自由とは何か (講談社現代新書)

著者 :
  • 講談社
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  • Amazon.co.jp ・本 (288ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784061497498

作品紹介・あらすじ

「個人の自由」は、本当に人間の本質なのか?イラク問題、経済構造改革論議、酒鬼薔薇事件…現代社会の病理に迫る。

感想・レビュー・書評

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  •  今でこそ自明の理として扱われる「自由」について論じた本。思えば「自由」という言葉ほど頻繁に人の口の端に上るのに、それが何なのか論じられない言葉も少ない。

     「自由」を考える上での最大の難問は、ディレンマに陥りやすいこと。例えばアメリカが「イラクの文明化」を掲げて同国の自由のために干渉したことは「自由の強制」であると言える。「自由」を押し付けるのだから自己矛盾である。

     また、「○○への自由」という積極的自由を徹底的に追求すれば全体主義に、「◯◯からの自由」という消極的自由を追求すると、自己中心主義や排他主義に陥りがちである。○○に入るのは個人の情緒を反映した価値観であり、価値観の相対化を図るリベラリズム(自由主義)に基づいて考えると、何でもかんでも「どっちもどっち」になってしまい、自由の判断の妨げる。

     「自由」という概念は、近代ヨーロッパにおいて自由な個人が国家や社会に先立つものとして「発見」されたことに根差しています。そのため近代国家は国民の安全に対して当然に責任を持ち、権力を行使して自由な個人を支えるものと理解される。

     数年前にイラクで三邦人が人質となった事件があった際、「自己責任論」が人口に膾炙しましたが、著者は国家が「自己責任」を押し付けるのは国家が国民に対する責任を放棄したことに他ならず、そのことによって国民の自由を蹂躙することになると主張する。

     国家と個人との関係を考えれば、政治家や公務員が自己責任論を主張することは自らの責務を否定する自家撞着である。

     現代人は「自由への倦怠」に陥っているとされる。これは昔のように命懸けで抵抗すべき政治的抑圧や道徳的規範がなくなり、自由に対するイメージも稀薄化したことが発端である。

     現代のリベラリズムは「多様性を保証するための平等な権利としての自由」を中心としているが、それでも自由への倦怠は止まらない。寛容と多元性を志向するはずの自由というものは、飲めば飲むほど喉を渇かす塩水のように、求めれば求めるほど不寛容と一元性へと収斂していく。

     そのような自由のパラドックスをどのように克服すればいいのか。著者はそれを多様な「義」を承認することであると主張する。アメリカ軍もイスラーム過激派も自らの「大義」を唯一絶対と考える独善性を孕んでいる。

     そのため両者の調停をするには、互いの「義」を承認しないわけにはいかない。自分の確信も相対的なものの一つに過ぎないことを自覚することが多元性につながる。リベラリズムもその例外ではない。

     「自由」の起源やリベラリズムの抱える矛盾や難問について考える上で必読の書。自由が尊いのは言うまでもないが、それよりも寛容さや多元性を尊重したいと改めて思った。

  • 自由にまつわるジレンマから説き起こし「個人の自由」について相対化した見方を提示した本。

    自由と一口にいってもいろいろある。
    ・自然権として自由と国家の存在を前提とした市民の自由
    ・共和国を前提とした普遍的自由と多文化社会を前提とした多元的自由

    そもそも自由というのが自由な言葉なので、XXの自由といえば、様々なところで互いに対立が起きるのは当然なのだが、問題は、自由という名のもとに、自由が抱えている規範がおそろかになってしまうということだ。
    ・・・・

    と最後まで読んで、自由が個人の選択の自由であることを認めたうえで、実は、その背後に価値の問題を二層想定することがポイントであるいうのが斬新であった。一つは、「共同体としての善」によって個人の選択が評価されるということ。もう一つは、共同体を超えて、さらに「義」とでもよぶほかない価値に自ら殉じるという次元があるということ。この二つが導入されることで、リベラリズムだけでは、納得感のある答えにたどり着けない問いに答えることができる。テロ、援助交際、無差別殺人、さらには、自殺する自由。自由が規範とセットであるなど初めからわかっていたような気がするし、それは、結局こうした基本条件のもとに何をするか、ということが大事だと思えば、当たり前のことなのだが、いつのまにか、手段の目的化が進んでいるというのは、皮肉な話だ。

