的カテゴリーと呼ぶ。
    ・6
    純粋理性批判は、法廷モデルで、演繹も一般的な用法とは違い、「何が正当かという権利の要求を明らかにすること」としている。客観的演繹によりカテゴリーがアプリオリであることを証明する。
    ・7
    総合の三様、直観による覚知(把捉)、構想における表象の再生(産出)、概念における再認。これらが導く主観的認識源泉は、感官、構想力、統覚。
    意識の形式的統一こそが、対象にとって必然的な統一。対象は意識なしに総合されない。この統一を超越論的統覚と呼ぶ。
    直観においては空間と時間、経験においては統覚の必然的統一がアプリオリな条件=純粋悟性概念=カテゴリーの下に必然的に経験対象があること。意識の同一性(純粋統覚)により、直観の多様を総合的に統一していく働きがあることから、全体を統一的に見る対象がある。それが超越論的統覚に対応する、真理の一致としての超越論的対象は、なにかあるもの一般=X。
    総合するのは統覚ではなく構想力。そして想像のように表象を産出する。
    直観の多様を、構想力によって、現象の親和性をもとに表象同士を結びつける働きが、表象の連想。
    ・8
    繋辞「ある」の判断の表明によって、客観的統一に向かう。自己は、構想力により表象され、内官の形式によって現象として捉えられる。あるいは、統覚の総合的根源的統一において、私がいるという意識によって捉えられる。
    自然現象は、カテゴリーによって原因と結果として知覚される。
    ・9
    判断力は、カテゴリーを現象に適用し、概念を使用する能力。図式機能とは、カテゴリーと現象(内的感官の直観)をつなぐ時間規定により、構想力が描き出す形像と悟性概念を結びつける機能。量は数える数、質は存在の移行の度合、関係は持続性・原因性・相互性(同時存在)、様相は可能性(いつかの時間)・現実性(特定の時間)・必然性(あらゆる時間)。つまり、図式は時間規定。カテゴリー(純粋悟性概念)と感性的直観は構想力が産出する図式において接合する。
    "超越論的真理とは〈私たちのすべての認識とすべての可能な経験との普遍的な関係〉である"
    ・10
    純粋悟性の原則は、カテゴリー表に従って、直観の公理、知覚の予料、経験の類推、経験的思考一般の要請。前二者を数学的原則、後二者を力学的原則と名づける。それぞれ、空間的外延量、感覚的内包量=度、質的関係の同等性、経験の条件と合致すること。
    ヒューム経験論的原因性について、ヒュームとは逆に、現象を結果としてアプリオリに概念把握したときに、判断として経験的原因性が現れると考えた。
    デカルト蓋然的観念論の「私」を、概念には外的経験(持続的なもの)を必要とする経験的統覚の立場から論駁する。
    "私の現存在の一切の規定根拠は、それが私の内に見出されることができるのであれば、表象であり、また表象であることから、それとは区別された持続するものさえ必要とするからである。そうした持続するものとの関係において、表象の変移が、したがって表象がそこで変移する時間の中における私の現存在が、規定されることができるのである。"
    →ハイデガーの世界と時間が規定する現存在
    "純粋悟性のすべての原則は、経験の可能性のア・プリオリな原理に過ぎない。"
    ・11
    現象として直観された対象を感性体(フェノメノン)Sinneswesen、思考された対象それ自体を悟性体(ヌーメノン)Verstandeswesenと呼ぶ。対象それ自体は知覚できないので、ヌーメノンは蓋然的概念(限界概念)であるが、カテゴリーは対象がなくても機能することができるために、実然的だと思い誤る。人間は、神の超能力のような悟性的直観を持たないので、「かもしれない」という蓋然性に留まる。
    ・12
    表象同士がどのように関係しているか?超越論的反省、超越論的トポス論。量(一様性と多様性)、質(一致と対立)、関係(内と外)、様相(規定されるもの質料と規定するもの形式)の四対の反省概念が論理学のように二項対立ではなく、多義的で二重性を帯びることを指摘。
    ライプニッツの悟性と物一般の一致を批判。識別できない一様のものも空間的時間的に異なれば多様性のある別の対象。二つのものがあれば、相対する力のように、一致しても実在だけでなく打ち消し合うように対立することもある。実体は物自体の内外だけではなく、外的関係が内的実体を規定するので、単に区別できない。概念使用に質料が不要な悟性だけでなく、感性も空間と時間という形式が前提となるため、形式が質料に先行する。
    ・13
    カテゴリーの経験を超えた純粋悟性の拡張は、超越論的仮象である超越的原則(思い込み)を生む。カテゴリーの超越論的使用は単なる誤用(原則を生まない)。カテゴリーは経験的に使用されるべきで、それを内在的原則と呼ぶ。
    理性は、悟性の概念を統一する原理を推論する能力。
    ・14
    理性は、直接感性と関わらないため、概念だけで推論できる。そのため、プラトンのイデアのような経験を超え出た無条件的な理念を作り出すことができる。
    理性推理は、概念同士の関係カテゴリーにより成立するため、「実体性」主観-定言的、「原因性」系列-仮言的、「相互性」体系-選言的の三種類の無条件的なものの規定が考えられる。それぞれ私の表象(=心理学)、現象(=世界・宇宙)、物それ自体(=神学)を視野に入れている。これら超越論的理念は、対象と直接関わることはないので客観的妥当性は得られないが、認識の面から主観的実在性には到達できた。
