キップをなくして

著者 :
  • 角川書店
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  • Amazon.co.jp ・本 (293ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784048736039

感想・レビュー・書評

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  • 小さな頃「切符を無くしたら駅から出られないんだからね」なんて言われたかな

  • 電車のキップを失くしてしまった子どもは駅から外に出られない、駅の子になってしまうという何とも不思議で、考えるとちょっとこわい設定の話。
    それが読んでいるうちに駅の子になりたいと思えてくるのだ。駅の子は駅内の食堂や駅弁を自由に食べ、キヨスクのおやつもただ。駅から外にでなければ、好きなだけ電車に乗れる。電車好きにはたまらない。
    けれど楽しいだけでは終わらない。
    駅の子とは、なんなのか?その仲間の一人ミンちゃんとは?駅長さんとは?
    駅の子たちと一緒にミンちゃんに寄り添いながら、死とは、死んだあとはどうなるのかを考えさせられる。死を受け入れるということ、全ての命が繋がっているという死生観をやさしい言葉で語りかけてくれる。

  • 『キップをなくして』再読。
    私が中学生の頃、友達から借りて読んだ本。また読みたくなったので読んだ。こんな話だったっけ?って感じだったけど、すごく新鮮だった。
    キップをなくしたために駅から出られなくなった子どもたち。「ステーション・キッズ」として子どもたちを守る駅の仕事を始める。
    仕事をする意味や役割について、生と死について、子どもでもわかるような内容だった。
    「ステーション・キッズ」がはじまったきっかけも、なるほどと肯ける。誰かの思いが後世にも繋げているんだろうな…
    舞台は山手線だったけど、東京の路線ってすごく複雑なのね…朝のラッシュとか想像を絶するな…

    2020.7.19(2回目)

  • 以前に読んだ気がしたけど、結末を覚えてなかったので再読しました。「切符をなくしたら出られない」ってホラーになりそうですが、なんだか楽しげな話でした。

  • スタジオジブリの鈴木敏夫がラジオで「好きな本」として紹介しているのを聴いて、読んでみた1冊。
    鈴木さんによると、何度かこの本をジブリでアニメ化しようという話も持ち上がったこともあるらしく、そんなふうな"ジブリ的な先入観"をもって読んだら、まあただの号泣本だった。山手線の中で、エクセルシオールカフェで、まあひと目を憚らず泣いた。忘れられない人生の1冊になった。


    ***
    お話は、小学校高学年ぐらいの主人公の少年イタルが、山手線でキップをなくす。すると、どこからともなく中学生ぐらいのお姉さんがやってきて、「キップをなくした子は、駅から出られない」「君は今日から駅の子、ステーション・キッズだ」と告げられ、イタルを同じようにキップをなくした小学生〜高校生ぐらいの10人ぐらいの子どもたち、「ステーション・キッズ」が暮らす東京駅の地下に案内される。彼らは、駅の中で彼らにしかできない仕事を担いながら、改札の中の制限された世界の中だからこそ色んなことを感じ・考え、そして、閉ざされた世界だから出会えた仲間たちとの友情を育む。

    その中に、一人、不思議な雰囲気をまとった年下の女の子がいる。ご飯は食べない。みんなにも混ざらない。あまり笑わない。聞くと、実は彼女は駅で死んでしまった<幽霊の女の子>だった。現世に納得し旅立てる日まで、駅で過ごして良いことになっているという。しかし、イタルたちステーション・キッズが駅にいられるのは、1学期の間だけ。夏休みが来たら、皆もとの暮らしに戻る事になっている。それまでに、<幽霊の女の子>が旅立たないと、彼女は一人ぼっちになってしまう。自分でも気づかずに好意を寄せていたイタルは彼女と向き合うことを決め、考え、行動に出る。

    駅の中での仲間たちとの充実した暮らしの中で、<幽霊の女の子>との関わりながら、生きること、死ぬこと、自分と他人ってなんだろうと子どもの目線で向き合っていくお話である。

