本能寺の変: 光秀の野望と勝算 (学研新書 32)

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  • Amazon.co.jp ・本 (233ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784054038578

感想・レビュー・書評

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  • 農業が経済の根幹であった当時、検地は現代の税務署の査察に相当した
    織田信長と言う圧倒的な存在が頭上から消滅した今、徳川家は本来の戦国大名の姿に立ち戻った。隣国の不幸は領土拡大のまたとない機会である
    長益は有楽斎と号し、利休七哲の1人に数えられるほど高名な茶人である。親族の生き血をすすりながらの世渡りと、茶人としての矜持が、長益と言う人物の中でどのように同居していたのか、筆者には不思議でならない

  • 警察官僚だった筆者によるもので、史実をきちっと抑えた上でのドキュメンタリー風の叙述となっている。筆者も『信長の棺』に危機感を覚えたことが執筆の動機となっている。

  • 光秀には、ちゃんと勝算があった。

  • 千葉県旭市の干潟八万石を干拓した木曾義昌。

    武田家を裏切り滅亡に導いた木曾義昌は、更に家康を裏切って秀吉についたが、秀吉と家康が講和して、再び家康の配下に。
    家康の関東への配置換えに伴って、下総網戸(しもうさあじと)(千葉県旭市)へ。

  • 本能寺の変は明智光秀が主犯という通説に対して多くの仮説が提唱されていて本にも書かれてきたと思います。その線で書かれた「信長の棺」は大変面白かったのですが。この本は他ならぬ明智光秀が本能寺の変を起した理由について、明確に解説されています。

    光秀が謀反を決意したのは、信長に対する怨恨でも他者の教唆でもなく、信長に代わって天下人の座に就くため(p226)であったと総括されています。樋口氏がこの本を執筆しようと決意されたもの、巷に出回っている謀略説があり得ないことを証明するためだそうです。

    以下は気になったポイントです。

    ・長篠の戦で織田・徳川連合軍が武田軍団を破ったポイントは、戦術面では三段撃ちが有名だが、3000丁を購入できた経済力を有していたことにある(p38)

    ・天正10年(1582)における織田家の領土は27カ国800万石に対して、徳川家康は3カ国70万石であり、同盟を締結した1562年と比較して差がかなりついた(p42)

    ・本能寺の変直前に、明智光秀が毛利攻めに加わったのは、西国平定という戦略からすれば当たり前のことであった(p52)

    ・謀反を成功させるためには、信長と信忠の二人を同時に殺すことが不可欠、それぞれ居城が安土城、岐阜城であり、二人が行動を共にすることは極めて少なかった(p66)

    ・6月2日は謀反を起すことができる3条件、1)信長・信忠親子が無防備で京都に滞在、2)誰からも警戒されず京都近郊に襲撃部隊を集結可能、3)重臣がいずれも遠方にいる、が揃った特別の日であった(p69)

    ・本能寺での戦闘はわずかな時間で決着がついたので、明智家の兵士の多くは標的が誰かが分からなかったが、二条御所では相手が信忠および織田政権の人々であるため、将兵がひるんでしまい、明智側の犠牲が多くなった(p92)

    ・織田有楽斎(長益)は信長死後に、信雄にすり寄ったが、その後に淀殿に接近して1.5万石の大名、関が原では東軍に組んで3万石、大阪冬の陣では徳川方の間諜となって活躍したので、大名として存続した(p95)

    ・織田家の序列は1581年における京都での馬揃えをみると、1)信忠(80騎)、2)信雄(20万石、30騎)、3)信包(10騎)、4)信孝(10騎)であり、兄弟(信雄、信孝)で差があった(p112)

    ・天正10年において、柴田勝家の所領は、越前・加賀・能登・越中の4カ国140万石となり、全盛期の上杉、武田に匹敵する勢力であった、明智にとっての最大勢力であった(p148)

    ・秀吉の中国大返しの成功のポイントは、1)羽柴勢の行軍スピードが極めて速かったこと、2)補給能力に優れていた、である(p195)

    ・会戦型の合戦が生起するのは、関が原の戦いのように、双方の兵力が均衡していた場合か、姉川戦・山崎戦のように劣勢の陣営にどうしても挑まなければならない事情が存在した場合に限られる(p206)

    ・山崎の戦いの死者は、明智:3000余人、羽柴:3300余人となり、戦死者の数が拮抗していて、これは途中段階までは明智方が優勢であったことを示している(p218)

    ・第一段階として本能寺、二条御所を襲撃して、信長・信忠親子及び馬廻り衆を壊滅、第二段階として、近江80万石を取り込み、第三段階として、摂津・河内・和泉の3カ国70万石を制圧、

    ・合計250万石となれば、織田の残党と互角以上に戦えた、秀吉の摂津到着が半月遅れれば、天下は光秀のものとなった可能性大(p229)

  • [ 内容 ]
    戦国時代を震撼させた「本能寺の変」。
    織田家随一の智将と称された明智光秀がなぜ事変を引き起こしたのか。
    果たして光秀に勝算はあったのか。
    通説のイメージとは異なる光秀の実像と多くの謎に満ちた事変の実相に迫る。

    [ 目次 ]
    序章 光秀の人物像
    第1章 武田攻め
    第2章 謀反の動機
    第3章 本能寺の変
    第4章 近江の情勢
    第5章 大坂方面の情勢
    第6章 旧武田領の情勢
    第7章 中部・北陸の情勢
    第8章 細川藤孝と筒井順慶
    第9章 中国大返し
    第10章 山崎の合戦
    終章 本能寺の変の総括

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  • 最後はナナメ読みでしたが・・・
    図が入っていておもしろかった。

  • 面白かった~!!

    ちゃんと時代背景とか考察してあってフムフムと思いながら読みました。

    僕はこの説、いいと思いました。

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著者プロフィール

1961年生まれ。1984年に東京大学経済学部卒業。警察庁へ。

内閣安全保障室参事官補、愛知県警察本部警備部長、四国管区警察局首席監察官などを経て、現在は警察大学校警察政策研究センター教授。これまでオウム真理教事件、ペルー大使公邸人質事件、東海大水害対策などの危機管理に従事。

企業不祥事の分析を通じて組織のリスク管理及び危機管理を研究。1994年にダートマス大学 Tuck School で MBA,2012年に千葉商科大学大学院政策研究科で博士(政策研究)取得。

著書に、『組織不祥事研究』(白桃書房)、『続・なぜ、企業は不祥事を繰り返すのか』『なぜ,企業は不祥事を繰り返すのか』(日刊工業新聞社),『組織行動の「まずい!!」学』(祥伝社),『組織の失敗学』(中央労働災害防止協会)など多数。

「2019年 『企業組織の発展段階を知ろう! ベンチャーの経営変革の障害』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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