本はどう読むか (講談社現代新書)

  • 講談社 (1972年11月20日発売)
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本 ・本 (182ページ) / ISBN・EAN: 9784061156975

作品紹介・あらすじ

本書は、本の選び方、読み方から、メモのとり方、整理の仕方、外国書の読み方まで、著者が豊富な読書経験からあみだした、本とつきあう上で欠かすことのできない知恵や工夫の数々をあまさず明かし、あわせて、マス・メディア時代における読書の意義を考察した読んで楽しい知的実用の書である。そして同時に、ここには、読書というフィルターを通して写し出された1つの卓越した精神の歴史がある。(講談社現代新書)


昭和を代表する知識人の体験的読書論 待望の復刊
本の選び方、読み方、メモのとり方、整理の仕方、外国書の読み方――。
豊富な読書経験からあみだした知恵や工夫の数々を紹介する、
読んで楽しい知的実用の書。

【目次】
1 私の読書経験から
2 教養のための読書
3 忘れない工夫
4 本とどうつきあうか
5 外国書に慣れる法
6 マスコミ時代の読書

感想・レビュー・書評

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  • みなさんは蕎麦は好きですか? 僕は好きです。駅中でよくみる立ち食い蕎麦のお店によく行きます。忙しくて時間がないときでも、出てくるの速いし、完食するのにも時間がかからないし時短になりますよね。そんな蕎麦が読書と似てるらしいです。

    その意味で、読書は、蕎麦を食うのに少し似ている。蕎麦というものは、クチャクチャ噛んでいたのでは、味は判らない。一気に食べなければ駄目である。すべての書物がそうだとは言い切れないが、多くの書物は、蕎麦を食べる要領で、一気に読んだ方がよいようである。
    P112

    蕎麦食べるときってなぜか早食いになります。蕎麦を食う如く読書したほうがいいみたいです。とにかく速く数をこなして乱読しましょう。精読するに値する書物はそうそうないみたいですし。

    そんな著者のノートに対する想いも興味深いです。

    ところが、いつであったか、なるほど、ノートは出来上がったけれども、肝腎の書物の内容は私の心に残っていない、それに気づいた。あれは、ショックだった。すべてはノートが覚えていてくれるのであろうが、私は覚えていない。書物の内容は、私を素通りして、ノートへ移ってしまっている。ノートをよく読めば、内容が蘇って来るのであろう。しかし、ノートには、自分の書いた下手な文字が並んでいるし、また、大意であるから、骸骨のようなものしか見えない。その上、ノートに書きとめるというのが楽しい仕事ではなかったという記録も残っている。物置に眠っている何十冊かのノートは、私が堂々と作り上げたものであるのに、後から開いてみたことはほとんどない。
    P75


    言ってることが回りくどくて難しいけれども、ようするにノートに書いたけど満足しただけで何も記憶に残らない、ってことを言いたいのでしょうか。これは学生の頃の授業でノートを取るときと似てる気がします。教師が黒板にびっしりと書いた文字を必死でノートに書き写す、授業が終わって見返してみるけれども、それほど頭には残っちゃいない。ノートを取るってこと自体に満足して勉強した気になっていたのかもしれませんね。

    最後にこの本の素敵なところ挙げときます。

    本を読む代わりに、テレビを見てもよいし、友人と雑談してもよい。人生には、いろいろな側面があって、どの側面が特に高級と言う事は無い。読書が最高というような迷信は早く捨てた方がよい。ただ、お酒にはお酒の飲み方があるように、本には本の読み方がある。そう思って、私はこの本を書いて来たのである。
    P150

    著者の読書愛は凄まじいけど、読書するからって頭いいとか偉いとかは無いんですって。
    あくまで本書では読書してるマンかっこいいんだぜ、とか言いたいわけじゃない。
    これ読書家にありがちですが読書しない人を見ると見下す人いますよね。そういうのは良くないって著者はいってますよ。
    僕の周りに読書する人ほとんどいないけど、この精神を持ってけっしてバカにしないようにしたいです。

