日本人のしつけは衰退したか (講談社現代新書)

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  • Amazon.co.jp ・本 (214ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784061494480

感想・レビュー・書評

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  •  青少年による凶悪事件が起きた際、必ずと言って良いほど家庭のしつけの問題が取り沙汰されます。1999年に起きた神戸連続児童殺傷事件(別名、酒鬼薔薇事件)で中学三年生の少年が逮捕された時には、「心の教育」の必要性が訴えられ、家庭のしつけの望ましいあり方が提示されました。しかし、「家庭の教育力が低下している」「父親の不在」といった〈家庭のしつけの衰退〉イメージは、果たして正しいのでしょうか。

     著者はこのような関心から、まず本書で問い直す教育力をめぐるイメージを次のように3つに分け、さらにそれに関連するイメージも細かく確認していきます。
    ・イメージ1――家庭の教育力は低下している。
    ・イメージ2――家庭の教育力の低下が、青少年の凶悪犯罪の増加を生み出している。
    ・イメージ3――家庭の教育力を高めることが、現在求められている方向である。

     その後、社会学における「社会階層」という分析概念や農村-都市の対比、また家族-学校関係、家族-地域関係を分析視点とすることを確認しながら、歴史をたどることによって「家庭のしつけの昔と今」を明らかにしていこうと試みます。特に、新中間層が現代家族の原型を作った大正期、家族や地域・学校のあり方が大きく変わった高度経済成長期、家族と学校との力関係が決定的に変化した高度成長期後の時期の3つに注目して、しつけの問題にとどまらず、現代の教育・家庭問題全般がどのように形成されてきたのかも描いていきます。

     本書は、家庭や教育に関する研究に触れたことがない方も非常に読みやすい著作になっています。それと同時に、イメージといった一見あいまいなものを分析する手法についてや、家庭を教育という観点から眺めること、歴史的視点を用いることの意味など、本書から発展的に考えてみることができる議題もたくさん盛り込まれています。ぜひ一読してみてください。
    (ラーニング・アドバイザー/国際公共政策 SATO)

    ▼筑波大学附属図書館の所蔵情報はこちら
    http://www.tulips.tsukuba.ac.jp/mylimedio/search/book.do?target=local&bibid=1380944

  • いまでもよく自分が引用する良書。広田照幸の鋭い分析が光る。

  • 現代の家族関係の言説の正当性について、歴史的過程を踏まえつつ再考を迫る。つまり「昔はよかった」の如き単純思考を、過去の男女差別の常態、家長制、絶対的レベルでの貧困問題等の諸事情を無視するものとして、著者は排斥し、その上で、しつけ・子育ての最終責任を家族だけに押し付ける結果に陥っているのが現在と指摘。◆至極納得の内容だが、動機不分明な少年事件(一般刑事事件にも妥当)が、戦前戦後期、現代と同程度に存在したかは、やや不明瞭。この解決策の提示が学校・家庭・社会に求められている中、もう少し深めたい。◆1999年刊。著者は東京大学大学院教育学研究科助教授。

  • 著者:広田照幸(1959-)
    内容: 近年の「最近のしつけ」についての言説と日本の教育史。

    【目次】
    目次 [003-006]

    序章 家庭のしつけは衰退してきているのか? 007
    「家庭の教育力」は低下した?/教育力をめぐるイメージ/ある調査報告から/家庭の多様性をふまえて/家族と学校と地域/「しつけ」ということば/「教育力」ということばを考える

    第1章 村の世界、学校の世界 023
    「平凡と非凡」/村の家族としつけ/きびしかった「労働のしつけ」/「村のしつけ」は幸福なものだったのか/アウトサイダーと共同体/「学校は実用にならぬ」/「読、書、算」/都市の家族/外に追い出される子供たち

    第2章 「教育する家族」の登場 049
    親向けのガイドブック/新中間層の教育意識/学校の「よい生徒」=家庭の「よい子」/童心主義・厳格主義・学歴主義/「わが子の教育方針に関する悩み」の起源/「パーフェクト・チャイルド」/「教育する意志」/〈子供期〉を発見するということ/「教育する家族」の中の子供/「廊下すずめ」

    第3章 変容する家族としつけ――高度成長期の大変動 075
    三つの「家族の歪み」/ベストセラー『少年期』/塾とおけいこごと/山びこ学校/「子供にもっと手をかけよ」/広がる進学志向/職業によるしつけの特徴/高度成長は何を変えたか/『故郷』――ある開拓農村の世界/変わる農村/地域共同体の解体と家業継承の終わり/学校の黄金期/「教育する家族」の広がり

