<子ども>のための哲学 講談社現代新書―ジュネス

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  • 講談社
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  • Amazon.co.jp ・本 (216ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784061493018

作品紹介・あらすじ

自分ひとり裸一貫で哲学することのすすめ。なぜ悪いことをしてはいけないのか。なぜぼくは存在するのか。この二つの大問題に答えはあるだろうか。脳に汗して考え、自分の答えを見つけるプロセスを語る。(講談社現代新書)


自分ひとり裸一貫で哲学することのすすめ。なぜ悪いことをしてはいけないのか。なぜぼくは存在するのか。この二つの大問題に答えはあるだろうか。脳に汗して考え、自分の答えを見つけるプロセスを語る。

感想・レビュー・書評

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  • 哲学に憧れと魅力を感じつつもうっすらと勘づいていたが、やはりと言うべきか、哲学は私にとって縁のないもののようです。これは中島義道『哲学の教科書』を読んだ時も思ったことだが、本書ではっきりと自覚した。自分は「子どもの問い」なるものを強く抱いたことはないし、そういうものに特別興味があるわけでもないのだと。私が求めていたのはどうやら哲学ではなく思想だった。自分を支えてくれる思想。本書の中で著者が竹田青嗣氏のことを「彼の姿勢は哲学ではなく思想だ」(意訳)と批判しているが、私が竹田氏の『自分を知るための哲学入門』に好感を持ったのもまさに同じ理由だったのだろう。本書に登場した印象的な言葉を使えば、私の関心の方向は子ども的・存在論的なのではなく、青年的・認識論的だったのである。お前の哲学に対する興味は偽物なのだと喝破されて苦い思いがしたけれど、おかげで哲学に対する幻想をようやく断ち切ることができそうだ。それは悪いことではないし、哲学することの本来の形を示すという難題にこの本が真摯に取り組んでいるからこそ起きた反応と言えるのではないかと思う。哲学に目覚めるどころか、はっきりしたのは自分に哲学は無縁であることだったが、非常に読む価値のある本だった。

  • タイトルの『<子ども>のための哲学』は、「子ども向けの哲学」ではなく「子どもが考えるような問いについての哲学」ということです。

    子どもは日々たくさんの疑問を感じながら生きています。親や周りの大人たちに「なぜ?」「どうして?」と問い続け、自分自身でもあれこれと考え続けます。多くの人は自分もかつてそうした子どもの一人であったことを忘れ、社会という枠組みの中で疑問を疑問と思わなくなり、そうして大人になっていきます。(著者の表現では「大人になるとは、ある種の問いが問でなくなることなのである」)

    本書が言う「子どもが考えるような」とは、まさにそうした子ども時代に「なぜ?」「どうして?」と考えるような問いを、そのまま考え続けることを指しており、そして哲学とは本来そうした「自分なりの問いを考え続けること」だけが必要要件なのであり、むしろそのことでしか哲学はしえない、と言います。

    哲学書を読んで他人の問いを考えた課程や結果を知ったとしても、それは自分が哲学をすることにはならないし、思考の流れや型としての思想は哲学とは相容れないものである、と。

    つまりいかなる哲学書を読んでも自分が哲学ことはできないので、哲学書というのは本質的に矛盾を抱えた本ということになるのですが、本書の価値はどこにあるかというと、本書で語られている「問い」が、多くの人が子ども時代に自分なりに考えた経験のあるような問いであるということではないかと思います。だからこそ、著者の哲学思考を単に眺めるだけでなく、自分なりの考えとの対比やズレなどを楽しんだり、自分の思考を進めたりということにつなげることができるのです。

    本書で扱われる問いは大きく2つ。

    ①「なぜぼくは存在するのか」
    ②「なぜ悪いことをしてはいけないのか」

    どちらも疑問に感じたことのある人はいるのではないだろうか。

    個人的に本書を読んで面白かったのは①の自我に関する問い。同じような疑問は自分自身も感じてきたが、思考過程や結果がことなるというよりも問いの立て方や疑問の向かい方自体が著者とは異なるということを知って面白かった。著者は「自分」という存在の唯一性や特殊性に関しての疑問を突き詰めているのに対して、私の場合は他者性や他者と自己との共通性と境界のような部分に関心があり、その関心は哲学というより文学世界を知ることで自分なりの答えや納得をつくっていったように感じる。