  • 著者の清水幾太郎は、太平洋戦争敗戦から60年安保闘争にかけて、「日本のオピニオン・ リーダー」、「進歩的文化人」の代表と言われた社会学者・評論家。
    本書は1972年出版のロングセラーで、著者自らの読書経験と、それを踏まえた「本はどう読むか」の技術が述べられている。
    私は60年安保以降に生まれた世代であり、著者の政治思想や過去の社会的な活動についての積極的な賛否は持たないが、本書に述べられている読書についての考え方・技術は、今でも少なからぬ読書論・読書術の書籍に引用され、影響を与えている。
    「本はどんな無理をしても買う。私がいつまでも貧乏なのは、おそらく、この主観主義的読書法の結果であるに違いない。とにかく、書物と細君だけは借りることの出来ないものと諦めている」
    「本を読んで学んだことを、下手でもよい、自分の文章で表現した時、心の底に理解が生まれる。・・・深い理解は、本から学んだものを吐き出すことではなく、それに、読書以前の、読書以外の自分の経験、その書物に対する自分の反応・・・そういう主体的なものが溶け込むところに生まれる。それが溶け込むことによって・・・自分というものの一部分になる。受容ではなく、表現が、真実の理解への道である」
    「縁がありそうな本、気にかかる本が出版されたら、何は措いても、買っておいた方がよろしい。・・・本は買ったら直ぐ読まないと損だ、というような根性は捨てなければいけない・・・買っておくと、不思議なもので、やがて読むようになるものである。気にかかる本が新しく身近に置かれるのは、環境に新しい要素が現れることである。・・・そのうち、この新しい本は、きっと、私たちに誘いかけて来る。」
    「書物の意味は、その書物そのものに備わっているのではなく、書物と読者との間の関係の上に成り立っているものである」
    「『資本論』に限らず、多くの書物は、一度は一気に読まねばいけない。一気に読むと、大小の疑問は残るであろうが、その反面、あの全体的構造が見えて来る。細部は判らなくても、構造の輪郭が判って来る。・・・急所は、チビチビ読んでいたのでは、絶対に判るものではない。輪郭や急所が判るというのは、その国の地図が手に入るということである」等
    読書論の古典のひとつとして、今でも一読の価値はある。

  • この本に、早く出会っていたら私の読書スタイルも変わっていたでしょう。
    本書で、ケチはいけませんとあります。私は、本書で言うケチな人間でした。
    4.本とどうつきあうか
    の章にケチはいけないとあります。ケチとは、
    ・読み始めたら最後のページまで読み通さなければならぬ。
    ・本を読む以上どの頁も有意味であるはずと考えること
    ・一語一句をユックリと噛みしめて読まなければならないという態度
    ・買った本は絶対に手放さないという信念で生きている人
    これらの考え方を持って本と接していることとあります。若かりし頃は、ほぼこれらケチな考え方で本に接していました。最近はそうでもないのですがね。
    本との付き合い方は、大いに参考になりました。
    清水幾太郎さんは、著書も多数あり、翻訳もされていますので、他の書籍も読んでみたいと思いました。

  • 社会学者の著者が、本の読み方、メモの取り方、外国語の本への取り組み方などのノウハウを公開した本です。

    実用書、娯楽書とは異なる教養書の大切さを訴えながらも、精神論に傾きすぎることなく、具体的な本との付き合い方に密着して話が進んでいくところに、好感を覚えました。

    著者は、自分の関心のあるテーマに沿ってノートを作ることで、ようやく本に読まれるのではなく本を読む段階に進むことができたという体験を語っていますが、これは単にノートの作成法としてではなく、広く読書の心構えとして理解するべきかもしれません。

  • 東京駅の本屋さんで気になっていた。BOOK-OFFのGW20%OFFセールで見つけて購入しました。
    前半部分はかなり古典的で、普段読む文体ではなかったため読み進めるのに少し苦労を要したが、中盤から、特に洋書の読み方からは納得、共感の嵐。

    洋書を読めるようになって、はじめて英語の楽しさ、翻訳書ではなく洋書をあえて読むことの大切さが言語化されていてすっきりした。
    日本語で読むよりも、外国語で読むほうがわかりやすく、楽しいことがある、という記述。ある程度のレベルまで外語のスキルが付くとこうなるんですよね。。

