さみしさサヨナラ会議

  • 角川書店 (2011年6月29日発売)
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Amazon.co.jp ・本 (280ページ) / ISBN・EAN: 9784048850889

作品紹介・あらすじ

こんなにも人が苦しむ「さみしさ、孤独」という感情はどこから生まれるのだろう? どうやったら、そんな感情とサヨナラできるのだろう? 話題の僧侶・小池龍之介と評論家・宮崎哲弥が語りあう。

みんなの感想まとめ

「さみしさ」と「孤独」という深いテーマを掘り下げる対談集では、話題の僧侶と評論家がそれぞれの視点から心の痛みや欲望について語り合います。読者は、快楽を追求することが本当に幸福につながるのか、そしてその...

感想・レビュー・書評

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  • なかなか深い内容だった。

    小池龍之介が好きだが
    異質の宮崎哲弥との対談で
    また違った感じが出てよかった

    p202
    あ、これは覚醒剤をやっているんだなと
    気づけば、ちょっと治る
    (快楽を求めている時)

    P206
    「快楽を最大化することが
    幸せに違いない」という思い込みは、
    幸福どころか、脳を覚醒剤中毒にして
    しまいかねない罠を孕んでいる

    P208
    「欠如は欲望発生の条件であると
    同時に欲望の目的である」ジャック・ラカン

    P232
    乗り越えるのではなく一体化する

    この痛みをなんとかしたいという
    感情があるうちは痛みは消せない

  • お寺の住職である小池龍之介さんと評論家の宮崎哲弥さんによる対談集。
    さみしさ、孤独とは何か?について延々と討論されている。
    恋愛における部分は参考になった。愛する人と出会うな、とか、愛されるより愛しなさい、のくだりなどは、うぬぬぬ、と唸ってしまった。
    のめりこむな、冷静な視点を持て、ということだと理解した。正解かどうかはわからないけども。
    レコーディングダイエットならぬ、レコーディングわが心。できるようになりたいなぁ。

  • 恋愛の内容が半分以上を占めていて、残念だった。
    他のさみしさについても言及してほしかった。

  • 久々に5つ星。

    ブッディスト同士の対談なので、当然に仏教のお話が出てくるんですが、それよりも一般的なレベルの内容が多くて、読みやすいかなぁと。

    しかもテーマが恋愛や人間関係からくる、さみしさなわけで。身近な話題です。

    読んでる時から思ってたのが、これは孤独とかさみしさとか一人っていうものについて、深く考えたことがある(考えてしまった)人にとってはすごく響く内容なんじゃないかなぁということです。

    逆に言えば、そういうのにひっかからなかった人にとってはただの小難しい本なのかも。

    なかなか一人で考えてても答えは出ないもので、そうやって一人で考えてても到達できないことがこの中で話されてると思います。

    さみしいなぁって感じる時にどうやって自分の中で折り合っていったらええのか。

    答えっていうものはないかもしれないけど、こうやっていったらいいのかなぁっていうある程度の方向性はつかめるんじゃないかと思います。

    なんでさみしくなるのか、どうやったら乗り越えていけるのか、そのメカニズムを知っておくだけでもだいぶ生きていきやすくなるような気がします。

  • さみしさサヨナラできんわな。
    いきて行けない程寂しいと思う人がいる。
    この本を読んで、自殺率の高い我が国をおもう。

    おいらはいきていけるけど、いきて行けない人との差異。

    おいらは何が救われているのか?それとも救われない渦中にあるのか?気づいていないだけなのか?それともそれを通り越したのか?

    【ちょっとメモ書き程度に】

  • 対談本なのに、サクッと読めないのはなぜだ。それくらい的を得ているように感じたのかな。前に読んだ『ボクには世界がこう見えていた』をなんとなく思い出したりもした。

  • さみしさとは何か?をひたすら対談した一冊。さみしさを克服できるような強さをつけたい。

  • 僧侶である小池龍之介氏と政治評論家の宮崎哲弥氏が、恋愛を中心に人間の「さみしさ」について語り合う対談の本。
    人間、本質はみな寂しがり屋…

  • 脳科学と仏教?