    第4章 変わる学校像・家庭像―― 一九七○年代後半‐現代 115
    「いま学校で」/学校不信の時代へ/親の自己実現としての子供の成長/「パーフェクト・ペアレンツ」/家庭に従属する学校/多様で矛盾した親の要求/子供の非行をどう考えるか/非行をめぐる図式/「教育する家族」の呪縛

    第5章 調査から読むしつけの変容 149
    しつけの階層差・地域差/うすれていく階層差・地域差への関心/親子の親密さとコミュニケーション/しつけの担当者は家庭か学校か?/しつけに対する価値観/階層と地域による違いということをどう考えるか/「家族の処方菱」は一通りではない

    第6章 しつけはどこへ 173
    「昔はしつけがしっかりしていた」のか?/社会全体に広がる「教育する家族」/しつけへの不満はどこからくるのか?/しつけ不安はどこからくるのか?/子供は周囲の環境から学び、育っていく/「しつけの衰退」という物語/しつけは家庭の責任か?

    あとがき(一九九九年一月 広田照幸) [201-206]
    参考文献 [207-214]


    【抜き書き】

    □序章 家庭のしつけは衰退してきているのか? 
    □pp. 9ー10
      過ぎ去った「昔」はいつもセピア色の美しさに彩られている。一方、「今」に対しては、われわれはいつも目の前のささいなできごとに目が向き、大局を見失ってしまいがちである。そう考えると、流布しているイメージや予断に振り回されずに、きちんと歴史をたどって、「家庭のしつけの昔と今」を吟味してみる必要があるように思われる。これが本書の中心的なテーマである。
      ただし、本書はもう一つ副次的なテーマを設定している。しつけの問題にとどまらず、現代の教育・家庭問題全般がどのようにして形成されてきたのかを描くことである。家庭のしつけの歴史をたどるという作業は、必然的に、家庭や学校の変化、さらには日本の近現代の社会全体の変化をふまえたものにならざるをえない。
      〔……〕それゆえ、本書では、単にしつけの変化のみを論じるのではなく、しつけの変容という主題を幹の部分に据えつつ、枝葉の展開として、さまざまな教育問題や現代的な家族問題が登場してきた経緯とその性格を描いてみたいと思っている。
      本書で注目するのは、新中間層が現代家族の原型を作った大正期、家族や地域・学校のあり方が大きく変わった高度成長期、そして、家族と学校との力関係が決定的に変化した高度成長期後の時期の三つである。


    □pp. 11ー12  抜き書きではなく要約。
    問い直すイメージ(命題群)。
    イメージ1 家庭の教育力は低下している
      イメージ1―A 昔は家庭のしつけが厳しかった
      イメージ1―B 最近はしつけに無関心な親が増加している
      イメージ1―C 家庭は外部の教育機関、特に学校にしつけを依存するようになってきている

    イメージ2 家庭の教育力の低下が、青少年の凶悪犯罪の増加を生み出している
      イメージ2―A 近年青少年の凶悪犯罪が増えている
      イメージ2―B それは、家庭の教育力の低下が大きな原因の一つになっている

    イメージ3 家庭の教育力を高めることが、現在求められている


    □pp. 16 
      考察を進めるにあたって、どういう視点で歴史を整理していくかという点について、あらかじめ少し論じておこう。
      一つは、社会階層や地域の多様性をふまえるということである。
      社会学における「社会階層」とは、社会学における分析概念の一つである。〔……〕単純にいえば、職業や所得、学歴などさまざまな社会的資源を持っているか否かで構成される、複合的な指標のことである。〔……〕

    □pp. 17
      階層や地域が「しつけ」についての議論に重要なのは、「家庭」は、時期的に変化してきただけでなく、それぞれの時代においても多様であったのとを確認する手がかりになるからである。〔……〕少しかたい表現でいえば、家族のあり方は、階層や地域ごとに社会的に分節化しているのである。
      それゆえ、一つの時代に対して一つのタイプの家族のみがあったというのではなく、どの時代にも複数のタイプの家族が存在してきた。〔……〕できの悪い日本文化論や日本人論でしばしば見かけるような、日本の社会の家族をひとくくりにして論じるような乱雑さを避けてリアルな家族にせまるためには、少なくとも階層とか地域などによる違いをふまえる必要があるのである。

