ジョークの哲学 (講談社現代新書 857)

著者 :
  • 講談社
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  • Amazon.co.jp ・本 (243ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784061488571

作品紹介・あらすじ

祭りの打ち上げの料亭で。「お繕は喧嘩の前に出しますか、後に出しますか」転んで起き上がったら、また転んだ。「いまいましい。起きるんじゃなかった」レトリックやメタファーの分析で見えてくる、「とは」「存在とは」「時間とは」?ジョークは人間真理の哲学である。

感想・レビュー・書評

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  •  笑いネタ、とくに「うまい」ものであればあるほどその解説を詳しくしてしまうとシラけてしまうことが多い。しかし、そこを我慢して分析してみないことには「笑いの仕組み」を理解することはできない。本書はそんな葛藤を抱きつつ「笑い」についての考察をする。

     「ジョーク」はそれを創ることにも味わうことにも予備知識がいる。逆に言えば、おもしろいジョークを言えたり、あるいは他人のジョークに吹き出したりすることができれば、自分の引き出しが形成されていることになる。理屈抜きの笑いというものもあるが、そのカラクリには人間の深層心理が関わっていることは想像に難くはない。「笑う」ということは、個人あるいは、民族や集団の精神性を表面化するものなのだろう。微笑、苦笑、爆笑、軽蔑の笑い、幸せの笑い、どんな種類の笑い、もっと広くは人間の表情というものはそうした現象なのではないかと思う。

     それなりに古い本なので、全体的にジョークは寒いものが多いような気がするが「笑う」ということに対する本質はよく理解できる。そもそも「ジョーク」と呼称されてきた言葉の数々は「おもしろい」ものもあるが、「うまい」というものも多い。政治、経済、化学などの分野から専門性の高いジョークがそうしたものであるが、こういったものに触れることによってその分野の雑学も獲得することができるのは、本書のちょっとした副次効果だろう。著者自身も各分野に触れるたびに提示している個人的な見解もおもしろい。

     「笑い」「ジョーク」といったものは「おもしろい」では完結しない深い構造と意義があることに気づくと、世の中の物事をもっと楽しめると思う。

  • ジョーク、笑いについて分析した本です。

    後書きに当たる最終章に「実存主義の哲学が切り拓いた「不条理」の概念と、ジョークの意味論的な分析をつなげてみることが、本書にかけた哲学的な狙いである」と書かれており、笑いの本質に迫るような深い洞察がときに見られますが、多くはレトリックやメタファーの観点からジョークの分類と分析をおこなう議論になっています。

    ただ、ジョークについてなぜおもしろいのかを解説してもあまりおもしろくないという当たり前のことを確認させられたような印象もあります。

  • どう哲学に絡んでいるのかはよく分からなかったけど、ジョークの数々は面白かったです。古今東西ジョークは普遍的なのね。

    確かにジョークのなにが面白いのか、どこで笑うのかは不思議だ

  • シニフィアンのシニフィエへの優位(ラカン)
    →ダジャレや韻 アイゼンハワーの勝利 I like Ike.

    視覚的なイメージで情報を伝えると忘れない。
    人間の目の受ける情報は1秒に百万ビットであるが、脳の情報処理能力はせいぜい百ビットだから。
    例)唐傘をさして踊りながら行ける道。→とても、すごく、最高に、信じられないほど、歩き良い」と、機械的、量的に誇張しても、歩き良さのイメージは何も伝わらない。