    引用:
    「電波メディアが発達した喧噪と繁忙の時代の私たち小インテリにとっては、真面目な読書の時間が実は思索の時間ー自分が自分の主人であろうとする時間ーであるように思われる。」

    「いろいろなマス・メディア、とりわけ、電波メディアが発達した今日では、それだけ、読書は相対的に難しくなっている。マス・メディアばかりではない。生活のあらゆる方面が日増しに便利になっている。便利というのは、努力が要らないという意味である。文明とは、人間が一日一日努力の必要から開放されて行く過程であると信じられている。努力ということが時代遅れに感じられている現代の空気の中で、しかし、読書は、百年前や千年前とほとんど変らない努力を私たちに要求しているのである。」

  •  1970年代の読書論であり仕事論・人生論であるが、全く古びていない。読み手を楽しませようというサービス精神に満ちていて、読んでいてとても楽しい。テクニカルな面で参考になったのはメモの取り方と洋書の読み方。ただ、この本の魅力はそのような細部だけでなく、職業を持つこと、そして家庭の重要性を、これでもかとばかりに強調しているところ。本に読まれず、利己的に読み続けながら、自己の思索を深めていきたいものだ。今のままの自分ではなく、己れの理想の姿に少しでも近づき、立派に生きて、死んでいくために。

  •  この本を読み始めたとき、私は警戒して少し身構えていた。年長者が上から目線で「オレ様の最強の読書法を教えてやる」的な内容だったらどうしよう、と心配したからだ。

     ところが、これは杞憂に終わった。著者は、ある本を読んで面白いと思うかどうかは人によって様々であることを前提に論を展開していく。人によるどころか、同じ個人であってもその人の成長の度合いによって受け取り方は変わっていく。だから、今、面白いと思う本を読めば良いと言う。

     読書の方法や心構えについては、本書では著者自身の試行錯誤や失敗談がふんだんに紹介されている。私自身も似たような試行錯誤を繰り返しているので妙な親近感を抱いた。「ああ、自分の間違いもそんなに捨てたもんじゃない。これからも大いに失敗しても良いのだ」と安心できてしまう。

     ❝一頁にしろ、一行にしろ、それが著者と読者との双方にとってまったく同じ意味を持つなどというのは、グロテスクな話である。或る本を読んで、一頁でもよい、一行でもよい、一語でもよい、ハッとするところがあったら、読者としては大儲けである。❞(p.109)

     「本を読んで理解するだけでなく、学んだことを自分の文章で表現することで理解が深まる」という著者の主張を読んだ時、私は確かにハッとさせられた。これまで私は読後の感想レビューを書くことを避けていた。自分のような人間の感想など意味はないと考えていた。しかし、他人のためではなく自分のために、下手でも良いから自分の思考を言葉にしてみよう。そんなきっかけを与えてくれる本となった。

  • 本はどう読むか。本をある程度読んだ人なら突き当たる疑問であろう。
    著者のような大読書家も例外ではないらしい。
    本書は体系的な読書論といったものではない。著者が「本とどのようにつきあってきたか」についての試行錯誤の過程であり、その経験から得られた「本とつきあう術」について書かれたものである。

    本書を読んでいて思ったことは、これといった本の読み方はないということである。
    友達にもいろんな友達がいるように、本にもいろんな本がある。さらに、本の場合には友達と違って本が自分に合わせてくれるということもない。なので、本を読む場合には柔軟な姿勢、つまり本によって異なったつきあい方が求められるのだろう。
    そして、本を理解するにあたっては、本に主導権を握られるのではなく、こちらが主体的に本と付き合うことが求められる。すなわち、「深い理解は、本から学んだ者を吐き出すことではなく、それに、読書以前の、読書以外の自分の経験、その書物に対する自分の反応……そういう主体的なものが溶け込むところに生れる」(p94)のであろう。

