倫理という力 (講談社現代新書)

著者 :
  • 講談社
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  • Amazon.co.jp ・本 (192ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784061495449

作品紹介・あらすじ

なぜ人を殺してはいけないのかわからない子供があちこちにいる今、真に大切なことは何か。人間が本来持っている「倫理の原液」をとり戻すための根源的な提案。

感想・レビュー・書評

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  • 人を殺してはいけない。

    というのは当然ながら、人のものをぬすんではいけない、人に優しくしなくてはいけない、まじめに働かなくてはいけない、結婚したら別の相手と恋をしてはいけない、などなど、有限無言の道徳的な圧力が、私たちの選択肢を狭めている。

    道徳なんて、昔々の政治家とか権力者が、自分の財産や利益を守るために作ったんだろう、って思ってた。道徳を守りたくなかったから。だけど、幸せにはなれなかった。

    道徳をどこまで無視していいのか、無視しても楽しく生きていくことができるのかを知りたく、本書を読む。

    筆者とともに、集団心理の歴史を遡る感じ。深い深い淵の底まで。私たちは集団で生きていけるように、決まりを作り守ってきたのだな、本当に幸せであるために。という仮説に辿り着く。

    私は知性の喜びを感じながら幸せになっていきたい。生きていることを存分に楽しみたい。

    美しい文章だった。

    —-メモ—-

    ○道徳は共同体を防衛する一種の虚構なのか?干からびた規範、矛盾した掟、抑圧した因習にすぎないのか?

    ○道徳は社会から加わる圧力ではなく、人間という知性動物が生きる形の内側からもたらされる。それが働くところでだけ、人間は生きていける。本能でも知性でもない力。

    ○人の知性が道徳を守りたがる。(潜在的道徳)
    集団で生きることを前提としている。どんなに逃げても、禁止の声は自分の内側から聞こえて来る。この声に背いて何かをすることは、知性動物としての自分を、何かとてつもなく無意味なものに感じさせる。恐ろしい空虚に包まれる。

    ○禁止の声をよく聞く。その声が、禁止によってどこへ向かえと言っているかをよく聞く。そうすると、私たちは、他人の間で自分が何をすべきかがわかる。何をすることが、知性の喜びであるかもわかる。

    ○約束を守らなければならないのは、社会や共同体の成立に対して自分が義務を負っているから。(その共同体をに属することを選ぶ余地がなかったとしても)

    ○共同体で生きていくために、自ら義務を負う

    ○宗教こそ、人間が本能なしで知性だけでやっていくための防衛装置。本能から離れた知性が引き起こす錯乱や不均衡に、均衡をもたらす。(例えば、死の恐怖に平和をもたらす)

    ○人間は「人と人の間」という実践的な概念

    ○世間という大きな書物を読む旅に出る

    ○病気の時に健康を羨まない心は、長い間の訓練と省察とによって得られる-デカルト

  • 第3章の「躾と感化」の項目は興味深い。躾は社会の圧力によって為されるが、感化は受ける側が自由に受けるものだ。そして、この後の論理展開が面白い。この躾と感化の関係を反対からみるという視点だ。躾は強制であるため受ける側は反抗できるが、感化は任意になされるため、否応なく起こる。つまり、この意図せずして引き起こされる感化なしに、教育は実を結ばないというのだ。「学ぶ」の語源は「まねる」だといわれているように、模倣への欲求が搔き立てられる感情こそが、人が成長していく原点というか、第1歩なのではないか。哲学的な文章ではあるが、ふと立ち止まって考えるきっかけにはなると思う。

  • 道徳や倫理について「約束はいかに守られるべきか」と言ったキーワードで読みやすくまとまっていてよかった。「よかった」で終わるのもの問題なのかもしれないけど、そういうものなんだろう。

  • 昔、たぶん高校の倫社の授業だったと思うが、「倫理や常識は法に優先する」という話を聞き、(その時は)はっとさせられた記憶がある。大人になり、世の中に蔓延るルールやらコンプラやらが面倒になっていくにつれ、ずっと脳裏をかすめ続けてきた台詞でもある。(気が付けば、ルールの隙間を埋めるために、さらにルールを作って埋め込む事の繰り返しである。もっとメタな判断基準があるはずだ・・・)
    本書を読んで、こうした「引っ掛かり」が大分すっきりし、楽になった。
    「倫理」とは何で、どうやって伝え、説明すべきものなのか。この主題は、本書の前半で語りつくされた感があり、結局のところ、理屈で考えても答えがないものがたくさんあり、それを受け入れなければならない。後半は、少し難解なところもあるが、読み応えのあるエッセイ風の文章が続く。社会~人間~道具の関係性に踏み込み、〈物のの勉強〉と〈記号の勉強〉を分別した枠組みから、生きることの価値観を見出していくくだりは、かなり引き込まれた。

