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Amazon.co.jp ・本 (222ページ) / ISBN・EAN: 9784061494015
作品紹介・あらすじ
ニーチェが問うた真に本質的な問題とは何か。哲学とは主張ではない。徹頭徹尾、問いである。〈神の死〉を語り、道徳を批判し、力への意志を説いた希代の哲学者の問いの構造を、見るも鮮やかに抉り出す快著。(講談社現代新書)
ニーチェが問うた真に本質的な問題とは何か。哲学とは主張ではない。徹頭徹尾、問いである。〈神の死〉を語り、道徳を批判し、力への意志を説いた希代の哲学者の問いの構造を、見るも鮮やかに抉り出す快著。
みんなの感想まとめ
哲学の本質を問い直す本作は、ニーチェの思想を鮮やかに掘り下げることで、読者に新たな視点を提供します。著者は、ニーチェの「神の死」や道徳批判、力への意志といったテーマを通じて、哲学が単なる主張ではなく、...
感想・レビュー・書評
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私は今までこの本を読むのをやせ我慢しておりました。ついに手に取って読むようになったのは、とうとうやせ我慢が馬鹿らしくなってしまったからです。
何をやせ我慢してたかというと、つまりは、いきなりこの本からニーチェに入るのが嫌だったっていうことですよね。ニーチェに自ら直に触れて感じたことをまず打ち立てることが、私なりにですが誠実にニーチェに向き合う上で大事なことだと、どこか直観し、どこか貫き通したいと思っていたからです。
ところが、今になってどだいそれは無理だということがはっきりしてきた。
ニーチェは『ツァラトゥストラはこう言った』から始まって色々読みましたが、さっぱり自分の中に入ってこなかったというのもそうです。
ただ、それ以上に何よりも——これはこの本を読んではっきり「やっぱりそうか」と自覚出来たことでもあったのですが——私はニーチェからしたら敵そのものです。自分が「超人」ではなく「乗り越えられるべきあるもの」の側、奴隷道徳にまみれた「弱者」の側であることが、自分の中ではっきりしたように思えた。そしてそのことが、どういう訳か落ち着いた気持ちでもってニーチェの言葉を迎え入れる準備にもなっていたように今は思っています。
道徳の系譜を探る第一空間から、力への意志そのものを問う第二空間、そして永遠回帰の襲来と意志そのもの、生きることの意味そのものを問う第三空間へ……永井流のニーチェの受け止めとしても、そこで問おうとしていることはまさしくニーチェにしか問い得ない問いだということは、読んでいて非常に感じるところでありました。
そしてまた、そうであるからこそ、私自身に嘘、偽り、ごまかしが沢山、いやそれこそ無数にあることもまたはっきりさせるような、そういう恐ろしい本でもあったことも間違いないと思っています。無論、何が恐ろしいと言って、永井さんというかニーチェそのものの恐ろしさなのですが。うまいこと社会生活を曲がりなりにもやってしまっていて、嘘、偽り、ごまかしを糧とし、人の弱さを養分として生きているうちの一人であるということを、およそニーチェが生きた問いの空間(こう言って良ければニーチェが身をもって示してきた哲学)からは全くもってかけ離れた身であることを突きつけられるような体験をしたように思います。
まぁ、だからこそ私としては惹かれるんですがね。
とにかく、
「徹底して自己に誠実であるとはどういうことか?」
「なぜ真理を求めてしまうのか?」、いや、「何が私に真理を求めさせるのか?」
「この人生を肯定できるとしたらどこで肯定できるのか?」
等々、ニーチェを読んで私なりに疑問を持ち、課題にしていたことの多くがこの本を読みながらある程度氷解されてきたのを感じています。
にしても、徹頭徹尾、徹底的にニヒリストであったニーチェですが、彼は一体どこに向かおうとしていたんでしょうかね。。。
それとはまた別に(いや、つながっているのかもわかりませんが)、読んでいていくつか幼い頃の生と死に関わる原体験、あるいはふとよぎってくる虚しさや心許なさの原体験が掘り起こされるような感覚も覚えました。それについてはまた、これから改めてニーチェを読む中で深く問うてみようと思います。 -
昔読んだような気がするが、なんとなく気になって読むことに。結果、大正解。誤解を恐れずに言えば、たいしたことは言ってないんだが、当たり前のことを回りくどく言う、いや示すのは気持ちいいなと。
もちろん完全に永井さんのことを理解はしてないが、この本から肉をそぎ落として骨だけにするとそうたいしたら、相対主義のパラドクスを道徳的な展開をしたということになるんではないかと。
あと、ニーチェを読んでいて存在と時間の実存主義に近いよな、と感じたがそれは中途半端なニーチェ主義なんだろう。むしろ突き詰めていくと、ハイデッガーの嫌ったダスマンの方が超人に見えてくるのは気のせいか?
