- Amazon.co.jp ・本 (295ページ)
- / ISBN・EAN: 9784047041677
作品紹介・あらすじ
ユダヤ人との比較というユニークな視点から展開される卓抜な日本人論。高いコストをかけて保険に入るユダヤ人、安全と水は無料が当たり前と考える日本人。機密を守り通すユダヤ人、「青竹を割ったように」「腹蔵無く」話す日本人。ユダヤ人とは、道路に裸のまま放り出された子供であるのに対して、日本人は甘やかされたおぼっちゃんだと著者は指摘する。ユダヤ人がなぜ迫害されてきたのかを徹底考察、アメリカという「帝国」亡き後の日本にも国際社会からの迫害が起こり得ると警鐘を鳴らす。みずからの戦争体験を踏まえ東西の古典、宗教を追究した深い歴史観を抱く山本七平ならではの日本人論の金字塔。
感想・レビュー・書評
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日本教のテキストである
日本教の本質は、神ではなく、人間である。
■ユダヤ人と日本人との違い
・日本人は、安全も自由も水も、絶対に豊富だった、だからそんなものに金を払う習慣などなかった。
・ユダヤ人がいかに大声で論じても、少しも「思いつめていない」のである。それは、何十とある珍案、愚案を消すためである。一方日本人は、「死すとも固守」するのである。
・放牧民が羊を大切にするように、農耕民である日本人は、コメを大切にする。米粒の一つ一つには、観音様がやどっているのである。
・日本人の大きな特徴の一つは、放牧生活を全くしなかったこと。遊牧民族と全く接触しなかったことだ。
その一例として、奴隷制度と、宦官がなかったことである。
・奴隷とは、人ではなく、家畜であって、だから売買もされたのであって、それを不思議とおもうものはなかった。
■日本人
・日本の過酷な環境は人々に90日ごとに生活の仕方を変える試練をあたえた。それは、稲作という間接的にも徹底的な影響を日本人に与え、同時に徹底的な訓練を全日本人に施した。
・「ノロマ」は無能。やる気ないのは、罪悪で、そして「なせばなる」である。
・日本人は全員一致で同一行動がとれるように千数百年にわたって訓練されている。従って独裁者は必要でない。
・明治維新にも、ヒットラーもナポレオンもいらなかった。戦後でも、レーニンも、毛沢東もいらなかった。吉田茂という知日家以外はだれもしらなかったものが指導したがこれは事実である。
・日本人は捕囚とか、完全虐殺とかにあったことはない、そればかりか、祖国喪失の苦しみもしらない。
・日本にいるのは、キリスト教徒ではなく、日本教のキリスト派である。
・日本は、長いあいだ「朝廷・幕府併存」という政体にあった。それは、三権分立の前に成立する二権分離にほかならない
・天皇とは、日本教の大祭司である。
・日本人の特性を知りたければ「日暮硯」をよめばいい。
■日本教
・日本人は無宗教だというし、日本人もそういう。でも本当に無宗教であれば、どの宗教にもすぐに染まるはずである。そうならないのは、日本人が日本教を信じているからである。
・日本教を研究したかったら、日本教の殉教者を研究しなさいという。それは、西郷南洲だ。
・草枕を読まずして、日本を語ってはならない。
・西欧、日本、中国の古典、仏典を自在に読みこなし自分の作品の中に縦横に駆使たりえた、夏目漱石が到達した結論は、「人の世をつくったのは人だ」であった。
・日本は、「以心伝心」で、「真理は言外」であるのだから、したがって、「はじめに言外あり、言外は言葉と共にあり、言葉は言外なりき」であり、これが日本教の「ヨハネ福音書」の冒頭である
・異邦人が日本教に近づくための道は3つしかない。まず日本人が一民族、一国家、一宗団であることを、他の国との比較の上で証明し、日本教を体現している人の言行と生涯を考察し、日本教徒の他の宗教理解の仕方の特質を探ることである。
・日本で憲法改正をいついかなるときでも改正したことはない。令外の官を設ける。憲法はいじらないのである。
