ケネディ―勇気と決断の大統領 (講談社火の鳥伝記文庫 (43))

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  • Amazon.co.jp ・本 (181ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784061475434

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  • 「道はけわしい。だが、われわれは新しいフロンティア精神で、ともに前進しようではないか!」

    43歳でアメリカ大統領に選ばれた、ジョン=F=ケネディは若々しい声でそう国民に呼びかけた。皆さんもご存知の通り悲運の大統領、ケネディ。暗殺された時、全世界の方々が泣いたというのだ。そんな日本人も少なからずいただろう。そこでこのブログでは、彼の生い立ちから暗殺されるまで、抜粋して紹介したいと思います。

    彼の母親はしつけが厳しく、昼食の時間を守らなかったジョンは昼食にコーヒーとプリンだけしか与えられなかった。お腹が空いてたまらなかったジョンはお手伝いさんに、バター付きのパンをねだる。彼の母親はそれを知っていたのですが、ジョンは痩せすぎていたので看過したそうだ。

    ジョンは本好きで「アラビアン=ナイト」「宝島」「シートン動物記」などを読み漁った。「兄さんのジョーは、立派な政治家になるといっている。それなら、僕は新聞記者になりたい」とベッドから天井をにらんで考えた。

    そんなジョンは「賃上げ」を父君に交渉している。それはボーイ=スカウトになったのでどうしても、お小遣いが足りず30セントの値上げを要求している。利発な子供であったジョンはそれを手紙にして、お父さんの机の上に置きました。そんなお父さんは「ふふん。」と笑って裏に「OK」と書いて快諾したとのことだ。

    そんなジョンは高校を卒業した後、父から「大学へ行く前、イギリスで社会学を学んできなさい」と言われた。承諾したジョンははりきってロンドンに行くのだが、すぐに黄疸になりすぐ戻ってきた。大学もプリンストン大学からハーバード大学に代えた。

    そんなジョンに転機が来る。彼のお父さんがイギリス大使になったので、ロンドンに来てヨーロッパの国々の情勢を調べてくれとの依頼を受けるのである。

    かれは早速、フランス・ポーランド・ソ連・バルカン諸国などを回った。そこで彼は直観的に「どの国も重苦しい空気に包まれて、戦争の起きる前触れみたいなものがある」と感じ、その旨をお父さんに報告したのだ。

    その後ハーバード大学を卒業するのだが、その直前に書いた「イギリスはなぜ眠っていたか」という論文で、洛陽の紙価を高めることになった。つまりこの論文はイギリス女王や、イギリス首相チャーチル、アメリカ大統領ルーズベルトの間で絶賛された。
    ケネディはアメリカが第二次世界大戦に巻き込まれると、海軍に入隊した。そこでまたスタンドプレーをするのだ。すぐに戦場に出してほしいと頼むのだ。果たしてその願いは叶えられ、PTボートと呼ばれる魚雷艇109号の艇長になった。

    彼は魚雷艇を指揮して、ソロモン諸島に赴いた。ある日、日本軍の駆逐艦を発見する。魚雷を発射しようと近づくと、日本の駆逐艦に体当たりをされる。その結果、PT109号は真っ二つに引き裂かれたが、生き残ったケネディを中心とする十一人は、ケネディのリーダーシップにより無事生還する。アメリカ海軍は彼を称えて彼に名誉勲章を与えた。

    戦争の終わったケネディは小さいころからの夢である新聞記者を志望する。そしてニューヨークで見事職を得る。しかし、なぜだかしっくりこない。ニュースを報道するよりも、ニュースを作る立場になりたいと思い始めた。兄のジョーを戦争で亡くしたケネディ一家は特に父親がケネディに政治家になって欲しかったのである。そこでケネディはマサチューセッツ州の選挙区で下院議員の選挙に立候補する。

    しかし、世間の人がケネディに向けたのは嘲笑であった。「ケネディが下院議員に立候補した?あの選挙区は貧しい人の選挙区だ。金持ちのおぼっちゃんのケネディなんか勝てっこない」

    ケネディは選挙戦で所謂「どぶ板選挙」をする。とにかく自分の意見を聞いてもらおうとどんな所へでも、赴き言った。「私が下院議員になったら、皆さんの住まいを作るように政府に働きかけます。失業時のセーフティーネットも作ります」

    これは有権者の心を打ったようで、選挙区民は「うーん。ケネディは若いが、なかなか真面目だし、信用がおけそうだぞ」との評判を得る。その結果民主党の予備選挙で一位。そして共和党の候補との本選挙でも、ゆうゆう勝って下院議員に当選した、ケネディ29歳の時である。

    ケネディの下院議員時代は、民主党の党員でありながら、党で決めたことであっても、自分が正しいと考えないことは、党の方針に従わなかった。党の事よりも自分が選挙区で約束したことを守ろうとしたのである。

    その結果「ケネディ議員は勇気がある。それに正しい発言だ。我々の事を心から心配してくれている!」とか「頑張れ、ケネディ議員」などと、激励や褒める手紙や電話が多数押し寄せた。

