- 本 ・本 (193ページ)
- / ISBN・EAN: 9784061456334
感想・レビュー・書評
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外山滋比古氏逝去のニュウスを受け、追悼の意を込めて一冊。
外山氏といへば、学生時代の教科書で出会つて以来、目に付いた著書はなるべく目を通すやうにしてきました。ところで、わたくしが教科書で出会ひ特に影響を受けた四天王がゐまして、それは梅棹忠夫・多田道太郎・本多勝一そして外山滋比古でした。それがどうしたと言はれても困りますが。
ここに登場する『読書の方法-未知を読む』も、それまでの読書論と一線を画し、眞に示唆に富む内容となつてをります。同じ「読む」といふ行為も、既知を読む「アルファー読み」と未知を読む「ベーター読み」に分けられると指摘します。
そもそも日本人の読書といへば、素読に代表される「修行」の面を持つものでした。明治維新以降は質の悪い翻訳も手伝ひ、分かりにくい文章を難行苦行の末読破するのが一般的だつたといふことです。「分からない」などと告白すれば沽券にかかはると思ひ、理解したふりをした人もゐたのではないか。
それが戦後になると、分かりやすい文章がもてはやされ、楽をして読める本、読んですぐに理解できる文章ばかり読む人ばかりになつたと指摘しました。ベーター読みからアルファー読みへの転換が起きたといふことですかな。特に近年はライトノベルと称する小説が猖獗を極め、その流れに拍車をかけてゐるのでは。別段良いとか悪いとかではありませんが。
アルファー読みの最たるものは、著書の指摘するごとくスポーツ新聞の記事でせう。スポーツ紙を求める人は、例へば野球ファンなら結果を知つた上で読む人が大半ではないかと想像されます。自分の贔屓チームが何対何で勝ち、勝利投手は誰で、決勝打を放つた殊勲者は誰で......なんて事は知つた上で楽しむのであります。まさに「既知を読む」訳です。
著者の論調は、読者を未知を読む「ベーター読み」に導きたい思惑がアリアリで、そして一々首肯出来る主張なのですが、やはり現実には難しいのでは。わたくしもアルファー読み一辺倒読者ですが、読書の愉しみといふのを犠牲にし、多くの時間を要する「未知を読む」勉強をするには年をとつてしまつたな、と言ひ訳してゐます。
しかし本書は刺激に満ち、好奇心を煽る内容となつてをります。「既知を読む」読書に飽き足りなくなつた若い人には、チャレンジして貰ひたい喃。なんて事を言ふと、旅立つたばかりの外山滋比古氏から「莫迦め」と罵られますな。詳細をみるコメント0件をすべて表示 -
既知のものを読むことと、未知のものを読むこととは大きく異なる。
未知のものを読むことの大切さを訴える。 -
知らないことを読む難しさについて考えさせられる。
読んだからといってそれをわかっているのだろうか?わかるための読書についてどうしたらよいかのヒントが得られると思う。 -
外山氏はアドラーの「本を読む本」の訳をご担当されていますから、アドラーのほうにあたるのも悪くはないかと。
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日本語の明細書にはベータ読みが求められと思います。
まず、明細書の技術分野に精通していないければ、不明な単語のオンパレードとなります。これは、不明語を検索すれば、ある程度解消されます。ただし、検索しても意味不明な言葉があります。その場合は、自分の知識不足、能力不足だと反省して、精進すればよいと思います。
それに対して問題なのは、わかりやすく書かれていないことです。一文が長い、主語・目的語がない、表現が冗長など、挙げだしたらきりがありません。英文の直訳を読む方が、まだましかもしれません。
唯一の救いは、「明細書の悪文を読めれば、たいていの本は読める」という自信につながることでしょうか。このくらいポジティブに望めば、悪文もかわいらしく思えるものです。
明細書のベースは研究者の方に書いて頂いています。研究者の方は、時間を作って明細書を一気に書き上げてしまうそうです。しかし、そこに推敲はありません。
「推敲は知財の仕事」と言われればそれまでですが、人の文章を紐解くより自分で文章を構築した方が速い気がします。その場合、研究者ほどアイデアの幅は広がらないかもしれません。しかし、適切な日本語に則った文章に仕上がると思います。どうしてもトレードオフの関係になってしまいます。
研究者の方からアイデアだけは頂いて、知財側で明細書を全部かけないものでしょうか。考え中です。 -
読書百遍。入試によく出る言語学者の教育論。本を読む子供を育てたい親向けかな。
