- Amazon.co.jp ・本 (304ページ)
- / ISBN・EAN: 9784061497412
作品紹介・あらすじ
存亡を懸けて自己を問う。武士道とは大和魂ではない。
感想・レビュー・書評
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新渡戸稲造の武士道とは違う話。
どんな道も考えも、その時代に生きた人、環境、教えなどで違うものであると思います。
思ったことは、人は自分の信念に従って生きてきた結果、色々な道ができたんじゃないかということ。
それを後世に伝えることで道は変化します。
どの道が正解かはわかりませんが。詳細をみるコメント0件をすべて表示 -
古来の武士道と、武士がいなくなってからできた明治武士道は異なる。ぼくらが武士道と聞いて思い浮かべるのは、後者が濃い。
どっちがどうというわけではないが、日本が国際的に自立して行く過程で意識された思想に、なぜ、武士、という名をつけなければいけなかったか。 -
時間があれば
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新渡戸稲造の武士道のオマージュ的な作品と思っていたが、いい意味で裏切られた。
新渡戸のいう武士道を明治武士道と定義し
本来の武士道とは違うという内容。
本来の武士道はもっとリアリティーを持ったリーダーシップであることが理解できた。 -
本書は、明治以前のリアルな武士の精神=本来の武士道と、明治期に作られた思想=明治武士道は、似て非なるものだという。
世界に誇るべき日本人気質=武士道も、明治期に作為的に作られたものに過ぎないのだとすると、我々日本人が本来的に備えている特質って一体何なんだろう。改めて考えさせられる。 -
今日、『武士道』と言うと新渡戸稲造の著書を連想すれど、新渡戸稲造の武士道はあくまで明治時代に発行されたものであり、国を纏める為、政策的意図が強いと指摘する。
本来の武士道とは常に死と隣り合わせであった武士にとっての行動規範のようなものであって、新渡戸稲造の武士道とはあまりに違いが大きいと。
作中によく引用される『葉隠』も機会を作って読んでみたい。 -
201309/
武士の実力は、基本的には、リアルな物質的な力の総合にある。現実に己の存亡を懸けている現場にあっては、そのことを単純に否定するような妙な精神主義の入る余地はない。ただ、そのリアルな力の現実を見据えつつ、その力を保持し、駆使し、拡大していくことができるための条件として、ある種の人格的、精神的な力が考えられていたのは確かである。/
今日の社会では、一応の建前として、自他の対立は、話し合いによって解くべきであるという考えが主流を占めている。理性的な対話こそが無垢・絶対であるとする立場に固執するならば、たとえば問答無用で切りかかってくる武士に対して、どのような言葉を投げかけうるのかを考えてみる必要があるように思われる。自分と他人は異なっているということの深さは、何によっても埋めがたい。どうしても対立を解消したいのなら、刀を抜いて相手を倒す以外にない。こういう考えを、野蛮であるといって片づけるのは簡単である。しかし、そういったからといって、自他の隔たりの深さという問題自体がなくなるわけではない。むしろ、武士を野蛮と笑うそのときに、私たちは、他者の他者性という問題自体を見失っているかもしれないのだ。/
武士道はキリスト教と矛盾しないという対外的な説明に使われた武士道は、ここでは逆に、キリスト教は武士道と矛盾しないという対内的弁明に用いられることにもなる。/
本書がとらえる武士道の基本骨格は、キーワードで示すなら、「私」「戦闘者」そして「共同体」である。これらは、それぞれ「自立」「実力」「心情的一体」という三つの価値に対応している。それは新渡戸稲造の『武士道』とは、まるっきり似ても似つかぬものであるということだ。/ -
個の戦闘者としての思想は現代人とは共有できないが、その極めようとするところには感嘆させられる。
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武士の世界のバランスは、過不及を削った適度としての中庸のことではなく、一人の人物が過激な両極端を矛盾なく体現するところの中庸なのである。両極端を足して二で割った常識ではなく、両極端をそのまま包み込む、いわば両極を超えたところにある常識なのだ。98
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一は一であるということを決して曲げないところこそ、天地宇宙を通じて唯一つ確実な拠り所である。相手が神であれ仏であれ、己れの頼むべき所はそこにしかない。これこそが、武士の発見した「哲学」だったのである。112
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自らを支えるのは、法でも道徳でもなく、自分は刀を抜く存在であるというただその一事にある。それこそが、「男道」「武士道」の、基本中の基本なのである。188
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「忠」とは、自分の主人という特定の人格に対する関係である。これが、「忠」というものに対する普通の理解であった。そのことがおそらく、帝国軍隊に、その統合の核を、国家という抽象的なものではなく、天皇という人格に求めさせた(意識的か無意識的かは別として)大きな理由であったと考えられる。250
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著者プロフィール
菅野覚明の作品





