物語論で読む村上春樹と宮崎駿 ――構造しかない日本 (角川oneテーマ21)

著者 : 大塚英志
  • 角川書店(角川グループパブリッシング) (2009年7月10日発売)
2.98
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  • Amazon.co.jp ・本 (253ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784047101999

作品紹介

暴走する「物語メーカー」に「欠損した私」を委ねてはいけない。少なくとも「構造しかない」物語にこの国全体が「とてつもない日本」という空虚な意味を補填し、日本が世界に届いたと思い込むことだけは止めた方がいい。何も届いていないし、届けてしまってはいけないのである。9・11はアメリカ、ないしはブッシュという「物語メーカー」の暴走としてあり、そこに日本人は「欠損した私」を委ねてしまったことは忘れてはならない。

物語論で読む村上春樹と宮崎駿 ――構造しかない日本 (角川oneテーマ21)の感想・レビュー・書評

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  • 村上春樹が構造しか持たない小説を書いているという側面は無意識に認識していても改めてそうであると思い当たるまでにはかなりの熟読を要すると思う。というのは物語を受け取る私たちの想像力がいささか影響を及ぼし過ぎていることにあるだろう。例えば『海辺のカフカ』の少年カフカの物語は突然の家出に始まるやいなや大島さんや佐伯さんなどのキーパーソンに唐突に出会い、半ば振り回されるように進み続ける。そこには主人公の父母という存在への追求はあっても自己実現は存在しない。私たちがカフカ少年に感情移入をするとなれば自然に想像力を動員することが必要となる。骨組みに肉付けを行わないと空疎になるのと同じように、私たちの想像力がなければ村上の小説が無感情で空疎になるという見方もあり得るのだ。もっとも、想像力がなければ小説全般を楽しむことができないのは当たり前のことであるが、ここで言うそれはそういう意味でのものではない。問題は村上春の小説の場合、構造が安定し過ぎているせいで私たちがどのような想像をしてもなんの齟齬もなく物語が進んでいくことにある。物語より想像力が先行するといよいよ物語は小説の領域を超越してしまうから、構造どうこうの話は置き去りにされてしまうのである。村上は物語を神話で構成するから、構造が安定する。大塚は村上が物語メーカーである所以はここにあると主張している。宮崎アニメも同様に神話を取り入れているから一定のメッセージを付与することができている。構造は構造でしかない。それは救いであり欠点であるが、小説や映画の場合はそれだけではいけない。だから独自にメタファーを多重化したり、歴史を物語化したり、抑圧からの脱出を試みたりする。例えば大塚によれば村上の『ねじまき鳥クロニクル』はノモンハン事件をもとに作られた物語を一つの要素として取り入れているがそれが当時流行していた歴史修正主義と似た構造を持っているせいで危険を伴っているという。これは小説の世界としての村上春樹とは反対に現実世界での麻原彰晃がクロニクルを作ったことによってもたらされた新しい虚構によって大衆が扇動されてしまったことが物語っている。それ以降村上が歴史修正主義を匂わせるレベルでの歴史物語は作らなくなったことや、村上が現実世界で自分の鏡面を見て思わず目を反らせたことから村上のそれはリスクを含んでいることが分かる。これは歴史修正主義が問題だということではなく、そのような誤解や思わせぶりを生んでしまう極端な物語の構造化にあるのだろう。私は村上春樹の大ファンだしそれをやめるつもりもないけれど、この書籍ではある観点ではそういう見方ができるのだという程度に受け止めようと思う。最後に逃げるような記述をするのはちょっと嫌だけど事実は事実。結局小説は小説、現実は現実としか言いようのない事実に回帰する他ないのだと思う。

  • 著者はこれまでも、日本のサブカルチャー作品が世界に届くのは、それらが「構造しかないからだ」と言いきった柄谷行人の発言に何度も言及してきましたが、本書でもそうした視点から、村上春樹と宮崎駿の作品が物語論的な構造にしたがっていることを検証しています。

    本書の中心をなすのは、『羊をめぐる冒険』以降の村上春樹の作品が、『スター・ウォーズ』のようなハリウッド映画と同じ物語の構造を持っていることを、ジョセフ・キャンベルの『千の顔を持つ英雄』に基づいて検証する箇所でしょう。その上で著者は、サブカルチャー的なジャンクをベタな物語に作り上げたオウム真理教に、みずからの「鏡像」を見たのであり、そのことが『アンダーグラウンド』というノンフィクションを村上が手がけた理由ではなかったか、と考えています。

    また宮崎駿とスタジオ・ジブリの作品に対しては、少女の成長の物語が同時に男性の成熟拒否を内包していたのではないかという問いを投げかけ、『崖の上のポニョ』において母胎回帰という結末に達したことを批判的に論じています。

    村上の作品が物語の普遍的な構造に則っていることを示そうと著者は努めていますが、著者の検証が正しいとして、なぜそのことが批判されなければならないのか、という点に疑問を感じます。物語に「私」を委ねてしまうことで、個としての成熟を回避してはならないという著者の主張が、河合隼雄的な「母性」の理解に乗っかってしまっていることにも注意を向けるべきでしょう。ここには、批判する側が、批判対象と同じ前提に乗ってしまっているという、ありがちな問題が顔を見せているのではないでしょうか。もっとも、『うる星やつら』から『新世紀エヴァンゲリオン』まで、日本のサブカルチャー作品に母胎回帰というモティーフがくり返し現われるというのも事実なので、著者の「母性」ないし「近代的個人」の理解が陳腐というよりも、それらの作品が陳腐だ、ということなのかもしれません。

