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Amazon.co.jp ・本 (256ページ) / ISBN・EAN: 9784047101999
作品紹介・あらすじ
明治期の近代文学のはじめから村上春樹、宮崎駿の『崖の上のポニョ』まで、なぜ登場する男の子はみんないつまでたっても子供のままなのか?日本文学に通底する男たちの「甘えの構造」を鋭く分析した刺激的な評論集。
みんなの感想まとめ
日本文学における男たちの「甘えの構造」を鋭く分析した本書は、村上春樹と宮崎駿の作品を通じて、日本のサブカルチャーが持つ普遍的な物語の構造に迫ります。著者は、村上春樹の作品がハリウッド映画の物語構造に似...
感想・レビュー・書評
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村上春樹が構造しか持たない小説を書いているという側面は無意識に認識していても改めてそうであると思い当たるまでにはかなりの熟読を要すると思う。というのは物語を受け取る私たちの想像力がいささか影響を及ぼし過ぎていることにあるだろう。例えば『海辺のカフカ』の少年カフカの物語は突然の家出に始まるやいなや大島さんや佐伯さんなどのキーパーソンに唐突に出会い、半ば振り回されるように進み続ける。そこには主人公の父母という存在への追求はあっても自己実現は存在しない。私たちがカフカ少年に感情移入をするとなれば自然に想像力を動員することが必要となる。骨組みに肉付けを行わないと空疎になるのと同じように、私たちの想像力がなければ村上の小説が無感情で空疎になるという見方もあり得るのだ。もっとも、想像力がなければ小説全般を楽しむことができないのは当たり前のことであるが、ここで言うそれはそういう意味でのものではない。問題は村上春の小説の場合、構造が安定し過ぎているせいで私たちがどのような想像をしてもなんの齟齬もなく物語が進んでいくことにある。物語より想像力が先行するといよいよ物語は小説の領域を超越してしまうから、構造どうこうの話は置き去りにされてしまうのである。村上は物語を神話で構成するから、構造が安定する。大塚は村上が物語メーカーである所以はここにあると主張している。宮崎アニメも同様に神話を取り入れているから一定のメッセージを付与することができている。構造は構造でしかない。それは救いであり欠点であるが、小説や映画の場合はそれだけではいけない。だから独自にメタファーを多重化したり、歴史を物語化したり、抑圧からの脱出を試みたりする。例えば大塚によれば村上の『ねじまき鳥クロニクル』はノモンハン事件をもとに作られた物語を一つの要素として取り入れているがそれが当時流行していた歴史修正主義と似た構造を持っているせいで危険を伴っているという。これは小説の世界としての村上春樹とは反対に現実世界での麻原彰晃がクロニクルを作ったことによってもたらされた新しい虚構によって大衆が扇動されてしまったことが物語っている。それ以降村上が歴史修正主義を匂わせるレベルでの歴史物語は作らなくなったことや、村上が現実世界で自分の鏡面を見て思わず目を反らせたことから村上のそれはリスクを含んでいることが分かる。これは歴史修正主義が問題だということではなく、そのような誤解や思わせぶりを生んでしまう極端な物語の構造化にあるのだろう。私は村上春樹の大ファンだしそれをやめるつもりもないけれど、この書籍ではある観点ではそういう見方ができるのだという程度に受け止めようと思う。最後に逃げるような記述をするのはちょっと嫌だけど事実は事実。結局小説は小説、現実は現実としか言いようのない事実に回帰する他ないのだと思う。
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著者はこれまでも、日本のサブカルチャー作品が世界に届くのは、それらが「構造しかないからだ」という柄谷行人の指摘に言及していますが、本書もそれにこたえるかたちで村上春樹と宮崎駿の作品について考察を展開しています。
本書の中心をなすのは、『羊をめぐる冒険』以降の村上春樹の作品が、『スター・ウォーズ』のようなハリウッド映画と同じ物語の構造をもっていることを、ジョセフ・キャンベルの『千の顔を持つ英雄』にもとづいて検証している箇所といってよいでしょう。また著者は、村上がサブカルチャー的なジャンクをベタな物語につくりあげたオウム真理教にみずからの「鏡像」を見たのではないかと指摘し、それこそが『アンダーグラウンド』というノンフィクションを村上が手がけた理由ではなかったかと論じています。
宮崎駿とスタジオ・ジブリの作品にかんしては、少女の成長の物語が同時に男性の成熟拒否を内包していたのではないかという問いを投げかけ、『崖の上のポニョ』において母胎回帰という結末に達したことを批判的に論じています。