    ===
    読んでいて最も印象に残ったのは、<幽霊の女の子>、ミンちゃんが、「私はこの世に残ってはいけない」「もう旅立つ心が固まった」ということを、唯一の肉親である母親に(シングルマザーだ)、幽霊ながら伝えに行くシーン。ステーション・キッズは終電から始発までは改札の外に出ていいというルールになっていて、それを利用して、母親が暮らす目白にイタルとミンちゃんで向かう。

    死者は現世にまだ思い残りがあると、向こう側・あの世に旅立てない。ミンちゃんの場合は、それが母親だった。母親は、ミンちゃんの前に、自分の母(ミンちゃんからみたら祖母)も亡くし、深い孤独の中に沈んでいた。そんな母親が心残りだったのだ。

    そして2人で母親を訪ねると、突然の再会に戸惑いながらも、次のように拭いきれない孤独と不満を吐き出す。「トマトを剥いても、魚を焼いても、ついみなこ(ミンちゃん)の分まで作ってしまう。そのお皿を前にして泣くのよ。もういないんだって思うとどうしようもなくてね他の人を妬んだりもするよ。みんな夫がいて、子どもも二人三人いるのに、母親も健在なのに、なんで一人しかいない私の子が死ななければならないの?そんなの不公平じゃない」(P.190-191)

    それに対してミンちゃんは言うのだ。「死んでからわかったんだ。人と比べちゃいけないんだよ。私だって初めはなんで自分がって思ったけど、これはしかたがないことなの」(P.190)と。
    しかし、なぜ比べてはいけないのか?
    「わたし、死んですぐの時に、私と同じように事故で死んだ赤ちゃんに会ったの。生まれて三日目で、まだ名前もなかった。言葉も知らなかった。でもその子はにこにこ笑っていた」(略)
    「その子は、『まだ三日だけど、とっても楽しかった』って言ったわ。『いろいろなものを見たよ。おひさまの光がまぶしかったし、そよ風が気持ちよかったし、おっぱいの味も、お母さんの匂いも、手に触るものもぜんぶ、おしっこが出るのも、みんな嬉しかった』って」(略)
    「この子は三日でも喜んでいる。この子は自分と他の子を比べていない。それまでは私だって辛かった。悔しかった。なんでわたしばっかりって思った。でも振り返ったら、いいこといっぱいあったよね。ママと一緒で嬉しかったよね。夏はいつもグランマのところに遊びに行ったし、友だちもたくさんいたよね。グングン(飼っている犬)だって可愛かったし。おいしいものもいっぱい食べた。そういうことぜんぶを覚えたまま向こう側に行くならいいんじゃないかって今は思ってる。人は人、自分は自分ってね」(P.193)
    なんで私ばっかり・・・。もっと生きてたら、もっと色んな可能性に出会えたんじゃないか。でもそんなふうに思うこともあったが、いつまでもそんな思いに囚われてしまっていてもしょうがない。生まれて三日の赤ちゃんがそうであったように、本当は生きていると、すべてのものが嬉しいんだ。時間の長さが問題じゃない。辛いことばかりが、大きく立ちはだかって、いつの間にか心も身体も、悲観に支配されてしまうこともある。でも、それだけじゃなかったよね、と。嬉しいことだってあったよね、と。それがあれば、私はもういいんだ。比べずとも、短い時間だったけど、心はその嬉しさで満たされているんだと。このやり取りは本当に心に響いた。