  • 自由とは何かを考える時、どうして人を殺してはいけないのかという問いに行き着く。このテーマをタイトルにした著書(小浜逸郎氏の著作で、対象読者は佐伯先生より若齢か)も読んだが答えはない。偶々、この著書でも取り上げられた少年Aの絶歌を読む機会があったので、その時に、やはり思考の整理をしておこうと思った。つまり、人を殺してはいけないとする命題に捉われず、人がしてはいけない行為全般を考るというアプローチを取ろうと考えたのだ。かつ、殺人の場合は、そこに死の不可逆性が加わる。レイプや盗難、単純な厭がらせだって、人はしてはいけないのだ。私の理解では、これらはある種の双務事項に過ぎず、結果の不可逆性は罰の程度考慮要素に過ぎぬというもの。双務が成立しえない、人間に限りなく近いが人間ではない存在(脳死をどう扱うという課題はこの線引きの議論)には適用されないからだ。寧ろ、原始社会では存在しない場合もある命題であり、ただの後付けの命題なのでは、というものであった。本著では、功利性、つまり、これら禁止を破った時に被る損失の説明を試みた後、カントの定言命法に行き着く。定言命法とは、道徳法則は無条件で絶対。ダメなものはダメ!という事だ。人間として生きる以上、理性を課した状態であらねばならない。理性が人間の定義となれば、自ず、定言命法の範疇となる事項というわけだ。カントを思考の起点にすれば、そうなるのだろうか。但し、定言命法なんてものは、禁忌の歴史さえ顧みぬ、衒学的な思考停止に過ぎまい。

    また、自由を論じる際に高確率で出てくるのが殺人議論と共に、援助交際の問題である。これは、他人の権利侵害という観点で課題にし易い。本著でも取り上げている。しかし、テーマ選定が複雑で、もしかすると誤っている。単に売春とした方が良いのではないか。未成年である事と身体を商品化する事がダブったテーマになっている。無論、未成年であり、親から金銭を与えられている以上、そこには金銭を媒介としたルールがあり、売春に限らず不自由な項目はあるべきだからだ。金銭を媒介としなければ、良いか?否、投資家に対しての配慮は必要なのである。

    嫌な書き方をするが、自由論を論じれば、結局は強制された自己の解放といった議論に帰着する。その際、一個人を全能とするような議論は成立しないため、透明な自己の実現がテーマとなる。しかし、生まれながらの不平等を是正するような透明な自己さえも、運命論を超越し究極的平等を目指した、ゆえに成立し得ないユートピア思想だろう。従い、自由論には、哲学的変遷が綴られるばかりで、主張がないのだ。但し言える事は、社会システム上は、与件による機会の差も認めることで、下層淘汰される機構であるべきという事だ。それを踏まえて、擬似的な自由論に生きるべきという事である。意図の有無に関わらず中間層以下を騙さねばならない、いや、気づいたものから脱却していく構図である。

  • 自由という価値を無条件にまつり立てることに対して警鐘を鳴らすこの本は、タイトルの通り「自由とは何か」考えるきっかけを与えてくれます。全6章からなりますが、どの章も内容が濃縮されていて、読みごたえがあります。

    著者は、自由を盲目的に礼讃することへと至ってしまう理由として、善い生を営むための自由という手段が目的化されてしまうことを挙げています…まさにこれは、現代社会における自由を再認識する上で基本的なことではありますがとても重要な問題でしょう。
    個人的には、人生における失敗やうまくいかないことの合理化がこの手段の目的化を引き起こしてしまうのではないだろうか…と読みながら考えていました。よく言われることですが、ゲームのようなバーチャル世界とは違い、われわれの人生には「リセット」ができません。なので、選択を誤ってしまい後悔することも、何かをやる上で失敗してしまい他人に迷惑をかけたり非難されたりすることもあるわけです。このとき、しばしばこのことを引き受けきれず、そのプレッシャーから逃れようと目を背けたり開き直ったりします。「自由だから云々」と言い訳をして。しかし、本当に善い、幸福な人生を送るためには、そのことと真摯に向き合い応答することなのかもしれません。

    …なんて、口では何とも言えますが…そういうことを考えさせらる良書でした。


    一つ引っかかったのは、第6章での「義」や「犠牲」についての話です。もうすこしいろいろな視点からの意見が知りたかったです。

  • 「自由とは何か」佐伯啓思著、講談社現代新書、2004.11.20
    286p ¥777 C0230 (2023.07.15読了)(2012.07.27購入)
    副題「「自己責任論」から「理由なき殺人」まで」

    【目次】
    第1章 ディレンマに陥る「自由」
    第2章 「なぜ人を殺してはならないのか」という問い
    第3章 ケンブリッジ・サークルと現代の「自由」
    第4章 援助交際と現代リベラリズム
    第5章 リベラリズムの語られない前提
    第6章 「自由」と「義」
    おわりに
    あとがき