村上の作品が物語の普遍的な構造に則っていることを示そうと著者は努めていますが、著者の検証が正しいとして、なぜそのことが批判されなければならないのかという点に、もうすこしこだわって考察するべきだったのではないかと感じます。物語に「私」をゆだねてしまうことで個としての成熟を回避するべきではないという著者の主張が、河合隼雄的な「母性」の理解に乗っかってしまっていることにも注意を向けるべきでしょう。ここには、批判する側が、批判対象と同じ前提に乗ってしまっているという、ありがちな問題が顔を見せているのではないでしょうか。もっとも、『うる星やつら』から『新世紀エヴァンゲリオン』まで、日本のサブカルチャー作品に母胎回帰というモティーフがくり返し現われるというのも事実なので、著者の「母性」ないし「近代的個人」の理解が陳腐というよりも、それらの作品が陳腐だ、ということなのかもしれません。 -
ヒロインが生きて帰りし物語の中で
溢れ出る母への憧憬と父への反発。
卒論で「母」=「自然」であると考えて
言葉を使ったコミュニケーションについて論じたけど
そう考えると「父」とは何だろう。
『風の歌を聴け』だけでは父の象徴までは考えることができなかったけど、
『羊をめぐる冒険』で考えると節々に出てくる。
色々と主人公は冒険を重ねるが
結果的に変化を齎すのは常にヒロイン。
そう考えると、やはり「母」への憧憬を抱えていると言えるのかもしれない。 -
村上春樹と宮崎駿は、なぜ世界中で人気があるのかという問いに明確に答えた珍しい本。
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何だか、村上、宮崎、中上、十ぱ一からげにぼろくそに言ってるように見えるけれども、そうだろうか。結構いいところをついているし、逆の期待感の表明みたいな万尾が、ナイーブに感じられて、ぼくは面白かった。偶然、三人が三人とも、ぼくの好きな人たちなんだけど。大塚君はここから、ポストモダンの反対、近代の見直しに向かうようで、それもいいと思った。
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三葛館新書 910.26||OT
和医大図書館ではココ→http://opac.wakayama-med.ac.jp/mylimedio/search/book.do?target=local&bibid=55378 -
本書にある、
村上作品には構造しかない、という表現は正しくなく、
器の中に注ぎ込んだ詩情を無視することはできない。
今後もビッグ・ネームにもっと挑んでくれると
面白い。 -
「それはちょうど麻生太郎のソフトパワー論としてある『とてつもない日本』が、日本文化の「とてつもない」力を主張するだけに終始していることと対照的ではある。そこではつまりは、日本発のソフトの市場が世界化したことが日本が世界に認められていることの証明だといっているだけでえ、この国の文化戦略は極めて子供じみた承認欲求に支えられている。何がいかにして届くかは全く不問にされ、なんとなく「日本文化のすばらしさ」や「とてつもなさ」が届いたと無邪気に信じ込んでいるふしがある。」(p12)
さて、この本では「構造しかない」村上春樹の作品を批判することが眼目にある。物語を「分析」するために用いられる「構造論」を、村上は物語を「作る」ために使っている、というのを著者は問題視しているようである。
この批判は、「物語で現実は解決しないのに、物語のように現実を再構成して、そして理解し解決しようとしているのが9・11後のぼくが「再物語化した」と呼ぶところの世界」(p.243)だから、とい問題意識に支えられている。
ただ、この問題をクリアする方法はこの本では述べられていない。「「構造」でない何か」(p249)を「構造」に代入すること、と述べられているだけである。果たして小説、あるいは文学のなかで、著者が「構造以外のものがある小説」とは例えば何なのか。もしかしたら「そんなものは現代に存在していない」と著者は答えるのかもしれないけど・・・。
村上春樹の作品に「なにかを欠落した人間は、欠落しているということによってつながっている」という普遍性・世界性を見て評価する内田樹とは正反対の理解を大塚がしていることは面白かった。いったいどっちが理解として妥当なのか僕にはよくわからないけど・・・。
それにしても、久しぶりに大塚英志の本を読んだけれど、こんなニヒリスティックな文体だっけな?という印象だった。どうも日本文学や思想状況に相当嫌気がさしているような感じを受けてしまった。 -