導入の仕方が秀逸。なぜ人を殺してはいけないかという問いをもってきて、道徳的に答える大江健三郎をこき下ろす。誠実に、正直に考えるなら、人を殺してはいけない理由なんてあるわけないのだ。そもそも問い自体が道徳的で、その目的を達しようと思うなら答えを言うのではなく、この世界に生きることがどんなに素晴らしいのかを伝えたほうがいい。至極もっともな話で、思わず妻に読ませて2人で共感した。 -
タイトルが不遜だとして批判している評を頻く見かけるが、誤読するを語るに落ちていることに失笑せざるを得ない。もちろんこのタイトルは意図的に一種のギャグであり、ニーチェ流デュオニソス的明るいニヒリズムの正鵠を得た表現である。ニーチェキーワードを時系列に並べながら、むしろ非論理的に、古い言い方ならスキゾ的に論を進めた挙句の最終章での「全否定という肯定」との結論に開いた口がふさがらなかった。だがむしろそれは、難解で長ったらしい数式の解がゼロになるような快さがある。感動的だ。ほとんど引かれていないが、本当に必要な個所でのニーチェ本人の境遇の記述により、本稿がむしろニーチェの人間像をも明確に浮かびあげさせ、かつ章構造自体が、ニーチェ的あまりにニーチェ的な虚無的世界を表現する仕掛けとなっている。最終章の躁病ともいえる筆運びがニーチェ晩年の発狂を想起させるほど。永井均はニヤニヤしながら本作を書いていたに違いない。
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ニーチェの分かりやすい入門を期待してたのに開けてみたら著者のニーチェの批判だった……メルカリ行き
著者の感想文が欲しいのではなく、ニーチェの思想がどんなものなのか説明するだけで良かったのに残念 -
獅子 ラクダ こども
ニーチェという人について
勝敗に対する態度は他者、自己をどうにかするのではなく、勝負、あるいは環境を変えていく。この態度が弱者である。(道徳を信じる信じないではなく、新しい価値観を据えるのもまた弱者。だが、弱者の救いはここにしかないと。)ガンジーもそうなのかな。非暴力非服従。
「真実への意思」コレ最重要
道徳の否定、あらゆる人間に対する愛を持つ。
道徳に代わるものとしての「力への意思」?
p27 道徳の真実
人間心理の構造を分析!ぶち壊していこう!
p30 道徳に抑圧されていた快楽を解き放つよろこび
道徳的な行為(利他的)を人々の喜びとして信じ込ませれば、人間は皆利己的な行為そのものを利他的な行為として行える為、世の中はより良くなっていく。
真理への意思。嘘を暴くという存在としてのニーチェ。哲学者してるなあ
「すべての哲学者が道徳に負けた」p42 まじ?