    そして、ミンちゃんは、死んですぐにこの赤ちゃんに出会っていて、おそらく少しずつ、自分自身の死というものは、受け入れられていたんだ。あとは母親に会いに行くだけ。でも、どうしてこのタイミングで母親に会いに行く決心がついたのか?それを考えると、やはりイタルの存在がとても大きいのだ。
    ミンちゃんは駅にいる間(たぶん1年と少し)、様々な子どもたちに出会ってきたはずだ。その子どもたちは、みんなミンちゃんが幽霊で死んでしまっているということを人づてになんとなく聞いて知っていた。気を遣って、詳しく本人に聞いてきたりはしなかった。
    しかし、イタルは違った。ご飯を食べず、あまり笑わないミンちゃんのことが気になる。そして、どうして?と聞くと、私は死んでる、私は幽霊だと告げられるのだ。たぶん、おそらく、いやほぼ間違いなく、イタルはミンちゃんのことが好きになってしまったから、気になってしまうのだ。だから聞いた。関わろうとした。好きな女の子が、元気がなさそうだから、何か力になりたいと。とはいえ、この恋はどうやったってかなわない。相手は幽霊だから。打算的なオトナだったら、怖がって距離をあけてしまったり、幽霊と恋してもたどり着くところがないから、それっきりだろう。
    でもイタルは違う。ミンちゃんを元気付けるにはどうしたらいいだろう。ミンちゃんを一人ぼっちにしないために、気持ちよく旅立ってもらうにはどうしたら良いだろう。いろんなシーンがテンポよく次々と作中に展開される中で、イタルのそうした思いが、何度も何度もよぎる。くり返し差し込まれる。他人の、幽霊の人生に忸怩たる思いを抱えて、どうしたらいいか、答えはでないけど、いつも向き合おうとするんだよ、イタルは。
    しかもイタルの良いところは、謙虚なところだ。「私に旅立ってと言って」と懇願するミンちゃんに対して、「そんな事はできない。それを決めるのは自分自身だ」と言うイタル。大したもんだよ。上辺の言葉じゃない、かといって、相手によりかかりすぎない。自分の分をしっかりわきまえている。
    たぶん、こんなイタルの存在が現れてきたことによって、ミンちゃんは母親に会う決意ができたんだと思う。要するに、家族以外の誰かから、愛を受け取ったということなのかな。それはミンちゃんの生前の人生にはなかったことで、それによって、またミンちゃんの心も満たされ、彼女を動かす原動力となったはずだ。

    そして、こうしたイタルの姿に、なんだか勝手に彼の成長の一端を見たように感じてしまう。イタルはきっと元々優しい子なんだろうけど、これまでの彼の人生で、こんなふうに、他人のことを真剣に考えたことはあっただろうか?こんなにも他人のことに真剣に悩んだことはあっただろうか?きっと、駅の子になり、ミンちゃんとの関わりを通じて、イタルは大きく成長したんじゃないかと、そんなふうに考えたくなってしまう。
    このシーンにまつわるミンちゃんの言葉や、イタルの姿にここまで心打たれるのは、ここから読んでいる自分自身を省みるからだろう。仕事を始めてから、いや、大学生の頃からなのかな。目の前の誰かが、出会ったものに感動してたりしても、そんなの知ってるよ、見たことあるよ、他にももっとすごいのあるよって、なんだか斜に構えてしまうことが増えた。仕事を始めてからは、締切だってできた。形にならないと、納品できないと、意味がない。だから、無駄なことよりも、なんとなく答えがすぐに欲しい。そんなふうになるのを毛嫌いしていたはずなのに、そうならざるを得ないと言い訳していた。他人に対してだってそうだ。「で、つまり何が言いたいの?」と答えばかり。だから、なんだか真剣に幽霊の女の子に向き合い悩むイタルの姿に、人と比べずとも、自分の心は嬉しさに満ち溢れているというミンちゃんの言葉にハッとしたんだろうと思う。そして、一人より、みんなでいるほうが楽しいんだよな、シンプルに。そんな事に気づかされた。

    ===
    その他、気になったことを。
    ▼デコボコした文章
    テクニカルな話だけど、独特な言葉遣いというか、ひっかかりのある言葉遣いによって、たくみにグイグイ作品の世界に引き込まれた気がする。
    たとえば、「まるしの食堂」。"鉄道職員の食堂"という意味なんだけど、職員の「し」が丸に囲まれた文字が書いてある札がついたドアがあり、その向こうが食堂になっているというもの(子どもたちもよくそこで食事をとる)。なんだか、本当にありそうだよね、あってもおかしくないよね、っていう不思議なリアリティーがあるし、文章の中に「まるし」が実際に特殊文字として書いてあって、違和感たっぷりに存在しているから、ひっかかりが生まれる。かといって、それに躓くわけではなく、設定がわかりやすい。そういう意味で、でデコボコしている文章だった。
    他にもラッチ(鉄道職員が専門用語的に使う改札の意)、ステーション・キッズ...いろんな言葉や造語がひっかかりを持って出てくる。手書きの文字が出てきたりね。小説なんだけど、ビジュアル的にというか、テンポ的にというか、デコボコと飽きさせない魅力があったと感じた。

