日本の風景・西欧の景観 そして造景の時代 (講談社現代新書)

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レビュー : 17
  • Amazon.co.jp ・本 (190ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784061490079

作品紹介・あらすじ

ヨーロッパ近代が生んだ遠近法と中心がたえず移動する日本特有の空間。視線の差異の発見と再発見、野性空間・田園・都市における風景観念の比較を通して、主体-客体2元論たる近代景観論の解体を論じ、ポスト・モダンの風景=を予見する。

感想・レビュー・書評

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  • 日本において都市というものは、自然との融合、一体化ということを意識して構成されてきたのに対して、西欧における都市とは、いわゆる公共空間であり、市民が集い、交わる場所を中心として構成される、と著者は説く。なるほどと思う一方、その日本でいう自然という概念も、人間の意識のなかで再構築されたイメージとしての自然であり、あるががままの自然ということではない、というのだ。
    非常に難解ではあるが、風景にしても景観にしても、人々が生活や歴史、宗教などの文化のなかで育んできたものであることには違いなさそうだ。

  • 「日本の風景」と耳にしたときに心にうかぶ「原風景」とはなにか? なぜその風景を想起するのかというあたりを解いていておもしろい。

    そうした原風景の話ともう一つ。たとえば田園風景をみて、美しいと感じる感覚は社会的に構築されたものではないか、という説なのだけど、こういう説はたのしい。

  • 日本だいすきフランスおじさんの日本文化論。小難しいけど、読み終えた後の納得感が半端ない。そして読み終えた後、自分の日本文化に対する知識のなさに恥ずかしくなる。

  • 恐らく,修士課程に入学した頃に読んだ,講談社現代新書の1冊。ベルクはフランスの地理学者だが,日本通で日本では地理学以外の人が翻訳をしているし,日仏会館などで講演していたりする人物。通常,こうした翻訳文献というのは原語での出版物があり,翻訳される。日本語版には原著の書誌情報や訳者あとがきなどでの解説などがあるが,本書はそれが一切ない。日本語出版のために書き下ろして,翻訳したのだろうか。

    序論
    第一章 人類学的共通基盤
    第二章 視線とその変化
    第三章 発見と再発見
    第四章 野生の空間から自然の風景へ
    第五章 田園から田園風景へ
    第六章 都市から都市風景へ
    第七章 風景の彼方へ――造形の時代

    大学院生時代に読んだ頃はひどく難しかった気がする。その一方では,風景=日本,アジア的なもの,風景=西欧的なものというかなり単純な二項対立の印象を与えるようなタイトルは本質主義的だ。日本は自然と共存し,西欧は自然を支配してきたという神話にもつながりかねない。春になって,早稲田大学でまた景観・風景に関する講義が始まったこともあって,改めて読み直してみた次第。
    今回読んでみると,難解に思われる箇所はほとんどない。しかし一方では,本文の語り口は非常に慎重で(といってもある意味大胆だが),本質主義的な側面はあまりない。日本の自然観や風景観は明治期以降,西欧の影響を大きく受けているし,かといって一方的に西欧的なものに置き換わっただけではなく,逆に日本的なものが芸術分野を中心に「ジャポニズム」として西欧に新しい風景観をもたらしたことも指摘されている。
    第四章,第五章の主題の語り方もけっこう社会構築主義的なものだったりする。多方面にめくばりしていて,さすがこの人は抜け目ない。私は2013年に景観・風景に関する論文を書いているが,本書を再読しなかったことは片手落ちだったかもしれない。まあ,そういいながらも字数の関係でベルクの他の著書に関する言及部分は最終的に全て削除したのだが。まさに本書も彼の他の著書に劣らず(分量は少ないが)博学的で,読者にものをいわせない雰囲気がある。とはいえ,あくまでも話を日本と西欧に絞っているため,通読すると両者を対立的に描いている感じは残ってしまう。

  • 面白い。
    「眺望/隠れ家」は印象的な概念。ほかにも、「ある領域の所有の魔術的確認」「見立て」等。
    興味深かったのは、「日本式庭園もフランス式庭園も、人間の考え出した自然というのをそれなりのやり方で表現しているにすぎない」という一節。その過程で発生してきたコントラストを、過大に評価しすぎだという指摘にはハッとさせられた。