    誇張とは本来は程度の量的、アナログ的=連続的な拡大なのだが、拡大が度を過ごして飛躍、断絶、意外性を作り出すところからジョークになる。誇張の論理はアナログ+デジタルである。
    自慢話というものは、常に誇張を含むものである。その誇張を誇張して、極端な、現実にありえない次元にまで拡張するからジョークになる。
    ジョークにしやすいもの。自慢、ケチ、粗忽(そそっかしさ)、典型的な性格(国民性、職人気質、スポーツマン気質)
    漫画の誇張が面白いのは、誇張が連続の次元、すなわちアナログの次元を超えて、別の次元に飛躍するからおかしいのである。機械的な誇張(すごい、とても)そのものが誇張されている。
    表現とは元々比喩である。「太陽がオレンジ色だ」と言うときにすら「太陽はオレンジのようなものだ」という比喩が働く。実際の太陽はオレンジほどにはオレンジ色ではない。比喩はすべて誇張なのである。「心が石のように重い」と言う時、軽石のことを考える人はいない。誇張を誇張して非現実性がむきだしになるところから、ジョークが生まれる。たとえば広告の教科書にあるように、太陽を絞ってオレンジジュースを作るという画面では、「太陽はオレンジ色だ」という比喩を、「太陽はオレンジそのものだ」という非現実にまで、誇張したことになる。「心が石のように重い」を誇張すれば、「心は重い石そのものである」となる。直喩を暗喩に換えて、即物化する。橋の上で女が男に決別を言い渡して、立ち去る。失恋した男のハートが割れて、割れたままに重くなる。橋が沈み、男は川に落ちる。川に沈んだ男は川底をひび割る。川の水は流れて干上がる。男はひび割れた地面に横たわる。誇張を誇張して非現実にすれば、ジョーク、漫画、ギャグになる。
    うまい誇張をすることは、うまい表現をすることにつながる。それにはまず、「スゴイ、トテモ」といった単純な機械的誇張、「最も、最高、一番」というような最上級の表現を使わないことである。つまり、誇張をアナログの次元にとどめないことが重要。
    同一形式は同一内容という杓子定規 ex.与太郎、子供、火星人
    比喩=文字通り受け止めるとナンセンスになってしまう言葉→比喩をそのまま解釈すればジョークができる
    子供や与太郎は、状況によって変わる意味、比喩的な意味、数の表現などを、機械的、即物的に解釈して、表現と物との落差を際立たせる。→直接的理解による取り違え(似ているもの=同じ物)
    行為を全く即物的に見る異なる目を存在させれば、ジョークになる。
    「意味のあるもの=意味のないもの」→「意味のある行為=物としての則物性」すなわち「物に還元すること」でジョークが成り立つ
    擬物法 物でないものを物として表したとたんに、物としての性格が一人歩きを始める。数的でないものを数で表現したとたんに、数に固有の性格が一人歩きして、物とその表現との取り違えを作り出すのと同様
    ex.「お前の根性を叩いて、伸ばして、薄くして、細く切って、いい味付けをしたら、ソバに置いてやる」
    ここからジョークまではあと一歩。既成の極り型の比喩から脱却して、比喩としての物が、単に物として完全に一人歩きするとジョークになる。
    「映る」や「写る」を「移る」に擬物化すれば、漫画がジョークになる。

    誘導による思い込み「てっきり..だと思い込む」→意外性の出現→意外性の解決
    誘導としては型通りのもの、半ば約束となっている偏見、名場面の模倣、性欲のような典型的な欲望、単なる同一場面の反復、

    擬数法 お金で測れないものをお金で始末をつける、物が価値と価格を持つということが本来は比喩に過ぎない、車を1台盗んで3年の刑、2台盗んだら4年の刑。ずいぶん値引きするもんだな。
    取り違えの原因の一つ=言葉の多義性
    期待を型通りのものに向けて誘導すれば、相手に早とちりを犯させることもできる。

    異なる対象への同じ関係(類比)のずらし→4項目構造を3項目構造に
    類比によって次元の違うものを関係づける。それは類比が分類枠を超越する同一性という性格を持っているから
    「同じ」という言葉は分類の仕切り枠を超える ex.「同じ関係」「同じ実体」
    おかしさの根源は、形式と内容のコントラストそのものにある。
    例)「あら、奥様、どこへいらっしゃいますの」「いいえ、もう行って参りましたのよ。美容院に」「あら、これから美容院に行かれるのかと思いましたわ」
    「美容院に行った」「これから行く」かという型通りの平凡な対話が「美しい」かどうかについての女の闘いを表現するからおかしい。
    おかしさは、「形式的に正しいものが内容的に正しくない」というコントラストの成立にある。
    うがちの面白さは、うがちの内容にあるのではなく、表現の仕方、コントラストの設定、考えオチの仕掛けにある。
    型通りのオチが来ると思わせておいて、「上には上がある」という意外さに持ち込むと、ジョークが一段と冴える。
    他人について語ることが間接的に自分について語ることになる関係の文脈で、他人を自分と関係ないもののように語れば、ジョークができる。
    ダブルバインド(異次元の同一)
    現実に一方向である関係を、双方向な関係に置き換えてみると、我々は現実そのものに距離を置いて反省することができる。
    全体と部分が対等になる言葉遣いが存在する。全体を指示する部分と部分にすぎない部分との間に「取り違え」を作ると、ジョークになる。

    ジョークの笑いは、優越感の表現として生まれるのではなく、存在と表現の必然的な格差から生まれる。
    ジョークの笑いは、物と表現の「同一と差異」を両方使い分けなくてはならない人間の故意と約束による「取り違え」
    平凡な形式に平凡ならざる内容というジョークの定石
    平凡な形式に無意味な内容というコントラストを作ろうとすれば、耳や目の不自由な人を登場させるのが一番てっとり早い
    バナナの皮に転ぶというのは、転ぶ人を笑うのではなくて、儀式ばった形式と滑って転ぶという内容のコントラストがおかしい
    笑いの原因は一つではない。くすぐられても笑う。軽蔑、卑下、当惑、挨拶、共感、満足など、笑いの原因は多様である。ジョークはその中で、意味論的な笑いという部分を占めるが、他の種類の笑いとの「取り違え」もまた、笑いの本質に含まれる。

  • なんか、わかりにくい。

    ギャグが古風で、どこで笑えばいいのかよくわからないものばかりで、途中で飽きた。

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著者プロフィール

京都退学名誉教授

「2012年 『科学・文化と貢献心』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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