    ▼子どもの視線を描く
    子どもの感情や、初めて出会ったものに対する新鮮な驚きの描き方も本当に巧みだった。
    印象的だったのは、イタルが初めて特急に乗ったときのこと。ステーション・キッズは、改札の中なら電車も特急も関係なく乗り放題。それまで山手線ぐらいしか乗ったことのなかったであろうイタルが、初めて特急に乗った時にあることに気づく。いつも乗る山手線は、窓が後ろ。特急は窓が横。なんと、過ぎゆくその景色が横に見えるのだ。【いつもと違う、特別な電車に乗っている】ということを、窓と自分の位置関係で感じ取る。外の風景が見えることに豊かさを感じる。些末なことながら"新しい世界と出会う"みずみずしい瞬間の描写が素晴らしい。

    また、北海道に渡るために、初めて船に乗るシーンも印象的だった。甲板でもくもくとあがる船の蒸気を「いい匂い」というのだ。私自身、この手のものをいい匂いと思ったことはないが、イタルには(そしてきっと作者にも)いい匂いだったんだろう。
    子どもが見えている世界をリアルに描くのって、結構難しい。当たり前だけど。寝台特急に乗るのに、みんなパジャマがほしい!というところとか。本当によくできていると思う。
    このあたりのことを読みながら、ジブリの『おもいでぽろぽろ』や、映画『学校の怪談』(うひひひ・・・の実写のやつだ)の印象的なシーンを思い出した。
    おもいでぽろぽろで、主人公のタエコと、隣のクラス(?)の野球部のエースのイケメンが、実は両思いではと周りに囃し立てられ、ほとんど面識もないのに、二人っきりになる。気まずいような、こっ恥ずかしいような時間がすぎる中、ふいに男の子のほうが、「晴れの日と、雨の日と、くもりの日、どれが一番好き?」とタエコに尋ねる。タエコの答えは「くもり」。「あ、同じだ」とイケメンくん。その瞬間、野球のボールが野球のキャッチャーミットにバシンっと小気味よい音を立てて飛び込むカットがインサートされる。つまり、どストライクということだ。「同じ天気が好きなら、両思い」ということなのだろうか。でも、『学校の怪談』でも、少年が好意を寄せる少女に、「いちごみるくと、コーヒー牛乳と、どれが好きか?」みたいなことを尋ねるシーンがある。
    おっさんとなった今では、まったくピンとこないが、ある時代、あるいは、ある年代の子どもたちにとって、「好きなものが一緒ならお互いのことが好き」という子どもの世界の暗黙のルールみたいのがあルノではと思い、よく覚えている。
    本書の中でも、出てくる"子どもの世界"がすごく心地よかったのだ。


    ▼駅のホームで、阿波踊りを流すいたずら
    これは笑った。阿波おどりのチームの上京と、下車に合わせて、ホームを阿波おどりの音源でジャックするといういたずらをやってのける。そのホームにいた人は、阿波おどりができるできない関係なく、みんな思わずおどってしまって、向かいのホームからはゴミのような目線を投げかけられるという。

    自分も、似たような「テロ」を中学時代にやったことがある。
    私の中学では、放送委員というやつがすごく人気だった。お昼の放送で献立を読み上げたり、カセットやCDで曲をかけたり、これから掃除ですとアナウンスしたり、下校時間を知らせたり。当時、なんで人気だったのかわからないが、いま振り返ると、あの隔絶された放送室の空間に特別感を覚えたのかな。
    当時、定番の献立の1つに、「ホットドッグ」があった。これは、ホットドッグがそのまま出てくると言うより、月に1回は、背割りパン、フランクフルト、ケチャップ&マスタード、というセットが出てくる日があって、暗にこれをホットドックにして食えということだったと思う。振り返ると、給食の献立数の水増しのための思惑だったのではないかと勘ぐってしまう。

