- Amazon.co.jp ・本 (236ページ)
- / ISBN・EAN: 9784061490192
作品紹介・あらすじ
法廷に立つブタ、破門されるミミズ、モグラの安全通行権、ネズミに退去命令…。13世紀から18世紀にかけてヨーロッパに広くみられた動物裁判とは何だったのか?自然への感受性の変化、法の正義の誕生などに言及しつつ革命的転換点となった中世に迫る「新しい歴史学」の旅。
感想・レビュー・書評
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中世、主にフランスで頻繁に行われていた動物裁判。全く知らなかったことなので大変面白かった(ノートルダムの鐘のあれはそうだったのか!という気づき)自然というものをどう捉えるか、その土地に根ざした宗教観はどういったものなのか、それによってこのような事象が成り立つ/成り立たないのが興味深い。
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中世ヨーロッパの自然に対する態度の変遷についてが、著者の主に書きたいことに思えるのだけれど、
自然に畏怖していた時代から支配する時代になる過渡期の時に動物裁判はあったと理解しました
個人的に読んでて思ったのは
ただ、民衆が権威に対する嫌がらせのような意味合いで裁判してたのではないかと、、
その考えは浅はかか -
動物裁判とは人間ではなく動物や虫を被告として裁判にかける中世ヨーロッパのなぞの習慣。そもそも『歴史学研究』に掲載されたものを一般向けに書き直したもののよう。動物裁判なるもののめちゃくちゃさとバカバカしさがつづられている。西洋中世社会の知られざる一面を学べるエンタメ教養新書と帯に書かれていました。新書では珍しい内容かなとおもいます。
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中世ヨーロッパで「動物裁判」なるものが行われていたことを、本書のタイトルで知って驚き図書館で借りた本。西洋の精神性を理解できることを期待して読んだが、語り口が好みではなかったこともあり、よく分からないまま読了。いくつかのレビューを読んで、少し何となく整理できた気がする。レビュアーさんありがとう助かります。
何故分かりにくく好感を持ちづらいのか考えたところ、研究と感情が混ざったような書き方が一因かと。
他説(動物擬人化説)を「ダメだ、という気がしてしまう」と感情的な文体で批判したり、他の解釈を「重要な着想のひとつを得たことは、正直にみとめねばなるまい」とあたかも読者も著者と同じく穿った見方をしている前提で述べる感覚や、自論のまとめの場面で「その答えは読者を満足させたであろうか。あるいは、別様の解答をわたしに教示してくれる読者がいるであろうか」と言う著者って何目線??…等、読者や他の研究に対するやや見下げた態度を感じる。著者の感想や他の学説への意見や批評は必要で重要だが、感情を別立てで書くなり、読者や他の研究をリスペクトする姿勢が欲しい。出版された1990年当時だとか、新書的な書き方として、こういう筆致が良かったのだろうか。。
とは言え、動物裁判という歴史があることを知っただけでも、とても勉強になった。動物を裁く西洋の思考が、現代における一部の過剰で過激な西洋の自然保護活動に繋がっている気がする私は、つくづく東洋人だと思わされる。 -
動物が裁かれていたって初め知った時驚きだった。動物どころか無生物まで。私たちが負わせている「責任」って何なんだろうなぁって考えさせられる強力な事例だと思う。
なぜこのような裁判が行われていたかに関する筆者の見解も興味深い。 -
西欧文明における動物裁判の発祥を多角的に検討する一冊。動物裁判の生々しい様子は、興味深かった。
ただ、その考察に関しては、難解だった気がする。機械による自然の克服と宗教、哲学などが微妙に絡み合い、動物(自然)を人間の支配下に置こうとした、というのがおそらく主題だと思われる。近代以降は、動物裁判を野蛮なものとして克服し、動物保護の思想も定着したが、その反面、人間中心の動物・自然の支配という観念が生まれ、それが深刻な環境破壊の根深い要因になっている、というのが著者の主張なのだが、わかったようなわからないような、少ししっくりこないものが残った。 -
金大生のための読書案内で展示していた図書です。
▼先生の推薦文はこちら
https://library.kanazawa-u.ac.jp/?page_id=18417