・日本人すなわち、日本教徒をてっとりばやく理解するにはどうしたらいいか。それには、「氷川清話」を読めということにしている。
・勝海舟はその時代の第一級の人物であり、その勝が、偉い奴じゃといった男が二人いた。そのうちの一人が、西郷南洲である。
・西郷は日本教の聖者である。
勝海舟は西郷にいっさいを任せると言い得た。
ということは、西郷がすべてを、日本教の根本理念と律法と戒規に基づいて処理することは疑問の余地がないからである。
これに対して、西郷は勝つにまかせるといった。
これは西郷のもっている日本教の根本理念は、勝にもわかっているはずだから、勝に任せるといった。
その理念に従ってやればいいので細かい点は実情のわかっている勝海舟にまかせるということである。
・日本教の基本的理念は「人間」である。従って心学は存在せず人間学が存在する。
・法外の方で規定され、言外の言で語られるため、言葉で知る事は非常に難しい。日本教を知るためには、それを体現している人物の思想と行動をできるかぎり解明していくしかない。
・この点で、西郷南洲の生き方や記したものこそ、最もよき研究対象である。
・日本人の新約聖書理解には終始一貫した明確な一つの前提がある。それは、「律法対人間」という対置である。
・「人間性」「無心」「身を投げ出す」問題はここだ。日本教とは人間教であるから、神の方へ人間がタッチしていく。従って「触らぬ神にたたりなし」となる。
■狭き門
・「理外の理」「法外の法」「言外の言」を考えれば、日本語が少々わかるから、日本の小説などが少し読めるからといって、日本語が理解できるなどと考えてはいけない。
・逆もまた真なり。外国語がぺらぺらだかといって、外国が理解できたと考えてはならない。
・たとえば、「狭き門」とはだれにでも知られ、みなが入りたがるが、多くの人が入れないで門外に残されるという意味であろう。だが、間違っている。それは「広き門」だ。
・真の「狭き門」とは、だれにも知られず、低く狭く人が見向きもせずに、ただ小道が通じている「門」のことをいう。その道を見つける人はほんのわずかであると聖書には書いてある。
■処女降誕と性
・処女から生まれた人間が絶対存在しなかった民族が2つある。一つはユダヤ人であり、もう一つは日本人である。
・聖胎告知も天使の植福も記しているのは、ルカだけである。ルカはユダヤ人ではない。おそらくアンティオキアのギリシャ人である。
・旧約聖書は生殖を善とみ、性を罪悪とみている。遊牧民にとっては、生殖のみが利殖といえる。
・性行為を利殖と関連付ける日本人はいまい。日本人にとって、実に神話時代から、性はあくまでも情緒の対象である。日本人は性を、「源氏物語」の昔に、神秘的で幽玄なものにしてしまった。
・キリスト教は徐々に日本教へ吸収されつつ、いわば土着化している。彼ら最初に聖書から削除するのは、処女降誕であろう。そして次に削除するものは神だろう。
結論 日本人に実在しているのは何か。ソロバンだけか?もちろんちがう。「人間」である。人間の存在を信じていない日本人は一人もいない。
従って「人間」という概念なしに生きている人間がいるなどということは信じられない。
だが、ヨーロッパ人には、ちょうど日本人に西欧的・ユダヤ的な意味の「神」や「言葉」が存在しないように、そういった「人間」は、存在しないし、
また、ソロバン的思考などは到底想像もできないのと同じように、この「人間」の実存をもとにした一つの世界は理解できない。
これは、断絶などという生やさしいものではない。
目次
はじめに
1 安全と自由と水のコスト
2 お米が羊・神が四つ足
3 クローノスの牙と首
4 別荘の民・ハイウェイの民
5 政治天才と政治低能
6 全員一致の審決は無効
7 日本教徒・ユダヤ教徒
8 再び「日本教徒」について
9 さらに「日本教徒」について
10 すばらしき誤訳「蒼ざめた馬」
11 処女降誕なき民
12 しのびよる日本人への迫害
13 少々、苦情を!
