読書の方法 <未知>を読む (講談社現代新書)

  • 講談社 (1981年1月1日発売)
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  • 本 ・本 (193ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784061456334

感想・レビュー・書評

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  •  外山滋比古氏逝去のニュウスを受け、追悼の意を込めて一冊。
     外山氏といへば、学生時代の教科書で出会つて以来、目に付いた著書はなるべく目を通すやうにしてきました。ところで、わたくしが教科書で出会ひ特に影響を受けた四天王がゐまして、それは梅棹忠夫・多田道太郎・本多勝一そして外山滋比古でした。それがどうしたと言はれても困りますが。
     ここに登場する『読書の方法-未知を読む』も、それまでの読書論と一線を画し、眞に示唆に富む内容となつてをります。同じ「読む」といふ行為も、既知を読む「アルファー読み」と未知を読む「ベーター読み」に分けられると指摘します。

     そもそも日本人の読書といへば、素読に代表される「修行」の面を持つものでした。明治維新以降は質の悪い翻訳も手伝ひ、分かりにくい文章を難行苦行の末読破するのが一般的だつたといふことです。「分からない」などと告白すれば沽券にかかはると思ひ、理解したふりをした人もゐたのではないか。
     それが戦後になると、分かりやすい文章がもてはやされ、楽をして読める本、読んですぐに理解できる文章ばかり読む人ばかりになつたと指摘しました。ベーター読みからアルファー読みへの転換が起きたといふことですかな。特に近年はライトノベルと称する小説が猖獗を極め、その流れに拍車をかけてゐるのでは。別段良いとか悪いとかではありませんが。

     アルファー読みの最たるものは、著書の指摘するごとくスポーツ新聞の記事でせう。スポーツ紙を求める人は、例へば野球ファンなら結果を知つた上で読む人が大半ではないかと想像されます。自分の贔屓チームが何対何で勝ち、勝利投手は誰で、決勝打を放つた殊勲者は誰で......なんて事は知つた上で楽しむのであります。まさに「既知を読む」訳です。

     著者の論調は、読者を未知を読む「ベーター読み」に導きたい思惑がアリアリで、そして一々首肯出来る主張なのですが、やはり現実には難しいのでは。わたくしもアルファー読み一辺倒読者ですが、読書の愉しみといふのを犠牲にし、多くの時間を要する「未知を読む」勉強をするには年をとつてしまつたな、と言ひ訳してゐます。
     しかし本書は刺激に満ち、好奇心を煽る内容となつてをります。「既知を読む」読書に飽き足りなくなつた若い人には、チャレンジして貰ひたい喃。なんて事を言ふと、旅立つたばかりの外山滋比古氏から「莫迦め」と罵られますな。

  •  あとがきにあるように「この本では、どういう読み方が、本当の読み方と言えるものであるか」と「われわれの精神をきたえ、真に新しい知識を獲得するにはいかなる読み方をすべきか」が述べられている。真に新しい知識を得る読み方が、ベーター読み」と呼ばれるが、実は、明確な答えは、この文章の中にはない。いやあるが、それは、読書百篇、葦編三絶、ということがベーター読みの王道ということらしい。
     ただ、ここでいう百篇というのは、必ずしも全く同じ読み方を100回しなさいということではないだろう。今回のこの本に以前に線をひいた箇所を抜き書きするだけでも、書物全体の構成が、より明確になった。他にも見出しを理解するために飛ばし読みをする、一章一章、熟読をする等々、百通りではきかない数の読み方がある。読む技術について論ずることは、まさに百回読むための読み方を示すということなのかもしれない。



    はじめに
    序章にかえてー未知を読む
    第Ⅰ部
    1 わかりやすさの信仰
    2 スポーツ記事
    3 自己中心の「加工」
    4 音読

    第Ⅱ部
    5 教科書の憂鬱
    6 裏口読者
    7 批評の文章
    8 悪文の効用

    第Ⅲ部
    9 アルファー読み・ベーター読み
    10 幼児のことば
    11 二つのことば
    12 切り換え
    13 虚構の理解
    14 素読
    15 読書百遍

