じぶん・この不思議な存在 (講談社現代新書 1315 JEUNESSE)
- 講談社 (1996年7月19日発売)
- Amazon.co.jp ・本 (180ページ)
- / ISBN・EAN: 9784061493155
作品紹介・あらすじ
わたしってだれ?じぶんってなに?じぶん固有のものをじぶんの内に求めることを疑い、他者との関係のなかにじぶんの姿を探る。
感想・レビュー・書評
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古代ギリシャ、ソクラテスの時代には存在していた、「『わたし』とは何か」という問いに、易しい言葉で切り込んでいく、哲学的思考の入門書。
「わたしたちは普通、成長するということは様々の属性を身につけていくことと考えているが、ほうとうは逆で、年とともにわたしたちはいろいろな可能性をうしなっていくのではないだろうか」とは、宮崎駿先生も言っていた。
「わたしがだれであるかということは、わたしがだれでないかということ、つまりだれをじぶんとは異なるもの(他者)とみなしているかということと、背中合わせになっている」とは、ソシュール先生の一般言語学講義に似ている。
「『自分らしさ』などというものを求めてみんなはじぶんの中を探し回るのだが、実際わたしたちの内部にそんなものがあるはずがない。」とは、内田樹先生も言っていた。
色々な本の中で繰り返し語られることによって、これらの考え方に対しては、ずいぶん慣れてきた。そして、鷲田先生の言葉は平明で、それらの考え方を振り返るのにちょうど良かった。
私にとっての「自分」とは、「他者の他者」としてしか認識できないのであるから、その答えは、他者との関わりの中にしか見えてこない。自分の他者性を理解してれる他者を見つけて、そのような複数の他者との関わりによって、「自分」の輪郭はぼんやりと見えてくるのかもしれない。
ところで、僕はそんなに、自分を知りたいと思っているのだろうか。
こんなおぞましい者の輪郭を、そんなにくっきり見たいとは思わない。詳細をみるコメント0件をすべて表示 -
自分って細かいこと気にしすぎなのかな?と自分の性格に悩んで買った本。「だれかのためにお茶をいれる」ただそのことが、これほど難しいこととは思わなかった。無理せず自分らしくあることは素敵なことだけど、それを追求しすぎて辛くならないようにしたい。
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じぶんの独創性はどこから来るのか。
じぶんを見ることは出来ない。
じぶんの考えも人から与えられたもの。
他人から見た自分、人格。
哲学、
記憶、存在学。 -
高校2年生の時に一度読み、
自分の価値観に影響を与えた本。
当時は不明確な箇所が多かったのを覚えている。
今回、久々に自分の成長を感じる期待も込めて再読。そして2周した。
内容としては『じぶん』とは何?という問いに対しての著者の思考の流れが描かれた本。
(以下、あらすじ)
まず、自分の身体は自分ではよく分からない。医者や機械に診てもらわないと何が起きてるのか不明確。また、身体は他人や別のもの(義足など)と取り替え可能であるし事故などで喪失しうる、しかしその場合でも『わたし』は変わらない。では『わたし』とは物理的・身体的な特徴ではないのだろう。
(紆余曲折と少しの飛躍を行い)『わたし』とは社会的なルールを前提として『わたし』じゃない人との差分ではないだろうか。
つまり、『わたし』固有のものなんてなく、『わたし』は社会につくられた存在で、『わたし』とは他者にとっての他者である存在と言える。
他者との関わりの中でその人の自分への反応こそが自分であり、他人の他人として他人を鏡のようにしてでしか、自分を認識できないのである。、、、
と言った具合にかなり難しめのロジックが、優しい日本語で書かれている。一部理解不能な箇所もあったが、その部分を理解するには他の著書などを通じて著者の考え方を探る必要があると感じた。
以下の2点だけたまに思い出して生きていきたい。
・自分とは他人の反応の集合体。
・自分の認識している世界は自分だけのもので、死んでいる状態と実は同じではないか。(最終章のくだり)
以上 -
「私とは何か?」という哲学の問題を、やさしい言葉で論じた本です。
著者は、固有の「私」というものを自己のうちに求めても、何も得られないと主張します。われわれはこの世界に生まれたときから、さまざまな他者とのかかわりのなかに存在しています。そうした他者とのかかわりを通して、ありえたかもしれない自分のあらゆる可能性を捨てていくことで、固有の「じぶん」は成立するというのが、著者の考えです。
著者は、R・D・レインの『自己と他者』から、ひとりの患者のエピソードを紹介します。彼は、看護婦に一杯のお茶を入れてもらって、「だれかがわたしに一杯のお茶を下さったなんて、これが生まれてはじめてです」と語りました。ただ「誰かのために何かをする」ということ、そしてそれ以上でも以下でもないということは、ふつう考えられているよりもずっと難しいことだと著者は述べます。誰かに何かを「してあげる」という意識が働くとき、相手は単なる行為の客体とされてしまい、他者は自己の内に取り込まれてしまうことになります。こうした関係に陥ることなく、他者を他者として遇し、自己もまた他者にとっての他者として遇されるような関係のなかで、はじめて自己と他者の双方が固有の存在になることができると著者はいいます。こうして著者は、自己の固有性とは「他者の他者」となることだと主張します。
