イエスはなぜわがままなのか (角川新書)

  • アスキー・メディアワークス (2008年6月11日発売)
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Amazon.co.jp ・本 (192ページ) / ISBN・EAN: 9784048671880

みんなの感想まとめ

信仰の本質や宗教の意味について深く考察する一冊です。著者は、イエス・キリストの意外な行動を取り上げながら、信仰の持つラディカルな側面を明らかにします。特に、信仰を持たない人々の素朴な疑問に応える形で、...

感想・レビュー・書評

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  • タイトルの「理不尽なイエス」を書いたものは、一章だけで、あとは、クリスチャンにとっても、そうでない普通の人についても「信仰」ってどういうことかを理解するために是非読んで貰いたいと思った。

    空腹で、季節なのに実のなっていないイチジクの木を枯らして八つ当たりするイエス。
    豚を集団自殺させるイエス。
    動物を鞭で叩きだし、市場をめちゃくちゃにする暴力的なイエス。
    「平和ではなく、剣をもたらすために来た」イエス。
    弟子のユダに「おまえなんか生まれてない方がよかった」とかひどいことを言うイエス。
    「親も兄弟なんぞ知らん」とかいうイエス。

    ほかにも『聖書』には、「は?」とかいう理不尽で理解しがたいエピソードがたくさんありますが、それはおいときましょう。

    著者は、長年のクリスチャンであり、アウグスティヌス研究の教授でもあり、キリスト教系の学校の校長でもあり、それらの疑問に、しっかりと丁寧に「その感覚は分かります」答えておられ、また、「聖書の解釈学なく、ひとりで信仰の書として聖書を読むのは危険だ」とまでおっしゃっています。

    奇跡にかんしては、「事実」というよりも「真実」としての表現であるということ。

    あとは、「キリスト教」の信仰の感覚に関するものですが、私はこれを読んでますます、ネットのやりとりなどで不信感を増していたキリスト教に対して改めて安心感を抱きました。
    そして、本書を読みながら、あらためて、イエスに近づきたいイエスはともにいるという感覚を抱かされました。

    聖書は、ただ一部の聖句を抜き出すだけでなく、しっかり前後のコンテキストや、本当に言いたかった意味を探ってこそ、「真実」として伝わってくる。

    多くの人が誤解しているのが、キリスト教の「罪」と「悪」の違い。
    「罪」とは神とは違った方向を向かざるを得ない人間の性質のこと。
    神はたしかに分からないものであり、「分からない」からこそ神である。そして、神が全知全能だと言って、信じる者も完全とは限らない。そこに間違った信仰の怖さがある。

    祈りは、「願い」ではなく、「神との対話」。神に文句を言ってもやはりそれは「祈り」であり、「信仰」でもあるという。

    多くの新興宗教と違って、キリスト教は「どこかに魅力がある」「倫理的な団体」だから信じるというものではない。また、人生の難問に応えを与えられるということもなく、むしろ、問いかけは深まる。問いかけから、信仰は始まる。

    聖書は実践しづらいということ。
    それでも、神から受け入れられている自分がいる。

    あとがきでは、著者は「異端」にかけられてたり誤解を与えることを心配しつつも、人生の終わりにさしかかり信仰の本音を語っているようです。

  • イエスのワガママエピソードは第一章(83ページまで。

  • クリスチャンである著者が、信仰を持たない読者の素朴な疑問にわかりやすく答えています。

    著者は、イエスがイチジクの木を呪い枯らしてしまったエピソードなど、イエスの理不尽さを示すような話を聖書のなかから紹介しています。もっともらしい正当化を急ぐのではなく、そうした理不尽さを感じざるを得ないエピソードを含むキリスト教を信仰するとは、いったいどのようなことなのかという方向へ、話を進めています。

    そして、聖書のエピソードを「事実」としてとらえるのではなく、宗教上の「真実」としてとらえるという考え方や、信仰の道へ進む人びとは決定的な確信を抱いて信者となるのではなく、むしろ入信はスタートにすぎないという考え方などが説明されています。

    キリスト教にかぎらず、宗教とは何かということを考えるための手がかりが示されているように思いました。

  • 聖書の中で、かのイエス・キリストは、暴力をふるったり、自己中にふるまったりするシーンがあるらしい。そんな意外なシーンを引き合いに出して、キリスト教を考えてみた内容。著者はフェリスの学院長で、聖職者かなと思ったら、普通の一信徒ということ( 意外。カトリックの学校しか知らなかったけど、プロテスタントはそういうものらしい)で、上から目線で教義を説くのではない。とくに非キリスト教信者の視線も意識して「罪」や「愛」や「神」に対する、(個人的な)理解や感想を綴っている。

  • Fri, 07 Aug 2009

    久しぶりに会った友人がカトリックに改宗していて面食らった男,tanichu です.