  • なかなかに深く考えながら読み進めた。でもまあ、みんなおんなじような事で寂しくなったりするのね、と。同じよくであるけど個々各々において違う。違うを意識して六割で付き合うのが一番精神衛生上いいのじゃないかしら。これが私のさみしさサヨナラ法(笑)

  • 今、本が売れている坊さんと宮崎哲弥氏の対談。
    どうやら「さみしさ」は現代病らしい。
    他者との関係において「さみしさ」を感じるのであるが、その根本にあるのは自己承認欲求と他者への過度の期待・要求であろう。
    本書では処方箋として「自分の心の動きをつぶさに観察し、孤独を受け入れ自立せよ。」と説く。
    まあ、同じ方向を向いているかなぁとは思っても、心の底から通じ合っているなんて確かめようがないですからね。

  • 「足るを知ること」うんうん納得。「愛しすぎる人と合わないこと」はそうなの〜愛しすぎる人と会うとさみしくなるの?お釈迦さまの言葉を超訳すると「もし愛しすぎるくらいなら、君はそんな人と合わない方がいい。愛しすぎれば、会えないとき、一人でいるときの孤独は深くなるばかりだから」(法句経210)ですって。なんだか歌の歌詞みたい。そして脳内ではドーパミンの快楽反応が一瞬生じ、そしてすぐその反応は終わってしまう。。。実はせっかく愛されているのにその環境になれてしまって鈍くなって実感できなくなって不満が高まってくる。。。結婚を継続することが大変だといわれているのは、そんな脳のドーパミンの快楽反応もあると思いました。当たり前のことに感謝できたり、愛を感じたりする能力は、幸せに生きる、幸せを感じることにつながると思いました。

  • 常日頃から、さみしいという感情がなければどんなに生きやすいかを考えてるわたしにとっては大変魅力的なタイトル。 人間の限りない欲望と、弱さ、はかなさ。誰と居たって、いやむしろ誰かといるほうがさみしいときもある。大事なのは、足るを知る、ただ投げ与える精神。
    人類永遠の課題、さみしさに打ち勝つ術を得るヒントがつまってる 、読みやすく、奥深い人間哲学の本。

  • 自分が今感じてることってあんまり信用できないなーと思った。

    夢がなくなったけど、やっぱりって感じも。

    レコーディング恋愛やってみようかな。

  • ままならない世界を、ままならない心と体で生きていく。私たちを蝕む様々な「さみしさ」の構造を解きほぐし、見つめることが唯一の処方箋。
    人間の業で、社会で起きているほとんどの問題が説明できることに驚いた。

  • 2人の実存的な話は興味深かった。ある程度他の著作を読んでからの方がしっくりくるかも。

  • 「さみしさ」を、生死をめぐるモノ、人間関係におけるモノ、と色んな切り口から討論されてて興味深かった。

  • 脱ソーシャルメディア的な話。

    p83
    小池:過去に強烈な快や苦の刺激を受けた情報は、心に余韻を残していて、いわば潜在能力としてしみついています。その潜在力、つまり業の力によって、情報は自動的に選別されているのです。ある情報が入力された際に、記憶の中のどの情報を優先的に引き出すかということを選別する権力は私たちにはないということです。なぜなら、それは押しつけられてしまうからです。

    小池:自分の心の無意識的プログラムで勝手にやってしまうため、私たちの自意識にとってはまるで押し付けられたかのようになる構造になっています。

    p118
    小池:双方向的な情報ツールが発達すればするほど、自分が言葉を発信してから誰かがレスポンスしてくれるまでの時間が短縮されてきています。そしてその短時間での繰り返しの都度、現代人の脳ではドーパミンが分泌され続けています。「誰かが相手をしてくれること」や「他人が承認してくれること」は、生物としての生存に役立ってきましたから、そういった情報を受け取ると自動的に快楽物質=ドーパミンが出る。つまり「こういうことを反復しなさい」という命令が出されている、ということだと思うのです。

    けれど人類史上において、距離の離れた他人からの承認や連絡などそんなにしょっちゅうもらえるものではなかったはずです。ですから、それを通じてドーパミンを分泌する機会も、ほどほどにセーブされてきた。そしてその間に、ドーパミンという麻薬的快楽物質の影響が自然に抜け落ちていって心が落ち着いてゆく、という。

    なのに、デジタルツールを通じてなら、あまりに高速に、多人数からの反応を受け取ることができてしまいます。そのため、ドーパミン神経回路が刺激されっ放しといった状態になってしまい、その”麻薬”が抜けてゆくとき間を持つことが叶わなくなる。こうして脳内麻薬中毒になると、心がゆったり落ち着いていて安らぐ、という幸福感を失ってしまうのです。