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村上春樹もジブリも読まない人には楽しくないだろうなと思いつつ、かといって春樹ファンにはオススメできないw 昔から語られている"構造"というものの存在を紹介しつつ、世界に広がる作品であるためにはその「構造」が必要であるけども、宮崎駿は女性にそれを当てはめる事が多く、村上春樹はその構造を主人公ではなく脇役(ヒロイン)に適用する事が多い、って紹介をひたすらにしている。
視点は面白いんですが、文章の書き方にクセがあるのでものすごく読みづらいです。 -
正直、あまり理解ができなかった。と、いうのは村上春樹を読まないし、宮崎駿の作品もほとんど観ていないからだ…。その状態で、この本を読んでも理解がすすまないのは当然のことだろう…。
要再チャレンジ。 -
物語はあくまでも、消費財でしかないと著者は主張する。現実世界に物語のコンテクストを拡張してもろくなことにはならないからである。そんな中にあって、今世界を席巻しつつあるかのように多くのひとが錯覚している日本のサブカルチャー文化について、村上春樹・宮崎駿といった日本代表といっても過言ではない人の作品を考察していく。彼らは大江健三郎にみられるようないわゆる日本の文化とか伝統といった、ナショナリスティックなものとは対照的に、構造的ないわば、普遍的な物語の形式・構造をとっているためにグローバル形式へと意図せずして近づいていったのである。著者は、キャンベルの『千の顔をもつ英雄』を引き合いに出し、彼らの物語が、本書で言及されてる神話的な構造そのものであることを検証していくことで、その事実を検証していく。奇しくも柄谷行人が「構造しかない物語」といった通りであったわけだ。リオタール的な大きな物語の終焉が、個別のモナド的たらんとしていた、形式を変動させたのは間違いないだろう。
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宮崎アニメをはじめとするジャパニメーションや村上春樹らの小説が世界に受け入れられたのは、日本的なサブカルチャーの独自性が認められたからではなく、物語の「構造化」によって普遍化されたからグローバルになったにすぎない、という柄谷行人の指摘から本書は始まる。
そしてこの指摘は非常に納得がいくのだが、結論としてこの柄谷の指摘の域を本書が超えることはない。
よって、この前提/結論以外の、宮崎アニメや村上春樹の小説がいかに構造しか持っていないか、という分析は、物語構造オタク(いるのか?)的には面白いだろうけど、私にはちょっとくどく、かつ若干乱暴にこねくり回された感を否めなかった。
春樹の小説もポニョもスターウォーズと一緒だ、ということを実証するプロセスに面白みを感じられるかどうかだろう。
あと最後の「補論」として追記された 『1Q84』BOOK1~2の軽~い分析はちょっとどうかなあ。1Q84も結局構造しかなく、自分の指摘が正しいと言っているのだが、たとえば1Q84の中の、登場人物が構造しかない小説を書くことや、記号からはみ出たキャラクター的な属性を持つ登場人物、陳腐とのギリギリの境界にあるエンターテインな具体性、牛河というこれまでの春樹の小説には登場しえないようなキャラについて、もう少しちゃんと分析するべきだろう。と思った。 -
【404】
根本の「構造」って言葉がイメージできず。。。村上春樹を制覇しようと決意した。 -
宮崎も村上も、大人への成長までは描いてない。
スターウォーズって、物語論がもろ使われてるよね。 -
「羊」の後継者を狙う男との戦いにおいて
「僕」は独自の機知など働かしていない
ただ、鼠が残した最後の言いつけに従ったまでだ
村上春樹の書く主人公たちには、主人公としての意思などなく
ただ「神話の構造」という
作者の設定したレールにそって進んでいるだけだという考えには
おおいにうなずける部分もあるのだけど
なぜ村上春樹が文学的に重要なのかというと
それはいずれも最終的に、神話としては破綻するからだと
僕はそう考えてる
(神話が破綻すれば、勝利の女神だって英雄に愛想をつかすだろう)
(しかし女神たちにしても、もはや神ではいられないのだ) -
村上春樹がオウムを最も見たくないものと感じたのは、オウムの在り方が自分たちの合わせ鏡的な像としてあったからだが、それは市民社会一般の鏡像というよりは作家としての村上春樹の方法に近かったからだ。
オウム真理教ないし麻原もまた彼らのやり方でAUMおしての物語構造を持つ自己実現や英雄神話を描いたのである。そうでもなければ村上春樹のオウム真理教への過度なコミットメントがもうひとつ釈然としないのである。 -
読み助2009年12月8日(火)を参照のこと。
http://yomisuke.tea-nifty.com/yomisuke/2009/12/
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