    聖書の中にはイエスの横暴がいろいろ書いてある.
    自分がおなかのすいた時に実をならしていないイチジクに
    「二度と実をつけるな!かれてしまえ!」的なことを言って枯らしてしまったり

    悪霊にとりつかれた二人の男から悪霊を追い払って豚の集団に転移させることで,豚を集団自殺させたり

    「私が地上に来たのは平和をもたらすためだと思ってはならない.平和をもたらすためではなく,剣をもたらすために来たのだ.」
    と言ってみたり.

    最後のんは,なんか十字軍とか湾岸戦争などなどを予測するような話ですが・・・.

    まぁ,それはさておき,そんな変なイエスさんが なんでそんなこと言ったのか?という話.

    どちらかというと「空想科学読本」的なシニカルさを求めて買ったのですが,著者はフェリス女学院の学院長さんで,キリスト教徒そのものですので,そういうものではなかった.

    なぜ,そんな事をいったのか,むしろポジティブにそれを解釈しようという方に議論がすすんでいく.

    後半は最早,普通のキリスト教布教的なお話し
    罪とはなにか,信仰とは何か?みたいなはなしになって
    そんなつもりではなかった私は面食らってしまいました.

    筆者は日本人は宗教意識が低く,関心が小さいのは何故か?
    と問う(p.124)

    そして

    その一方で,尊敬する人や,思想,信条にはまるで神を信じるかのように絶対的なものだと思うのは不思議だ.
    と,言う.

    のだが,

    私としては,
    それこそ,日本人の神の概念なのだと思うのですが.

    キリスト教の神はもともと1950年代までは天主様と呼ばれていた,一神教的存在.
    もともと,日本人にとっての「お上」と「神」は語源が同じだという話もある.日本人にとっての「かみさま」と西洋のゴッド,天主様は別概念.

    北野天満宮とか菅原道真ですしね.
    日光東照宮は徳川家康ですし.

    日本人の宗教観はとっても,暗黙的だけど,多分しっかりあるんだと僕はおもいます.言葉に出来ないような,意識しないような,常識的な感じで.

    神道 と,わざわざ言うと,角が立つみたいですが.
    長い歴史の神仏習合&自然との共生の文化なのかと.

  • ネタばれです。

    新約聖書を読んでいると確かに「えっ?」と思うことがある。
    その不思議も、本書を読むとなんとなく分かる。
    「えっ?」と思ったことは、そのまま疑問のままでいい、と言う答えもありかなと思った。

  • 右の頬を殴られたら、左の頬を出すなんて無理である。信者になんということをイエスは要求するのだと思いきや、そういったエピソードの真相を「実は……」と一つ一つ解いていってくれるのが本著だ。
    頬を出す意味は、「相手を本当の意味で大切にしているのか、相手との関係を再確認せよ」ということを伝えたかったのだとか。

    他、「われ地に平和を與へんために來ると思ふか。われ汝らに告ぐ、然らず、反つて分爭なり。今よりのち一家に五人あらば、三人は二人に、二人は三人に分れ爭はん。父は子に、子は父に、母は娘に、娘は母に、姑姆は嫁に、嫁は姑姆に分れ爭はん」と、攻殻機動隊でも出てきた有名な文句は、「生命の根源、神と個人との縦の関係を意識しなさい、横のつながりばかりにとらわれてはいけない」ということを伝えたかったのではないかと解説します。でも、こういった、横のつながりの執着を捨てるのは、出家という形をとる仏教にも共通していますね。でも、なんかかっこいいから、ここの文章はこのままの意味でいいのでは。実際、人類はこんな風になっているわけだし。

    ところでキリスト教における原罪とは、なんだろうか。
    著者は「人間は生まれながら神に背を向けている状態である」=原罪と述べます。つまり、神でなく、物質という人をしばるものにばかり目がいってしまう、それにもともととらわれているのが人間で、それを解放するのがキリスト教の教えなのでしょう。
    イエスはその原罪を持つ人間に、神の愛を説きます。
    神が人間を超越した存在である以上、神の意志に沿っているかどうかは神だけが判断できること。つまり、その判断は、イエスに出会い、自分が神に愛されていることを知り、自分が神のほうを向いていなかったという罪を理解し、神を信じないという的外れな状態を解消することで決されます。
    そんな感じで、物質から神への信仰を持つということは、自分に命を与えてくれた神という存在に応じる生き方をしようとすること、そのために(事実ではない)真実を問い続けていくことではないかと結論します。そして、問いを発する祈りとは、不条理への怒り、助けて欲しい気持ち、幸せな時間、神に向けて発する言葉すべてであるということです。