系譜学……議論を相手の領域で為すのではなく、本来の領域で議論をしていく試み。
だが、領域設定によっていくらでも違う解釈ができてしまうために泥沼の議論にならざるを得ない。
「力への意思」という設定に対しての疑問p42
空間内での内部対立しかしていない。信じる、信じない、という。
神はいないと信じた方が良い、とニーチェは言っているに過ぎない。これは真実ではなく、ただの思想だな。p45
同情は苦悩を取り除こうとする。p48
p51 道徳心の欠如したものは世界から必ず排除される。
本来あった神がキリスト教とその道徳によって殺されたp81
道徳、人権、進歩はある意味では神であり、今も生き続けていると言える。人々が道徳(なんらかの価値観)をあるものと信じて行動している限り神は生き続けるp86
p87 三種のニヒリズム(新興宗教を破壊する新興宗教)
神がいる。(道徳)神が死ぬ。(道徳の消滅)神が生まれる(無知という神の台頭)
「無」という神p88 新しい道徳か
価値評価。料理、小説は本質が先にあって、存在はあとから肉付いてくる。だが、人間評価は違う。
ニーチェの人間の価値評価は「何を基準にしようと、それは自由だが、とにかく自分で自分を直に肯定できるということ、これこそが人間の「よさ」を最終的に決める。」92
「能動的ニヒリズム」価値評価の土俵を自分自身で設定する
価値の転倒 「目には目を」という相手の価値観があるが、「左の頬をも差し出せ」ということで自分の土俵に相手を持ち込む。
ユダヤ人はその代表例。神の憐憫がもらえるのは不幸なものであるとの。ルサンチマンやな。
記憶は善 忘却は悪 という一般的な価値観の否定
内在的な「道徳」心の中に「神」を飼う人類(パノプティコン)
人は人には償うことができない罪を背負って生まれてきた、という前提に立つことによって神のみが人を救済することができるという論理を成立させることができる。
意味のない人生を、「罪」を与えることによって意味付ける。その「罪」からは神に従うことによってのみ逃れることができる。「原罪」
自分の心の中の苦悩に自虐的な快楽を覚える101
↓
自分では決して償うことのできない負債を負う(生まれた時、既に罪を背負っている)
↓
「罪人」という烙印を押されることによって自己を救う
↓
神の前にひれ伏し、許しを請うしかない「人」のでっちあげ
「われわれは自分の存在の意味の問題に苦しんでいるので、苦悩という最も強い潜在的な力をもっていたものに意味が与えられて、そのマイナスのパワーがプラスに転化することは、大変喜びなのである。」
第二空間
「現に生きている自然的世界の彼方に、そうあって欲しい欲求を投影した別の世界を、それこそが真の世界だとして捏造すること、それが ニーチェ的な意味での形而上学である。」
芸術至上主義、超現実主義
「単に理想や理念に過ぎないものこそを真に実在すると見なす倒錯的な精神のあり方」イデア
「真実は醜い。真実によって亡びないために、われわれは芸術を持つ。」
内部における外部の捏造 真実の援護射撃
「真理とは、それなしには特定の種類の生き物が生存できなくなるような、ある種の誤謬である。結局は生にとっての価値が問題なのだ」
「裸の王様」
これが正しいとすると、この主張もその「真理」に相当してしまう。(嘘つきパラドックス)
もう一つの解釈は、この文章は例外的に「誤謬」には含まれないとする解釈。
第1空間……神(共同主観)の不在、その論理的証明
第2空間……神不在の世界での、神に代わる存在、または新たな神についての考察
宗教の考えが「生きる知恵」としてではなく、「真理」そのものとして扱われることに対する批判
腐敗した退廃的な生がその真理を必要しているだけ、という問題
パースペクティブ主義 環世界と同じかな -
ニーチェはニヒリズムの人だ。ニヒリズムというのは一般的には全てのものごとには意味や価値なんてないという考えだろう。
以前,哲学史の本でニーチェの考えに触れたとき,私の心はすごく動揺した記憶がある。もちろん,ニーチェの考えの表面的なことしかそこにかかれていなかったが,自分の心をひどく動揺させた。
道徳的に正しいとか言われることは,ただ偶然に社会に好都合であるから,誰かが考えたその論理が「正しい」とされ残されてきたにすぎないのかもしれない。世の中で正しいと言われていることは偽りなのかもしれない。
強者は優良であることを,弱者は善良であることを「よい」とする。しかし,どちらも自分の立場から見た視点から自分を正当化する論理でしかないのだ。
これを見て,キリスト教において,キリストの言った言葉を思い出した。