    □pp. 17-18
      もう一つの分析の視角に据えたいのは、家族―学校関係や、家族―地域関係である。
      〈学校〉は、卒業後の生活に役立つ知識や価値の伝達を目的とし、〈地域〉は子供の将来の生活の場となっていたという点で、子供の将来の生活の準備であるしつけや家庭教育と無関係ではありえない。〔……〕しつけや家庭教育教育の変容を見ていく際の重要な焦点になるはずである。


    □p. 20
      また、意図的な「しつけ行為」と無意図的な「人間形成機能」とを区別する必要もある。


    □p. 30 
      特に、幼少期のきびしいしつけが重視されてきた西洋と対照的に、日本の伝統的な子供観は、子供は自然に大きくなって一人前になるものだという考え方が支配的であった(山住正己「近世における子ども観と子育て」)。昭和初めの熊本県須恵村に住み込んだ米国の人類学者は、小さい子供が傍若無人にふるまっても大人たちがほとんど怒らないことを詳細に書き残している(スミス&ウィスウェル『須恵村の女たち』)。日本の伝統的な考え方に基づけば、「子どもは年頃になれば自然に分別がつくもの」だから、小さいときにきびしくしつける必要などないと考えられていたのである。


    □p. 32
      以上のように、当時、労働のしつけをのぞけば、親が子供をきびしくしつけるという意識は、意外なほどに希薄であった。〔……〕これに対して、「別に親がしつけをしなくても、祖父母や親戚、近所の人や若者組・同年齢集団など、周囲の人々がちゃんと人間形成機能を果たしていたからそれでいいじゃないか」といった論はありうる。実際、村落共同体の人間形成の論理の中から、現代の教育の諸問題を克服する手がかりをえようと考える教育学者や、村の人間形成のあり方を理想化して、一種のユートピアとしてイメージする民俗学者などは、少なからず存在する。


    □pp. 33ー34 
      しかしながら、かつてのしつけを、果たしてそのようにハッピーに描いていいものだろうか。近代化で失われたユートピアのように描かれる、「村のしつけ」のイメージには、次に述べるようないくつもの重要な点が見落とされているように思われる。
      まず第一に、「村のしつけ」には、差別が組み込まれていた。「目上」の人に礼儀正しいというのは、忍従や卑屈さと裏表の関係であった。長男と次三男との区別、男児と女児の区別、家柄や財産所有などによる家格の区別など、微細な差異づけの体系や支配‐隷属関係が含まれていた。〔……〕
      第二に、生活の中で自然に学んでいくという人間形成のやり方は、意識的な配慮をともなわないがゆえに、しばしば望ましくない結果を生むことがあった。


    □p. 35
      丁稚〔でっち〕・徒弟奉公や女中奉公などは、「他人のメシを食う」という意味で教育的な役割を果たしていたのだ、と論じた文章を時々見かけるが、それはあまりにも牧歌的というほかない。〔……〕一般に、児童労働が果たした無意図的な社会化機能を称揚する議論は、雇い主の無配慮や酷使がおびただしい数の少年少女の人生をだめにしてしまったことを忘れているのではないだろうか。


    □p. 36
      第三に、家族が離散したり共同体からはみ出した子供たちは、適切な配慮をしてくれる者もないまま、アウトサイダーとして生きざるをえなかった。「村のしつけ」が対象にするのは、あくまでも共同体の正規のメンバーに限られていた。


    □p. 37
      第四に、「村のしつけ」の基準は、ローカル・ルールであったということである。礼儀作法もしきたりも、村の中でこそ通用するが、都会などの村社会の外ではまったく無力なものであった。〔……〕
      また、ローカル・ルールは、しばしば人を意固地にし、臆病にした。集団内では、よそ者に対して冷たい視線を浴びせる(それは無関心以上にたちが悪い)。集団の外に出ると萎縮して同調するのに汲々としたり(「郷に入らば郷に従え」)、開き直って無遠慮にふるまったりする(「旅の恥はかき捨て」)――そういったメンタリティは、「日本人論」の中でわれわれになじみが深い。〔……〕
     その意味で、学校と軍隊とが近代日本において教育機関として大きな影響力を持ちえたのは、人のふるまい方に関して、まがりなりにも全国共通のルールを教える場となったからであった。

