- Amazon.co.jp ・本 (304ページ)
- / ISBN・EAN: 9784061497412
作品紹介・あらすじ
存亡を懸けて自己を問う。武士道とは大和魂ではない。
感想・レビュー・書評
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本書は、新渡戸稲造以前の本来の武士道とは何かを語る書
それを、武士道の逆襲といっている。
武士とは神仏に頼らず、己の力のみを頼りにするというところがよい。
新渡戸稲造の武士道とは、”Bushido, the Soul of Japan ”
明治国家体制を根拠として生まれた近代思想である。
「武士道」とは武士のそれではなく、明治国家の近代市民の思想なのである。
本書は、それを「明治武士道」といい、本来の男道、武士道とは区別している。
本来の武士道とは、平安中期、八幡太郎義家以来徳川幕府にいたる武士のの流儀・気風を言う。
それを、「兵の道」「弓矢の道」「武士道」「男道」などという。
■武士道とは
①八幡太郎義家以来の「本来の武士道」 江戸時代前期まで、戦国乱世の先頭者の精神そのもの 武士たち自身の俺は武士だという自覚そのもの
②「士道」 山鹿素行以降の平和な時代の武士道 己の職分を知る、戦場における戦闘者の働きを儒教的道徳によって説明する 多分に本来の武士道が含まれている
③明治武士道
■武士とは
・次の3つを満たすものが武士
①戦闘を本来の生業とする者
②妻子家族を含めた独特の団体を形成して生活をする者
③私有の領地の維持・拡大を生活基盤とし、かつ目的とする存在
・自己や一族の生死存亡はすべて自分の力のみかかっている
・自己の存在を保つためには、刀を抜いて切りかかるその一事にある
・武士は武力のみならず、知恵、人望、統率力など有形無形のあらゆる力の総合の上に立つ
■実力家業の世界
・よりどころは、神でも仏でもない。ただ、己の力のみ
・強ければ奪い、弱ければ奪われる。それが武士の掟
・自らの存続をするためには、事実だけだ。そして証拠を重んずる
・勝って生き残るか、負けて死ぬか、その2つに1つ。中間なるものはない
・武士はただ強いだけではない、相手の心情を察し、思いやりを持って応える「武士の情」をも持ち合わせている。
■兵の威
・肉体のすべてが武器であるともに、精神もまた武器である
・制約とは弱み、相手が鬼だろうが神だろうが、踏み込んでつかみかかれ
・常在戦場
・武士は「名」を重んじる。勝ちがなければ、そもそも名を得られない。いったん得たあとも、勝ちつづけていかなければ、その名を保つことができない。
・平家物語 齋藤別当実盛
・優れた武士とは 剛強にして、分別・才学ある男。豪強とは、他人に頼らず、また他人を気にかけずひたすら自分の力と分別によって手柄を立てようとする武士
・武士が生きるのは、金品や言葉のやり取りでなく、命のやり取りである。
・勝つことが命である。犬といわれようが、畜生といわれようが勝たないことにはお話しにならぬ。
・分別のある大将とは、覚え、すなわち、経験と実績がある大将でなければならない。
・武士にあるまじきこと、ふたごころ、すなわち心に嘘偽りがあることをいう。うろんたる事、あいまいなこと、裏表のはっきりしないこと。
■主従
・忠孝の道徳や、利害、報酬だけで、主従の緊密な一体が生まれることはない、幼少から生活をともにした具体的な実体験から生じる。
・侍に上がり下がりはない。武士としての本文を超えた、人間としての心のふれあいのことを言う。
・武士の値打ちは、死んでみてはじめてそれと知れる。
■一生
・いかなる場合にも刀を抜かないのであれば、その者は武士ではない。そして刀を手に取る時は、まさに人を切るときである。
・第一抜くべきときに刀を抜かぬのは、男道に反するということだ。
・武士道とは死ぬことと見つけたり 武士は常に、死を意識して死ぬ覚悟をもっている。
・武士の定年は60ではなく、刀を抜いて死ぬまでだからだ。
・武士とは、人をあてにせず、また、他人の仕方を云々したりそれに左右されたりせず、自ら磨き上げた己の力をよりどころとする
■明治武士道
・西洋式軍隊の強さの根源は、節約とのメカニズムである。
・帝国軍隊は、近代的な国家の軍隊でなければならない。