”この青年は言った。「そういうことはみな守ってきました。まだ何か欠けているでしょうか。」イエスは言われた。「もし完全になりたいのなら、行って持ち物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に富を積むことになる。それから、わたしに従いなさい。」青年はこの言葉を聞き、悲しみながら立ち去った。たくさんの財産を持っていたからである。
イエスは弟子たちに言われた。「はっきり言っておく。金持ちが天の国に入るのは難しい。重ねて言うが、金持ちが神の国に入るよりも、らくだが針の穴を通る方がまだ易しい。」”
もし,これを金持ちが実践し,資産を投げ出し,貧しくなったときに前記の考えに至った場合,どうすればよいのか。正しいと思っていたことが,ただの虚偽でしかなかった場合,絶望するだろう。正しいとして行ったはずなのだが,宗教の教えや道徳は弱者が自分を正当化するための一つのツールであり偽りに過ぎないんだったら,どうすればいいのだろう。
ニーチェの考えを知るためにこの本を手にとった。入門書というわりには,そのことについて説明される前に,その後の概念がちらほら出てくるため,思っていた以上に難しく感じられた。
しかし,最後まで読んでみて,なんとなく少しわかったような気がする。もちろん哲学者が人生をかけて考えたことを一瞬で理解することはできないのだろうから,これからよく考えてみないといけないだろう。
結びにニーチェの引用でこのようなものがあった。
『私に「道」を尋ねた者に私はこう答えた。「これが――私の道だ,――きみたちの道はどこか?」と。万人向きの道など,存在しないからだ。』
私の生きていく道についてこれからも考えていきたいと思う。 -
強者に弱者
哲学の本は難しい -
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一応全部読み終えては見たものの、あまりわからなかった。哲学的な素養が僕にないだけかもしれないが、ちょっと断片的にわかったような気がするところがあると思ったら、またすぐにわからなくなった。何回も繰り返し繰り返し読んで咀嚼したい
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自身がニーチェについてよく知らないということがわかった。しばらくしてもう一度読んだらもう少し自分なりに咀嚼できるかもしれない。今分かるのはニーチェの考えは視点によって解釈が変わること
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正直、あまり分からなかった。ニーチェ思想がニヒリズムの代表例で、生に意味がないという事を自明にした上で、生を味わい尽くそうとする姿勢であることは、改めて理解することができた。よく誤解されてるのは、ニーチェは生きる意味なんてないから、退廃的で何も頑張る必要もないんだと諦めの思想で捉えられることがある気がするが、実際にはそうでなく、どうせ意味なんてないのだから、期待を捨てて前向きに味わおう、という視点なのだろうと思った。宗教の権威性が失われてきている現代社会だからこそ、求められる思想なのではないだろうか。毎日上司と嫁の言いなりになっているロボットのような日本のサラリーマンも、考え方としては救われるのではないだろうか?
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ルサンチマン(弱者)を内包した社会やキリスト教を批判し、ニヒリズムを克服し、生を肯定するためのニーチェの問いを整理した本
#講談社現代新書 #永井均 「 これが #ニーチェ だ 」
内容としては かなり難しいが、#ツァラトゥストラ 「精神が 駱駝となり、獅子となり、子供になる」の意味がよくわかる構成になっている
ニーチェ=無神論という解釈は間違いであるとのこと。人生の無意味さを肯定することにより、自分の中に別の意味の〈神〉が生き返る、という主張。なるほどと思う
「人生の価値は、人の役に立ったとか、そういうところにあるのではない〜そこには、何の意味も必然性もない。その事実そのものが、そのままの意義であり、価値なのである」
ツァラトゥストラ 「精神が 駱駝となり、獅子となり、子供になる」の意味とリンクさせた内容
*駱駝=生の否定、ルサンチマン
*獅子=強者を目指した力への意志
*子供=忘却と聖なる肯定による自分の世界の獲得〜自分を限られた視界のうちに閉じ込める
*自己を否定するキリスト教道徳への批判