    話を戻すと、私が住んでいた市では、市内の中学校では給食が同じで、当時高校受験のために通っていた塾でも、別の中学の友人と今日の給食はどうだったなどと話すこともあった。
    そんな中、仲の良かった別の中学の友人が、このホットドッグセットが出る日に、放送委員の当番だった。彼のところでも、やはり放送委員が献立を読み上げるんだそうだ。そして彼は暴挙に出た。お昼の放送で、「●月■日▲曜日、きょうの献立は〜」と、いつもと同じ導入で始まる放送。「背割りパン、フランクフルト・・・」「ケェチャップ&マストゥアード」。何をしたかと言うと、ケチャップ&マスタードの部分だけ、実際の英語の発音に忠実に発音したのだ。しかし、実際は彼はケチャップ&マスタードを言い切る前に、プッと堪えられなくなり、笑いだしてしまったそうだ。そのまま、彼は職員室に連行され、こっぴどく叱られたと話してくれた。
    この話を聞いて私は妙な使命感を覚えた。仇をとらねばと。同じことを自分の中学でもやる。やりきってやろうと。
    それから私は、ホットドッグがまた出てくるのを待った。じっと待った。虎視眈々とはこういうことを言うのだろう。月末には、翌月の献立表が配られる。
    献立表に「背割りパン・・・」から始まる献立を見つける。よし、この日だと。
    しかし、ホットドッグの日は、私が放送委員の当番ではなかった。そんなにうまくいくはずがない。しかし、何故か簡単に諦めるわけにはいかない私は、当番だった友人に作戦を説明し、献立の読み上げ部分だけ、秘密裏に放送室に侵入し、読み上げを私が行う手立てを整えた。そしてやってやったのだ。「ケェチャップ&マストゥアード」を。結構、うまく、言えた、と思った。笑わなかったし。でも、すごく怖いのが、放送室は隔絶された空間で教室とも離れている。果たして、反応はどうだったのだろうか?僕も、先生に怒られるんだろうか?でも、まあそんなことはいい。仇は取れた。目的は果たせた。
    僕はこのままここにいたら先生が怒りにくるかもしれないと思い、そそくさと友人にお礼を伝え、自分の教室にこっそりと戻った。
    すると、びっくりすることが起きた。みんな私がこっそり入ってくるのを待っていて、なぜか拍手で迎えられた。給食中に。あれっ?って感じで。なんか、むしろこっちが困惑だった。こういうとき、どういう顔したらいいか、わからないのって感じ。先生も、おもしろかったとか笑顔で言ってるし。あれ、何ここいい学校?みたいな。
    放課後の掃除の時間にも、職員室の近くで体育の先生に呼び止められた。「給食のときのあれ、お前だろ?」と。きた。とうとう来た、これ怒られるやつだと思ったら、「さすがの発音だったな」と謎に褒め称えられる私の発音。なんか、いたずらしかけたのに、妙にほっこりしてしまった思い出である。


    ▼旦敬介さんの解説
    本を買ってまず最初にすることは軽く解説を開くことである。全部は読まない、なんとなくあとがきを誰が書いているのか、そして、その触りと最後の締めくくりだけ読む。なんか、これだけは性癖のようなもので、絶対そうしてしまう。
    『キップをなくして』を手にとって、あとがきを開いたとき、もう歓喜だった。旦敬介さんだって?という。旦さんの著作は1冊しか読んだことがないが、その本も、この『キップをなくして』と同じくらい大切な人生の1冊だ。『旅立つ理由』という本。

    さて、この旦さんからもたらされた解説には感謝しかない。解説では、この本がいつごろの時代設定なのか、そしてなぜその時代設定にしたのか、という考察がなされている。
    ざっくり言えば、旦さんの考察によれば、このお話は1987年の春の話で、なぜその時期かと言うと、翌年の1988年3月には青函トンネル、4月には瀬戸大橋が開通して、電車に乗れば、日本中どこにでも行けるようつながってしまうので、その前年の87年であれば、クライマックスの北海道に渡るときにわざわざ船に乗らなければいけないからだ、と書いている。
    この本のクライマックスは北海道でのミンちゃんとの別れであり、いわば北海道は、異界との境界であるわけ。そこに行くために、鉄道から乗り換え、わざわざ船に乗って異界の境界へ旅立つ。これが、鉄道で行けたら、少し味気ないというか、こことは違う別の大事な場所に行く感が薄れてしまうだろうということだ。
    旦さんは、この巧妙な時代設定・タイミングでないと、この物語はバランスを欠いてしまうと指摘する。たしかに時代設定に違和感を感じていたが、まったくそこまで思いを巡らせることはなかったので、ただただ僥倖である。

