- Amazon.co.jp ・本 (208ページ)
- / ISBN・EAN: 9784061489141
作品紹介・あらすじ
男の思考型、女の感情型。新人類は直観型、感覚型が目立つ。外向・内向の心の構えに思考・感情・直観・感覚を組み合わせたユングの理念型を紹介し、自己分析の指針を示す。
感想・レビュー・書評
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あの分厚い『タイプ論』のエッセンスを取り出して、
新書1冊にまとめた著者の力量に感謝。
ほぼ原文のままの箇所もおおいが、
逆に現代の人物を例に挙げている箇所もあってわかりやすい。
性格判断のルーツともいえる『タイプ論』で、
今や書店に行けば性格について大量の書籍が並んでいます。
自分はこの一冊だけは手放せません。詳細をみるコメント0件をすべて表示 -
学部に入学した年に、最初に大学で借りた本がユングの「タイプ論」だった。卒業の年数を超えて、この本を読むべきだという衝動に駆られ、半年ほどかけて読了した。私にとって、この本はユング心理学の入門書だと個人的に思っている。「タイプ論」はユングの最初の著作であるし、河合隼雄ほどではなくても。著者もユング派で有名な人物だと聞く。侮るなかれ難解な本だが、1988年という時代背景が反って冷静な観察を読者と本との間に与えてくれるように思う。「タイプ論」に挫折した方はぜひ。
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外向・内向にくわえて、思考・感情/直観・感覚と別れる。
で、自分がかなり外向型と気付いた。たぶん、外向直感型。
<i><span style="color:#0033ff;">P192(ユングが占星術や、タロットカード、あるいは易のような伝統的な占いに興味を持った。それは)もし、自分の心の全体像である自己に接近するすることができれば、それと現実の状況とのかかわりを通して、物事がどう流れているのかを、ある程度察知することもできるかもしれない、というのがユングの考え方である。
P196 病気や事故、とくに精神的な不均衡に要る問題は、それ自体が必ずしも悪いことばかりとは言えない。それをきっかけに、停滞している人間のエネルギーを、なんとか動かさなければならなくからで、(略)病気や問題を持ち、それを解決しようとするところから、自分を超えるものの存在を自覚し、大人になっても人間は成長することを知る人も多いからである。
病気は神が授けるものであり、心的なものの介在とその自覚によってはじめて治癒されるという様な、古代からの考え方は、ここに由来している。
</span></i> -
ユングが言わんとしていたことを正確に伝えているか、という点で大きな疑問が残る。性格分類を現代風にわかりやすく伝えようとしているのだろうが、例えにはやや偏りが感じられる。
個人的な感覚ではあまりおすすめは出来ない。 -
ユング心理学は頭が良いからといって学生の若さでは理解不能だと思います。彼を知るのは彼同様の人生経験、体験が必要でしょう。つまり多くの人には理解しがたく、穿った解釈になるのは仕方ない。タイプ論は非常に役に立つ性格理論と思います。なんでも自分の枠にはめるのは他人の為になるとは限りませんね。
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性格分析などというタイトルがついている少々怪しくも感じる。心理学と銘打たれているものはどれもこれも怪しいものが多いのである。そこにスピリチュアル要素が絡んでいたりする。その切欠をつくってしまったのはユングなのかもしれないし、日本でユングを広く紹介したこの秋山さと子さんにもその責があるのかもしれないが、しかし、本書を読み進めていく内に、ユングの性格分析というやつはあくまで治療の一環であり、なおかつ、本人が自分を理解するための一つの手法だと知れる。世間に溢れているような胡散臭い分析ではなくて、いくつかの分類をつくり、その分類を基に自己理解してみなさいといった具合なのである。
ここでユング心理学への評価ががらりと変わる。集合的無意識や、神話などを用いているユングは少々胡散臭く感じるかもしれないが、それはあくまで説明次第なのである。ユングは、外向、内向、感情、思考、感覚、直観の六つを用いて、計十六の性格を規定している。しかし、その規定は一様ではない。全体としての傾向はあるものの、それを元にして自分なりの性格をつくりあげればいい。このときに下手なプライドを捨てて自分に忠実にならなければならない。そして、自分の成長過程を思い浮かべる。その結果、自分が何を犠牲にしてきたか、あるいは、どの部分を成長させてきたかなどが理解できる。そのあたりはすこぶる面白くもあるし、自己理解に役立つ。そして、自己理解の後には自己を否定したり、自分と異なるパーソナリティに憧れたりするではなくて、自然と成長させていけばよいのである。「自覚」することによって人間ってやつは成長していくのに違いなく、この性格分析は「自覚」するための一助なのである。
さて、ではユング心理学の本旨は即ち、自分の個性を理解し、そうして、自分が無意識的な部分に持っている個性=コンプレックスを意識するべきであるということである。そのことによって、自分という個性は広がるし、他者を理解する力もついていく。あくまで自分は自分でありながらも、他者を受け容れられるようになれば、その自分こそある種の強固な存在となりうる。個人的には強くはなりたくはないのだけれど、趣旨には賛同できる。ユングは意識的な部分を「自我」と呼び、そうして無意識的な領域まで含めて「自己」と定義している。すなわち、自我は現在的な自分そのものだが、自己は無意識的な可能性まで含めての自分なのである。逆に言えば人はありとある可能性を内包しているわけで、しっかりと自分さえ理解すればその可能性を得ることも可能となってくるのだろう。つまり、自我=主観であり、自己≒客観≒無意識なのだろう。ここでいう客観とは平素使われる客観とは≠であり、意味合い的には、「自分を俯瞰できるけれど、自分では認識できない部分」とでも解してもらえればいい。つまり、自分が自分を見るときの客観と言うのは、そこに、「主観的解釈」が加わっているので、本質的にはそれは客観とは言えないのである。なので、逆に言えば本質的な客観が存在するとすればそれは認識されてはいけないのである。となると哲学的かもしれないが、ここに「客観的存在である無意識」が成立する。この無意識によって人間は操作されているのではないか?そしてここには自我以外の可能性が含まれているという意味でありとある可能性が内包されていることになり、逆を言えば自我を知ることで無意識に内包されている可能性を間接的に知ることができる、これがユング心理学の真骨頂なのではないかと感じる。言うなれば、その後の集合的無意識論やアニマアニムス論、神話などからのエッセンス抽出などは認識できないものに対してのユングなりの努力であって、その部分ばかり見てユングを批判するのはナンセンスで、その前の部分を知ることこそがユング理解に有用だろうと思われる。 -
4061489143 207p 1994・8・26 15刷
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もっと時間かけてじっくり読みたかったなあ。
哲学とか心理学とかは興味あるんだけど難しいです。
著者プロフィール
秋山さと子の作品