    第Ⅳ部
    16 古典と外国語
    17 寺田寅彦
    18 耳で読む
    19 古典化
    20 読みの創造
    21 認知と洞察

    あとがき



    抜粋

    ・「未知を読んで既知と化する力がなくてはものを読むのは空しい」
    ・「戦争が終わって、しばらくすると、目にふれる文章が急にやさしくなったような気がした。」
    ・「それまでの日本人の間には、・・・まなじりを決してとり組み、心を込めて味読してはじめて読書と言えるのだと考えられていた。」
    ・「抽象がおもしろいものであることを知らない人間に哲学がわかるわけがない。」
    ・「実際に試合を見たか、テレビ中継を見たかしたあとで、その試合のことを書いた記事を読めば、完全にわかったような気になる。おもしろいと思う。・・・経験していない、実際はよく知らないことでも、あたかも経験し、実際を知っているように思うことは可能である。類型的経験とも言うべきものだ。」
    ・「普通名詞に比べて、よく用いられる固有名詞はいっそうつよい情緒的要素を内包している。」・・・だから小説は固有名詞が必要なのだ。
    ・「ことばは理解者のあらかじめもっているものに合わせたわかり方をする。・・・ことばは自分の既知に合わせたわかり方をする。既知がすくなければわからない。わかっていることはわかり、わからないことはわからない。」
    ・「よく、文章やことばをあるがままに読んだり解したりする、というけれども、客観的な理解は、頭では考えることができても、実際にはどこにも存在しないのである。」
    ・「声にすることができれば、それと同時に意味がわかる。音意一体、これが音読である。」
    ・「読み方の教育が、既知を読む典型である音読から始まるのは理にかなっている。」
    ・「学校の知的教育とは何か。人類がこれまで獲得、蓄積してきた文化財を次の世代に伝承する営為である。ひとつひとつ実地に伝えていては一生かかってもごく一部ですら伝えられない。文化をことばにして、濃縮し、短期間に大量の情報を教授するのが近代の教育である。」
    ・「教育はことばによって、未知の世界を準経験の世界と化していく作業である。体で知るべきことはことばだけを頼りに知る頭の理解では、本当にはわからないに違いない。知的理解は経験とは言いがたい。せいぜい準経験でしかない。」
    ・「既知を読むには文字さえわかっていればよい。ときには、その文字すら明確にとらえられていなくても、文章の見当をつけることは可能である。それに引きかえ、未知を読むのは、二重の壁がある。まず、ひとつに、ことばと文字。・・・もっと厄介なのは、もうひとつの壁だ。文字や単語はわかっているのに、なお、何のことを言っているのか五里霧中という場合である。・・・ここで、説明の手段として用いられるのがパラフレーズ(説明の言い換え)である。」
    ・「映画評、劇評、書評が本当におもしろくなったら、その人の読む力は一人前になったと考えてよいであろう。」
    ・「わるい悪文」というのは、わかりやすいことを不当にわかりにくくする文章で、苦労して読んでも得るところのすくないもの。「よい悪文」とは、必然性をもってよみにくくなっている文章で、努力して読めばかならず報いられる。」
    ・「既知を読むのをアルファー読みと命名したい。そしてもうひとつの未知を読むのをベーター読みと呼ぶことにする。」
    ・「形式的には音読を経由しているようだが、実質においては音読の読みを飛び越えて、一挙に未知を読ませるのが素読である。」
    ・「くりかえしくりかえし同じ状況に対して同じことばを使っていると、その状況がすこしずつ既知の性格を帯びるようになる。充分にしばしばくりかえされていると、ことばとそれがあらわすものごととの間に結びつきがあることがわかる(その関係が必然的ではない)」
    ・「アルファー読みからベーター読みへの切り換えは、それに比べてはるかに重大である。・・・いちばん有効なのは、文学作品、物語による転換である。」
    ・「国語教育が文学作品を扱うのは、すぐれた表現を読みとるためである。小説家や文芸評論家を育てるためではないはずだ。」
    ・「この本では、どういう読み方が、本当の読み方と言えるものであるか。われわれの精神をきたえ、真に新しい知識を獲得するにはいかなる読み方をすべきか、を追求したつもりである。」

  • 既知のものを読むことと、未知のものを読むこととは大きく異なる。
    未知のものを読むことの大切さを訴える。

  • 知らないことを読む難しさについて考えさせられる。
    読んだからといってそれをわかっているのだろうか?わかるための読書についてどうしたらよいかのヒントが得られると思う。

  • 外山氏はアドラーの「本を読む本」の訳をご担当されていますから、アドラーのほうにあたるのも悪くはないかと。

  • 日本語の明細書にはベータ読みが求められと思います。
     
    まず、明細書の技術分野に精通していないければ、不明な単語のオンパレードとなります。これは、不明語を検索すれば、ある程度解消されます。ただし、検索しても意味不明な言葉があります。その場合は、自分の知識不足、能力不足だと反省して、精進すればよいと思います。
     
    それに対して問題なのは、わかりやすく書かれていないことです。一文が長い、主語・目的語がない、表現が冗長など、挙げだしたらきりがありません。英文の直訳を読む方が、まだましかもしれません。

    唯一の救いは、「明細書の悪文を読めれば、たいていの本は読める」という自信につながることでしょうか。このくらいポジティブに望めば、悪文もかわいらしく思えるものです。


    明細書のベースは研究者の方に書いて頂いています。研究者の方は、時間を作って明細書を一気に書き上げてしまうそうです。しかし、そこに推敲はありません。

    「推敲は知財の仕事」と言われればそれまでですが、人の文章を紐解くより自分で文章を構築した方が速い気がします。その場合、研究者ほどアイデアの幅は広がらないかもしれません。しかし、適切な日本語に則った文章に仕上がると思います。どうしてもトレードオフの関係になってしまいます。