    ▼みんながみんならしく、誰も否定されない 子どもたちの成長
    ・イタル→タカギタミオに責任を持つ
    ・フタバコ ガム→みんなの面倒見役
    ・タカギタミオ ➝ 認めてもらう、尊敬できる人に出会う

    =====以下、引用======

    P.46 初めて特急に乗ったときのイタルの感想
    これまでイタルが乗ってきた電車では、たいてい背中側が窓だった。座席がそういう向きになっていた。今二人で座っているこの席は横を見れば外の景色が見える。そこが(これまでの電車と)全然違う。(略)これは、いつもの電車と違うんだ。

    P.61 学ぶこと 本当は学びたい・知りたいという自主性が生まれたことは楽しい
    ノートに色々書き写して勉強らしくしたけれど、どこかうきうきしていた。知りたい気持ちに背中を押されている。今日行ったところだから、いつかもっと先までいくかもしれないところだったから、興味がむくむく湧く感じだった。

    P.72
    一度起こってしまったことは、元には戻らない。だから卵を持ったときには割らないように気をつけなければいけない。でも、運が悪くて割れてしまったら、もうどうしようもない。卵に入っていたのが命なら、命はなくなってしまう。

    P.81 手放しの自由は人間を苦しくさせる
    (駅の中では)自分たちだけだから厳しくしないとしないといけないのよ。(略)ここに来た最初の日、キヨスクのお菓子が全部ただだってすごいことだと思った。だからガムを全部試してみた。二十何種類かあるんだよ、ガムだけで。それで、一日中ガムを噛んでいて、そのうちなんだかこれじゃいけないって思ったんだ。byフタバコ

    P.135
    タカギタミオのことは何となく自分の責任のような気がする。本当はカンケイないのに、とも思うのだが。

    P.165 駅長の考える「社会」「働くこと」
    「それでもやっぱり、収容所みたいな気がします」
    「そうかもしれない。★外へ出ないまま、仕事をさせられるんだからね。しかしね、社会というのはみんなそうではないかね。人は社会の外では暮らせない。仕事をしないわけにはいかない。大事なのは、暮らしが楽しいことと、仕事がみんなの役に立つことだ。私はそう思うね」

    P.169
    自分たちがなぜ駅の中で暮らしているか、自分たちが何の役に立っているか、そういうことがはっきりすると元気が出る。

    P.174
    踊りは伝染するのだ

    P.199
    なんだか風邪で学校を休んだ日みたいだ。朝は確かに熱があったから学校を休んだのに、昼前になると元気になってしまって、そうなると暇を持て余す。あの感じに似ている。困ったな。

    P.201
    「(ミンちゃんは)変わったのよ。一歩踏み出したの。人は前へ出なくちゃ」

    P.203 ミンちゃん
    「忘れてもらいたいわけじゃないけど、私のことばっかりではいけないから」

    P.217 初めて船に乗る
    甲板には煙突から出る煙の匂いが漂っていた。すごくいい匂いだとイタルは思った。自動車の排気ガスとはぜんぜん違う。

    P.248-249
    イタルはミンちゃんに言いたいことがたくさんあるような気がしていた。だから隣の席になったときは良かったと思った。ところが、いざとなると言えることは何もなかった。何か言おうとしても、それは言わないほうが良いことじゃないかと考えて、黙ってしまう。ミンちゃんはもうすぐいなくなる。だから今のうちと思うのだけれど、でも何も言えない。(略)特別仲良くなったつもりもなかったのに、なんでこんなに悲しいんだろう。なんで行ってしまうミンちゃんが惜しく思えるんだろう。