14 プールサイダー
15 終わりに
あとがき
ISBN:9784047041677
出版社:KADOKAWA
判型:新書
ページ数:304ページ
定価:800円(本体)
発行年月日:2010年10月15日第10版 -
本書は1970年にイザヤ・ペンダサン名義で出版されたベストセラー。確か中学生の時文庫本で持っていたが読まず仕舞いだった。今回読んでみて、その内容が現在でも全く色褪せていないことに驚かされた。文章には比喩的で難解な部分もあるが、ユダヤ教・ユダヤ人と対比させながら日本社会の特徴を「日本教」と称して鋭く指摘しており、またユダヤ人やその歴史・思想についてもかなり深く語られていて面白かった。例えば、西郷南洲は日本教の殉教者であり聖者である、との指摘。イスラエル問題について一般に言われている、ユダヤ人が二千年前に住んでいた地に勝手に国を作ったというのは間違いで、ユダヤ人はずっとパレスチナの地に住んでおり、イスラエルと周辺諸国との争いの本質は土地争いや民族争いではなく体制の争いである、との指摘等々。また、著者は、支配者と被支配者の間に位置して経済的に栄えた人種・民族は、支配者が力を失うと迫害されるとし、「名誉白人」の地位にある日本もこのような目にあうのではないか、と警鐘をならしている。著者の警鐘から45年後の今、実際のところどうであろう。米国の力は衰えつつあるが、幸か不幸か日本の経済力もそれほどでは無くなり、したがって迫害は免れている、といえるだろうか。
なお、新聞掲載エッセイの中でその著作が紹介され、気になっていた山本七平氏がイザヤ・ペンダサンと同一人物であることも今回初めて知った。 -
ウクライナとロシアの戦争は、プーチンさんが止める、といいさえすればたぶんおわる。
なんだか、はじまってからずっとそんな感じがしている。
問題はなぜあのかしこかったプーチンさんでさえ、こうなってしまったのか。
しかも、国内にチェチェンなどのいつ破裂してもおかしくない問題を抱え、足元で100人の死者を越えるホール襲撃事件が起きてもウクライナの関与が、といいはじめる。
これって、ウクライナのせいにしたらもっと大変なことにならないか?
判断を狂わせる何がそこにはあるということなのだろう。
しかし、それにつきあわされるロシア人はどうなる? あれは、ドストエフスキーや、プーシキンや、トルストイを生んだ国民だぞ、などとずっと考えている。
この戦争はどうしても、ウクライナ側に一理あるようにみえる。
経済的には、つらいものがあるけれども、どう考えてひっくりかえしてもウクライナのほうが信じられる。
近頃のロシアには唖然としてしまうのだ。
何か、この結び付きがたい、不条理を整理する方法はないのか。
ことは、これだけにとどまらない。イスラエルとパレスチナの戦争だ。
だが、こちらは少しみえていることがある。というのは、イスラエルが国としての経験があまりに薄いし短いということだ。
だからといって、パレスチナの人々が、殺されていい理由ならない。
たぶん、国というものは微妙にその国の指導者
のもつフィルターをとおしながらの関係をとるものなのだろう。
だから、隣り合った国には、微妙にその国どうしでないとわからない阿吽の呼吸のようなものがある。
それが決定的に欠けている感触。
こんなことが、あってこの本を手に取った。
この本は、不思議な本で実をいうと同じ本を二冊買うところだった。
ためしに、図書館に行って著者の違う同じタイトルの本を二冊かり出してみるといい。
その意味がわかるだろう。
そして、ユダヤ人とと日本人と言いながら、決定的に日本人論である。
それが、とんでもない教養に裏付けされてくりだされてくる。
名著で奇書。
ただ、ひとつ問題がないこともない。
著者のいう人間敎とでもいうべき日本人の特性の中身である。
中身に何をこれから入れることができるか、によって変わるよな、ということ。
しかも、言葉にならないことまで含んでいるだろうから、できれば少しでも徳性のようなものが増えないものか、などと考える。
戦争だけにかかわらず、大きな問題を抱えつつあるのだが、未来に対して開かれている本でそのために読みつがれてきた本なのだろう。 -
冒頭「もう二十年以上昔のことである。」
末尾「では読者の平安を祈りつつ、さらば。」
山本七平がイザヤ・ベンダサン名義で著したもの。ユダヤ人・ユダヤ教と対比することで日本人・日本教像が浮かび上がってくる。ユダヤ人になりきって書いてあり、文体に不思議な魅力がある。
