「おたく」の精神史 一九八〇年代論 (星海社新書)

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  • 星海社
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  • Amazon.co.jp ・本 (496ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784061385795

作品紹介・あらすじ

「おたく」はいかにして形成されていったのか――! 大塚英志だからこそ書けるとっておきの80年代論、待望の復刊。

感想・レビュー・書評

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  •  大塚英志の持っているもの全部詰め込んだ感じがあってとても良いし、分厚いわりにはあっという間に読めた。一貫して江藤淳の「成熟と喪失」がベースにある。

    【現在の<オタク>をめぐる言説は無駄で無意味なものにぼくには思える。いや、思えるでなく、無駄で無意味だと断定すべきだろう】
     と、彼は断言する。
     この断言の理由としては二つあって、一つは、【バルトやボードリヤールのように初音ミクもラノベも語ることができるけれども、それは「冗談」でやっていた。「現代思想」というハイカルチャーの言説によって下位文化を語るという行為自体が、文化ヒエラルキーの混乱ないしは解体を宣言するゲームでしかなかった。全共闘世代の終わり損ねた「反体制運動」であった。】ということだ。
     現代思想でオタク論をする。大塚氏のころは、いくらでもできるし、冗談やギャグのつもりでやっていた。マジでやるものではないというのが一つ。
     もう一つは、学者とおたくは根本的に違い、世界も違うという認識を持つべきということ。上の世代に従いながら、現代思想を操る層と、自給自足に消費し自給自足に送り手になる「おたく」は違うということ。ここの認識が学者によるオタク論において「甘い」のが二つ目だ。
     ゆえに、「おたく」を語ると、学者にとって都合のいい「おたく」像ができあがるばかりで、「無駄で無意味」と言っているのだろうと思う。

     また、日本文化をやたら褒める外人にも一言。これも良い。
    【例えば西欧の人々は日本を含む非西欧的文化圏には、相手が自分に望むステレオタイプやラベリングを自ら期待通りに演じて見せて文化的摩擦を回避する、という処世術があることにもう少し気づいてくれてもいいと皮肉を込めて記す】。
     これ、HUBというバーにいけばよくわかる。

     ここからずっと、大塚氏は「女性論」を語っているように思う。

     どうやったら女性は大人の女性になるのか?

     それがこの「おたく」の精神史のメインだと思う。

     手塚的な絵と萩尾望都らの内面描写は戦後漫画が獲得した最も特徴的な文体と定義しつつ、「エロ劇画とロリコン漫画の決定的な違いは、犯す主体が描かれない。あるいは表現の中から隠ぺいされる。強姦者の不在」と言う。
     また、アイドルは男性の求める、こうあってほしい像と、彼氏はいない「性」でありつつ、かわいくまたはセクシーに見せるというこんがらがっている中で、生きなければいけない。
     犯す男も、アイドルも、「見えない」のだ。女性にとって、アイドルのように生きることが、何か見えないし、自分を犯してくる男も、見えない感じだ。女性はいったい何を見ているのか、お手上げ状態で分からない。

     大塚氏は、なんとなくだが、「男はまあ童貞捨てれば通過儀礼だが、女はどんだけヤリマンになっても不倫してもバイセクシャルを名乗っても急にレズになっても結婚してもカスはカスのまま。女にとって、大人になることがよくわからない」と言っているように思う。だから、アイドルの自殺や、黒木香という自己実現と成熟の手立てとしてのアダルトビデオ出演について延々と語るのだ。
     でも、なかなか結論にたどり着かない。大塚氏は別の面からアプローチを始める。

