哲学の最前線―ハーバードより愛をこめて (講談社現代新書)

著者 : 冨田恭彦
  • 講談社 (1998年6月発売)
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  • Amazon.co.jp ・本 (208ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784061494060

作品紹介

たとえば相手を理解するとはどのようなことだろう?クワイン、デイビッドソン、サール、ローティら、現代最高の哲学者たちの主要な議論がみるみるわかるガイドブック。

哲学の最前線―ハーバードより愛をこめて (講談社現代新書)の感想・レビュー・書評

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  • 現代哲学の入門書として、小説のように会話対で内容が進んでいくのでとても読みやすいです。時間があれば、各章末に出てくる読書案内も読んでみたいです。

  • 最前線とか言いつつも、少し怪しい。小説形式で哲学が語られるので非常に読みやすいが、到達点が何やら非常に曖昧。

    「解釈学」:ディヴィッドソン
    アメリカにおける哲学に沿って、比較的現代的な哲学が語られる。例えば、我々が事象を観察する際には、関らず、先入見といった「理論」が必要となる。要するに、温度計を使って水が何度で氷になるか、沸騰するかといったことを測るにしても、「温度計の概念」などを知らなければ、そもそもそういった実験自体を行えないわけで、この理論があらかじめ必要となることを、「観察の理論負荷性」と呼ぶ。つまり、観察は理論によって背負われているといった具合に。で、これを押し広めれば、我々が何を捉えるにしても、必ず、その前提としての理論が必要となる、といったことが述べられているのだが、「我々が赤子」のときにはこれは該当しないのではないか?少なくとも、我々は後天的にさまざまなことを学びゆくのだから、さかのぼり続ければ我々が「無知」な状態があり、その無知な状態から観察をしてあれやこれやを取り入れてゆく、のならば、「理論を要しない観察も存在しうる」とは思うのだけれどどうでしょう?だからこれはあくまで「大人」を基準として考えられる理論ではなかろうか?と思われるのだけれどもね。

    「指示理論」:サール
    我々がある固有名:石井、武井などを使用するときに、そこには必ず何かしらの「記述」内容が込められているのではないか?といった伝統的指示詩論がある。例えば、ニーチェは、「かつてショーペンハウエルに傾倒していた」「発狂して介護されて死を迎えた」みたいな具合に、ニーチェを記述しうる文は無数にある。この、記述文が無数にあることが「ニーチェ」という存在を保証している、といった形なのかな、指示理論というやつはね。勿論、ニーチェの説明をすべて自らが知っている必要はないし、説明できる必要もない。ただ、こういった複数の記述文が存在していることによってニーチェという固有名の存在が保証されているといったことが固有名には重要なのだろう。で、この、「複数=群=クラスター」というところが一つのツボで、もし、一つの説明しかなければその存在をその一つの言葉でしか定義できなくなるわけで、それはおかしい。また、自分がその言葉自体を知らなくても、誰かが知っていればよいわけである。相対性理論や地動説が正しい理由やその内容を詳細に説明できなくとも我々はそれを正しいと判断できる(=観察文=我々がそれを聞いたときにyes,noを即座に判断できる文)のは、この群概念が鍵となっているようである。で、この伝統的な指示理論への反発も当然のごとく生じる。つまり、伝統的指示理論では、「対象→記述されうる=その上で誰なのか同定されうる」という関係性があるのだが、対象があっても記述されていない、あるいは記述されているのに対象がないといったことが生じうる(※ちなみに、固有名でなくとも存在を指示できる。あの背の高い人、みたいな感じでね)。例えば、子供が親に「なんか感じのいい人がいた」と伝えた際に、親はそれが誰なのかさっぱりわからない。で、これは、子供は誰かを示しているがそれが誰なのか同定されえない。とはいえ、これ、記述はされてるしそれを元に親は誰か自分で調べればよいのだから、指示理論に含まれうるとも考えられる。つまりあれやこれや情報量の少ない場合、情報の誤っている場合を想定することは可能だが、そのような際でも、我々が正確な対象や記述を求めればそこに到達できるしそこに到達するためには記述が必要となるといったことが言える。それで、我々の言う理論というやつが必ずその記述に介在するのだよね。というところで、解釈学と指示理論が繋がる。

    「連帯」:ローティ
    さて、哲学において「感覚与件」が重視される。それは、我々が感じたありのまま=現象学的見地なのだけれどもね。主観を一旦『』でくくりありのままの現象を記述する。まあ、この、記述にはすでに我々の理論が介在するとしたら、そこに絶対性はなくなるよね、と。で、現象学的見地は特にフッサールとの関連などでも非常に重要視されているのだろうが、これは、ローティによれば、「鏡的人間観」なのだとか。つまり、何かしら鏡=絶対的規範が欲しい。そういう気持ちが、プラトンのイデアや、キリスト教における神、現在の自然科学などの万能性信仰へとつながっているのだといった具合にローティは考えているようだ。だが、「解釈学」や「指示理論」といったものを鑑みれば我々には、「絶対性」などはありはしないのだ。我々にあるのは「自文化中心主義」である。これは、エスノセントリズム=自民族中心主義とは少し異なるらしい。つまり、相対主義ではない。我々は、我々の信念と事実によらなければ世界を捉えられない。そして、当然、我々が世界を捉える際に世界自体も我々に関与する。そういう相互交流のようなものがあり我々は世界を認識する。だが、それが絶対的に正しくないとしても、我々は自らの信念を正しいとしてしか物事を認識できないのだからそのような意味で我々の信念は正しいのである。無論、異なる信念の者はいるだろうが、だからといって自分は相手の信念もまた正しいのだからそれでいいとは言えない。なぜなら、自分の信念を正しいとして世界を認識しているからであり、である以上は、「自分にとっては自分の信念のみが正しい、ということが我々の根底において既に規定されてしまっている」のである。しかし、それでは心許ない、ならば、連帯しよう、という、なんだか竹田青嗣みたいな結論になってしまったのが何やら残念。確かに連帯すべきなのかもしれないが、より深くへもぐることでつかめるものがなにかしらあるはずで、本著で述べられているのはあくまで遠巻きに概観しているような印象しか受けないのだよね、そこが不満点。いわゆるポストモダンへの突破口の一つなのかもしれないけれど、それで、どこへ行くの?と訊かれると困ってしまいそうな終着点である。一種の爽やかなる諦念みたいなものが感じられるのだよね。

  • 【資料ID】29827
    【分類】133.9 /To58

  • 下宿 富田先生の本、主観から・ある程度正しいと思う事を信じることから理解は始まる

  • ハーバードよりの副題で解る様に、`アメリカ`現代哲学の紹介であり、従って、全編分析哲学の紹介となっている(アメリカで哲学と言えばこれ)。解釈学、指示理論等対象は限定されているが、とにかく解り易いのは嬉しい。

  • [ 内容 ]
    たとえば相手を理解するとはどのようなことだろう?
    クワイン、デイビッドソン、サール、ローティら、現代最高の哲学者たちの主要な議論がみるみるわかるガイドブック。

    [ 目次 ]
    第1章 アメリカ哲学の中の「解釈学」(根本的翻訳 好意の原理 誇張された差異 ほか)
    第2章 指示理論をめぐって(オー・ボン・パン 事実と信念 クワインの全体論 ほか)
    第3章 連帯への道(久々の再会 世界の関わり 感覚与件論 ほか)

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