- Amazon.co.jp ・本 (272ページ)
- / ISBN・EAN: 9784061497092
作品紹介・あらすじ
スサノヲから壬申の乱まで、古代史の謎を「最古の史書」からどう解くか。編纂に関わったのは誰か?一読すれば、日本書紀の読み物としての面白さと、その研究上の課題とがおのずと浮かび上がってくるはずです。
感想・レビュー・書評
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日本書紀の面白テーマを解説した本。知れば知るほど 日本書紀の人間臭さを感じる
スサノオ神話=大祓(聖化のための宗教的儀礼)の起源
*神話=世界の始まり、古代の人々の世界観
*日本書紀=アマテラスの子孫である天皇の正統性を説明する政治的な意図
*天岩戸屋神話=アマテラスへのスサノオの乱暴→暗黒世界→祓え→スサノオを出雲へ追放
崇神天皇は実在したか
*崇神天皇=実在した初代天皇説の否定
*イリヒコ=シャーマン。オホモノヌシ(神)に 憑依された ヤマトトトビモモソヒメ
*日本書紀=天皇の支配の拡大、日本列島統一のプロセス
1.国譲り=高天原が葦原中国を軍事的に平定
2.神武東征=天皇がヤマトを軍事的に平定
3.欠史八代の聖婚=天皇がヤマトを宗教的に平定
4.四道将軍=天皇が葦原中国を宗教的に平定
欠史八代=実在しない天皇
雄略天皇=ワカタケル
*最初の治天下大王
*安康天皇殺害の黒幕は 雄略?→眉輪王は身代わり
飛鳥仏教神話
*蘇我氏が仏教興隆の主導権を持つ
*聖徳太子が日本仏教の創主とする説を否定
*孝徳天皇が仏教興隆に乗り出した最初の天皇
日本書紀 「神代」 日本書紀を 古事記 と異なる世界観と捉えた論文集。考察の中心は 「根の国に遂われたスサノヲ」
テーマ
*スサノヲが根の国へ遂われた意味
*秩序から排除され、無秩序を打倒するスサノヲ
*スサノヲとのウケヒを通して、アマテラスがオシホミミを得る意味
*アマテラスが感じるスサノヲへの危機感
一つのエピソードで、ここまで ドラマがあることに驚いた。
根の国に遂われることの意味
*秩序の外に追放される、世界から排除する
*日本書紀は根の国を語らない〜日本書紀が語るのは 秩序(天と天下)であり、秩序の外は語られない
*根の国の設定とスサノヲの追放は表裏一体
秩序から排除されるスサノヲが秩序を現していく構造
*無道のため、世界の秩序の外なる「根国」に遂われ、世界は天下の主の不在をかかえる
*無道なスサノヲが、天の秩序に触れた時、秩序の破壊者として現れる
*地の秩序に触れた時、その無秩序を打倒する力となって現れる
アマテラス
*スサノヲとのウケヒを通してオシホミミを得る
*天孫降臨へ展開し、神々の世界の自立性を明らかにしている
*天孫降臨は 天の目的であり行為であるから正当化される
オシホミミの出生
*女神アマテラスの子としてオシホミミが出生する
*スサノヲとアマテラスの二神の子とすると男神スサノヲの子になるが、アマテラスの子とするために、物根の交換が行われた
*ウケヒは 出生のための装置
スサノヲにはアマテラスの国を奪う志はない〜アマテラスはスサノヲに危機感を感じ、スサノヲは根国に遂われる
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<a href="http://amzn.to/zDe4Gu" target="_blank">松谷みよ子の日本の神話</a>を読んだのだが、子供向け絵本だったこともあって、もう少し勉強しようと読んでみた。複数の解釈を紹介したり、他の史書との比較もあったりして、どちらかというと日本書紀の楽しみ方といった内容。
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内容は「日本書紀の読み方」、ではないな。五人の著者も国文学者ではなく全員史学者。
加藤謙吉氏の「「歴史の出発点」としての雄略朝」がおもしろい -
日本書記。
部分部分の解説、推察。 -
スサノオは、アマテラスに対して狼藉を働き、それが祓いの起源だ通説は謳うが、しかし、それはそれは古代人の観念をそのま説明していることにはならないのではないか?面白かったのは、最初の論文、平林 章仁の「スサノヲ神話を読み解く」である。後他の著者のは、細かいところに入り過ぎていて、素人には読むのにかなり骨が折れる。新書向きの内容ではないのではないか、とも思った。以下、平林 章仁の説の引用。
生剥ぎ− 神様は新鮮な食べ物がお好き
生剥ぐとは、獣がいまだ生きているときに皮を剥ぐことである。天斑駒は本来、アマテラスの祭儀に捧げられた犠牲であったが、どうして生きながら皮を剥がれなければならなかったのだろうか。