    【DCブランドのデザイナー達が世界を意識した時、それは日本の知識人の宿命として福田和也が語ったように「小・小澤征爾」と化する。日本の文化、に突如として目覚め、これを担おうとしてしまう。あるいは西欧人と寸分変わらないことが最大の評価であると思いこむ。つまり、日本人は西欧に出会った時、川端康成になるか大江健三郎になるしかないのである。】
     そうした日本の大きな問題を取り上げつつ、ディズニーから手塚治虫が借用した記号絵を後進が更新し続けたことを述べ、コピーの果てにあらわれる無国籍化からのオリジナリティが、「日本文化」であることを指摘する。
     それから、ビックリマンの断片化情報による商売を取り上げる。
    【物語を疑似創造する行為とモノの消費が一体となったこの消費の形式を、ぼくは当時「物語消費」と呼んだが、今日のキャラクター産業の最もコアな部分はこの手法の援用によって成立している。】
     まあこれは、エヴァンゲリオンがそうだし、ゼノギアスもそうだろう。

     こうして、日本の、西洋人になるか日本人になるかという状況から、コピーをし続けて到達するオリジナルを見出し、「日本流」が出来上がる。そこから物語を断片化して想像を膨らませる消費のやり方をさせる商売が成立していく。大塚氏は、ではその消費者とはどんな状態であるか、宮崎勤でもって述べていく。

     宮崎勤の大量のビデオテープには一貫性がなかった。コレクターのコレクションが古本屋の古本だとするならば、宮崎勤のコレクションは投げ売りの店頭の棚であった。【「物」がマスプロダクツの果ての存在としてしかない消費社会における「私」の困難さとは、コレクションという消費行為に最も端的に現れるものだといえる。そこには意味はやはり不在である。】と大塚氏は述べる。進撃の巨人と思えばおそ松さん。そこから文アルやらFGOやら。店頭の棚のように積み重なる数々の作品郡の同人誌を書いて自給自足する今の「おたく」の姿と宮崎勤のビデオテープが重なる。

     そこから、また女の話に戻る。

     前世の仲間探しの話だ。片田舎で女子高生たちが、前世探しのために、川辺で集団自殺未遂をしたのだ。
    【彼女たちは宮崎駿アニメ「魔女の宅急便」を劇場で見た後、その自殺現場に少女小説家の藤本ひとみのカセットブックとみずき健の少女まんが「シークエンス」を持参している。新聞記事中に「前世」とあるが、彼女たち三人はそれぞれ「エリナ」「ミルシャ」「フローナ」なる前世名を持っていた。】
     前世を持つ女子たちはそのクラスにはたくさんいて、彼女たちはちょっと前世に会いに行くつもりの程度だった。もちろん前世なんてないわけだ。
     前世に会いに行く。会えない。で、それで大人になれるのだろうか? 前世に会いに行くのも通過儀礼にはならない。彼女らは大人になれない。
     では、「父」の存在は、彼女らを大人にするのか?

     宮崎勤の父親が、車を改造して家にしていたエピソードに見る「父性」が激烈だった。
     そして、宮崎勤にとって「父」であり、同化できる対象は「祖父」だった。
     「祖父」は家を成功させ町会議員にもなっていた。祖父と最も同化していたのが孫である宮崎勤だった。「自分は父の子供ではないが、祖父の子供である」という。おそらくそれは深い意味はなく、ただ、血がほしかったのだろうと思う。よくわかる。彼の企画に、その「血の欲しさ」がよくあらわれている。
     宮崎勤の「投書ワイワイ(仮)」という企画だ。「誰でもデビューできますぞ!」という各出版社に送られた企画書。そこまで空前絶後の内容ではないが、空前絶後の企画だと吠える。そこでひたすら強調されているのは、誰でも世に残るぞ! というものだ。宮崎勤のこの企画を読んで、「語り得たなどとはとうてい言えないことを改めて痛感する」と言う大塚氏だが、ぶっちゃけ語れるだろう。
     やはり「祖父」という名を遺した血と、流行をビデオに撮るばかりの宮崎勤。「誰でもデビューできる!」と企画する宮崎勤。そこには何の現実もない。祖父の苦労も苦しみもわからない。プロセスは一切不明で、ゴールだけがいつも鮮明にそこにある。祖父の血が自分にあり、けれども祖父のようにはなれず、父は大嫌いで、だからただ時間を消費するようにビデオテープを取り続け最終的にはサイコパスとなるしかなかった。