    下院議員を三期務めたケネディはここでマサチューセッツ州の上院議員になろうと志す。選挙戦では議会のあるワシントンから週末にはかならず戻ってきて、工場・学校・教会・婦人クラブなどで演説をした。州内の全ての市や町をまわった。

    この選挙戦では戸別訪問が認められていたので、兄妹の多いケネディには有利であった。そんな時あるエピソードが全米中で話題になる。太平洋戦争で彼の魚雷艇を沈めた、駆逐艦の船長がケネディに応援の手紙を送ったというのだ。

    「あの海戦の時には、あなたの勇ましい活躍により、艦の人たちが助かったと聞いて私はとても感心して、尊敬しております。そのあなたが、上院議員に立候補したとのこと。成功を祈っています」

    この手紙が新聞に発表されると、ケネディの評判はうなぎ登りになり、選挙も相手に7万票もあけて当選した、というのだ。この時ケネディ35歳。

    その前後かつてから交際していた女性と結婚することになるのだが、持病の背中の傷がまた痛みだしだのだ。命がけの大手術を終えて、フロリダの別荘で養生しているとき、ケネディは名案を思いついた。

    「じっとしていたら、頭がボケでしまう。この機会に、アメリカの偉大な上院議員の伝記
    を調べてそれを本にしよう」というものである。

    そこで8人の上院議員を取り上げ「勇気ある人々」という題にして、本にしたのだ。これは凄く好評でピューリツアー賞まで受賞した。「ケネディ上院議員は、政治家だけれども文章も大したものだ」と議員からは拍手喝さいを受けた。

    この辺りから、ケネディを大統領にしようとする考えが民主党内で起こる。「彼の若さが必要だ」「でも40そこらだろ」と喧々諤々の議論になった。

    1960年、ケネディは民主党からついに大統領候補として立候補する。相手はリチャードソン・ニクソン。前評判はニクソンの方が有利。ところがテレビ討論会で若さと頭脳の良さを前面に押し出した、ケネディのほうがアメリカ国民に受けてくる。その結果大接戦の上ケネディはニクソンを抑えて第35代の大統領に選ばれる。43歳の若さである。

    そこで有名な演説である。「わが国民の皆さん。皆さんはこれから国家が皆さんに何をしてくれるかを考えないで下さい。そうではなくて、あなたたちが国家のために、なにをすることが出来るか考えてください」「われわれは世界の国々にも訴えます。アメリカが皆さんの国になにをしてくれるかを考えないで欲しい。人類の自由のため、戦争をなくし、軍備をすくなくするためには、どうしたらよいかを一緒に考えてもらいたい!」と演説は締めくくられた。

    途端に、「ウオーッ」という大拍手。感激して泣いている人もいた。彼の母親もその一人だった。

    ケネディはアメリカの国内政治も大事だと思ったが、世界の平和のためフルシチョフ首相に会って二人でゆっくり話し合いたいと考えていた。フルシチョフ首相も快諾。二人はオーストリアのウィーンで会談した。

    お互い「人類に為に戦争を避けるよう努力しましょう」「賛成です。お互いがどんな人かわかっただけでこの会談は成功ですな」と二人は和やかな顔で本国に帰った。

    1963年11月22日。ケネディはテキサス州のダラス市へ赴いた。来年の大統領選挙の為だった。およそ5千人の市民が空港に集まり、ケネディを迎えた。

    ケネディはオープンカーに乗り、ダラスの街の中に入っていった。午後零時30分前、車は坂を下りて、ビルの角を回ろうとしていた。その時、不気味な鈍い音がした。銃声が3発続いた。途端にケネディの顔がゆがんだ。次の瞬間、頭がかくんと力なく傾いた。

    「オーノーノー。ああ神様。。。。」ジャクリーン夫人の悲鳴が上がった。ケネディ大統領は鉄砲で狙い撃ちされたのだ。三発の弾丸はケネディの頭と首・胸を貫き、そしてもう一発はコナリー州知事の背中に当たった。ケネディは全速力で病院に運ばれたが、息を引き取った。

    「ケネディ大統領が暗殺された!」このニュースは世界中の心ある人々に涙をもたらした。フルシチョフも「ああ、話の分かる政治家をなくしてしまった。まったくおしい。世界のために惜しいことだ。」

    11月25日、ジョンソンが新しい大統領になり、ケネディの葬式はワシントンでしめやかに行われた。棺は教会にまつられた後、アーリントンの丘の墓地に運ばれた。

    葬儀に参列していた母親が言った「ジョン、あなたはアメリカを代表する大統領になりました。素晴らしい一等よ。それなのに、もういなくなるなんて。。。。ジョン、もう会えないのね」とお母さんが呟くと「なんだい。僕がいなくちゃ、生きていけないのかい?出来る限り笑顔を見せてよ、母さん?」とまるで言っているようだったそうだ。

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