    P.256-260 コロッコ
    人の心はね、小さな心の集まりからできているの。たくさんたくさんの小さな心が集まって、一人の人の心を作っている。だから人が何か決める時は、その小さな心が会議を開いて相談したり議論したりして決める。(略)
    人はいつか亡くなります。(略)
    その人の心を作っていたコロッコたちはだんだんに解散して、その心はやがて消滅します。それまでにかかる時間は人によって違うけれど、でも最後にはすっかりなくなってしまう。(略)
    (その後)宇宙全体の大きな心の中に入るの。それはもうとても大きいから、会議なんか開かない。ただ楽しくそこにいるだけ。(略)
    ★残された人たちが死者のことを懐かしく思い出したり、お墓にお参りしたり、いつまでも覚えていたりすると、心の解散はそれだけ遅くなります。コロッコたちは、まとまっていることに意味があると思って、なかなかその心から出ていかない。(略)
    コロッコたちは、1つの命にはいったら、その命を十分に楽しんでから終えたいと思っています。十分な喜びが得られないままに終わった命の場合、コロッコの会議は紛糾して、その人はなかなか向こう側に行かない。(略)なにかよく生きた証拠を持って向こうに行きたいと願う。(略)
    みんなで1つの生命を組み立て、この世界で1つの個体として、生きているコロッコたちは、できるかぎりその個体を長く楽しく生きるという大きな前提にたっています」

    P.259 ミンちゃんママ
    他の子には何十年もの人生があるのにと思った。でも今はわかります。みなこの心の中の会議が円満に終わって、八年の生命を八年として受け取って、不満もなく向こう側に行くのね。

    P.268
    (ミンちゃんが)いなくなってみると、とても寂しい。何か見たり聞いたりしたことを、ああこれはミンちゃんに話そうと思っても、その思いには行く先がない。これが、誰かがいなくなるということだ。旅立つとか、分かれるとか、死ぬということだ。

    【解説】
    P.278
    きわめて具体的な意味で、日本列島が歴史上初めて、ひとつに統合されたのが、1988年の春だったのだ。(略)1987年の夏休みは、日本を旅行するのに、まだ船に乗らなければならず、別の島に行ってきた、異国に行ってきたと、意識することができた最後の夏休みだったのである

  • キップをなくしたら、駅から出られない。じゃあ山手線で見かけたあの子は、もしかして「駅の子」なのかな。
    透明感のある文体のせいで、わくわくやどきどきは控えめ。それを設定の素敵さでカバーしている。小中学生のときに読んでいたら、一度くらいはわざとキップをなくしてしまうかもしれない。そんな素敵なお話。
    生きていると、キップをなくしたような気持ちになることが時々ある。駅から出られないんだったら、しばらく駅にいたらいい。駅だって、世界の一部なんだから。

  • こどももおとなも楽しめる本でした。キップをなくしたくなりました。

  • 息子の国語の問題に一部が出たらしく、続きが気になるので借りてきてーと言われたので、ついでに読んでみた。
    電車好きには、ちょいちょい電車ネタが出てきて面白いけど、ディープな感じではない。時代設定もかなり前(東京で自動改札機がない時代)だなー。最後のほうはなかなか重たい内容だけども(生死感の話)、全体的に読みやすいので、確かに小学生高学年くらいからは読めるのかな。

  • 冒頭を読んで何となく読了。

    何と言うか、何もない。

  • キップをなくして「駅の子」になったイタル。駅からは出られない。学校にも家にも帰れない。でも電車は乗りたい放題。仲間もいる。通学中の子どもたちを守る仕事もある。ちょっと不思議な鉄道ファンタジーであり、命や心と向き合う子どもたちの冒険物語でもある。仲間と仕事と旅と。子どもにはこういう時間が必要だね。ぜひ。そして考えること。自分の中にはいろんな心があって生きているってことか。常に見守ってくれる大人たちがいたのがよかった。いつだって安心感が漂っていたのはそういうことかな。

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著者プロフィール

1945年生まれ。作家・詩人。88年『スティル・ライフ』で芥川賞、93年『マシアス・ギリの失脚』で谷崎潤一郎賞、2010年「池澤夏樹=個人編集 世界文学全集」で毎日出版文化賞、11年朝日賞、ほか多数受賞。他の著書に『カデナ』『砂浜に坐り込んだ船』『キトラ・ボックス』など。

「2020年 『【一括購入特典つき】池澤夏樹=個人編集 日本文学全集【全30巻】』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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