わたしが棄てた女 (講談社文庫)

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  • 講談社
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レビュー : 214
  • Amazon.co.jp ・本 (279ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784061311411

感想・レビュー・書評

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  • なんだろう、この地味にじわじわとクるダメージは…。
    解説によればこの小説は「いわゆる軽小説」であり「通俗的」であるそうだが。
    何でも美味しくいただく、万年「ダイエットは明日から」なこの私が、食欲がなくなるくらいのダメージを喰らった…。
    しかも「沈黙」みたいに、小説の世界に飛ばされてどっぷりどっしり重たい、みたいのじゃなくて、頭の中ほぼ日常の私なんだけど、どこか一部分がじわじわと侵食されていくような。キツイ。

    つまりはこの小説が日常に軸足を置いてることによるんだと思うわけです。
    森田ミツも吉岡努も、つまらない日常を生きてる。
    時代背景からいっても、今より物理的にもっと貧しい「日常」を。
    だからこそ容易にその中に自己を投影できて、しかも絶対にそこには至ることができない、絶対にそういう風にはなれない、というギャップに違和感と痛みを感じるんだろう。
    聖書を読んで、仏教の経典を読んで、ずっと引っ掛かってるコトが、やっぱりこの本を読んでも引っ掛かってる。
    宗教とは、神とは、なんなんだ。
    あーシンドい。シンドかった…。

  • 人を棄てれば、棄てられる。これ世の常。
    最近そういう人が多い。恋人を作りは捨て、の繰り返し。
    恋愛はゲームなの?人生の履歴書なの?

  • 何だか気になって手に取った本。

    一気読みしてしまった。
    何故だろう、ものすごく入ってくる言葉。
    その風景や匂いがとってもリアルで
    なんだかトリップしてしまう。

    人の情。
    こころの動きや葛藤。
    刹那な想い。
    人の事をまるで自分の事のように感じ
    共鳴する心を持つ『ミツ』に
    読んだ後とっても切なくなった。

    忘れられない。

    この本に出てくる主となる人物達に
    私のこころがリンクした気がした。

    今、きっと欲していた言葉や想いが
    この本にはつまっていた。

    だから何気なく気になって読む事になったのだろう。
    そんな気がしてならない。

  • 無垢であれば聖なのか?
    女性に処女性を求めるある男性のエゴイズム

  • 醜く、不器用で、わたしが残酷に棄てた女、森田ミツはまごうことなき聖女であった。

    はたして作家、遠藤周作にとっての聖女とは。
    力強くすべてを包み込む女性ではなかった。
    何も出来なくとも、苦しいときに側にいて、すべてを捧げることのできる犠牲の心を、救いの精神をもつ女性だった。

    ご都合主義に過ぎるとこもあり、最高峰の作品とはいえないかもしれない。
    しかし、読んだ者の心に、確実に何かを残してくれる作品ではあると思う。

  • バナナマン設楽さんが読んで涙を流した作品だそうで、気になったので読んでみました。
    動機は不純です。
    「あの設楽さんが泣くなんて…」というイメージから先行して読んだせいか、他の人が言うほどの感動もなく、すっきり読めてしまいました。

    たとえハンセン病にかかっている他人に対してでも、たとえ偶然すれ違っただけの貧乏人に対してでも、無条件で慈愛の心を持つことのできるミツには切なさを覚えました。
    キリスト教のにおいを感じました。
    なぜ「事故で」死ななければならなかったのでしょう。悪く言えば最後の最後でお涙頂戴の話だったようにも思えます。

    ミツは常に吉岡のことを考えていたが、結局吉岡とは最後まで会えず仕舞いだった。ミツの抱いた恋心は虚偶だったのではないか…とも思うのです。吉岡に会えずに過ごしていても、ミツはそれ以前となにも変わらずにミツを貫き通していたと思うからです。
    その点では、二人の人間から語られるストーリーはいささか中途半端でもあったように思います。

    なんやかんや述べていますが、すばらしい作品です。
    わたしは矛盾したふたつの視点から見ることができました。
    どちらかというと吉岡さんの方にシンパシーを覚えました。
    わたしはミツのようには生きられない。
    もっとわがままに、自分勝手に生きなさい、と思う。
    ミツは、立派な子だというよりは、ただ単純にその術を知らなかった子。それが幸せなのか可哀想なのかは、わたしはまだ知らない。

  • もしかしたら神は実在して、そしてその自覚症状がないのかもしれない。
    この作品では、神のようなミツと対比させて、普通の(?)人間のエゴや嫉妬などの汚さを描いているように思えた。

    個人的にはまさに「幼児のごとき」ミツの純粋無垢な人格・慈悲愛には魅力を感じなかった。やはり吉岡のように自分の汚さに気付き、懊悩している方が人間として鮮やかだ。

    ミツがハンセン病棟に戻った点はかなり評価したい。
    神は人間社会には馴染めない。

  • 身も蓋もない言い方をすれば、体目当てで興味もない女に近付き、気が済んだら都合よく去り、その後見事に出世した男を、献身的に愛し続ける女性の話。
    献身的な女性を通じて、キリストの姿を描こうとしているようだった。
    果てしなく許す心の深さを描こうとしたのだろうか。
    しかし、彼女には他にも幸福になる道はあったはずなのに、なぜその男に固執したのだろう。
    それを献身的態度と言うのだろうか。

  • 自分の欲望を満たすためだけに女と一夜を共にした男。そんな男にただひたすら愛をささげ続けた女。

    男はどこまでも自分を正当化し続けるけれど、すればするほど、女のひたむきな男への愛が際立ってくる。どうして何も悪いこともしていない普通の女の子がどうしてこれほど哀しい人生を歩み、終えなければならなかったのか?どうして男はのうのうと生きていられるのか?