    イエスの復活の意味は、「罪も死も乗り越えて、新しい在り方を示した、生物的な生命を超えた何かがあると希望を持って生きることができるという」ことであり、「すべてが完全に理解できるものを信じる必要はない。
    客観的に誰もが納得でき、理解できるような事柄は、厳然とそこにある『事実』というだけのもの、悟りの境地も、すでに答えを出したのなら、もはやそれを信じる必要はない」という、本著での主張は、イエスにまつわる奇跡や、様々に解釈できる言動への、果てのない探求の精神があらわれてます。
    アウグスティヌスのこんな言葉を著者は引用します。
    「信じるために知りたい、と言う人がいる。しかし、私はその人に、知るために信じなさい、と言う」(アウグスティヌス)

    そんな風に、信じることばかりに甘い言葉をならべたてていると、真の支配者にマインドコントロールされっぱなしだぞというような、キリスト教は実は人々を利用するためのもの的な批判もあるでしょうが、この信じるという姿勢は、実はその逆転であり、「やれマインドコントロール、やれ陰謀、やれ神とか言ってる奴はだめだとか、そういって信じることをやめて、知ることばかりを知り、知ることの奥にある信じることを考えなくなれば、やがては知ることもまともにできなくなるだろう。ならば、神の愛とはなんなのか、そんな冷笑やら、自称客観的意見なんか言わずに、まずは深く信じてみなさい。洗脳されるんじゃないかとか恐れるんじゃない。信仰とは神以外からの解放であり、その神とは、問い、であるのだから」。

  • 著者が哲学者でクリスチャン。キリスト教の全てを知ってから、信じるわでは無いのだ言う。信じてからおいおい知ってゆけば良いと・・。
    なんだかすっきりしない。

  • タイトルに惹かれて買ってみました。
    最初は帯のとおりだったけど…

  • タイトルに興味を惹かれ購入。

    キリストの意外な面を紹介することを入り口に信仰のありかたが書いてある。

    キリスト教をある程度知っておかないと自分のようにふーんで終わってしまう。

    キリスト教に関する他書を読んでから再読予定

  • 信仰とは何か、というのが少しわかった気がする。理解できるから信じるのではなく、信じることで理解しようと努力する、ということ。モノやサービスを選ぶように宗教の隅々まで理解した上で入信するのではない。感覚的に合いそうだと感じて、付き合いながらいろんなことを理解しようと努力する。宗教も恋愛と同じなのか。■聖書のエピソードはそのまま信じているのではなく、そのエピソードの向こう側にある意味を考えることが大事らしい。イエスは完璧な善人でもなく、死に様も含めて人間らしいからこそ、これほどまでに信仰の対象になり得たとか。なるほど。

  • まあまあいい本。表題に直接回答はないが、信仰の考え方を示してくれる。

  • アマゾンのレビューにも書かれていたが、ちょっとタイトルを変えた方がいいかも。でも、特定の宗教を信じていないあたしには、どうして人は神という存在を信じるのかを知る手がかりにはなった。聖書の話は純粋に面白かった。

  • 必修キリスト教概論の課題本。

  • 50年以上に亘ってキリスト教徒な方が、イエスの意外な姿を解説し、更にそれが信仰の対象になりうる理由についての自論を纏められた本です。

    宗教学者が書いた解説本より、ずっと読みやすく分かりやすくて面白かった! やはりこういうメンタルに重きが置かれる事象って、どんなに的確な考察や論拠より、それを当たり前にして生きている人の実感が少しでも肌で感じ取れるかが一番だと思うんです!

    そういう意味で、この本はイエスへの批判的な描写から入ってますが、それを長年に亘り信仰している人の実際の心持ちがきちんと挿入されていたので、今までわからなかったことが、感覚的に「何が」わからなかったのかから解いてくれる本でした。

  • 2009.06.12
    こういう系統の本読み続けてればいつかキリスト教がわかるようにならないだろうか…。

  • 聖☆おにいさんから連鎖っぽく読んだ1冊
    最初の方はイエスも聖人君主ではなく、人間っぽいところがあったんだよという流れだったんだけど
    後半は、こういうことも書いてあるけど、こういう解釈で信仰してるんだよという流れ
    聖書は単独で読むものではなく、聖学書と共に、一人ではなく数人で読んで解釈するもの。らしい

    目新しくはあったけど、信仰書だわ

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著者プロフィール

1939年東京生まれ。

国際基督教大学卒。京都大学大学院文学研究科博士課程修了。文学博士。専門は西洋古代中世(ギリシア、ラテン)の哲学。1968年から国際基督教大学に勤務、現在同大学名誉教授。2003年から2011年までフェリス女学院の学院長を務める。

日本基督教団国立教会員。

著書に『アウグスティヌス「告白」の哲学』(創文社)他。アウグスティヌスの著作のラテン語からの日本語訳なども手がける。

「2016年 『信じることをためらっている人へ』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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