「真理とは錯覚であることを忘れられた錯覚〜社会的に公認された真理とは虚偽のこと」
「すべては力への意志である〜生あるものには必ず力への意志があった〜生とは、内から発して多くの外部を服従させ、自分に同化吸収していく力への意志なのである」
「意味のない苦悩に満ちた生をそれ自体として肯定する〜苦悩の意味が、悲劇的(=矛盾があっても生を欲すること)であれば至福」
*神の死
人間の生の価値を否定したキリスト教道徳が、キリスト教の神を殺したという論調。このニヒリズムを克服することにより、別の意味の〈神〉が生き返る
*ルサンチマンの弱さ
力の意志は、真理を信じこむことなしに生きていけない弱者の存在様式
弱者の力への意志を、解釈する意志に変換する〜自分に有利な何かに解釈を変える
「反社会性〜人間が社会性によって傷つかないことを目指す〜弱者は徹底的に没落すべきである〜あるがままを肯定する」
*ディオニュソス
現に存在するすべてのものに対する肯定
*永遠回帰
来世はない〜わたしはこの生以外の生を生きる可能性はない
生き方の内容の選択の余地は始めからない〜どれほど惨めな人生であっても、自分の生であり、それが存在したことに外部からの評価を加えることはできない。それがそのように存在したこと、そうであったこと、それがそのまま価値なのである
「この世界を現実であることそれ自体によって、この瞬間を今であることそれ自体によって、この人生を自分であることそれ自体によって、そのまま肯定する」
「すべては、ただの偶然、ただそうあるだけのことであり、現にこうであることに、何の根拠も、何の理由も、何の意味もない」
永遠回帰
*全偶然を偶然性を維持したまま必然化する
*力への意志も欲望もなしに、ただ肯定され、ただ是認されるべきもの
つかのまの生は、その内部に喜びや悲しみがあるにしても、生自体としては空しいものにすぎない。そのことを嘆いて、生に外からの意味を与えるべきではない。それが神の死であり、人生の無意味さを肯定することが神の復活の出発点
世界は同一の状態を永遠に反復している→世界は神によって創造されたとするキリスト教的世界観の否定
世界は始まりも終わりもなく、目的も意味もない。ただ存在しているだけ→ニヒリズムの徹底により 理想への回帰を封じる
*超人
ニヒリズムの極限を意志の力によって克服する〜その力をもった形象として描かれるのが「超人」
超人とは肯定する人〜永遠回帰を望み、自己と世界、偶然的な現実を肯定する
超人は本質的に社会的存在ではない〜超人は孤独な者にしかなされない。超人は連帯しない
「人生の価値は、人の役に立ったとか、そういうところにあるのではない。起こったとおりのことが起こったことにある〜そこには何の意味も必然性もない。その事実そのものが、そのままの意義であり、価値なのである」
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高田純次になりたかったニーチェ
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分かりそうで分からない。また読み直そうと思う。
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まずニーチェを知ろうと思い「ニーチェ入門」を読み込み、次にこれを読んだ
非常に衝撃を受けた。自分の中にあったニーチェ感がまさしく全て転倒された。
「ルサンチマンの哲学」を次に読んでみたい -
いい意味でニーチェの解説本を騙った永井均の哲学書。この人はニーチェを他でよくありがちな自己啓発めいた論調で捉えていないのが良い。しかしニーチェのルサンチマンに没することなく、文句言いつつもポジティブである。
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著者は『万人向きのニーチェなど、存在しない』と主張し、ゆえに『これが私のニーチェだ』と総括する。しかし私は、その著者の言葉とは裏腹に、本書は『私のニーチェ』どころか、ニーチェ哲学の全体を、その矛盾まで含めて整合的に理解するための試みであるように思う。ニーチェは『悦ばしき知識』(の初版)と『ツァラトゥストラ』において、自身の肯定の極を迎えたようで、その後の著作は全て攻撃的な論調に変わり、率直にいって悪口が目立ちすぎる。私の長年の疑問は「高貴だの運命愛だのを標榜していたニーチェが、なぜここまで口汚いのか?」ということであった。生前最後に執筆された『この人を見よ』には、キリスト教道徳に対する『この汚らわしいものを踏み潰せ!』という憤怒そのもののような言葉まで出てくる。その自己矛盾への疑問に、本書を通じて一つの答えが得られたことが、私には大きかった。また著者は、ニーチェの主張を『世の中をよくしようと』したのではなく、『世の中がよくなることがよいことなのではないということを教えようとした』という一言で押さえるが、非常に適切な評価ではないだろうか。私なりに考えると、それは私的な価値の擁護であり称賛であろう。だから著者は、多くの書物がニーチェについて『何らかの意味で世の中にとって意味のあるものとして、世の中の役に立つものとして、描き出している』ことへの不満を本書の早々に表明する。