    (中略)ここ二、三年に急激にツールが進歩して、言わば”言語記号漬け”にされた若い人々が、心休まる暇もなくドーパミン中毒になっているのは不幸なことと見えます。

    p122
    小池:そこで起きている悪循環は、「みんなに見られたい」=「つながりたい」と孤独を打ち消そうとすればするほど、野心が増大して精神的プレッシャーによる苦痛が増えるので、自然体でリラックスしていられなくなる。結局はいろいろと”みんなからよく見られるように”工夫をしなきゃいけなくなる。それでその工夫が仮にうまくいって、みんなから注目されたり評価されたりしたとしても、そこで分泌されたドーパミンの快楽は一瞬で消えて、その後には焦燥感だけが残るはずです。その焦燥感にせかされて、もう一度ドーパミンを出すために必死になってやらなければという感じになり、だんだん苦しくなっていくということなんじゃないかと思います。

    p128
    小池:それは、渇愛、つまりドーパミンの禁断症状に陥っていて、「つながる快楽」を得て、その快楽が消えた後には、前よりもさらに強烈な不安やさみしさが来る、という構造によるんです。

    p129
    小池:仮に主観的に「自分はそういうのにははまらないぞ」と思っている人でも、人から評価される(=人から見てもらえる)ということは実際とても魔力があるものなので、そして人の評価を受けると、自動的にドーパミンの罠が始まって、それを得られて気持ちよくなって、でも直後には不安になって不信になって、みんなはもっとちゃんと評価してくれるんだろうかという気分にだんだん巻き込まれていく。だから、一見そうは見えない人までも、いつの間にか罠にはまっていきますからね。

    p137
    小池:相対的な意味での孤独感であれば、相手に執着しないようにしつつ優しくしあえれば、癒されるという可能性はじゅうぶんあるとは思うんですけれどもね……。すこぶる素朴なキーワードを出させていただければ、現代人は「居場所」を失って、さまよい歩いているように見えます。結婚しても”自分を大事にして欲しい病”にかかって、そわそわした興奮状態に陥ってしまえば、相手からも要求や興奮が返ってくる。すると当然、「ここにいていいんだよ」という居場所の実感はズタズタに切り裂かれます。

    ところが、その”尊重されたい””して欲しい”という、ある意味、「条件」をつけて居心地を悪くさせることを減らしてしまえば、途端に相手はホッとするんです。こちらの煩悩によって採点されるような状態が、相手の「居場所」を奪っている。それをやめて相手をホッとさせてあげれば、それは相手に「居場所」をプレゼントすることになります。そうしてパートナーに居場所を差し上げさえすれば、安らいだ相手は相対的に孤独感から癒されて煩悩も少し和らいだ結果、穏やかな反応が返ってくるようになるんです。因果法則の鎖にしたがうようにして、ね。そこで初めて”「居場所」をプレゼントすることで、自分にも同じように与えられる”という関係が成り立つと思います。私は、そういった素朴で相対的な幸福感も大事だと考えていて、その味わいゆえに俗世にとどまっているような気もしています。

    p152
    小池:何を言いたいのかというと、心というのは常に、いまここにあるものとは違う情報を得たいという衝動に駆られているということなんです。(中略)いま目の前に与えられている情報からここではないどこかに意識がずれることが、快感の一つの条件になっているからなんです。

    p163
    私たちの”してもらった”と”してあげた”の記憶には、すこぶる奇妙な魔法がかかりがちのように思われます。誰もが無意識的プログラムに従って記憶を改ざんさせられてしまいがちで、知らず知らずのうちに相手に”してもらった”を実際より小さく記憶するハメになり、”相手にしてあげた”を実際より大きく記憶するハメになります。こうした傾向は、人間がより「こんなにしてあげているのにッ」と要求的になって他人と争いやすくするためにこそ、プログラミングされているからではないかと思うのです。人間は、そうして無意識的にワガママになって生意気になっていくように作られている。つまり、一緒にいればいるほど、相手を愛せなくなるようになっている、と。その、恐怖の記憶改ざん作用をときとして自覚してあげて、一時停止させてやることが大事だと思います。具体的には過去を客観的にふり返って、”してもらった”と”してあげた”を注意深くリストアップしてみるといい。すると「あ、忘れてたけど、これだけしてもらってた」と思い出して、記憶の改ざんが修正されただけで、自動的に優しい気持ちになれるはずです。その優しさが心に灯れば交換とかではなくて、自然に「愛する」余裕が回復する。これは幸せになるためには記憶のプログラムを乗りこえる必要がある、とも言い換えられるでしょう。