  • 名著でしょ? いま入手できるのどうかは知らない。

  •  山や川などの自然、レンガ造の街並みや高層ビル群などからなる都市。風景といっても様々な解釈があると思う。しかし本書を読んで気づくのは、現代人が見る風景というのは、前近代の人々が見ていたそれとは全く異なる性質のものであるということだ。

     自らの周りに当たり前のようにある「環境」を特別視する意識を持つようになって初めて、風景という概念と環境に対する審美眼が生まれたと筆者は指摘する。例えば西欧においては農村の住人は彼らの住む地域を「風景」として認識することができず、逆説的に田園≒農村の風景はそれらを第3者的な視点から眺める「都市」によって発見されたとしている。更に西欧文化の中心である都市では、都市をひとつの家のようなものと考える価値観から、統一された都市が作られた。それが近年の近代化に伴う均質化によって初めて、「統一された街並み」という概念が生みだされたと指摘している。
     一方で日本には古来より自然を題材にした俳句や絵画などの嗜みがあった。これは日本が伝統的に自然を特別視=客観視してきたことを意味し、自然を風景として指向する概念が受け継がれていたということを示す。逆に都市のような人工空間においても自然を求める傾向は強く、ここの住居に庭を作るといった手法が採られてきた。そこへ西欧都市による「街並み」の概念が持ち込まれ、自らの自然志向を相対化してしまったのである。結果、日本の都市は総体としてみたときに「まとまりに欠ける」というレッテルを張らざるを得なくなった。
    つまり「風景」が発見されるには自らが主体的に関わる「環境」を客観的にみるきっかけがあったということだ。

     近代化によって世界が狭まり、写真や想像の世界も含めれば、地球上のあらゆる「環境」を風景として知覚することができるようになった。いうなれば身の回りのあらゆる環境に対して”どの程度の距離を持って主観的・客観的に関わるか”ということが測りづらくなっているといえる。だから高層ビルや「~風」といった見かけのデザインと場所の関連が希薄になってきている。「造景の時代」というのは読んで字のごとく、あらゆる風景をイメージとして網羅してしまった現在に新たな風景概念を作っていく試みに他ならない。

  • 著書は論文にして小説でありぽんぽんと論が展開されていく。言葉自体は平易なのだけれど、そこに描かれている本質は少々難解である。著者の頭の中では既に公式のようなものが出来上がっているのだろうが、それについていける読者はあまりおらず、この人は一つ一つの論点に対して頁を裂かずに早足で駆けていってしまうという印象をものではなかろうか?そして、それでいて文字自体は頭をすり抜けていく、これは少々村上春樹に近しく感じられ、ここで村上春樹が出てくること自体に困惑するが、彼は散文を好むようであるし、意外とこうしたところに彼の元型があるのかもしれない。

    さて、著者は風景は主観の塊であるとしている。そして、風景とは別にして元風景という概念を提唱している。元風景は実際の風景とは異なり、風景が持つ本質のようなものである。それゆえにそれは風景であって風景とはなりえない。見え方というよりは存在や実存というと元風景の性質を説明しやすいのではないかと感じられる。また、元風景はそこに普遍的な性格を持ちうるという意味で外界に遍く集合無意識とも言える。逆に風景は必ずそこに主観が混じりうるので、風景という概念は往々にして都市部から生まれそれが田舎へと広まっていくのだと著者は考察している。西欧の庭と日本の庭とを比較すると、線と面、遠近法や幾何学に対して非線形や非対称などが日本の特徴として挙げられる。しかしどちらもそこに自然を模しているという意味合いにおいては同一なのである。結局のところ両者が捉える風景が異なりそこに主観が介在しているということをこの明瞭な差異は証明しており、実際にはどちらが自然に近しいなどといったことは比較できないのだと著者は述べている。だが、著者は西欧は風景を見出さずに生活を営んできたのに対して、日本は早くから風景と重なり合った生活体系を築いてきていると論を展開させている。これは日本人からするとすんなりと理解しやすいのかもしれない。西欧建築は壁であり、壁は家と自然との断絶を意味しているが、日本においては壁という概念は近代的でありその間にあるのは壁というよりは膜といったほうが近しかったのだろう。それゆえに自然との間に断絶が少なく自然とは親和的でありここに自然=風景を盛りこもうとしている日本人の無意識的な姿勢が感じ取れる。逆に西欧ではそのような試みはガウディによる表現主義などを待たねばならない。