『運命愛──これからはこれが私の愛でありますように!私は醜いものに対して戦いを挑もうとは思わない。私は非難しようとは思わないし、非難する者たちをさえ非難しようとは思わない。眼をそむけること、それが私の唯一の否認でありますように!つまるところ、いつの日にか私は、ただひたすら肯定する者となりたいのだ!(『悦ばしき知識』)』
そのような矛盾に満ちたニーチェの思考を、著者は『空間』という比喩で三つの領域に区分する。
『第一空間』……『誠実さ』=『真理への意志』によってキリスト教の『道徳』の虚構を暴露する、主に『道徳の系譜』に相当する思考圏域
『第二空間』……『力への意志』説を中心とした、主に『遺稿』に相当する思考圏域
『第三空間』……明るく『肯定』する、主に『悦ばしき知識』と『ツァラトゥストラ』に相当する思考圏域
『私の道徳は、ひとりの人間から一般的性格をしだいに奪い取って特殊化していき、ついには他の人間には理解しがたいものにしてしまうことである。(『遺稿』)』
『第一空間』→『第二空間』の移行は、キリスト教の『道徳』の虚構を暴露しようとする『誠実さ』=『真理への意志』が、そのような己自身を省みて、世界を自分の力に応じて解釈しようと欲する『力への意志』の亜流であることが自覚されることで促される。著者は『第二空間』の思考について批判的であり、『哲学的に幼稚』、『哲学的センスの決定的な欠如』のような言葉まで出てくる。例えば……『パースペクティヴ主義』とは、あるように思える世界秩序が一つの『力への意志』観点による解釈に過ぎないことを示す立場であるが、それを真だと認めると「それ自体も一つの解釈に過ぎない」という切り返しによって無限後退に陥る。全存在の内的な本質を『力への意志』だとするという見方は『悪しき形而上学そのもの』だ。そもそも『力への意志』などを強くもつのは、力に満たされていない『弱者』ではないのか?……といった調子である。著者は最終的に、『力への意志』説と『パースペクティヴ主義』について、『奴隷の心性と奴隷道徳のあり方をモデルとした世界観』、あるいは『哲学的に純化された奴隷道徳』であり、『欠如と苦悩を背負った者の隠微な復讐意志を起点とする、本質的にルサンチマン的で、そうであるがゆえにロマンティックな世界観』であるという判断を下す。そしてこの圏域では『強い「力」を持つ者は強い「力への意志」を持つ者ではないという事実への覚醒』によってかろうじて『第三空間』につながるとされる。しかし私が読んだかぎりでは、そのような『覚醒』をもってしても『第三空間』に移行できるとは思えない。つまり『第二空間』→『第三空間』という移行の道は途絶えているように思うのであるが、それは『第三空間』の出自から考えれば十分に納得できるのだ。
著者は『第三空間』の中心課題である『永遠回帰』や『運命愛』の思想について、『形而上学批判やキリスト教批判の単純な延長線上に置くべきではない』と前置きし、それらはニーチェの『外部』からやって来た体験であることを指摘し、ニーチェはそれらを自らの哲学に『同化させようと奮闘した』にもかかわらず『完全には成功しなかった』と評する。事実としてニーチェは、『永遠回帰』について『公刊著作の中で、自分自身の言葉で自分自身の見解として主張したことは、ついに一度もなかった』のである。
『あの日、私はシルヴァプラナ湖畔沿いに森を通り抜けて歩いていた。ズルライ村の近くにピラミッド型にそそり立った巨大な岩があり、そこで私は立ち止まった。あの考えが私を襲ったのはそのときだった。(『この人を見よ』)』