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既知のものを読む「アルファ読み」。未知のものを読む「ベータ読み」。知的な読書をするなら後者を推奨する、というのが本書のテーマ。古典や漢語といった難解な本こそ「繰り返し」素読で読む。続けられる忍耐があればベータ読みを強化できるだろう。ただ...読書に対する敷居を高くするのは読者を遠ざける気がする。とりあえず、分からなくても古典を読み続ける覚悟は持ちたいね。
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読書生活をふりかえった本。外山さんの本で中古本で売っていたのが買って読んでみました。岩波文庫は一冊読んでから疎遠であったのですが、興味がある本は読んでみようと思いました。
以前、『本を読む本』という本で「難しい本でも、とりあえず最後まで読み通す」と言ったことが書かれているのも思い出し、この本で古典や外国語文学を読むのは「険しい山を登るもの」とあったので、挑戦してみたいと思います -
『読書の方法』
外山滋比古
映画評、劇評、音楽表、書評が本当におもしろくなったら、その人の読む力は一人前になったと考えてよいであろう。(p75)
★よくわからないが、そいういうものなのだろうか? 批評自体あまり読んだことがないので分からないが。
この概知を読むのをアルファー読みと命名したい。そして、もうひとつの未知を読むのをベーター読みと呼ぶことにする。(p88)
★この本のキーワード。
アルファー語、アルファー読みは、既知、経験ずみのことから当用を弁ずるものである。それに対して、ベーター語、ベーター読みは未知を知るための言語活動である。(p102)
★さらに詳しく。ルール説明。
アルファー読みからベーター読みへの切り換えは、それに比べてはるかに重大である。放っておいても自然にできるようになるだろうと楽天的に構えてはいられない。しっかりした自覚のもとに機転をはかる必要がある。(p112)
★「知らないことを知るんだと」いうことを自覚しなければ、楽なほうに流れちゃうよということ。なにかを知りたいという目的があればわかりやすいが。
昔の人が学問をする。と言えば、漢語ときまっていた。……大学・中庸・論語、孟子(四書)、易経・詩経・礼記・春秋(五経)である。(p126)
★外山さんは他の著作でも上げていた。さすがに全ては読めないが『論語』、『孟子』は読んでみたい。
正しい解釈、解決を得るのに、「時間」が大きな働きをするのが、こういう場合でみのがしてはならないところであろう。即座の理解では、時の働く余地がない。その場てわからぬことは、あれこれ時間をかけて考える。そこで時間が加勢する。一度で分からぬ文章を何度も何度も読み返す。その間に時が作用する。時間によって、未知である対象も、わかろうとする人間も、ともにすこしずつ変化して、やがて、通じ合うところまで近づくよううになるのかもしれない。(p171)
★書いてみると印象に残る。時間の作用について、そうだなと思わせる一文。時間というのは一つのルールでもある。
たとえ、一般てきには古典とみなされていないようなものであっても、時間をかけたベーター読みにたえるならば、すくなくとも、その人にとって、それは、りっぱな古典である。(p175)
★自分の古典というのは宝物である。大切にしたいと思う。ほんとうに。
著者と読者との間には、文章の解釈について、つねにある不一致が存在する。人間はおのおの独自の世界に生きている。表現に関係づけると、その世界のことをコンテクストと呼ぶことができよう。……コンテクストが違っていれば、同じ表現について必然的に異なる解釈が生まれるはずである。意味はコンテクストから離れては存在し得ないからである。(p178)
★すると物語には統一の答えはないと分かる。また作家の意思とも違ってくるだろう。そのも一つの答えである。この「コンテクストから遠く離れて」というのは村上春樹の批評で見た気がするが……。
未知を読む読者は、たえず誤解と理解のすれすれのところを歩んでいる。よるべきものがなければ、自己のコンテクストに導かれるほかはない。未知を読むことは、しばしば、読書の自己を読むことになる。それが小さな自我でなくて、大きな人間性に裏打ちされているとき、そこに万人の認める〝発見〟がある。古典はその結晶だ。
作者は作品を生む。読者は古典をつくる。読みは、かくして、きわめて創造的でありうる。(p183)
★わかりやすく、納得もゆく。言葉は大げさだがその通り! 未知を恐れない大切さ。それが古典に繋がってゆくのは面白い。
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