    p223
    小池:要するに、断念しようと思ったときの私たちの心が取る態度というのは、それが「よくないものだからやめよう、断念しよう」ということになるわけですね。そのとき、よくないからやめようとあまりにも強く思ってしまうと、実は断念というのは難しくなるということを言いたかったわけなんです。

    p226
    小池:欲望を追求しすぎることからうまく距離をとって快感とつきあうために、受け流す、つまり快感に執着しないという観点から、もうすこし突っ込んだ練習法を紹介しましょう。
    (中略)
    こういった、”快”の神経反応を、いわば自分自身を人体実験台として繰り返し行っていただければ、うわべの知識をこえた体感的感触として腑に落ちてきます。「あー、快感って追い求めても意味ないなあ」と、つくづく。これが、”感覚が生まれ、一瞬だけ続き、滅してゆく”という諸行無常を体験する練習になります。これを繰り返し腑に落としてゆくと、自動的に”快”を追い求めようとする執着が心の深いレベルで弱まっていきます。

    p229〜238
    レコーディングダイエット&レコーディング恋愛

    p235
    乗り越えるのではなく一体化する

    小池:たとえば身体のどこかに強い痛みを感じているとします。その痛みを見つめることによって分解し、解消していくプロセスに乗せるための意識の向け方として、私が瞑想の体験上言えることは、痛みに意識を集中しているときに、この痛みをなんとかしたいという感情があるうちは、痛みは絶対に消せないということです。

    ただ純粋に、こういう痛みの情報があるよということをひたすら脳にフィードバックさせておいてやって、一定時間非常に強い集中力で継続していると、その状況を解決することにいわば心身が全力を尽くすように勝手になっていく。すると緊張が取れたり痛みが消滅したりするんです。

    その際に重要な要素というのは、(1)普段はじゅうぶん認知されていない情報をものすごく細かく認知してやるということ、(2)他のことはすべて忘れるほど、その対象に集中しているということ、(3)でも一番重要なのはその対象に対してこだわっていないということ、なんですね。

    その対象に対してよい評価も悪い評価も加えない。ただ純粋に認識しているだけという状態を保つ、そういうファクターすべてが揃ったときに、痛みは解消されている。

    痛みを例に出しましたが、これはダイエットする際の食事への態度にも、自分の恋愛への態度にも当てはまることです。
    (中略)
    たとえば水について、私が感じたことを言うと、水の冷たさなど、一見不快に思えたものに心がぴたーっとくっついて、その感覚の中に没入してしあうと、その時点でまったく気にならなくなるんですよね。それを乗り越えるべき対象というのではなくて、その中に入り込んじゃえば何もかもがもう一体化してしまって境界線を感じなくなって、つらいものでも何でもなくなっちゃうという感じになりますね。

    宮崎:それが超集中へと意識を誘導するときのプロセスなのですね。

    p241
    小池:おやまあ。たしかに論理的には「すべて一つ」になったら、その意識が悟っていないかぎりは、欠落感に苛まれ続けることは変わらないでしょうね。ただ、そういった発想が伝統的に多いのは根拠もあって、すべてのものと一体化する意識状態にもってゆくには先ほどの”超集中”が必要になるわけですが、この”超集中”状態はすべての思考が消滅していますから、とても安らかなのは確かです。

    p249
    小池:ただ、どんな論であっても言葉として思っている以上、言葉というのは他人に向けられる性質を持っているので、そういう気持ちを持っているということを人に伝えたいとか、第三者が理解できる状態で思考したいというような衝動と結びついている。そういうことを「でもさあ」と相手にわからせたい以上は、宮崎さんだって結構さみしいんじゃないかと思いますけどね。実際は。

    p252
    宮崎:だとすると、さみしさのほうが怒りよりも根っこの感情なんですか。
    (中略)
    小池:そうですね。自己愛を通じて自己イメージを産出し続けるというのが、言わば根本煩悩だからです。

  • 『意のままにならない自分を知る』

    僕は今、レコーディングダイエットを実践している。
    結構、効果が出ていて半年もしないうちに118.6㎏あった体重がもう少しで100kg切るぐらいまで減っている。