    それぞれに思うところはあるけれど、ただひたすら男を想い続けていた女が、男の人生に大きく足跡を残したことがとても意味のあることだと感じた。

    ただひたすら人を愛し、自分のことなど省みず愛を捧げ続けること。何の下心もなくできた女の姿と生き方に感動。

  • タイトルからは、自分が棄てた女の没落していく様が描かれているように思うのだが、しかし、そこからの復活がこの小説にはある。貧乏大学生であったところの僕は、肉欲目当てだけで森田ミツと付き合う。そして、二度会い二度目にセックスをしてそのまま棄てる。僕は住所を変更し、森田ミツから逃れるようにして生きる。しかし、その後の僕の人生の所々に森田ミツの幻影がちらつき、僕自身も森田ミツを利用しようとする。だが、森田ミツはハンセン病を患っていると診断され隔離病棟へと旅立ってゆき、そこで誤診であったことを告げられる。森田ミツは自由を得たが、しかし、彼女は病棟に残り、病人の世話をしやがて事故で死に絶える。僕は結婚を期に、森田ミツへと葉書きを送り、その返信によって森田ミツのその後の人生と死とを知り、悔恨と自己正当化との間で揺れ動く。

    この物語において記されているものは二つ。僕と森田ミツとであろう。当初、主人公は僕かと思われるのだが、次第に主人公が森田ミツであることが分かり始める。しかしそれにしては僕について綴られている箇所が多い。では、僕はなんなのか?聖女としての森田ミツの対になる人間だろうか?しかし、僕という人間は確かに醜い部分をいくらも持っているものの、しかし彼は彼自身が述べているように特段最低な人間ではない。むしろ、たいていの人間はむしろ彼の側に含まれるのだ。つまり、そこにあるのは聖女と最低男という対ではなくて、聖女と凡夫という対なのかもしれない。誰もが最低な部分は持っているし、誰しもがそういう意味においては最低なのだ。しかし、人はそこから目を背け、あるいは自らの最低性を否定し、自己肯定して生きる。だが、森田ミツにような人間に出会ってしまったとしたら?いやがおうにも、自らの自己肯定を認識せざるを得ない。そうせずにはいられない。

    対して、森田ミツという人間。容貌が醜い上に、愚鈍であると描写され続ける彼女は、しかし、最終的には聖女として描かれる。しかし、彼女は同時に平凡そのものである。彼女の平凡ぶりは、「手の首のアザ」で彼女の心理状況をつぶさに追っていくことでも明らかとなるし、「僕の手記」における僕による描写からも明白だろう。しかし、平凡ゆえに聖女となる、その理由は?という問に、解説では答えを出していない。だが、これは酷く単純なものなのだろうと思う。つまり、優しさと頭の悪さを同時に持ちえていたからこそ、聖女となりえたということではないのか?頭のいい人間は、自らの損益を絶えず計算してしまうだろう。あるいは、思考回路が広がって行ってしまい、様々な角度から物事を見てしまうだろう。そうすれば、森田ミツのようにはいられない。そして、森田ミツのような人間がどうすれば出来上がるのかと言えば、そこにはやはり容貌の醜さなども含まれているのだろう。だとすれば、容貌が醜く愚鈍であるが故に聖女となりえるという遠藤周作氏のこの結び方には反発を覚えざるを得ない。しかし、それでいて、確かに森田ミツは聖女なのだと思わざるもを得ず、いや、それすらも頭のいい人間の都合のよさなのだろうと思う。森田ミツは別に聖女でもなんでもない、ただの、性格の優しい女性だった。事実はそれだけであって、恐らくはそれだけでいいのだろうと思う。

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著者プロフィール

遠藤 周作(えんどう しゅうさく)
1923年3月27日 - 1996年9月29日
東京生まれ。父親の仕事で、幼少時代を満洲で過ごす。帰国後にカトリックの洗礼を受けた。1941年上智大学予科に入学したが、中退。慶應義塾大学文学部仏文科入学・卒業後、カトリック文学を学ぶためにフランスへの留学。帰国後の1954年『アデンまで』を発表し小説デビュー。1955年『白い人』で芥川賞を受賞し「第三の新人」として脚光を浴びた。
1958年『海と毒薬』で第5回新潮社文学賞及び第12回毎日出版文化賞、1966年『沈黙』で第2回谷崎潤一郎賞、1979年『キリストの誕生』で第30回読売文学賞評論・伝記賞、1980年『侍』で第33回野間文芸賞などそれぞれ受賞。1995年に文化勲章を受章している。
上記受賞作のほか、1993年刊行『深い河』もキリスト教と日本人をテーマにした代表作と見なされており、映画化された。60年代以降「狐狸庵山人」(こりあんさんじん)を名乗り、様々なエッセイを記した。数々の作品が欧米で翻訳され高い評価を受けており、存命中ノーベル文学賞候補だったこともよく知られている。

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わたしが・棄てた・女 単行本 わたしが・棄てた・女 遠藤周作

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