    研究者の方からアイデアだけは頂いて、知財側で明細書を全部かけないものでしょうか。考え中です。

  • 読書百遍。入試によく出る言語学者の教育論。本を読む子供を育てたい親向けかな。

  • 既知のものを読む「アルファ読み」。未知のものを読む「ベータ読み」。知的な読書をするなら後者を推奨する、というのが本書のテーマ。古典や漢語といった難解な本こそ「繰り返し」素読で読む。続けられる忍耐があればベータ読みを強化できるだろう。ただ...読書に対する敷居を高くするのは読者を遠ざける気がする。とりあえず、分からなくても古典を読み続ける覚悟は持ちたいね。

  • 読書生活をふりかえった本。外山さんの本で中古本で売っていたのが買って読んでみました。岩波文庫は一冊読んでから疎遠であったのですが、興味がある本は読んでみようと思いました。
    以前、『本を読む本』という本で「難しい本でも、とりあえず最後まで読み通す」と言ったことが書かれているのも思い出し、この本で古典や外国語文学を読むのは「険しい山を登るもの」とあったので、挑戦してみたいと思います

  • 『読書の方法』
    外山滋比古

    映画評、劇評、音楽表、書評が本当におもしろくなったら、その人の読む力は一人前になったと考えてよいであろう。(p75)

    ★よくわからないが、そいういうものなのだろうか? 批評自体あまり読んだことがないので分からないが。

    この概知を読むのをアルファー読みと命名したい。そして、もうひとつの未知を読むのをベーター読みと呼ぶことにする。(p88)

    ★この本のキーワード。

    アルファー語、アルファー読みは、既知、経験ずみのことから当用を弁ずるものである。それに対して、ベーター語、ベーター読みは未知を知るための言語活動である。(p102)

    ★さらに詳しく。ルール説明。

    アルファー読みからベーター読みへの切り換えは、それに比べてはるかに重大である。放っておいても自然にできるようになるだろうと楽天的に構えてはいられない。しっかりした自覚のもとに機転をはかる必要がある。(p112)

    ★「知らないことを知るんだと」いうことを自覚しなければ、楽なほうに流れちゃうよということ。なにかを知りたいという目的があればわかりやすいが。

    昔の人が学問をする。と言えば、漢語ときまっていた。……大学・中庸・論語、孟子(四書)、易経・詩経・礼記・春秋(五経)である。(p126)

    ★外山さんは他の著作でも上げていた。さすがに全ては読めないが『論語』、『孟子』は読んでみたい。

    正しい解釈、解決を得るのに、「時間」が大きな働きをするのが、こういう場合でみのがしてはならないところであろう。即座の理解では、時の働く余地がない。その場てわからぬことは、あれこれ時間をかけて考える。そこで時間が加勢する。一度で分からぬ文章を何度も何度も読み返す。その間に時が作用する。時間によって、未知である対象も、わかろうとする人間も、ともにすこしずつ変化して、やがて、通じ合うところまで近づくよううになるのかもしれない。(p171)

    ★書いてみると印象に残る。時間の作用について、そうだなと思わせる一文。時間というのは一つのルールでもある。

    たとえ、一般てきには古典とみなされていないようなものであっても、時間をかけたベーター読みにたえるならば、すくなくとも、その人にとって、それは、りっぱな古典である。(p175)

    ★自分の古典というのは宝物である。大切にしたいと思う。ほんとうに。

    著者と読者との間には、文章の解釈について、つねにある不一致が存在する。人間はおのおの独自の世界に生きている。表現に関係づけると、その世界のことをコンテクストと呼ぶことができよう。……コンテクストが違っていれば、同じ表現について必然的に異なる解釈が生まれるはずである。意味はコンテクストから離れては存在し得ないからである。(p178)

    ★すると物語には統一の答えはないと分かる。また作家の意思とも違ってくるだろう。そのも一つの答えである。この「コンテクストから遠く離れて」というのは村上春樹の批評で見た気がするが……。

    未知を読む読者は、たえず誤解と理解のすれすれのところを歩んでいる。よるべきものがなければ、自己のコンテクストに導かれるほかはない。未知を読むことは、しばしば、読書の自己を読むことになる。それが小さな自我でなくて、大きな人間性に裏打ちされているとき、そこに万人の認める〝発見〟がある。古典はその結晶だ。
     作者は作品を生む。読者は古典をつくる。読みは、かくして、きわめて創造的でありうる。(p183)

    ★わかりやすく、納得もゆく。言葉は大げさだがその通り! 未知を恐れない大切さ。それが古典に繋がってゆくのは面白い。

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著者プロフィール

外山 滋比古(とやま・しげひこ):1923-2020年。愛知県生まれ。英文学者、文学博士、評論家、エッセイスト。東京文理科大学卒業。「英語青年」編集長を経て、東京教育大学助教授、お茶の水女子大学教授、昭和女子大学教授などを歴任。専門の英文学をはじめ、日本語、教育、意味論などに関する評論やエッセイを多数執筆した。40年以上にわたり学生、ビジネスマンなどを中心に圧倒的な支持を得る『新版 思考の整理学』をはじめ、『新版 「読み」の整理学』『忘却の整理学』(ちくま文庫)他、『乱読のセレンディピティ』(扶桑社)など著作は多数。

「2025年 『新版 知的創造のヒント』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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