    ・15
    合理心理学…魂を物それ自体として扱う。絶対的統一性をもった「考える私」は、単一な実体で単純で可能性をもつもの。しかし、経験的個別的な私は、その認識の形式を他者に転移することでのみ、蓋然的に客観的なものとして捉えられる。
    「考える私」としての魂は、持続性を外的に直観できないし、点としての統覚の私しか認識できない。現実存在しながら私は考えるということしか言えない。
    メンデルスゾーンは、魂の不死の証明として、分割できない魂の単純性は、時間変化がなく存在・非存在もないため消滅がないものとした。しかし、カントは意識の明晰さの質のような内包量があることを指摘し、魂の不死も消滅も証明不可能であることを示した。
    魂や心は人間性の最高の関心ではあるが、思弁的哲学でアプローチする限り姿を消す。ソクラテスの魂への配慮のように実践的道徳的使用に向けられるべき。
    "人間は、現世における自分の振舞いによって、多くの利益をあきらめつつ、自分が理念として抱いている、よりよい世界の市民にふさわしくなろうという使命を、内的に感じるのである。"
    現実存在としての感性的動物的自己は、理性によって道徳的世界を想定し、それに向かい自分に法則を適用できる自発性の自由の可能性がある。これは『道徳形而上学の基礎づけ』『実践理性批判』に続く。
    ・16
    宇宙論的諸理念は、条件と条件づけられたものについて条件を遡る背進的総合によって全体性を確保する。
    宇宙に関係するのは、系列のカテゴリー、量単一性-合成、質実在性-分割、関係原因性-生起、様相必然性偶然性-依存性、の絶対的完璧さ。
    純粋理性は二律背反(アンチノミー)を引き起こす。例えば、世界の始まりを永遠に継続するものとみるか、一点を始まりとするか。どちらも無条件的に系列として定立するが、両者は矛盾する。
    自然法則は、原因の原因を探り続ける作業のため、そこで休止し自由の絶対的自発性を信じれば、自然法則の探究は終わる。
    ※自由の法則=道徳法則は、『道徳形而上学の基礎づけ』で語られる。
    純粋理性のアンチノミーは純粋理性が自己矛盾していることを表している。
    ・17
    理性には原理を問う「なぜ」があるが、無条件的なものの答えがないとき、理性の利害関心(思弁的関心)が満たされない。
    実践的関心は、よき行為としての理性的な能力の発揮への関心。
    連続した系列を主張する純粋経験論と、自発的な始まりを規定する純粋理性の独断論がアンチノミーに陥る。後者は悟性使用に通俗性があり、始め、最小単位、自由、必然的なものというわかりやすさがある。前者は思弁的関心はあるが、実践的関心はない。
    物自体ではなく、単なる表象だと理解すること、すなわち超越論的(形式的)観念論がアンチノミーを解決する。
    宇宙論的な全系列のような大前提は理性の超越論的カテゴリー使用(悟性=物自体と思い込み)、条件づけられた感官のような小前提は経験的直観(現象)によって、結論にねじれが生じ錯覚する。
    世界が有限か無限かは、世界という現象に対して物自体の絶対的全体性を前提として与えているため、条件の時点でどちらも偽である。これにより間接的に、超越論的感性論の観念性が示される。
    純粋理性の原則
    "大前提:条件づけられたものが与えられているならば、この条件づけられたものの一切の諸条件の系列における背進もまた課されている。  小前提:私たちには感官の諸対象が条件づけられたものとして与えられている。
    結 論:したがって、感官の諸対象の一切の諸条件の全系列への背進もまた課されている。"
    理性は、悟性に対し宇宙論的諸理念のような絶対的全体性の構成的原理を求めるが、感性の経験内でしか概念を規定できないので、統制的原理に留まる。
    ・18
    "選択意志は、それが感受的に(感性の動因によって)触発されている限り、感性的であり、そうした選択意志が感受的に強制されることができる場合は、動物的と呼ばれる"
    超越論的自由に基づいた、感性に強制されない自由な人間の選択意志を、実践的自由と呼ぶ。
    必然性に縛られない自由の概念を担保するために、経験範囲を超える自由な物それ自体の働きとしての原因を可想的、現象結果の経験から得られる自然法則的な原因を可感的として設定する。
    理性は、総合した原理から可想し「何をなすべきか」という実践理性となる。
    経験できない始まりを想定するから自発性があり、自発性があるから自由があり、自由があるから当為の原則を思い描くことができる。当為は自然的必然ではなく、自由に基づく。
    そして、責任は、個々を取り巻く背景ではなく、行為する理性的主体にもとめる。
    アンチノミー①世界の始まりの有無②それ以上分割できない単純なものの有無③自由の自発性か自然の必然性か④世界のたんてきに必然的なものの有無
    ①②は不定の背進、③④両立で解決する。
    ・19
    純粋理性の理想=理念の一種で個別具体的なもの。理想論は、神の現存在の証明でもある。
    『永遠平和のために』共和制、国連、訪問通過。理想国家という実在しない個物を想定する。