▼金沢大学附属図書館の所蔵情報
http://www1.lib.kanazawa-u.ac.jp/recordID/catalog.bib/BN05301542 -
時代の間の現象としての検証。そこはうざい。
単に、変な裁判があって、変な判決があったというくらいでいい。
アホなことやっとるわ。 -
動物裁判?聞いたこともないな。
そう思って手に取った。
未知の世界に惹かれるのはいつものことだ。
現在、日本の民法では、動物に責任は問われない。占有者の責任になり賠償金が課される。野生の動物の場合、誰の責任にもならない。
しかし、中世ヨーロッパでは、動物裁判が実際に行われていた。しかも、“人間にたいするのとまったく同一の訴訟手続をふみ、審理され、判決が下され、刑が執行された”という。
なぜ動物に対して真面目に裁判がなされたのだろうか。
そもそもどうやって召集するのか。
動物が無罪でも主張できないのではないか。
なぜ時間を割いて動物を裁判にかけるのか。
そういった疑問に一つひとつ答えてくれた。
動物を人間と同等と見なしていたのか、人間の支配下に置きたいと考えていたのか。
なぜ14〜16世紀がピークだったのか。
その辺はまだまだ研究の余地のある分野だった。
本書は二部構成。
第一部は具体的個別的事例を点検した「虫の視点」。第二部は当時の人間・文化と自然の関係についての「鳥の視点」。
★第一部
動物裁判は12世紀頃から始まり、14〜16世紀をピークとして、18世紀まで、ヨーロッパ各国でくりひろげられた。
二つのタイプ。世俗(国王・領主)裁判でおこなわれる刑事裁判と、教会裁判所に提訴される民事訴訟。
人間にたいするのとまったく同一の訴訟手続をふみ、審理され、判決が下され、刑が執行された。
無罪、恩赦などもあった。
住民が訴状を提出すると、両当事者が裁判所に出頭。被告が三度召喚に応じない場合は欠席のまま進められ、補佐人・代証人が任命される。被告に問いただし、自白を引き出そうとする。弁護士たちは動物の体の小ささ、視力や聴力のよわさなど、情状酌量の根拠を述べることが多かった。
祈祷、宗教行列、税の支払いの推奨、その後聖水散布や呪いの言葉などの悪魔祓いが行われ、破門宣告となった。
爬虫類や昆虫までも。
→バッタを倒しにアフリカへでもバッタの大量発生を。
昆虫は悪の化身とみなし悪魔祓いの儀式を行う。
理解するには自然と文化、自然と人間の関係を掘り下げる必要がある。
動物も人間と同じ責任を追求した。なぜか?→第二部
通常、所有者は裁判費用を持たされることはあっても罪に問われなかった。
(ヴィクトル・ユゴーの『ノートルダム・ド・パリ』に動物裁判のシーンがある)
法学者や神学者の中には動物裁判に否定的な者もあった。
(中世の成文化された慣習法では、動物裁判は無意味であるとしている。動物には理性や分別が欠けている(善悪理非の判断力がない)からである。その代わり動物の所有者は傷害や損害については賠償金を払わなければならないとしている。だが殺害については、所有者が動物を駆り立てた場合のみ責任があり、そうでない場合は所有者に責任はないとしている。
別の慣習法には動物裁判を強制しているものもある。学者の間でも意見は分かれていた。)
★第二部
11世紀頃から未開地を耕作地にかえていく。人間が考案した技術や機会で自然の征服し、領有しようとした 。
自然宗教をキリスト教の支配下におさめようとした。
絵画や文学作品における自然の景観描写。
(教会の柱頭彫刻にみられる植物の写実性(ロマネスク式→ゴシック式)
文学における風景描写(14世紀〜)
風景がメインテーマの絵画(15世紀〜)それまでは何かの象徴として(バラなら名誉、百合なら純潔のように)
写本装飾やフレスコ画における美しい自然の絵)
動物裁判とは何だったのか?という最近の解釈。
民衆は中世後期から近代にかけて、動物にも理性や意思があるという見方をした。
エリートたちは、人間と動物に明確な境を設け、擬人化ではなく人間の支配下におくための裁判と考えていたのではないか。
日本において動物裁判は起こりえなかったか?
シカやキツネが神の使いとされていた。
花鳥風月や雪月花のように自然を愛で詠んだ。 -
現代人から見ると奇異に見える中世ヨーロッパで広く行われていた動物裁判について、その実態や、なぜそのような裁判が行われたかを詳細に解説していて面白かった。
著者プロフィール
池上俊一の作品






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