  • 数年に一度、巡り会えるかどうかというほど、素晴らしい本。

    道徳ではなく、根源的な倫理について、卑近な例や古今の聖哲の言葉を引かれながら、明快に力強く論じられています。

    ここで、内容をばらしてしまうのが、惜しいので、あえて書きませんが、教育・福祉・法学・宗教思想学・哲学といった分野にご関心のある方は、ページ数も少ない新書版ですので、ご一読をオススメします。

    時代を超えて読み継がれる名著だと思いました。
    帯はひどいキャッチコピーですが。。。

  • 永井均のニーチェ的倫理学に慣れると、こういうのは非常に生ぬるい倫理学として感ぜられるけれど、この人はこの人でかなり鋭いところまで行こうとしているけれども、それを自ら放棄してもいるのがもったいないような微妙なような気がする。我々が倫理を唱えるとき、そこには必ずといってよいほどに「共同体」がある。すなわち我々の倫理は共同体を維持するためにあるといっても過言ではない、といったところから著者の倫理概念は始まる。しかし、仮に共同体を維持するためであっても、それはある意味で形式に過ぎない。それならば、その形式を作用させるための動力が必要なのではないか?そしてその動力を我々は見つけられはしないだろう、その正体を探り当てられはしないだろう、しかしそれに名前を与えるならば「倫理の原液」と呼ばれるのであろう。ある意味、ここで著者の議論は終わっているともいえる。なぜならば、倫理の原液は探り当てられぬ、ものであるからである。とはいえ、著者の議論は一応は続いてく。同じことを延々と繰り返すのかと思っていたら、異なるアプローチで形式と原液に迫ろうと模索している。一応、著者が言う倫理はある意味でカントの唱える形式に近しいとも言える。つまり、定言命法であり、それは普遍的な道徳とも言える。共同体のための道徳は普遍的道徳に相反することもあるが、しかし、原液はそこには反しないだろう。そこから、共同体と原液が分裂していく。実際に共同体同士が争うこともあり、そうである以上、そこには普遍的な倫理は存在しえない。だからこそ共同体から逃れられないとしても、倫理が表出するときにそこに共同体があるとしても、そこから離れなければならない。ここで著者は宗教を考える。宗教には静的なものと、動的なものがある。静的なものは、ある意味自己完結した宗教であり、動的な宗教とはそこから連綿と広がっていくものである。それは人の間をすら越えていく。つまり、イエスによる隣人を哀れめ、という教えである。ある意味でそれらの教えは実践的であり、それらは自然と波紋を描くようにして広がっていくのである。著者はそこにもやはり原液に近しいものがあると述べる。だが、それはより能動的なものとも言える。それでは神とは何なのか?著者は神に祈ることは非宗教的であると言う、なぜなら、その際の神は人間にとって都合のいい存在の神でしかないからである。しかし、神とはそうではない。それでは神について明晰に思索を続ければそれはスピノザが言うような実体となる。それは唯一の実体であり、それが唯一の必然であり、それが我々の総体たりうるものである。その実体を受け入れ認めることによって、それをあるがままに愛することによって我々は普遍的な倫理を得られる。そしてそれはものをあるがままに愛することに通じていく。ものを支配するのではなくてものをありのままに愛していく。人間も機械も、ものも同一である。そこに命がある。その命に触れるのである。その命を形作っていくのである。その息吹を見つけるのである。そうして、我々はそこから倫理の原液に近しいものを得るのである。結局のところ、著者の最初の主張に戻ってくる。我々は形式に従う。その形式を明らかにすることはできても、その形式の動力を探り当てられはしない。ただ、どういったときにそれがめぐるのか、そいうったことだけは辛うじて推論できる。最終的に我々は疑問を持ってはいけないのである。ただ、愛さなければならないのである、と著者は言うのであろう。まるで、同意できないけれど、著者はそう言うのである。

