織田家臣団の謎 (1)

  • KADOKAWA (2018年2月22日発売)
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Amazon.co.jp ・本 (312ページ) / ISBN・EAN: 9784047036390

作品紹介・あらすじ

信長の「能力主義」はどこからきたのか? それは、父・信秀から引き継いだ体制に理由があった。有力部将の多くは従属的ではなく、代々仕える譜代家臣が少なかった。そのため、重臣には戦闘動員力を持つ国人領主をあてざるをえなかった。能力や資質よりも門閥主義を選択したが、徐々に小身の側近たちを抜擢していった。信長が、自らの家臣団をどのようにして最強の軍団へと成長させていったのか、豊富な史料を使って検証する。

【目次】

第1章 前史としての父・信秀
1 信秀の擡頭
2 那古野城攻略
3 三河攻略
4 美濃出兵

第2章 信長の尾張統一
 1 信秀の死
 2 清須織田家との対立
 3 筆頭家老・林佐渡守との対立
 4 尾張の統一

第3章 桶狭間の合戦と美濃・近江侵攻
 1 桶狭間の合戦(永禄三年五月)
 2 美濃侵攻
 3 足利義昭を奉じて上洛

第4章 織田家臣団の形成
 1 信秀家臣団はあったのか
 2 青年期・信長の部将は家柄で選ばれた
 3 カネで買った旗本を育てる
 4 旗本から部将への昇格

第5章 方面軍ができるまで
 1 近江 有力部将による分封支配
2 近畿 旧勢力の温存
 3 越前 方面軍司令官の誕生
 4 近江の直轄化と家督譲渡

第6章 方面軍司令官の時代
1 方面軍司令官とは
2 柴田勝家(天正三年九月)
3 佐久間信盛(天正四年五月)
4 羽柴秀吉(天正五年一〇月)
5 瀧川一益(天正一〇年四月)
6 神戸信孝(天正一〇年六月)
7 織田家臣団としての明智家臣団

AIがまとめたこの本の要点

プレミアム

みんなの感想まとめ

信長の家臣団形成の過程を深く掘り下げた本書は、彼の「能力主義」がどのように築かれたのかを明らかにします。父・信秀から受け継がれた体制では、従属的な有力部将が多く、譜代家臣が少なかったため、信長は国人領...

感想・レビュー・書評

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  • 先日読み終えた「織田家臣団の系図」と同じ著者。
    信長は家臣を実力で抜擢したと言われているが、実は地縁がポイントだった。
    そこに本書は父信秀以来の尾張の状況から書き起こしている。

    信長というと信秀亡き後の道三との会見や桶狭間辺りから描かれることが多いが、実は尾張統一に結構な苦労をしている。その頃から本能寺で斃れるまでの主力家臣ごとに来歴や役割や、その後などを紹介している。

    興味深かったのは桶狭間の戦いに関する家康の役割とか、長篠の戦いでの鉄砲の役割、本能寺の変での光秀の立場に関する著者の推測。なるほどなあと納得した。

    この辺、ドラマ化したり小説に取り入れる作家が出て来たら面白い。

  • 本能寺の変でずっと不思議に思っていたのは、明智の兵士たちはなぜ主君織田信長を襲うことを躊躇わなかったのだろうかということ。一つの答えとして、明智の家臣団は他の柴田や羽柴らの軍団と比べて異質なのは、信長と長くつながりのある尾張衆が皆無であり信長の目付の存在もなく、信長へのクーデターを成功させるには恵まれた軍団構成だったこと、
    また明智軍団の中で斎藤利三が格別の存在であり本能寺の変決行の意思決定に大きく関与しているようにみえることも不思議だったが、明智の軍団が他の軍団と異質なのこととして重臣の構成があり、多くが光秀が抜擢して明智姓を与えたものであるがただ一人斎藤利三のみが光秀と同格の信長の与力であったこと。

    光秀は盟友細川藤孝に宛てたものだとおもわれる書簡で、近国が安定したら嫡男の光慶、娘婿の細川忠興に譲り自分は引退すると記している。光秀は1年前明智軍の軍法を定め自身が引退した後も運営できるようにして嫡男への家督相続を企図しようとしていたとも考えられる。この時光秀は年齢は54歳、56歳、66歳の各説があるがいずれにしても家督の承継は光秀にとって喫緊の問題であった。しかし嫡男光慶はまだ12歳。放浪の末光秀は信長の元で戦国大名に比する領国と万を超える軍団を手に入れ、それを明智家で継承することに執着したが、それらは所詮信長が優秀な光秀に属人的に託したものであり光秀が引退すれば取り上げられてしまうものであることに光秀は追い詰められていったのではないか。嫡男光慶は信忠の小姓にでもされ、明智軍団は解体され、光秀と苦楽を共にした重臣たちは路頭に迷うことになるのではないかと。

    光秀は亡くなった兵士をその身分の軽重に関係なく弔っていたという。明智軍記には本能寺の変の際、光秀が兵士たちに、万一討ち死しても兄弟や子どもを取り立てること、それらがいない者も親類縁者を探し出す取り立てることを約束したという。
    司馬遼太郎は、光秀は戦国期武田信玄に比する民政家であったと記している。光秀は自分の領国を手塩にかけるように整備したという。しかし同時にそんな光秀に対し、信長は、自分が一時的に託しただけであるのに光秀があたかも自分の領地であるかのような振る舞いをすることを不快に思っていたという。

    本能寺の変は、織田信長から明智家の独立を図った戦いではなかったのではないだろうか。


    そんなことがこの本から読み取れました。

  • 実力主義だったのか? 紫田勝家、明智光秀、越前朝倉について拾い読み。

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著者プロフィール

1963年北海道生まれ。國學院大學経済学部を卒業後、ソフトウェア会社に入社。勤務の傍ら、論文・著作を発表。専門は企業集団、企業系列の研究。2005- 06年、明治学院大学経済学部非常勤講師を兼務。06年、國學院大學博士(経済学)号を取得。著書に『企業集団の形成と解体』(日本経済評論社)、『日本の地方財閥30家』(平凡社)、『最新版 日本の15大財閥』『織田家臣団の系図』『豊臣家臣団の系図』『徳川家臣団の系図』(KADOKAWA)、『三菱グループの研究』(洋泉社)など多数。

「2022年 『徳川十六将 伝説と実態』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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