推測するに、ニーチェはある時に不意に『第三空間』的な体験やビジョンに打たれ、それをとりあえず表現したのが『悦ばしき知識』や『ツァラトゥストラ』であり、その境位まで哲学的ロゴスによってたどり着くための試行錯誤が、後に公刊された著作や『遺稿』となったのではないか。ニーチェ自身、この時期は病からの快癒もあって気分が高揚していたようだ。そして、いわゆる『権力への意志』として知られる『遺稿』が、つまり本書では批判的に検討された『第二空間』に相当する文章群が、公刊されず『遺稿』のままに終わったという事実が説得的な重みをもつ。つまり、ニーチェ自身が、著者が指摘したような難点を自覚していたからこそ、公刊著作に組み入れなかったのだと理解できる。そもそも時系列からして、核心たる『第三空間』の体験の後に、さらに冷徹な論調の『第一空間』に属する著作が公刊され、試行錯誤の跡と思われる『第二空間』に属する『遺稿』が集中的に書かれているのだから。
著者は『第三空間』の中心課題である『永遠回帰』について、次のような一般に流布している説明を退ける。
(1)『生が回帰するとしても後悔しない(=いとおしまねばならない)ように生きよ、などという説教』
(2)『生の回帰を信じて生きればよく生きられるとか、生の回帰が確証されればよく生きざるをえなくなるといった、ふぬけた話』
(3-1)『過ぎ去ったものを救済し、すべての「そうあった」を「そう私は欲した」に創造し変えること──これこそが私には救済である』という言葉に表現されている考え方
(3-2)『これが──人生であったのか、よし!それならもう一度!』という言葉に表現されている考え方
(4)『何か一つの喜びに対して『これはいい』と肯定したこと』があれば、全てはつながっているのだから『一切の苦しみに対しても『これはいい』と肯定したことになる』という主張
(1)と(2)は入門書・解説書によく見られる『永遠回帰』の解説である。あまりに分かりやすい解釈であり、私としても違和感があるところだ。驚きなのは、(3)と(4)はニーチェ≒ツァラトゥストラ自身による解答試案であるということである。(3)は著者によると『第二空間』的な方法である。つまりそれは『解釈』によって『意志を事実に一致させる』というものであり、『力への意志』が『過去さえをも自分の支配下に包み込もうとしている』のだと指摘される。著者の意図を推測するに、『永遠回帰』の恍惚体験に哲学的輪郭を与えようとする『奮闘』における失敗した一過程だ、というところだろう。(4)に対しては『こんなふうな嘘を作り出してまで一切を肯定しようとするのは病気』であり、『肯定に固執することは、否定を否定することに固執することである』とかなり手厳しい。著者は『永遠回帰思想の最大のポイントは現実肯定』にあり、それは『おのずとなされる肯定』でなければならないと説明する。私なりに表現すると、『意志』の力によって自らを無理やり正すようなやり方ではだめなのだ、というところだろうか。そうであれば、実存主義者の描くニーチェはだいたい不適切だということにもなる。私には、彼らのニーチェは勇ましすぎるように思えてしまい、あまり好きになれない。著者はさらに一歩進めて、そのような『極大の肯定』は、『極大のパースペクティヴ』によって『個々のパースペクティヴ』を否定するという『否定意志の最終形態』であり、そのようなニーチェはやはり『世界を別様に解釈』することによって『ルサンチマンの方向を転換する者』=『僧侶』なのだと指摘する。そうなると、『意志』どころか意識そのもののなかに『肯定』しようと思い浮かぶこと自体がいけない、という逆説のようにも理解できる。
そのように、よくある解説どころかニーチェ自身の解答試案まで退けて、著者は『永遠回帰』について、『剥き出しの事実』を『これがこのまま何度もあって欲しい』と『肯定』することで『全偶然をその偶然性を維持したまま必然化する』のであり、『特定のパースペクティヴ』から自由になった世界では、全ては唯一の『偶然=必然』として『その剥き出しの事実性が、それ自体で、輝き出す』というように表現する。
『万物のうえには、偶然という空が、無邪気という空が、たまたまという空が、不図という空がかかっていると、私がこう教えるとき、それは祝福であってなんら冒瀆ではない。ふとたまたまこれこそ世界最古の貴族の称号であり、私はこの高貴さを万物に与え返し、すべての事物を目的への隷属から救済したのだ。(『ツァラトゥストラ』)』
『生成が一つの大きな円環をなしているとすれば、どんなものも等しく価値があり、永遠的であり、必然的である……
肯定と否定、好きと嫌い、愛と憎、といったすべての相互関係のなかには、ただある特定の生のパースペクティヴと利害関心が表明されているにすぎない。それ自体としては、存在するすべては「これでよい」と語っている。(『遺稿』)』