  • この著者はいつも、「ここには問題があるんだ」ということだけを言い立てて、それ以上議論を詰めていない、あるいは詰めようとさえしていない気がする。たぶん好き嫌いがはっきり分かれる本だと思う。私自身はというと、ちょっと苦手だ。でもまあ、おもしろかった。

    さて、以下内容に関して。倫理は普遍性をもっている。殺人、姦淫、盗みはどのような共同体でも「してはいけないこと」とされる。和辻哲郎は、首狩族にとっても殺人は倫理への最大の違反だという。ただし「人間関係の理法」としての普遍的な倫理は「一定の風土に根を下ろした特定の社会として実現」される。共同体ごとに掟が異なるのはこのためだ。だがそれでも、共同体に生きる人々は、特定の社会的構築物である掟を通じて、普遍的な「倫理の原液」を汲み取っているのだと著者は言う。

    倫理の普遍性を追及したのはカントだった。彼は幸福主義的な倫理学説を批判する。人が義務に服するのは、そうすることが気持ちいいからではなく、そうすることが義務だからだ。著者はカントの哲学的努力を認めながらも、私たちが倫理的でなければならないと説得されるのは、理論の正しさによってではないと指摘する。自殺しようとしている人を思いとどまらせ、売春する少女にそれをやめさせるのは、理論ではない。カント倫理学は、人格を単に手段としてではなく、目的として扱う義務があると説く。だが、この説明がどれほど倫理の普遍性をうまく表現していたとしても、その理論の正しさが人々を倫理的にするのではない。人々を倫理的にするのは、そうした理論が正しさをそこから汲み取っているような「倫理の原液」である。

    「倫理の原液」に触れるのは、カントのいう理念的な「目的の王国」ではなく、「経験的性格における人々がすべて究極目的として取り扱われ得るような人間の共同体」においてであると和辻はいう。「経験的性格における人々」とは、「油断も隙もない人々」のことだ。そのような人々が暮らす現実の社会の中で、倫理は実現されている。

    それはたとえば、客にうまいトンカツを食べさせるために毎日トンカツを揚げているトンカツ屋の親父の営みの中に生きているのである。

  • 「自由意志」とはなにか?これをもたないものは、人間ではなく、物欲の奴隷にすぎない。そして<逃れようとすれば、逃れられるような義務をあえて背負う>ことこそが自由意志である、とする。そして、人間の責務とは歴史を継承
    することであるが、これは<技術を習得>することである、という指摘にもうなった。知性にできることは、たかだが<物の有用性を知る>ことであり、もっと大事な<在るものを愛する>ためには、宗教的な感情が必須であると。そして、なにか崇高なものを求めるのが宗教なのではなく、「<在るもの>の前に身を屈める>ことこそが、宗教であり、それは、「お忙しいでしょうか?」ときかれ、「いいえ、少しも」と常に微笑んでいる「東京物語」の紀子の身振りこそがそうなのだ、という。敬虔な態度、というものをこれだけ具体的に表現したのは稀有なことだと思う。

  • 第1章 してはいけないことがある
    第2章 <人様>という考え方は重要である
    第3章 約束はいかに守られるべきか
    第4章 宗教にはどう対するか
    第5章 ものの役に立つこと
    第6章 在るものを愛すること
    あとがき
    (目次より)

  • なんとなく違う気がする。いや「そうのとおりだ!」とか「なるほど!」とか時々思うのだが、いかんせんトンカツ屋の喩えが頻出しすぎてうっとおしい。トンカツ屋のことしか記憶に残らない。つかみとしても面白くないしトンカツ屋さえなければもっと面白くなったような。倫理にうざいイメージがついて良くない。

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著者プロフィール

1951年大阪生まれ。批評家。中央大学大学院文学研究科修了。立教大学現代心理学部教授などを歴任。主な著書に『剣の法』(筑摩書房)、『日本人の信仰心』(筑摩選書)、『独学の精神』(ちくま新書)、『批評の魂』(新潮社)、『小津安二郎の喜び』『民俗と民藝』(講談社選書メチエ)、『ベルクソン哲学の遺言』(岩波現代全書)、『信徒内村鑑三』(河出ブックス)、『沈黙するソシュール』(講談社学術文庫)、『倫理という力』(講談社現代新書)など多数。

「2018年 『愛読の方法』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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