  • 2016.4.30
    哲学入門の推薦本のひとつ。なんというか、僕自身、哲学を学ぶ人間は哲学を知識として手に入れ、そこから、彼はこう言うからこうとか、人のものを借りて述べてるだけであって、あなたの言葉はどこだよ、と思っていたモヤモヤがあって、哲学は確かに自らの真剣な問い、疑問から、素手で始まるべきだと思っていて、その意味ではこの本には救われた。しかし同時に、私は、素手で哲学するということを、なんもわかっちゃいなかったなと改めて思った。ここで問われた、僕とは何?という問いと、なぜ悪いことをしてはいけないのか?という問いは、確かに疑問に思ったことはあるが、それでもなぁなぁにしていた。なぜか?その疑問からどう進めばいいか、わからなかったからである。私にとってかつては、疑問とは感じるものだった。感じて、どうして?どうして?と思って、思ってるだけ、つまり悩んでるだけで、一歩もそこから動けない、そんなものだった。そこから考えるということと悩むということは違うのだということを学べたのは、そして少しでも考える力が、哲学する力がついたのは、やはり哲学のおかげではないかと思っている。だから、勉強が哲学を殺すという意見には私は反対である。哲学から、哲学の方法は、やはり学ぶことができる。しかし一方で哲学を学ぶことが哲学を殺すという意見にも賛同できる。だから、"哲学"者でありたいならば、"哲"学者にならないように慎重に、哲学から考え方を学ぶべきだとは思う。また私は、哲学に興味がある人間だが、子どもの哲学をするものではないと思った。私はどちらかというなら思想家なのだなと。子どもの哲学と、青年大人老人の哲学との違いは、前者は哲学が目的であり、後者は手段である点である。私にとって哲学は手段だ。どちらかというなら、質的にも量的にも私は知的好奇心をあまり持たない、だいたいのことはどうでもいいのである。だから、世の中にはまさに哲学を目的として哲学をする、当たり前の中にある隙間を無視できない人種が確かにいるというのは、驚きだったというか。でも、確かに私の問いは子どもの問いではなく青年の問いである気がするし、強烈な好奇心があるわけでもないけど、哲学に関する本なんて対して読んでないけど、でも、やっぱ、哲学することは大好きである。今や哲学と音楽は私にとってそれ自体が喜びであり慰めである。そういう意味で真の哲学は、趣味というか、スポーツ的ではないだろうか。なんの役にも立たないけど、ただ、楽しいから、趣味もそういうものだろう。この本から学べたことは、哲学するということについて、それでもいいんだなということ、そして素手で哲学していくというとき、いかに視点を多く持つか、いかに根拠を問いなおせるか、いかに概念を細分化できるか、という思考の破壊力と、その上で論理的に組み立てていく構築力と、そもそもの疑問、問い、渇きが必要であること、疑問があるだけでは、その渇きを活かせない、そこから前に進めず、納得による潤いでなく、諦めるという無視でその渇きをなかったことにしてしまう。だから、やっぱ、破壊力と構築力は、外から学んだ方がいいかな、ということである。入門書と思いきや想像以上に面白い本だった。難しかったけど。

  • 再読

    迷ったらいつでも読み返したい本!
    なぜ私は存在するのか、なぜ「私」以外になれないのか、ならないのか。。魂の代替がきかないこと、いつでも「私」であることがずっと不思議。
    難しかったけど、「奇跡」なら、結局その奇跡を体験し知っているのは私だけであって、孤独な作業の連続だと思う
    自分の納得がいくまで〈哲学〉をする!

    「生まれ変わったら何になりたい?」と聞かれた時、私の眼差しは、私がいま、自然と手を離した「私」へ向く。

    「処刑されていくソクラテスの快感は、おそらくこれに似ていただろう。この快感の根底には、他者に対する深い深い侮蔑がある」
    マトリックスを見て以来、存在しているものが本当に正しいのか?と思い続けているので、ここ泣けた。。

    ニーチェ「道徳における奴隷一揆」という語彙すごすぎ



  • 純で素朴な疑問を抱くこども。そんなこどもに向けた哲学であり、入門編とも言える。
    素直な疑問から広がる思想はとても雄大で、私には想定外の思考ばかり。
    初めて哲学の本を読んだが、深掘りするのが楽しくなった。

  • 哲学の入門書が、この本でよかった。

    〈子ども〉とは、子どものころ思い浮かべた「純粋な疑問」のこと。年齢に関係なく〈子ども〉の感性をもつ人、誰もが当たり前とすることに疑問をもち、もがきながら生きている人にこの本はぴったりだと思う。