  • 三葛館新書 910.26||OT

    和医大図書館ではココ→http://opac.wakayama-med.ac.jp/mylimedio/search/book.do?target=local&bibid=55378

  • 本書にある、
    村上作品には構造しかない、という表現は正しくなく、
    器の中に注ぎ込んだ詩情を無視することはできない。

    今後もビッグ・ネームにもっと挑んでくれると
    面白い。

  • 「それはちょうど麻生太郎のソフトパワー論としてある『とてつもない日本』が、日本文化の「とてつもない」力を主張するだけに終始していることと対照的ではある。そこではつまりは、日本発のソフトの市場が世界化したことが日本が世界に認められていることの証明だといっているだけでえ、この国の文化戦略は極めて子供じみた承認欲求に支えられている。何がいかにして届くかは全く不問にされ、なんとなく「日本文化のすばらしさ」や「とてつもなさ」が届いたと無邪気に信じ込んでいるふしがある。」(p12)

    さて、この本では「構造しかない」村上春樹の作品を批判することが眼目にある。物語を「分析」するために用いられる「構造論」を、村上は物語を「作る」ために使っている、というのを著者は問題視しているようである。

    この批判は、「物語で現実は解決しないのに、物語のように現実を再構成して、そして理解し解決しようとしているのが9・11後のぼくが「再物語化した」と呼ぶところの世界」(p.243)だから、とい問題意識に支えられている。

    ただ、この問題をクリアする方法はこの本では述べられていない。「「構造」でない何か」(p249)を「構造」に代入すること、と述べられているだけである。果たして小説、あるいは文学のなかで、著者が「構造以外のものがある小説」とは例えば何なのか。もしかしたら「そんなものは現代に存在していない」と著者は答えるのかもしれないけど・・・。

    村上春樹の作品に「なにかを欠落した人間は、欠落しているということによってつながっている」という普遍性・世界性を見て評価する内田樹とは正反対の理解を大塚がしていることは面白かった。いったいどっちが理解として妥当なのか僕にはよくわからないけど・・・。

    それにしても、久しぶりに大塚英志の本を読んだけれど、こんなニヒリスティックな文体だっけな?という印象だった。どうも日本文学や思想状況に相当嫌気がさしているような感じを受けてしまった。

  • ヒロインが生きて帰りし物語の中で
    溢れ出る母への憧憬と父への反発。

    卒論で「母」=「自然」であると考えて
    言葉を使ったコミュニケーションについて論じたけど
    そう考えると「父」とは何だろう。
    『風の歌を聴け』だけでは父の象徴までは考えることができなかったけど、
    『羊をめぐる冒険』で考えると節々に出てくる。

    色々と主人公は冒険を重ねるが
    結果的に変化を齎すのは常にヒロイン。
    そう考えると、やはり「母」への憧憬を抱えていると言えるのかもしれない。

  • 世界に通用した!と喜ばれがちな村上春樹や宮崎駿は、それがそもそも無国籍の(構造しかない)ものなのだから当然だし、しかもその構造は基本的にはスターウォーズやディズニー作品から輸入してきたものである、という。
    そのうえで両者には「戦いから降りた男たち」「母体回帰」といったような共通の構造があるとする。

    『動物化するポストモダン』も自身の論は結局同じなのでは(「データベース」も「構造」と同じでは?)という指摘と、
    ポストモダンというのは結局モダニズムにすぎなかったという指摘に、いろいろと再読する必要性を感じた。


    最も重要なのは春樹とオウムの構造的類似の指摘。
    両者ともジャンクなクロニクルである、という。
    春樹は自分の物語構造のコピーを、『ねじまき鳥』2巻を書き終えたあと、地下鉄サリン事件に見てしまった、という(宮崎駿は『ゲド戦記』に自分の構造のコピーを見た)。
    けれども結局『1Q84』で春樹はまた構造の復興をしているという。

    でも、引用部で結論づけたような、「それが小説でしかない」という救いを、春樹は書くべきだろうか。
    あるいはそれは、もう書かれているのかもしれないし、物語は小説でしかないという救いは、それが救う対象であるところのわたしたちの「私」を、たしかに少し変えたような気もしているのだ。

  • 村上春樹と宮崎駿は、なぜ世界中で人気があるのかという問いに明確に答えた珍しい本。

  • ストーリーメーカーに続いてこちらも読了。
    けど、けっこう流しちゃったな。

    村上春樹の小説と宮崎駿のアニメを、著者の物語に精通した知見から捉えた一冊。
    批評的ではありつつ、それぞれの作品の説明が新鮮だった。

    個人的にジブリアニメの部分がヒット。
    ってかジブリはそんな細かいところまで色々と伏線をはっているんだ!って驚いた。
    キャラクターは当然凝っているんだろうけど、場所とか、設定とか、想像以上に暗黙的なテーマの上で成立しているのかと思うと、神は細部に宿るという言葉が頭をよぎていく。
    村上春樹とオウム真理教との話とかもけっこー面白かったな。

    人はそれぞれ物語る生き物。

    小説や文章を書くときだけではなく、生活している中で私達は自分固有の「ストーリーメーカー」を、正しいか誤っているかは別として、無意識に使っているんだろうな。

  • 村上春樹もジブリも読まない人には楽しくないだろうなと思いつつ、かといって春樹ファンにはオススメできないw 昔から語られている"構造"というものの存在を紹介しつつ、世界に広がる作品であるためにはその「構造」が必要であるけども、宮崎駿は女性にそれを当てはめる事が多く、村上春樹はその構造を主人公ではなく脇役(ヒロイン)に適用する事が多い、って紹介をひたすらにしている。 
    視点は面白いんですが、文章の書き方にクセがあるのでものすごく読みづらいです。

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