     それから大塚氏は湾岸戦争論を述べる。
     湾岸戦争を巡る論説で、突然ゲームがバッシングされた。だれもゲームと戦争なんか混同していない。でも、混同しているということにされた。ゲームと戦争が突然結び付けられ語られたが、これは「戦争はゲームではない」ということで、語る側が虚構の外側にいることが立証されるという構図を繰り返して、語る側が「俺は現実を知ってる」と言えるための自作自演なのだ。「戦争を語ることは現実の立証をめぐるものである」という、いとうせいこうの論を褒めている。これは至言だと思う。

     では宮崎勤はどうやって「現実の立証」をできただろうか。まあ飲み会と風俗と労働でこと足りるのである。めちゃくちゃ簡単なのである。そんな、企画書なんか作らなくても、現実を生きていくなんぞいくらでも男はできるのである。
     問題は女の方である、と大塚氏は言っているように思う。
     高学歴お嬢さま女子高生が「普通でいたくない」といって、エッセイとも漫画ともつかないものをエロ本周辺で書いているエピソードが印象的だった。「センチメントの季節」とかも、おじさんによって性的な痛手を味わって大人になるという、大人の男に翻弄されつつ、強い女になるという典型で、女にとって大人とは、という疑問に答えているわけではない。代表的な女性漫画家でも、名作でも、やっとかけて「この程度」だ。で、残されているのは、【今日のサブカルチャーの一角には、赤坂真理から椎名林檎までひたすら病んで傷ついている自分をカミングアウトするアダルトチルドレン系の語りが存在する。】ということだ。「こんな風に傷ついたことがありましたよみなさん!」というのを漫画にするわけだ。川辺で集団レイプされました、というような。または、ツイッターで滅茶苦茶リツイートされている日常漫画みたいなもの。
     それも通過儀礼にはならない。ベビーカーを大切にしようみたいな漫画で大人になるわけではない。

     小さな共同体が通過儀礼をおこなっていたのを国民国家が行い、いまは国家は滅び、その通過儀礼がないから、大人になれないという論は、「女性用」だと言っていると思う。女性は「成熟しない」がいつまでも続く。
     そんな中、エヴァンゲリオンで、おたくの閉じた男女関係でない、アスカのセリフ「気持ち悪い」は、宮崎勤に殺される幼女の側からの批評であり、甘い世界の共有を求める、親切な脇役を強要することへの拒否であり、それを表現したのがえらいという。
     では女性たちはアスカのように「気持ち悪い」と言えば大人なのか。その答えは大塚氏は示していない。

     最後に結論として、「おたく」の問題であり、今現在の真の問題は、【すべての人々の実存をコンテンツとして差し出せという誘惑(にみせかけた企業の抑圧)のなかにあるということだ。】と言う。

     「こんな実体験がありました漫画」をあげて、リツイートをかせいで、ネットからテレビくらいにまで影響を及ぼして、ある日会社から電話が来て、書籍化する。差し出せ、実存を。「お前のすべてをもらう」社会になっている。どうしますか? というのが大塚氏の最後の問題提起だ。
     でも、それを乗り越えたり、それに乗ったりすることが「大人」につながるわけでもない。こんな女性差別がありました、が、大人なのだろうか。普段はフェミっぽく威勢がいいのに、男のまえではほかの誰よりも「女」を使う。それが大人なのだろうか。
     この本は、80年代から現在までばっちり繋いだ「女性論」であると思う。

  • 素晴らしい本だった。いろいろな本を読んでいるが、読んでいる中でこんなにも別の世界に連れて行かれて、そして戻ってきた時には違う自分になっているある種の通過体験、そういうものをできる読書は限られている。大塚英志氏は私にとって、本を読む意味を残しておいてくれている、とてもありがたく貴重な著者なのです。