    著者のいう「水面に浮きがちな人」と「水中に沈みがちな人」の二種類でいえば、私は後者であることが、この本に共鳴した大きな理由の一つ。

    「哲学をする」とは、自分が感じた疑問を納得するまで思考する過程の中にしかない。それは他者の理解も批判も賛同も無意味。逆にいえば、有名な哲学者を含めて他者の論じる哲学を学んだところで、自分が哲学をしたということにはならない。
    哲学ってそういうものだよ。役に立つ(人生のプラスになる)どころか、マイナスを埋めてふつうに近づく作業で、自分が納得するまで考えぬく、その過程を楽しむものだから。〈子ども〉の疑問をずっと大切にしてほしい。というようなメッセージが、「あなたはそれでいいんだよ」に聞こえて、心が軽くなった。

    また、本のまとめは前書きに帰結する。じゃあ最初と最後だけ読めば深い知見が得られ、生活が豊かになるんだ、と思う人はきっと「水面に浮きがちな人」。その間のページにある、著者の思考の過程(哲学の仕方)を知り、何かを感じとることができる人には、救いのような一冊。

  • 一部の語り方がなんかアレだったけれど、哲学に対しての基本的姿勢は本当に同意する。
    「哲学はどんな価値も前提としないことがゆるされる(すべての価値を問題にできる)唯一の営みだからだ」という一節を読んで、なんだか心の重石が少しだけどかされた気がした。

  • 哲学は哲学史の本の中にあるのでなく,自分自身の<子ども>の驚きが出発点になって,自分で考え,追求していくことなのだ。思想と哲学のちがいみたいなものがうっすらと見えかけた。
    「自分はなぜ地球上に存在するんだろう。自分って何なんだろう」
    私自身も小学校の時,ふとそんな不安めいた疑問が頭をかすめたことがあった。そんな疑問から哲学は始まる。

  • 子どもの哲学の特徴は、ただ単に本当のことが知りたいという点にあり、それゆえ何かよきものを目指すものではない。その根本問題は存在の謎、事実そうであることの謎だ。
    青年の哲学はよき人生を求め、大人の哲学はよき世の中を求め、老人の哲学はよき死を求める。青年と大人は意味や価値を存在へ返還できない。老人は価値全体を存在に返還せざるを得なくなっている。
    一方子どもは存在の世界から価値をながめる。
    自分自身の〈子ども〉の驚きからはじまる、考えぬきたい問題があるならば、考え抜けばいいし考えるべきだ。ということを、筆者は自身の考え抜いた過程を示すことでつたえている。

  • 第2の問いの思考の過程の方がラディカルで良かった。第1の問いは、なんだかな。〈 〉の表記自体がこの場合、業界的で説明不足でイヤだった。

    哲学を学ぶのではなく、哲学すること。結論ではなくその過程。潜水の例えはよく分かった。私は潜っている、しかし、〈ウソ〉を生きることに自覚的だからだろう。

    読後は、自分が肯定されたようで、力を得た。

    ・理科教育での科学哲学。歴史教育での史実の推定の根拠と方法。
    ・哲学の問いが公共的な問いになる可能性はない。
    ・哲学の役に立たなさこそが存在理由。救い。
    ・道徳を使いこなせる力と鈍感さ。
    ・道徳が機能するために倫理学というイデオロギーは絶対に必要。ぜひとも必要な〈ウソ〉。
    ・ニーチェ:善人は決して真実を語らない。
    ・私の考えでは、という文体。現代はかくかくという時代。ゆえに我々は、という文体。不信だ。

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著者プロフィール

1951年生まれ. 専攻, 哲学・倫理学. 慶應義塾大学大学院文学研究科博士課程単位所得. 現在, 日本大学文理学部教授.
著作に, 『〈私〉の存在の比類なさ』(勁草書房, のち講談社学術文庫),『転校生とブラックジャック──独在性をめぐるセミナー』(岩波書店, のち岩波現代文庫), 『倫理とは何か──猫のインサイトの挑戦』(産業図書, のちちくま学芸文庫), 『私・今・そして神──開闢の哲学』(講談社現代新書), 『西田幾多郎──〈絶対無〉とは何か』(NHK出版), 『なぜ意識は実在しないのか』(岩波書店), 『ウィトゲンシュタインの誤診──『青色本』を掘り崩す』(ナカニシヤ出版), 『哲学の密かな闘い』『哲学の賑やかな呟き』(ぷねうま舎), 『存在と時間──哲学探究1』(文藝春秋), 『世界の独在論的存在構造──哲学探究2』(春秋社)ほかがある.

「2022年 『独自成類的人間』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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