    概念はいつどこでなどの内容を含まないが、物は未規定部分を含まない徹底的な規定がされている(汎通的規定)。「〜である」という述語として非A,Bと比較されて個別規定可能な選言的規定。一つの総体、それ以上分つことができないin-dividualインディヴィデュアル個体。
    論理的否定は単に否定を表すが、超越論的否定は非存在、欠如を表し肯定の実在的な内容が前提となる派生的なもの。
    存在に属する述語が全て見出されるものが、「最も実在的な存在者」、超越論的理想である。一切の「〜である」の根拠、原型。根源は一切の実在性を持つのだから、最高存在者は実在するという神の証明。その形は自然神学、宇宙論、存在論の三つしかない。存在論は、「〜ある」という述語だけの対象同士の関係のなさ、前者2つは存在者の経験範囲外による不可能性により証明できない。
    ・20
    普遍性を必然と捉えるか蓋然と捉えるかで、理性の確然的使用(普遍が特殊を包摂する)、仮説的使用(特殊が普遍性を都度確認する)に区別される。
    理性は悟性に対し原理を要求する。同種性(同質性)によって多様性をまとめ(種別化)、他の種同士を親和性により体系的統一(連続性)を行う。
    理念に従って振る舞うことが、理念の必然的な格率であり、経験的認識一般の多様の総合的統一の統制的原理として、思弁的理性のすべての理念の超越論的演繹である。そうすることで、経験的認識が、積み増され修正される。「格率」とは、客観にではなく主観に即したその行為の原則。理性にとっての主観的な原則が権利上なくてはならない。「理念における対象」を「前提する」ことが、悟性認識や経験的認識の統一や拡張を促進する。
    "私たちはそうした世界創始者を前提しなければならない。"
    ・21
    数学は純粋直観を含んだ概念を定義し、直観に基づく公理に従い、純粋直観上で明示的証明を行うことができる。哲学は経験的直観を総合することで論弁的にアプリオリな判断をする。哲学において、定義は仕事を閉じるものでなければならない。→理性は純粋悟性概念を使って総合し原理を背進的に推論する。
    "概念に基づく直接的に総合的な命題は定説(Dogma)であり、それに対して、概念の構成による直接的に総合的な命題は定理(Mathema)である。"
    ドグマは、経験外=独断論的、経験内=定説的の純粋理性の二重性を表している。
    理性使用に独断論的誤りがあれば、批判の自由に従って訂正すればよいだけで、人格に関わるものではない。
    "悟性使用が統覚(私は考える)において〈私〉を呼び出すのに対し、理性使用は他人とともにある思考の空間を呼び出すのです。"
    独断論、懐疑論、批判と理性は段階を経る。批判は独断論的検閲と異なり、アプリオリな認識能力とそれが役に立つか評価するもの。
    超越論的証明=純粋理性の総合的判断を導く証明。規則①原則の正当性、②ただ一つの証明③直示的証明。(⇔間接的、帰謬法など)
    "哲学は、数学の方法を模倣してはならず、理性使用を中断してもならず、説明に際して超越論的仮説に逃げてもならず、最後に、純粋理性には超越論的総合的命題の証明などできないことを踏まえるべきだ"
    ・22
    規準=認識使用の原則。超越論的論理学は、純粋悟性の規準であるが、純粋理性の思弁的使用には訓練があるのみで、実践的使用に規準Kanonがある。純粋理性の三つのテーマ、自由、神、魂の不死。自由があり、神が見ていて来世=魂の不死があるならいま何をなすべきか。その根拠としての最高善の理想。純粋理性の目的は、最高善である。知(自由)→信(神、魂の不死)に移行する。幸福に値することを為せ、という道徳法則。幸福への希望と幸福に値しようとする努力とが、道徳的世界において結合される。
    信憑(真とみなすこと)は、主観的な「思い込み」と、客観的に妥当する「確信」に分かれる。そのうち確信は、思うこと(主客不十分)、信じること(主観的確信)、知ること(+客観的確実性)の三段階がある。知ることは、純粋数学や道徳原則。
    ・23
    建築術=理性的な視点から学的な認識を体系化する技術。与えられたものに基づく史実的認識、原理に基づく合理的認識。数学のように純粋直観のない哲学には区別が必要とされる。
    "理性にかんしては、せいぜい哲学することを学ぶことができるだけである。"
    哲学は理性の才能を鍛えること、普遍的諸原理の遵守、探求、確証、拒否。
    "哲学とは、すべての認識がもつ、人間理性の本質的諸目的に対する関係の学問である。"
    "哲学者とは理性技術者ではなく人間理性の立法者である。"
    哲学→経験的哲学、純粋哲学(純粋理性批判、形而上学(自然・道徳))
    自然の形而上学→超越論的哲学(存在論)、純粋理性の自然学(内在的自然学(外官…物理学、内官…心理学)、超越的自然学(宇宙論、神学))
    カントにとって純粋理性の歴史は、手つかずに終わった。→ヘーゲル世界精神、フーコー知の考古学
    ヴォルフ独断論的でもヒューム懐疑的でもない方法論としてカントは批判に可能性を見出した。
    ・おわりに
    "がんばって『純粋理性批判』という二百年以上前の古典と格闘しているあいだに、哲学の世界はどんどん進歩しているのではないか、と不安になる方もいらっしゃるかもしれません。"
    "哲学のフロンティアは、自分を離れたどこかに客観的にあるのではなく、むしろ主体的に考える自分自身のうちにこそあるのではないか"
    "それと誠実に格闘している人のなかにこそ、哲学のフロンティアがあると言える"

