── ニュートン/中野 猿人・訳《プリンシピア ~
自然哲学の数学的原理 1687-1726 197709‥ 講談社》
http://booklog.jp/users/awalibrary/archives/1/4061221396
…… “Hypotheses non fingo(われ仮説を立てず”と宣言した。あく
まで観測できる物事の因果関係を示すという哲学、解釈を展開した。
これは、「作り話」的な説明もあるデカルトの自然学を批判したものだ
とされる(Wikipedia)。
Newton, Isaac 16430104 England 17270331 84 /16421225 Julius 17270320
http://d.hatena.ne.jp/adlib/20150923 色彩論・色彩学・色彩心理学に関するQ&A
Barrow, Isaac 163010‥ England 16770504 46 /もう一人の“アイザック”
Descartes, René 15960331 France Swedn 16500211 53 /
http://www.enpitu.ne.jp/usr8/bin/search?idst=87518&key=%A5%C7%A5%AB%A5%EB%A5%C8
── デカルト/落合 太郎・訳《方法序説 1953-1979-1967‥‥ 岩波文庫》
http://booklog.jp/users/awalibrary/archives/1/B000JA8I28
── コペルニクス《天球の回転について 1543‥‥ 19530505 岩波文庫》矢島 祐利・訳
http://booklog.jp/users/awalibrary/archives/1/4003390512
…… ニュートンは良き師に巡り会うことになった。アイザック・バロー
である。ケンブリッジにおいて1663年に開設されたルーカス数学講座の
初代教授に就任したバローは、ニュートンの才能を高く評価し、多大な
庇護を与えた。バローは時間、空間の絶対性を重要視するプラトニズム
を奉じた数学者であり、ニュートンの思想にも大きな影響を与えた。バ
ローのおかげもあり、1664年にニュートンは「スカラー」[3](奨学金
が支給される学生)にしてもらうことができ、さらに翌年には学位を授
与されることになる。彼との出会いによってニュートンの才能は開花し、
1665年に万有引力、二項定理を発見、さらに微分および微分積分学へと
発展することになった。ペスト禍を逃れて故郷の田舎にいた18ヶ月間の
休暇でなしとげたことで[4]、ニュートンの三大業績は全て25歳ころま
でになされたものである[1]。
…… ニュートンの死後残された蔵書1624冊のうち、数学・自然学・天
文学関連の本は259冊で16%であるのに対して、神学・哲学関連は518冊
で32%である[1]。 ニュートンが哲学者として、聖書研究や錬金術研究
も重視し、熱心に研究を行い努力していたという事実については、後の
時代に登場することになる科学者たちが、自分たちの気に入る英雄像を
作るために、事実をゆがめて書いたり、自分たちに都合の悪い事実を無
視するかたちで科学史を書くということが繰り返された[1]ので、やが
て忘れられてしまうことになった。20世紀になり、ケインズなどが歴史
的資料の収集・再検証が行い、ようやくそうした科学史の嘘、科学者ら
による嘘が明らかになった。
…… ニュートンの自宅はウェストミンスター公立図書館になった。
(Wikipedia)
(20180820)