- Amazon.co.jp ・本 (196ページ)
- / ISBN・EAN: 9784061497184
作品紹介・あらすじ
まんが・アニメに溢れる美少女像はいつ生まれてどう変化したのか?「萌え」行動の起源とは?七〇年代末から今日までの歴史を辿る。
感想・レビュー・書評
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納得できる人も多いでしょうが、納得できない人も多いでしょう。
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刊行されたのが2004年なので些か古い議論になっている感もなきにしもあらずだが、男性の「視線」を巡る文化史として基本的理解を得るには最適なのではないだろうか。基本的にオタク文化のことではあるが、もうちょっと普遍化できる議論かなとは思う。〓ギャルゲーのキャラクターへの「選択(肢)」に責任を持つ、という視座はこの時代の東浩紀周辺の書き手がよく書いていた概念だと思うが、そこらへんのところは、今改めて検討し直してみるのもいいかもしれない。『美少女ゲームの臨界点』とか。ただ、『君が望む永遠』って当時はオタ界隈でセンセーショナルに受け取られてたけど、ぶっちゃけ昼のメロドラマでしかないよねーという身も蓋もないけどたぶんそのとおりの意見は常に忘れないでおいたほうがいいとも思う。
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東2法経図・6F開架:B1/7/1052/K
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読みました。
「かわいい」って一体何なんだろう?
ちょっと考えてみたくて 図書館で借りてきてみた。 -
漫画やアニメに登場する美少女キャラクターと、美少女キャラクターにまなざしを向ける主体との関係を、歴史的経緯をたどりながら論じた本です。
男の子は、恋愛の対象としての女の子に向ける自分のマッチョな欲情が、女の子を傷つけるものであることを自覚するという形で、自身が「傷つける性」だということを発見すると著者は言います。これに対して、あだち充の『タッチ』に代表されるラブコメは、従来のスポーツマンガのストーリーを継承しながらも、「彼女のため」という新たな動機を注入することになります。「傷つける性」であることを自覚した主体は、美少女ゲームに登場するヒロインの内面をたどる「視線としての私」にまで退却することで、ようやく居場所を見つけることになります。
しかし著者は、彼女の内面を分かってあげることのできる「僕」というのも、まなざしの主体でけっして客体とはならない、特権的な位置にみずからを置いていることになると指摘します。紡木たくの『ホットロード』を境にして、少女マンガから内面的な表現が後退し、ふたたび居場所をなくした男性が、美少女キャラクターを求めることになります。
美少女キャラクターにまなざしを向ける主体の暴力性については、大塚英志や宇野常寛などの多くの論者が批判しています。擁護する試みもあるにはあるのですが、本田透は透明な主体の暴力性に無自覚だし、東浩紀の立場はこうした事態に自覚的であることによって倫理性が担保されるという考えに親和的ですが、やはり相当苦しいのかなと感じています。美少女キャラクターの登場するマンガやアニメを楽しんでいる読者の一人としては、現実の他者への関係に反映されるケースをそのつど撃つというところで留めておいてほしいといったような、消極的なことしかいえません。 -
80年代を色々始まりの時期と提起する人が多い気がする
あとはジェネレーションギャップがすごい
出てくる作品ほとんど観たことない -
作品のメインの属性ばかりにスポットがあたっていて脇役好きな私はちょっと引き込まれて辛かった
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まんが・アニメに溢れる美少女像はいつ生まれてどう変化したのか? 「萌え」行動の起源とは? 七〇年代末から今日までの歴史を辿る。 ・・・と表紙には書いてあるが、これはちょっと誇大広告かな、という感じが否めない。と言うのも、確かに美少女キャラクターの変遷などを語ろうとする筆者の意図は伝わってくるのだが、結局の所70年代~80年代の漫画やアニメの時代表現に終始している、というのが殆どの内容だから。その作品解釈の内容も細かいトコロに突っ込みたくなるオタク精神的には気になる所が多々あるし論も杜撰である。
「美少女」というイメージや「萌え」という行動を考えるのに「性的な意味を持つか」ということを踏まえてする、という冒頭の文句を読んでつい手に取ってしまったが、内容が全く違って正直残念。このアプローチはなかなか有効なものだとは思うのだが・・・誰か似たようなテーマで本を書いて欲しい。
とにかく「萌え」を知りたい人が読む意味はない書であることは断言できる。