ところで、自己の固有性は、ともすれば社会のなかで固定化されてしまうこともあります。しかし著者は、そうした状況から外へと出る可能性をさぐろうとします。ここで著者は、われわれの社会から、固有名や戸籍、国籍といった制度をいっさい廃止して、「私」「今」「ここ」のような状況次第で意味内容を変化させることばだけを使って会話する社会を想像するR・バルトの議論を参照しています。そこでは、われわれは固定化された「私」という檻から解放されて自由になるのだろうかと著者は問い、しかしそこでの自己とはいったい何者なのかという問題に直面します。こうして問題がふり出しへともどったところで本書の議論は打ち切られ、読者をさらなる考察へと誘います。 -
1996年に発行されたこの本は、発行以来、版を重ねています。そして、大学入試問題にも何度も繰り返し出題されています。受験勉強に即効性のある読書(という表現そのものがそもそも矛盾していると思いますが)を求める人は、すぐにでも読むべき一冊です。著者の鷲田清一は、大阪大学総長も務めた哲学者。現在も多くの著作を発表しています。
「私とは誰だろう」―― このような問いを耳にすると、哲学好きでもない限り、そんな考えても仕方がないことをよく考えるな、といった反応をする人が多い気がします。しかし、そういう人も、人生のさまざまな局面で、じぶんとは何かをじぶんに問うています。恋愛で、進学で、就職で、そして家族のあり方、そして人生のフィナーレで。ひとは、じぶんとは何かを問わずには生きていけない生き物ではないでしょうか。
じぶんという存在が、じぶんだけで成り立っているのではなく、他者によって成り立つものであることを知るならば、人生はより生き易くもなるかもしれません。じぶんという存在を頑なに保持しようとするよりも、変化するじぶん、変わり得るじぶんをいつも想定し、他者と関わる方が、むしろじぶんらしく生きることであるという逆説、そしてそのことこそが、倫理的な存在としての人間のあり方なのだということを、高校生の時期に本書で理解するなら、この本を読んだ意義は計り知れません。この本から、長く残る衝撃を受けてほしいと思います。(K)
紫雲国語塾通信〈紫のゆかり〉2010年11月号掲載 -
むちゃくちゃ面白かった。でも難しいテーマだから半分くらいは消化できてなくて、もう一度読んで、自分の中に落とし込んでいきたい。
いまのこのコロナの状況だったり、SNSの誹謗中傷の件だったりに通じる内容だと思った。1人では生きていけない、という考えに懐疑的だったけれど、初めて少し納得できたかもしれない。 -
言われてみれば、体の内部で何が起こってるかわからないし、自分の背中なんて見たことないし、自分のことって思ったよりも分からないものだなと思った。
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自分探しといった簡単な話ではない。自分という存在、自分という何かの定義を考える事になる。人は誰しも自分て何者なんだろう、自分は必要なんだろうか、自分の存在価値について考えてしまう時がある。大体は仕事やプライベートで心配事ができた時にそういった感情に苛まれる。また、おかしな夢を見た朝も同様だ。夢の中では少なくとも自分の記憶のない場所でほとんど話したことの無いような学生時代のクラスメートや仕事で関わった人が現れて一緒に過ごしていたりする。一体全体何故?という不思議な気持ちがその日1日を支配する。
そうした時に他人と自分の関係性について暫く考え込むし、そもそも自分が何かについて考え始めてしまうのだ。答えは簡単。自分にも自分はわからないくらいだからハッキリとした答えは無いという事だ。
本書はこの自分という謎について他者との関係性によって成り立つ存在として捉える。他者から自分がどのように見られているか、例えば頭のいい人、スポーツができる人、読書が趣味、優しいなどの内面的なものといった属性的なもので形造られているものとする見方。また外見的な見映えや男性女性といった人としての形などもそうだろう。それらに程度の差こそあれ、他人と自分のを比べた際に出る差異が自分であると言える。あくまで他人の他人(他人からすれば自分は他人)として存在する実体である。自分が如何に内面的にどの様な存在として考えてもはっきりとした輪郭が見えないのは、この他者から見た自分が人それぞれに違ってくるし、自分の考えとも異なるからである。悪い印象なら自分で改善しようとするし、良い面ならもっとその様な人物像に近づこうとするから(これがよく言う自分探しの一つではなかろうか)、それにより輪郭がより鮮明になると共に自分の認識へと逆流する様に思える。
厄介なのは他人が感じた自分の印象が自分のそれとは異なるケースだ。好きでも無い他人から「(自分がその他人を)好きな事を知ってる」と言われたケースを用いて分かりやすく説明するが、このギャップは結末としては悲惨な状況を生み出す危険性を孕む。こういったケースでは激しく自分の自分に対する認識との差異が発生する一方で、自分の確固たる考え(相手を好きで無い)が自分を形造るのに役立つこともあるだろう。いずれにしても他者からの問いかけに対する自分の形である事には変わりない。
中々自分という存在ははっきり見えないのだが、間違いないのは外見だけ、性別だけ、テストの点だけでは語れない自分がいるのは間違いないし、例え人からどの様に思われても、自分の中に本当の自分はいる事には違いない。結論からすれば他人にも自分にもたどり着けない永遠の謎なのである。
本書読了時には漫然としない気持ちの一方で、よくわからないなら、楽しく生きればいいか、といった何か開放感に近い感覚で心がフッと軽くなることができる。 -
゛自他は相互補完的である゛
相互補完的とはお互いに足りないところや弱いところを補って、助け合うこと。
つまり、自己と他者は切り取っても切り離せぬ関係であると。その存在が持つ意味とは。
色々と考えさせられた。