・軍隊の精神的基盤たる軍人道徳は、結局、武士たちの道徳に頼らざるをえない。
目次
第1章 武士道とは何か
第2章 勝ちがなければ名は取れぬ
第3章 主君と家来
第4章 一生を見事に暮らす
第5章 明治武士道
あとがき
ISBN:9784061497412
出版社:講談社
判型:新書
ページ数:304ページ
定価:880円(本体)
発売日:2004年10月20日第1刷詳細をみるコメント0件をすべて表示 -
新渡戸稲造の武士道とは違う話。
どんな道も考えも、その時代に生きた人、環境、教えなどで違うものであると思います。
思ったことは、人は自分の信念に従って生きてきた結果、色々な道ができたんじゃないかということ。
それを後世に伝えることで道は変化します。
どの道が正解かはわかりませんが。 -
古来の武士道と、武士がいなくなってからできた明治武士道は異なる。ぼくらが武士道と聞いて思い浮かべるのは、後者が濃い。
どっちがどうというわけではないが、日本が国際的に自立して行く過程で意識された思想に、なぜ、武士、という名をつけなければいけなかったか。 -
時間があれば
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新渡戸稲造の武士道のオマージュ的な作品と思っていたが、いい意味で裏切られた。
新渡戸のいう武士道を明治武士道と定義し
本来の武士道とは違うという内容。
本来の武士道はもっとリアリティーを持ったリーダーシップであることが理解できた。 -
本書は、明治以前のリアルな武士の精神=本来の武士道と、明治期に作られた思想=明治武士道は、似て非なるものだという。
世界に誇るべき日本人気質=武士道も、明治期に作為的に作られたものに過ぎないのだとすると、我々日本人が本来的に備えている特質って一体何なんだろう。改めて考えさせられる。 -
今日、『武士道』と言うと新渡戸稲造の著書を連想すれど、新渡戸稲造の武士道はあくまで明治時代に発行されたものであり、国を纏める為、政策的意図が強いと指摘する。
本来の武士道とは常に死と隣り合わせであった武士にとっての行動規範のようなものであって、新渡戸稲造の武士道とはあまりに違いが大きいと。
作中によく引用される『葉隠』も機会を作って読んでみたい。 -
201309/
武士の実力は、基本的には、リアルな物質的な力の総合にある。現実に己の存亡を懸けている現場にあっては、そのことを単純に否定するような妙な精神主義の入る余地はない。ただ、そのリアルな力の現実を見据えつつ、その力を保持し、駆使し、拡大していくことができるための条件として、ある種の人格的、精神的な力が考えられていたのは確かである。/
今日の社会では、一応の建前として、自他の対立は、話し合いによって解くべきであるという考えが主流を占めている。理性的な対話こそが無垢・絶対であるとする立場に固執するならば、たとえば問答無用で切りかかってくる武士に対して、どのような言葉を投げかけうるのかを考えてみる必要があるように思われる。自分と他人は異なっているということの深さは、何によっても埋めがたい。どうしても対立を解消したいのなら、刀を抜いて相手を倒す以外にない。こういう考えを、野蛮であるといって片づけるのは簡単である。しかし、そういったからといって、自他の隔たりの深さという問題自体がなくなるわけではない。むしろ、武士を野蛮と笑うそのときに、私たちは、他者の他者性という問題自体を見失っているかもしれないのだ。/
武士道はキリスト教と矛盾しないという対外的な説明に使われた武士道は、ここでは逆に、キリスト教は武士道と矛盾しないという対内的弁明に用いられることにもなる。/
本書がとらえる武士道の基本骨格は、キーワードで示すなら、「私」「戦闘者」そして「共同体」である。これらは、それぞれ「自立」「実力」「心情的一体」という三つの価値に対応している。それは新渡戸稲造の『武士道』とは、まるっきり似ても似つかぬものであるということだ。/ -
個の戦闘者としての思想は現代人とは共有できないが、その極めようとするところには感嘆させられる。
著者プロフィール
菅野覚明の作品






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