死んだ馬を解体して肉を神に供えると神僕にはなるものの、犠牲=生きている贄(馳走)とはならない。現代のように生のままで食物を保存することができなかった時代にあっては、神が召し上がる神僕・贄(にえ)は新鮮なのが最良で、とくに犠牲(いけにえ)は生きていることに重要な意味があった。生きながら神前で皮を剥がれた天斑駒は、耐え難い苦痛から天にも届かんばかりに甲高く斯き大きく暴れたに違いないが、それはまさに生き生きとした新鮮な贅であることを神に示すことでもあった。これを惨忍極まりなく思うのは、生産と消費が分離してしまった近代の感覚である。生剥は、神に犠牲を捧げる際の儀礼的な皮剥ぎの方法であった。
生剥で想い起こされるのは、海の和邇(わに)を欺いたため生きながら皮を剥がれた稲羽(因幡)
の素菟(しろうさぎ)の神話である。古事記神代記では、かのシロウサギは大穴牟遅神(おおむなち)(大国主神)から治療法を教えられて助かるが、生きながら皮を剥がれたシロウサギも本来、海神(わたつみ)であるりこ神への犠牲(いけにえ)だったにちがいない。ワニが海洋民に神格視されていたことは、海神の娘トヨタマヒメが出産に際しワニの姿に変身したと伝えられるなど、広く知られている。
逆剥とは、日常とは反対に尻から頚のほうに、皮を剥ぐことである。生剥だけでなく、
逆剥にも同様に儀礼的意味があったと考えられる。
(中略)
祭祀や葬祭での重要な儀礼上の所作が日常とは反対に行われることは、死者に着せる着
物を左前にするなど、今日でも経験する。アマテラスが籠りから出たさいに、天石窟に境
界としてわたした注連縄(しめなわ)が、日常とは反対の左絢いであったのも同じである。また、古事記の団譲り神話で、オホクニヌシに国譲りを諮問されたコトシロヌシは、譲るべきと答えて「天の逆手」を打ったとある。おそらく、ふだんとは反対の方法で柏手を打ったのであろうが、これも日常とは逆の仕草である。
非日常的な時空であることを示すために、祭儀や喪葬での所作はふだんと反対の方法で
行うべきとの観念が存在した。神々や死者の棲むあの世は、この世と逆転した世界と観念
され、それに関わる所作は日常とは反対の方法でなされなければならなかったのであり、
逆なのはいわば神々のやり方だった井本英一『王権の神話』法政大学出版局)また、非日常的な時空では、日常的な秩序に拘束されない無礼講となり、時には破壊的・暴力的であることも許された。
では、どうしてそれが「天つ罪」とされるのだろうか。生剥・逆剥は、祭儀にだけ許されていた犠牲馬の特別な皮剥の方法であった。日常はそれとは反対に、死んだ馬を頭から
尻のほうに皮を剥ぐのが正しい方法とされた。したがって、祭儀でないふだんに生剥・逆
剥を行うことは、宗教的にタブーであった。この宗教的な禁忌を侵犯することが天つ罪と
されたのであって、天つ罪とは、刑罰を科せられる世俗的な法律違反の罪ではないことに
注意しなければならない。それは、あくまでも宗教的な秩序に反する罪であったから、刑
罰ではなく祓という宗教儀礼が必要とされたのである。
古代には、便所や糞尿を不浄、汚穢とする観念は必ずしも支配的ではなく、汚穢観では
理解しがたい一面が存在した。とくに廊での神婚伝承は、痢がこの世とあの世をつなぐ境
界、異界との通路と考えられていたことを示している (飯島苫晴『竜神と廟神』人文書院)。
アマテラスが梭(ひ)で陰部を突くことが、丹塗矢や箸の場合と同様な儀礼的性交を示唆していることに照応して、その場へのスサノブの屎まりにも儀礼的な意味があったと考えられる。本来それは、儀場を汚しアマテラスを困らせるといった単純な動機によるものではなくて、新嘗の儀場を日常的世界と隔絶させるための儀礼的行為ではなかったか。
先にも述べたように、古代人の世界観によれば、神が棲み死者が逝くあの世は、現実と
論理の逆転した世界であった。あの世に移行するには、日常性から脱することが必要で、
そのためには物忌(ものいみ)のような静的な方法のほかに、日常の規範を否定し、逆転させる破壊行為も有効と考えられたのだ(薗田稔『講座日本の神話 四』有精堂/山内和『「食」の歴史人類学』人文書院)。日常の秩序が否定・破壊されて逆(さか)しまなあの世が現出するのであり、反対にあの世からこの世にもどすのにも禊・祓などの儀礼が必要とされた。
スサノオの屎まりは、あの世へ移行するための日常的秩序の破壊という儀礼行為であ
り、祭儀の場でしか行えない禁忌だったと考えられる。屎戸は、日常世界から祭儀時空へ
移行するための、日常規範を逆転させる儀礼的破壊行為だったのである。
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いろんな先生方が日本書紀の好きな部分について思うさま論じているのですが、日本書紀と一口に言っても長すぎるじゃない。それぞれのテーマ選びに全く脈絡がなくてついていけない!!面白いけど何の本なのこれ。
著者プロフィール
遠山美都男の作品