    □p. 38 
      一九四二年に宮本常一は、「今日までの学校教育の殆んどは、先〔ま〕ず、村落生活と無関係になされて居たと言つて過言ではなかつた様思ふ」と書いている(宮本「子供の村落生活と教育」)。


    □p. 39 
      「今の学校は実用にならぬ」といわれたのは、別に敗戦前後のこの時期に限ったことではなかった。民俗学者や教育史家は、かつて学校の教育内容が、村で必要とされたものとかけ離れたものであり続けたことをしばしば指摘している。
      いわば、村と学校の関係は、異質な人間形成論理の長い葛藤と棲み分けの歴史であった。〔……〕
      〔……〕そのため、学校が民衆に受け容れられるまで、学校焼き討ちや村落習俗との対立など、さまざまな軋轢〔あつれき〕が長い間あちこちで生じた。
      しかし、次第に学校は村に定着していった。

    □p. 40
      おそらくもっと重要だったのは、いったん子供たちが学校へ通うという慣行が定着してしまうと、親たちは子供を学校へあずけっぱなしにした、という点である。〔……〕先にも述べたように、働くのに忙しいうえに、子供の問題にはウエイトをおいていなかったから、親たちは学校教育の内容に関して関心をあまり払わなかった。


    □p. 42
      都市にも目を向けてみよう。初めての国勢調査が行われるようになった一九二〇(大正九)年頃には、ようやく都市下層でも世帯単位で把握できる程度に家族のまとまりが作られるようになってきていた。だがそれ以前、すなわち明治期の都市下層は、そもそも、家族という単位がしっかりとしていなかった。狭い長屋の一室に数家族が同居していたり、〔……〕あるいは両親ともに子供を置き去りにして消えたりなど、家族が離合集散をくりかえすのもめずらしくなかった。


    □p. 43 
      鈴木智道によれば、一九二〇年代に大都市で制度化されていった方面委員制度(今の民生委員)は、〈家族〉という表象をモデルにして都市下層の家族を安定的に機能させようとする行政的な介入の試みであった(鈴木「近代日本における下層家族の『家庭』化戦略」)。とはいえ、方面委員の活動がいきなりめざましい成果を挙げたわけではなかった。

    □pp. 47-48
      このように、農村でも都市でも、多くの親たちはしつけや家庭教育に必ずしも十分な注意を払っていなかった。〔……〕「昔の親は子供をしっかりしつけていた」というイメージにあてはまらない親の方が、むしろ普通であったのである。

  • いじめは昔もあったけど、最近のは陰湿化している。子どもの犯罪も凶悪化している。受験とか勉強のことばかり言って、基本的な親のしつけ方がなってないのではないか。昔は近所にこわいオヤジがいて、みんなをしかってくれたものだ。よく聞かれることばばかりです。でも、これって本当に正しいんでしょうか。どうも昔は良かったというように過去を美化する傾向があるのではないでしょうか。この本の著者はこんな思いで研究を始めました。明治にまでさかのぼって、田舎の村や都会、いろんなところで行われたアンケートや、雑誌の記事、あるいは当時の育児書などを調べていくうちに意外な事実が浮き上がってきます。基本的には家庭でのしつけはずいぶん良くなってきている。学校任せでなくなってきている。統計的にも昔の方が青少年の暴力事件なども多かった。どうも、マスコミが突出した事例ばかり取り上げ、大人が過去のわりと良かった部分と比較してしまう。そして教育の専門家までが、同じようなことを言い、各家庭のしつけをマニュアル化しようとし、子どもが犯罪を犯したりするのは、家庭のしつけに何らかの問題があったのだとする。しかし、実際にはそれぞれの家庭でようすは全く違うわけで、同じような育て方でいいわけはないのです。できれば、まわりの意見に振り回されず、そして、自分の育て方が悪かったなどと自信をなくしてしまうのでなく、前向きに自分なりの子育てに励みたいものです。と、自分にも言い聞かせてと・・・

  • しつけの歴史的変遷がよくわかる本。

  • 少し古い本だが、日本の家庭教育の変遷とか、地域、所得による類型化がなされた良書。同僚からの頂き物。ありがたい!

  • 地域社会が変容して都市化して行く中での、教育、しつけの言説の変化はわかりやすいが、処方箋的なものとか、結局のところどうした方がいいのかは明確には提示されていない。(最後に一応書いてあるけど)「よい」教育、しつけとは、とか。

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