「目には目を、歯には歯を」の話は新鮮だった。
正直、基礎知識が全然足りず理解が追い付かない。でも「日本人とは」「日本とは」と考えるヒントを知ることができたと思う。
今年の目標が角川書店の本を読むことだった。角川新書は一応読めたので目標の一つを達成。 -
【要約】
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【ノート】
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「内なるゲットーと外なるゲットー」と行ったのはユダヤ人国家の父、テオドール・ヘルツェル。ユダヤ人はゲットーに押し込められているが、ゲットーの内部にいる限り、安全であり自由である(少なくとも普通の国であるならば)。しかしひとたびそこから外部に出、いわゆる「同化ユダヤ人」になるなら、自分の精神の周りを黒幕で包んで、全く心にもない生き方をしなければならない。これは自らの精神をゲットーに押し込めることで、これを彼は内なるゲットーと呼んだのである。「内なるゲットー、外なるゲットー」という言葉は、ヘルツェルが言い出したのであろうが、こういう見方は古くからユダヤ人の間にあった
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内田樹さんの「日本辺境論」に触発されて読みたくなった本の中の1冊でした。
なるほど!と思うところが多々ありました。 -
日本人とは何か、どんな民族なのか、と言うことを客観的…日本人的ではない目線から教えてもらったような気がします。同じ人間でも、ここまで…感覚、思想、基盤になるものが違うのかと言う驚きと、これじゃあグローバルだなんだ言ったところで、人類皆兄弟なんて言葉は薄っぺらすぎてファンタジーにもなりゃしないな、と思いました…あとがきで「互いに交われば相互に理解できると単純に考えている日本人が余りに多い」と書かれていたのが、妙にストンと落ちてきました。ああ、そうだ、そういうことだ。みたいな。
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著者も指摘しているが、日本には評論家と呼ばれている人が実に多い。特に、大きな事件が起きると、すぐに○○評論家がテレビに登場する。しかし、評論家と名乗る以上、それなりの実力が必要である。単に知識が多いだけであれば、それは○○博士としてはどうだろうか。あるいは、好き勝手な持論を展開するだけの人もいる。これなどは、テレビに出るのはやめて、自分のブログで吠えてみてはどうだろうか。
正確で豊富な知識があるのは当然としても、普通の人が思いもしないような新鮮な切り口(物の見方や考え方)で、目の前の事象を分析できるような人を、私は評論家と呼びたいのである。
筆者の山本氏の分析は興味深い。例えば、鎌倉幕府以降大政奉還まで続く武士の時代を、「朝廷・幕府併存」と呼び、高く評価しているのである。こういう見方は、一般的にはあまりされていないように思う。実際、歴史の学習では、朝廷の話がほとんど出てこない。
私はつい最近まで山本氏のことはよく知らなかったのだが、これを機会に少し読んでみたいと思っている。 -
評論家の山本七平が、「イザヤ・ベンダサン」というユダヤ人の名前で刊行した本です。
本書では、「律法」を行動原理とするユダヤ人と対比する形で、「人間性」や「人間味」を行動原理とする「日本教徒」の特殊性を浮き彫りにしようとしています。イザヤ・ベンダサンという日本社会の外部からの観察者の視点を借りることで、そうした特殊性をよりいっそう際立たせようという戦略が採られています。
なお、朝見定雄『にせユダヤ人と日本人』(朝日文庫)で、本書のユダヤ教に関する議論の誤りが徹底的に暴かれました。もっとも、特殊な例を一般へと拡張する「エピソード主義」は、本書に限らず日本文化論一般の通弊であり、小谷野敦の『日本文化論のインチキ』(幻冬舎新書)でも、そうした本が批判されています。アカデミックな観点からは本書の意義はなく、あくまで山本七平という個人の、日本と日本人についての見方が示された本と捉えるべきなのだろうと思います。
とても興味深く読みました。勉強になります。
日本人は放牧をしなかった。日本教、人間の存在を信じている。…なる...
とても興味深く読みました。勉強になります。
日本人は放牧をしなかった。日本教、人間の存在を信じている。…なるほど。
難しそうですが、読んでみたいと思いました。