さらに著者は、そのような『肯定』におけるニーチェを『神性一般』の顕現を祈る者として理解する。著者によると、『永遠回帰』とは『私の生とこの世界そのものを、それ自体として内側から祝福する祈り』であり、それだけが『神性一般』に対して唯一可能な『祈り』である。そのような理解は少し突飛なような気もするが、ニーチェ自身にユダヤ・キリスト教とは異なる古代の『神』体験の復活というモチーフがあったことは明らかだ。超越的な『神』が排除されたなら、世界に内在する『神』しかいないようにも思われるのも事実である。またそのような世界内在的な『神』観念と『永遠回帰』の関連づけが妥当だとしたら、ニーチェの立場は一気にスピノザの「直観知」に近づくのではないかと思う。
『君たちはそれを神の自己解体と見なしている。だがそれは神の脱皮にすぎない。──神は道徳の皮を脱ぎ捨てるのだ。そして間もなく、君たちは神に再会することになるだろう──善悪の彼岸で(『遺稿』)』
だから著者は、ニーチェは『人生に意味がないことに耐えて生きて行かなくてはならない、などという辛気臭いこと』ではなく、『意味のなさこそがわれわれの悦びの根源だと言っている』のだと主張する。世界は意味の余白に溢れていて自由なのだ、くらいのニュアンスであろう。
『未来へと下っても、過去へとさかのぼっても、永遠にわたって、何ごとであれ、現にあるあり方と違ったあり方であってほしいなどとは欲しないこと。必然的なものを耐え忍ぶのみならず、ましてや隠すのでもなく、(中略)むしろ愛すること。(『この人を見よ』)』
しかし著者も強調するように、そのような『永遠回帰』は『力への意志』による『解釈』によっては捉えられない。言葉による思考は全て『解釈』の一種であるから、『永遠回帰』とは本来は『語られるようなことがらではない』ということになる。
著者は本書の随所で、ニーチェはウィトゲンシュタインが沈黙した『語られるようなことがらではない』ことを語ってしまっているという旨の指摘をしている。しかし『語られるようなことがらではない』ということは、社会的に主張することに意味がないということであるから、著者は終盤に『要するに、それは思想なんかじゃないのだ』と言い放つ。そして著者は、そのように理解されたニーチェの哲学を『打ち捨てられるべき螺旋階段』=『はじめからニーチェ空間など少しも感知しなかった人と同じ外部空間へ脱出するための、ながいながい回り道』だと総括する。そこには、ウィトゲンシュタインが哲学の役割を「ハエ取り壺に陥ったハエに、出口を示してやる」ことだと表現したのと同じようなニュアンスがあるのだろう。それでいて著者は、ニーチェの哲学を『学問がそれを僭称するような意味では「真理」を語ってはいない』が『別の意味での真理を──語るのではなく──示している』として『一個の芸術作品』だと称賛するのだ。
私の疑問であった「高貴だの運命愛だのを標榜していたニーチェが、なぜここまで口汚いのか?」という問いにも、本書の整理に基づけば簡単に回答できる。ニーチェは『第三空間』の体験に哲学的輪郭を与えようと試行錯誤し、その過程でそれを阻害するように思われたキリスト教の『道徳』や形而上学を相手に闘争を開始したものの、その闘争に夢中で『第三空間』的な境位からしばしば遠ざかっていたのだ。著者は『超人』を『第三空間的理想の第二空間的形象』と形容している。やはり『超人』には『力への意志』を携えた『第二空間』がふさわしいものの、その内奥に『第三空間』的なビジョンの萌芽を宿しているということだろう。その『超人』の形容に「口汚いニーチェ」の極限形態を重ねてイメージすることもできるように思う。さらに著者はニーチェその人について『徹底的にルサンチマン的であるがゆえに、それを完全に克服する可能性を示唆しており、徹底的にニヒリストであるがゆえに、ただそうであるがゆえにのみ、ニヒリズムを克服する可能性を開くことができた』と評する。ニーチェ自身の抱える矛盾を包括する本書のニーチェ像は、私の理解からもそう遠くないように思う。 -
あるところで薦められていたので読んでみました。
この本を読むに足るだけの知識が自分にはなく、読み進めるのになかなか苦労しましたが、ニーチェの「神は死んだ」について、何となくは理解できた気がします。
が、著者も書いているように、本書は著者が思うところのニーチェであって、ニーチェには、もっと多面的な見方があると思うので、時間を見つけて、他のニーチェ本も読んでみたいと思います。
哲学もそうですが、人文科学や社会科学は、数学でいうところの公理ほどは、確実な土台がないので、根本的なところを考えだすと、なかなか厄介ですね。
まあ、それはそれで面白いところはあるのですが。
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