    なぜ本を読むのか。面白いからである。
    この大前提を忘れることなく、本との楽しいお付き合いをしたいものである。

  • 1972年刊行。

     読書論というよりも自伝的体験記に近い叙述である。

     印象的なのは、読書スピードは食事のごとしという比喩。つまり、食事において、蕎麦と懐石料理を味わうスピードは自ずと異なるし、受け手の事情(味わって食べたい時は遅くなり、急ぐときは早くなる)も加味される。まさにその通りであり、隅々まで記憶するためにはザッピングという方法は使えないし、単発情報を知るためには全部精読する必要はないだろう。
     体系的な把握を重視するには、目次の複数回精読こそ重視すべきはず。

     ちなみに語学の学習法は洋書を読み切るべしとのこと。

  • 私は読書術の本を何十冊と読んできた。
    もし、人から、「読書論の本は一冊も読んでいないから、何冊かお勧めな本を教えて」と聞かれた場合、この本を挙げることはない。お勧めの本トップ10にはまったく入らない。お勧めの順位は、かなり低くなる。理由はいくつかある。

    1. 表現が固いこと。
    2. 実際の方法論が主となってはいるが、著者の経験談が長めなので冗長に感じること。
    もっとも大きな理由は、全体をとおして、古さを感じることだ。

    本書の目次は下記のとおり。目次だけを見ても古さを感じるのではないだろうか。

    【目次】
    第1章 私の読書経験から
    第2章 教養のための読書
    第3章 忘れない工夫
    第4章 本とどうつきあうか
    第5章 外国書に慣れる法
    第6章 マスコミ時代の読書

    50年以上前に発行された本だから当然と思われるかもしれない。しかし、単純に書かれてから時間が経てば、古く感じるということでもない。類書でいえば、本書と同じ「講談社現代新書」から、本書の翌年の1973年に出版された、板坂元氏の『考える技術・書く技術』がある。この本は、いま読んでもあまり古さを感じさせない。

    この差はどこにあるのか。ある本が、古く感じるか否かは、読者と距離感や、刺激を与えるかどうかにあるのではないか。本書の「第6章 マスコミ時代の読書」は、テレビと本との関係を論じたものだが時代遅れで、現代人との距離感は遠い。過去の状況を知るための資料的価値を除けば、いま読むに値しない。

    もちろん、良い面もある。出版されてから50年以上経つが、読みづらさを感じないというのは利点である。
    内容も、下記に挙げるような有用なことは書かれている。

    本を読んで学んだことを、下手でもよい、自分の文章で表現した時、心の底に理解が生れる。深い理解である。(p95)

    面白くなければ読むのをやめる
    面白くない、と思ったら、キッパリやめた方がよい。そういう本は、現在の自分とは縁がない本である。 (中略) 面白くない本を我慢して読んで行くのは、精神衛生にとって有害である。読むのをやめた方がよい。(p107-108)

    ただ、それらのことは類書にも書かれている。今日ではすでに何度も読んだことがある概念なので、あえて本書で読むこともあるまい。同じことを主張していても、新しい本の方が表現はこなれている。例を挙げよう。本書を参考文献として挙げている本のひとつに、『勉強法そんなやり方じゃダメダメ』 (平成暮らしの研究会/編)(2001年、KAWADE夢文庫)がある。この本では、「面白くなければ読むのをやめる」は、下記のように書かれていた。

    面白くない本は無理に読んではダメ
    面白くないと思った本はきっぱりと読むのをあきらめたほうがいい。面白くない本を無理に読むのは、時間のムダであるだけではない。ストレスを感じながら読むことになり、これは精神的にもよくない。 (中略) 面白くないと思ったら、さっさと別の本に切り替えること。そのほうがずっと時間を有効につかえるものだ。(p81-82)

    『勉強法そんなやり方じゃダメダメ』も、24年前に発行された本なので古い。勉強法全般を紹介した本なので、深みはないが、読みやすさという点だけで見れば勝っている。

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著者プロフィール

清水幾太郎

一九〇七(明治四〇)年、東京生まれ。社会学者。東京帝国大学文学部社会学科卒業。文学博士。二十世紀研究所所長などを経て、学習院大学教授、清水研究室主宰。主な著書に『愛国心』『流言蜚語』などのほか、『清水幾太郎著作集』がある。訳書にヴェーバー『社会学の根本概念』、カー『歴史とは何か』などがある。八八(昭和六三)年没。

「2022年 『日本語の技術 私の文章作法』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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