    ちなみに著者はポストモダンを超克する鍵が、主体の客体化であるとしている。西洋ではデカルト以降の心身二元論により、風景に関しては主体による視線が意識されず客体の観察にばかり力が注がれており、逆に中国などでは山水(風景の知覚と絵画表現)や風水(風景解釈と物質的組織化)などにおいて客体と主体の統合が見受けられるが、ポストモダンを超克するにはその両者を歩み寄らせる必要があると著者は考えているようだ。つまり、主体を客体化する。主体であるところの視線を意識し、客体へと近づいていくことによって、新たなる風景=「造景」が誕生するとしその先駆的な例として、セザンヌなどを挙げている。著者は「造景」に芸術性を見出すなどしてその可能性を肯定的に捉えているが、個人的には「造」というあたりにやはり西欧的なヒューマニズムが見え隠れしているとは思う。ただ、現在の混沌とした日本を考えてみれば、やはりその事態を超克する何かが必要となってくるのだろう。少なくとも、西欧的な近代を模倣してしまった結果、今現在の日本は西欧よりもより切実にポストモダンを迎えていることは間違いないのだから。しかし、もう少しわかりやすく書けないものなのかと感じる。著者自身も自分が書きたいことを書きながら明らかにしていったのではなかろうかと感じる構成である。個人的にはむしろ元風景なるものをいかにして抽出するかにこそ面白みがあると感じるのだけれど、風景という主観的なるものをいかにして形作っていくかと著者は捉えているあたり価値観が相違しているのだろうなとは思う。

  •  ヨーロッパ近代が生んだ遠近法を基にした「景観」と、中心が絶えず移動する日本特有の空間概念である「風景」。視線の違いから出るこの違いを、田園、都市の景観や風景の捉えられ方の比較を通じて、風景と環境が別物である近代景観論から、環境イメージしながら風景を作っていく「造景の時代へ」の転換の必要性を説きます。
     よくある伝統的農村「景観」を守ろうとしてる人たちは、その農村の農民よりも観光客などが多く、それは農村の農民が考えている農村「環境」とはまったく別の都会民の幻想や郷愁が混じった景観や風景をその農村の地域社会に押し付けるという主張には、「景観」や「風景」とは一体なんだろうかと考えさせられました。
     景観、風景や比較文化に興味のある人には非常にお勧めですが、専門用語も多く記述も哲学的なので専門外の人には難解です。
     とくに「造景の時代」というものが具体的に何を指すのか、しっくりこないかもしれません。

  • [ 内容 ]
    ヨーロッパ近代が生んだ遠近法と中心がたえず移動する日本特有の空間。
    視線の差異の発見と再発見、野性空間・田園・都市における風景観念の比較を通して、主体―客体2元論たる近代景観論の解体を論じ、ポスト・モダンの風景=〈造景の時代〉を予見する。

    [ 目次 ]
    第1章 人類学的共通基盤
    第2章 視線とその変化
    第3章 発見と再発見
    第4章 野性の空間から自然の風景へ
    第5章 田園から田園風景へ
    第6章 都市から都市風景へ
    第7章 風景の彼方へ―造景の時代

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著者プロフィール

1942年モロッコ生まれ,フランスの地理学者,東洋学者,哲学者。
1969年パリ大学地理学第三課程博士号,1977年文学博士(国家博士)号を取得。1979年よりフランス国立社会科学高等研究院教授(風土論)。欧州学士院会員。2009年福岡アジア文化賞大賞,2011年国際交流基金賞,2015年旭日中綬章など受賞多数。著書に『風土の日本―自然と文化の通態』(筑摩書房),『風景という知―近代のパラダイムを超えて』(世界思想社)など多数。

「2017年 『理想の住まい 隠遁から殺風景へ』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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