    レコーディングダイエットの特徴は
    ①自分がいつ、どのくらい食べたかを記録する。
    ②ひたすら記録するだけで食事制限をしたりはしない。
    と「意識的」に痩せようとしないことだと思う。
    (食事制限するのはレコダイが軌道に乗り始めたあとになる。)

    やってみるとわかるが、記録を続けることによって、自分の食事の仕方の問題点がわかるようになる。以外と食べたくないときにも食べているし、食べ過ぎていることがよくわかるようになる。
    よくわかるようになるだけで、無意識に行動が変わる。
    行動が変わるのと同時に食べ物やいろんなものの受け取り方が変わる。

    このことは仏教における瞑想に近いものだと思っていた。
    止観のように一度意識に上げる代わりに、メモ帳に書く。

    この対談で二人ともレコーディングダイエットが瞑想の一つと考え、恋愛に限らず、「意のままにならない自分」をコントロールするのに役に立つと考えているのを見て、やはりそうだったのか!と感じた。

    「いつまでもデブと思うなよ」でもレコダイの手法はあらゆる自己コントロールを必要とする場面で役に立つと書かれていたが、それは当然のことだったのだともわかった。

    まずは「意のままにならない自分を知る」。そして問題を明確にする。
    問題が明確になれば「意のままにならない自分」が少し変わる。
    その少しの違いが大きな違いを生む。

    毎日の少しの努力を続けていきたい。
    そう思える一冊だった。

  • 小池龍之介氏という坊さんとコラムニストの宮崎哲也氏との対談。
    ここでいう"さみしさ"とは、「他人から、もっと認められたい(承認要求)」という状態を指す。
    結論から言えば、その承認要求とうまく付き合っていきましょうということか。

    承認要求をする裏には、認められていない、欠けている部分を自分が見ていることがある。だから、その渇きを満たすために承認要求をするわけだが、そううまくいかず、イライラしてしまう。なんとも不健康だ。

    恋愛を例に挙げる。相手の絆を不安視すると、そのつながりの実感を得るために相手に色々要求する。その中で1つでも叶えられない事があると失望し不満を覚え、それはやがてつながりそのものを破綻させていく。そしてつながりを失って、イライラしなくなったことにホッとするのもつかの間、再び"さみしさ"を再発させ、あらたなつながりを得るべく行動を起こす。。悪循環で人間関係はボロボロなる。

    さて、どうすれば承認要求なんてやっかいなものと"サヨナラ"できるか。それには、「足るを知る」ことが必要という。これは、「快楽について、自分の中で「これで十分」な基準を知っておけば、過剰に求めすぎることはない」ということ。承認が"快楽"ならば、ある程度のラインを自分で決めておけば承認要求で人間関係をズタズタにすることはなかろうということだ。

    具体的には、例えば自分を見たときに、認められていない、欠けている部分を見るのでなくて、「これでいいのだ」と肯定してあげる(自己肯定)。

    相手との関係でみれば、相手に見返りを求めるような、要求するような姿勢で望まない。それと、承認で得られる快楽も、自分の中で「これで十分」なラインを設定しておけば、求めすぎることもない。

    二点、ツッコミたいこと。

    「足る」ラインってどうすれば分かるか、それは自分の中にある要求(承認要求)と向き合い、自分が何を求めているか知ること。承認要求は厄介だけども、それも含めて自分だし、うまく付き合っていくしかない。簡単にいうけど、実際やると難しい気もする。自分を客観視できる人もそうはいないだろうし(私の周りには結構いるが)。私もできているかどうか・・・日々、承認要求との戦いですね。

    あと、「これでいいのだ」ということについても、なんでもかんでも肯定していたら堕落するので、そこは取捨選択が必要です。。。

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著者プロフィール

1978年生まれ。山口県出身。東京大学教養学部卒業。月読寺(神奈川県鎌倉市)住職、ウェブサイト「家出空間」主宰。僧名は龍照(のちに空朴に改名)。住職としての仕事と自身の修行のかたわら、一般向け坐禅指導も行う。執筆活動も手がけ、『考えない練習』(小学館文庫)、『しない生活』(幻冬舎新書)、『超訳 ブッダの言葉』(ディスカヴァー・トゥエンティワン)など、多くの著作を持つ。2018年9月に月読寺を引き払い、路上生活者に。11月には修行の旅に出る(現在は音信不通)。

「2019年 『やっかいな人を自分のお城に入れない方法』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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