    ☆登場する本
    「自由の二つの顔」ジョン・グレイ
    「自由の条件」フリードリヒ・ハイエク
    「近代の政治思想」福田歓一、岩波新書
    「罪と罰」ドストエフスキー
    「実践理性批判」カント
    「プリンシピア・エチカ(倫理学原理)」ジョージ・エドワード・ムーア
    「論理哲学論考」ウィトゲンシュタイン
    「哲学探究」ウィトゲンシュタイン
    「正義論」ジョン・ロールズ
    「歴史のなかの自由」仲手川良雄、中公新書
    「アンティゴネ」ソフォクレス
    「自由からの逃走」エーリッヒ・フロム
    「犠牲と羨望」ジャン=ピエール・デュピュイ
    『存在と時間』マルティン・ハイデガー
    「道徳を基礎づける」フランソワ・ジュリアン、講談社現代新書
    「自由論」バーリン
    「大衆の反逆」オルテガ・イ・ガセット
    「意味を見失った時代」コルネリウス・カストリアディス
    ☆関連図書(既読)
    「「欲望」と資本主義」佐伯啓思著、講談社現代新書、1993.06.20
    「「市民」とは誰か」佐伯啓思著、PHP新書、1997.07.04
    「アダム・スミスの誤算 幻想のグローバル資本主義(上)」佐伯啓思著、PHP新書、1999.06.04
    「ケインズの予言 幻想のグローバル資本主義(下)」佐伯啓思著、PHP新書、1999.07.05
    「総理の資質とは何か」佐伯啓思著、小学館文庫、2002.06.01
    「新「帝国」アメリカを解剖する」佐伯啓思著、ちくま新書、2003.05.10
    「自由と民主主義をもうやめる」佐伯啓思著、幻冬舎新書、2008.11.30
    「反・幸福論」佐伯啓思著、新潮新書、2012.01.20
    「日本の宿命」佐伯啓思著、新潮新書、2013.01.20
    (「BOOK」データベースより)amazon
    「個人の自由」は、本当に人間の本質なのか?イラク問題、経済構造改革論議、酒鬼薔薇事件…現代社会の病理に迫る。

  • 消極的自由

    積極的自由は全体主義につながりやすい。

  • スゴい…‼️

  • 「自由」は現代でも問題なのだろうか
    自由は大事
     →自由が侵害されているわけではない
    「自由」への要求がさほど切実なものではなくなった

    イラク人質事件と奇妙な「自己責任論」
    自己責任とは
    個人の自由そのものが国家によって支えられている

    ディレンマに陥る自由
    個人によって自由とは異なる
    政府による何らかの介入があってはじめて経済活動の自由さえも可能

  • リベラリズムの立場をわかりやすく整理した上で、現在、私たちが自由に倦怠している理由を探ろうとする。全体主義への反省から自由な状況で、何を目的として生きるのかを議論できない状況が、かえって自由の意義を見えにくいものにしているという論旨。本筋とは違うけど、ハイエクやフリードマン、ロールズ、アマルティアセン、ドゥオーキンの立場の説明がわかりやすかった。

  • 執筆のきっかけを「(現代で掲げられる『自由』に対し、)あまりに違和感や不気味な感じを持たざるを得なかった」とし、その違和感の根源を「自由」への議論を通じて探った本。佐伯啓思2冊目。
    冒頭、現代では人類共通の目標のように掲げられる「自由」に対して、イラク戦争を「フセイン政権からの解放(自由化/民主化)」とし正当化したアメリカを持ち出すことで疑問を提示する。
    そこからリベラリズムの根幹である、何事も個人の自由を侵害すべきではないとする思想に対し、背景を探っていく。
    君主による抑圧の時代において、自由は「抑圧からの解放」を目的とし推進されてきた。
    概ね抑圧は去った現代でも、万人が理解しうるその背景を掲げたまま「自由」は推進され続けている。
    目的を達するための手段であった「自由」は、いつの間にか目的になった。
    ここに違和感の根源を指摘する。
    自由主義の旗本において主観性を排除した市場競争は正当化されるが、しかしどんな政策であれ「誰が報酬を享受すべきか(『善』であるか?)」という道徳的判断が背景にあり、自由主義はその事実から目を背けていると批判する。
    自由を唱えても、社会から是とする承認からは逃れられないだと。
    自由は目的があって初めて論じられる概念で、目的として掲げてしまうと方向性を失った虚構となってしまう。
    現代に跋扈する民主主義至上やフェミニズムは、この罠に陥っているのだろう。
    その事実から目を背けるのは、欺瞞である。
    「神は死んだ」と絶対的な存在を否定し、世界は人による仮構としたニヒリズムに陥ることは嘆かわしいことではない、しかし「自らがニヒリズムの世界に生きていることを自覚せず、自らの正義の絶対性を疑わない独善」は最悪のニヒリズムだと批判する。
    軽率な「自由」の持つ違和感はまさにこれだろう。
    批判はこの辺で、では自由に生きるには?という問いに対しては、どう存在するにせよ共同体に属することを自覚すること、その上で自分の成すべきこと(天命)を見つけること。
    縛りがあって初めて輝きを持つ「自由」は、共同体の中でこと活きるとする。儒教の仁義と同じような思想。

    個人の感想として、現代においては、国家よりも厳格ではなく小規模な共同体の「ポリス」を重要視し、ポリスの構成員として「善い」ことをすることを是としたアリストテレスの思想に立ち戻るのがいいのではないかと思った。
    次は数ヶ月塩漬けにしてる「ニコマコス倫理学」を読もう…

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著者プロフィール

経済学者、京都大学大学院教授

「2011年 『大澤真幸THINKING「O」第9号』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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