  • 系・院推薦図書 総合教育院
    【配架場所】 図・3F開架 
    【請求記号】 134.2||MI
    【OPACへのリンク】
    https://opac.lib.tut.ac.jp/opac/volume/450585

  • 『純粋理性批判』の内容を解説している本です。

    著者はすでに『カント哲学の核心―『プロレゴーメナ』から読み解く』(2018年、NHKブックス)を刊行しており、そこでカントの理論哲学を概観していますが、本書はカントの主著である『純粋理性批判』を、その構成にしたがって詳細に読み解いています。「ですます」調で書かれていますが、700ページを超える大著であり、また著者自身が「〈カント哲学ってこうだよね〉とか、もっとひどい場合には〈カント的にはこうだよね〉という決めつけをするのでなく、つまり、目の前の引用文を離れて解説するのでなく、あくまで引用文に即した解説を試みました」と語っているように、『純粋理性批判』を自分自身で読もうとする読者にとっての手引きとなるような解説書だと感じました。その意味では、カント理論哲学の解説書として定評のある高峯一愚の『カント純粋理性批判入門』(1979年、論創社)と似た内容の本だといえるように思います。

    ただ、こうした本書の性格を把握していない読者にとっては、議論の先行きが見通しづらく、難解に感じられるのではないかと危惧します。たとえば、カテゴリーの演繹について解説しているところで、著者は客観的統一を「目がける」という表現を用いていますが、カント自身の文章から離れてしまうことをきらってなのか、その説明がじゅうぶんになされているとはいいがたいように感じます。こうしたところでは、思いきって著者自身のことばに翻案して説明を試みてもよかったのではないかという気がします。

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著者プロフィール

御子柴 善之(みこしば・よしゆき)
1961年生まれ。早稲田大学大学院文学研究科博士後期課程満期退学。現在、早稲田大学文学学術院教授,日本カント協会会長。著書に『自分で考える勇気――カント哲学入門』(岩波ジュニア新書)、『カント哲学の核心――『プロレゴーメナ』から読み解く』(NHKブックス)、『カント 純粋理性批判 シリーズ世界の思想』(角川選書)など。

「2022年 『道徳形而上学の基礎づけ』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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