    さて、帯に「私的1980年代論」とある通り、『物語消費論』や『彼女たちの連合赤軍』と違って、あるテーマを様々な角度から検証・深堀りする内容にはなっていない。扱う内容は私的で散漫に見え、「このことは以前論じたのでここでは深くは立ち入らない」みたいな頻繁に記述が出てくる。また、やや著者本人の肩入れ具合によって記述が左右しているような印象を受けていたら、あとがきに「本書は八〇年代をノスタルジックに回顧するものではない。そのように筆が走っている部分があるが、それは本書の弱点である」と書いてあって、全くその通りだと思った。しかし、私はその筆の走りも嫌いじゃないな〜と思う。その筆の走りにこそ、大塚英志氏のある種の根本が見え隠れして、私はその部分に深く共鳴するから。

    氏の一連のおたく論の見取り図のような本になっており、キーワードとしての「隘路」を最も私的で瑣末なおたく文化的側面から描いている。論をさらに深く展開できる部分は、別の著作が出版されているし、文学の側面の検証の『サブカルチャー文学論』と裏表になっているような印象を受けるので、これらをまとめて読むことで、なんとなく氏の思想が浮かび上がってくるのではないかという予感が初めてした。
    全体として示唆に富んでいるのだけれど、私が特に感銘を受けたのは「上野千鶴子の妹たち」だった。ここで提示されている「フェミニズムのようなもの」は他の女の人にとっても妄想かもしれないが、私の中のある種の感情を鋭く突いてきて驚いた。ここまで「フェミニズムのようなもの」についてきちんとまとまっている文章は他になかった気がするのだけれど、もしあったら教えてください。そして私は、日本のフェミニズムが今もなお、若い女の人たちの感情を掬えてないのは、この「フェミニズムのようなもの」という部分をまるっきり取りこぼしているからではないのかと思うのです。しかし、江藤淳といい大塚英志といい、男性の側からこのような女性も気づいていないある種の違和というか、女の身体と近代の問題を敏感に感じ取る言説が立ち現れるのは本当に読んでいて面白い。
    そして、終章の「二〇十五年の「おたく」論 『黒子のバスケ』事件と「オタクエコシステム」における「疎外」の形式」も素晴らしかった。昨今の二次創作などにおける受け手の送り手への侵犯が、実際には収奪と隷属のエコシステムであるという論には激しく同感だった。この創作者を擬態させられた消費者のことを、なんとなく気持ち悪く思い、またそこに甘んじていたり、その文化こそが新しく・先駆的で・力があるのだという風潮に私がイマイチ乗れないのは、うっすら「こいつら搾取されているだけじゃない?しかも巧妙に自己実現しているような気分にさせられているだけで」と感じていたからなのだと気づいた。

    読みながら、私が小さい頃、母親がピンクハウスのトレーナーを着ていたのを思い出した。胸のあたりにファンシーなクマのプリントがされているトレーナーで、私はそれを可愛いと思いながらも、それはあまりに少女趣味で、母親という記号との噛み合わなさに居心地の悪さをどことなく感じていたような気がする。少女でありたいと願いながら母になってしまった人間のことを思ったりなどした。そしてもちろん、黒木香は私の学校の先輩である。八〇年代は遠いように見えて、微妙に近い。

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    ヨコナラビの差異、AとBは等価だと戯れる新人類。

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著者プロフィール

大塚 英志(おおつか・えいじ):大塚英志(おおつか・えいじ):1958年生まれ。まんが原作者、批評家。神戸芸術工科大学教授、東京大学大学院情報学環特任教授、国際日本文化研究センター教授を歴任。まんが原作に『アンラッキーヤングメン』(KADOKAWA)他多数、評論に『「暮し」のファシズム』(筑摩選書)、『物語消費論』『「おたく」の精神史』(星海社新書)、他多数。

「2023年 『「14歳」少女の構造』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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